Blog#86 蒲 敏哉著「クライメット・ジャーニー」(2023年4月 新評論)を読んで

「クライメット・ジャーニー」
(新評論 2023.4)
https://www.shinhyoron.co.jp/978-4-7948-1233-9.html

2022年4月、中日新聞を退社して岩手県立大学の環境ジャーナリズム担当教授になり、上記の本を2023年4月に出版した蒲さんと久し振り電話で話し合って、巻末の年表「気候変動対策に向けた国際支援の流れ」に敬意を表した。 その後、OB達に京都議定書を巡っての経産省と環境省の動向等について、本書に傍線した点を確認すると、意外に気候変動対策に向けて、1997年のCOP3(京都議定書)から2015年のCOP21(パリ協定)内容について理解されていないことが分った。
本書で蒲さんがこれほど詳細に気候変動に関するCOPの内容を書けたのは、オックスフォード大学とベルリン自由大学での客員研究員での環境があったことを知った。同じ大学人OBとしてヨーロッパの大学がCOPの成果に関心を持つ状況に比べて、日本の知識人が京都議定書の第二約束期間について離脱したことを知る人の少なさと、その間の経産省と環境省の確執についても知らされていないことを知った。ヨーロッパアカデミーのもつ情報力に刺激され、以下、蒲さんの著書から引用させてもらった上で、近々東京で、この辺のお話を伺う機会を持ちたいと考えている。

 「4 抹殺された京都議定書」(p.26-39)
 地球温暖化対策への初めての国際的取り決め「京都議定書」は、当時、地球温暖化問題に国際社会が取り組むための唯一の「約束」であった。温室効果ガスを、2008~12年の「第一約束期間」内に1990年比で「先進国」がどれだけ削減可能か、その目標が決められた(日本6%、米国7%、EU8%など)。加えて、排出量取引、クリーン開発メカニズム(CDM)、共同実施といった市場システムに基づく3つの仕組み、いわゆる「京都メカニズム」が盛り込まれた。
 ところが、この議定書はその後、当時の最大のCO2排出国である米国が異議を唱え、2001年3月に同議定書からの離脱を表明した。
 同議定書採択時の米国は民主党のクリントン政権下にあり(1993~2001年)、その後誕生した共和党のブッシュ(子)政権(2001~09年)が、完全にこの議定書を否定した。
 中国が、議定書の中で「発展途上国」と位置づけられ、排出責任をまったく負わないことは、米国にとって最大の不満だった。
 その後日本は、米国と同様に経産省の思惑通り、2011年のCOP17で「第二約束期間」(2013~20年)への不参加を表明。
 しかし、活動を重ねていくに従い、「先進国だけに削減義務があり、途上国には義務がない京都議定書はおかしい」という議論が広がりを見せ、「京都」とは別の国際的枠組みを求める声が徐々に高まっていった。
 その後、2011年のCOP17で、米国、中国も入った新たな枠組みづくりを協議する作業部会の設立。日本は「第二約束期間」からの事実上の離脱。2015年のCOP21(パリ)で採択されたのが「京都議定書」に代わる新たな国際的枠組み「パリ協定(・・)」である。
 2023年2月17日時点で194カ国とEUが署名しているこの協定では、米国を含む「先進国」と中国を含む「発展途上国」のすべての国が温室効果ガスの削減状況を5年毎に確認できる仕組みを設けることなどの目標が明記された。
「パリ協定」が「パリ議定書にならなかったのは、したがって多くの国が法的に拘束されることを嫌ったからにほかならない」

Blog#85 オセアニアからの水素・アンモニアサプライチェーン調査団

①団長:尾島俊雄 ②顧問:村木茂 ③顧問:三谷充 ④幹事:岡本利之(大阪ガス) ⑤副幹事:古市淳(日本環境技研) ⑥団員:真下幸雄(大林組) ⑦団員:上野純(大成建設) ⑧団員:佐藤博樹(三菱地所) ⑨団員:内田江美子(三谷産業) ⑩添乗員:三岡明美(近畿日本ツーリスト)以上10人で構成

○現地視察略記
①3月4日(土)羽田発JL051便でシドニーへ(約10時間)。

②3月5日(日)シドニー国際線から国内空港に乗り換えQF433便でメルボルン空港へ(1時間35分)。専用バスでPan Pacific Melbourne Hotelチェックイン後、歩いて5分のミュンヘン酒場でドイツビールにソーセージの昼食。3時~5時30分、市内参観。夕食はホテルでイタリアン。(泊)

③3月6日(月)、川崎重工のメルボルン在住5年の川副洋史事務所長の案内で、専用バスで3時間(190キロ)走って11時からAG LOY YANG炭田見学。褐炭の露天掘り現場は深さ200m、周辺15km、350万kW(2ヶ所)の石炭火力発電所の巨大な現場に圧倒される(図-A)。
 水素製造設備へ移動。安全教育を受けた後、J-POWER担当者より説明。水素製造の設備一式。小さな町のレストランでなかなか美味しいワインとサンドイッチの昼食。

図A AG Loy YANG褐炭露天掘り・火力発電   図B メルボルンの盛り場   
  

再び180キロの道のりを、車内で川副さんの説明を聞きながら3時間走ってヘイスティング港湾に沿った水素液化積荷基地を視察後、メルボルンのホテルへ。延べ8時間のバスはさすがに疲れる。
 19時、タクシーに分乗してフィレンツェの如き盛り場のレストランへ(図-B)。和牛ステーキ300gに赤ワイン(図-C)。ワイルドで味は今ひとつだが。帰りはヤラ川に沿ってリバーフロントの景観と賑わいを楽しみながら30分かけてホテルへ。東京・新宿を超え、シドニーを超える程、500万人の都心の発展と酒と食事のおいしさに圧倒され、ホテルの窓からの夜景を見ながら休む。

 図C 300gの和牛ステーキ         図D メルボルン・ヤラ川に沿って散歩


④3月7日(火)晴。ヤラ川に沿って散歩(図-D)。東京湾の芝浦を超えた景観と賑わい。早朝からジョギングやボートやカヌーの若者達の活力。Yシャツとネクタイに着替えてチェックアウト。メルボルン発ブリスベン空港へ。10時30分着(2時間10分)。バスでSofitel Brisbane Central Hotelへ。ブリスベンのセントラルステーショ駅の真上に位置した巨大ホテルであった。ホテルで村木さんと合流して近くのレストランで昼食。×××ビールに魚フライはなかなかの味である(図-E)。

  図E ブリスベンでの食事会      図F クイーンズランド州政府庁舎よりの景観

 案内されたブリスベンのクイーンズランド州政府の建物は41階の巨大オフィス棟で、新築されたばかりの都庁以上に立派なビルで、最上階の応接室や会議室は豪華である、私達12人のメンバーに対して、相手はそれ以上。最初は州政府の副首相で水素担当のHon Glenn、Butcher MP氏。30分、私の方で訪問理由を話し、通訳。その主旨に興味を持った様子で、要望に対して全面的に協力できると自信を持って回答してくれた。その上で、20人の担当者と私達10人のスタッフは軽食をしながら長時間の討論。日本の安達さんの立場や州政府の水素など再生可能エネルギーの日本への輸出は政府の政策そのものであることも理解。沢山の立派な資料も提供される。ホテルで一休みして、ホテル内での夕食も良し。ワインや今日の成果に皆満足の様子。

⑤3月8日(水)5時起床。朝食前に東京駅のステーションホテルの如き宿から周辺を散歩。メルボルンに次ぐ第三の人口集積地223万人で、2032年のオリンピック開催地として再開発の進む活力に満ちた都市の実態を認識する。8時10分集合。ブリスベン空港からグラッドストーン空港へ(約300キロ北方へ、1時間10分)
 空港から専用バスでグラッドストーン全域を見渡せる200m程の高台へ案内されて、東京湾と比較する。3.7万haの工場用地を整備中で、明治維新の関東平野や東京湾工業地帯の開拓時代の様子に、2032年まで3400万kW発電で余剰電力2000万kWを全て輸出用にとの州政府の説明に、村木さんや三谷さんのみならず一行は、この地は日本の将来に途方もなく貢献してくれそうな気持ちになって興奮する。帰国後、オーストラリア大使館とは別に設置されているクイーンズランド州政府の役所に勤める安達さんや村木さんを中心に研究会をすることにして、グラッドストーン空港からQF2339便でブリスベンへ。ブリスベンでは駅近く、歩いて10分程の都心のレストランへ。夕食のワインと話し合いに時を忘れての討論会で、オーストラリアの日本の将来に万歳して乾杯する。

⑥3月9日(木)、ブリスベン空港国際線へ。早すぎたが8時発NZ7272便で約4時間の超満員フライトでウェリントン空港へ。オーストラリアとは全く違うスケールと密度、日本的雰囲気に包まれている。村木さんから大林組の現地駐在員で、ニュージーランド事務所長の井口達也さんの案内でSofitel Wellington Hotelへ。ニュージーランドの首都ではあるが、坂と風の強い小さな港町。長崎の如き都市とホテル周辺散歩で土地勘を得る。国会議事堂と戦争記念碑、ウェリントン駅等、坂のある交通の多い道を歩く。Sofitel Hotelにしては簡素な部屋。

⑦3月10日(金)、ホテルの会議室で大林組の現地での事業説明と共に、日本での再生可能エネルギー事業について井口達也所長を中心に日本語で討論。大林組は北島の道路・トンネル工事入札がきっかけでタウポのマオリ族の土地にTuaropaki Trustと共同で設立した合弁会社ハルシオンパワーで、113MWの地熱発電プラントから1MW相当で180t/年の水素を車用に提供する。この会社の将来についても話し合う。17%のマオリ族が持つ土地や自然資源の権利が大きく、南島の水力発電からのアンモニア 60万t/年生産もマオリからの土地利用権が支配する由。

場所:MBIEビルPastoral House
10:35- Presentation on New Zealand’s policy context
10:50- New Zealand’s investment environment
11:00- Discussion/Lunch
14:00-15:00 Meridian Energy 本社 NTT Tower Wellington
Southern Green Hydrogen Projectについて、村木さんを中心に討論。南島の水力発電からNH3をつくり、日本へ輸出する手法を中心にして。
16:00-16:30 在NZ日本大使館訪問。伊藤康一特命全権大使を表敬訪問(図-G)。大使館からの眺望は抜群(図-H)。
16:30-17:30 車で都市内観光、ケーブルカーの山頂駅、Kelburn Parkingや植物園からの40万人程との都市を展望して、中心市街地を歩いてホテルへ。夕食は解散会を兼ねて海辺のレストランで盛り上がる。一行は小雨の風の吹く街を歩いてホテルへ。

図G NZの日本大使館で伊藤大使と       図H 大使館からのウェリントン景観

⑧3月11日(土)、岡本・上野・佐藤氏等に見送られて、私と三谷さん・内田さんの3人は三岡さんと共に空港へ。国際線は超満員。2時間待ちで、NZ5345便で約4時間、クライストチャーチ空港へ。空港には河村さんが手配してくださったガイドの林さんの出迎えで、ガーデン都市と呼ぶにふさわしい世界三大公園(N.Y.のセントラルパ―ク・ロンドンのハイドパークと当地のハグレイ・パーク)に沿ったThe George Christchurch Hotelに到着。五星ホテル(53室)。日本のメニューで昼の軽食後、日本女性の案内でなんとヒラリー・クリントンも泊まったことのあるスイートへ。室内外の眺望、静けさ、使いやすさは抜群。

図I クライストチャーチ・河村さんのThe George Hotel 迎賓館で
図J クライストチャーチ被災地          図K クライストチャーチの復興住宅
図L クライストチャーチ都心         図M クライストチャーチ公園

早速、林さんの案内でクライストチャーチの地震跡地や坂茂の段ボールの仮設教会・エイボン川に沿った賑わいのある市場を視察。夕食は東京から私達のために来てくれた河村守康氏の長男・祥宏さんと日本料理店KINJI(世界の日本料理ベスト10に入るとか)へ。10卓(40席)の店は超満員。日本語のメニューに日本の地酒もKimuraワインも刺身の新鮮さや種類も豊富で、しかも本当に美味である。
 The George Hotelは100%河村家の資本。祥宏氏は社長としてクライストチャーチ都心のオフィス用地の活用や、東京の新丸ビルのニュージーランドレストランZEALANDER、長野の野沢温泉のアパート、白馬村のThe Ridge Hotelなどの経営を一任されている由。35年前、OBの大崎・渡邉君が祥宏君の家庭教師であったことが話題になる。

⑨3月12日(日)快晴、散歩。8時30分、私達4人は林さんの車でクライストチャーチ駅へ。観光列車で2時間程、Spring field からアーサーズ・パス・ビレッジ駅で下車(標高700m、しかし日本の北海道以北とあって1000m以上の森林限界高さの差で、このレベルで室堂レベル、近くの2000m級の山々は日本の3000m以上の景観である)。

 林さんは車で30分前について待っていてくれていて、その車でアーサーズ・パス国立公園を案内される。NZ最初の国立公園だけに景観は素晴らしい。トレッキングしながら昼食は小さなレストランでサンドイッチとワイン。
 昼食後は60haもの牧場を持つ老夫婦の山荘へ。年間降雨1000ミリ、標高1000m、冷たい水の集まる牧場地で、羊毛刈りと牧羊犬の見事な実演を見て後、道沿いのLakeで休みながらホテルへ。途中、街全体を眺めるため標高200m程のMt.Vermon Parkに登り、ホテル近くのHana Valeでは美しいエイボン川のほとりの豪邸群に驚き、この国の豊かさを実感する(図-H)。
 18時30分、離れ別館の豪華な迎賓館で4人だけの夕食会。ブラフオイスターのイクラとポン酢、ツナのたたきとココナッツミルク、セサミソースとワカメ、ラムラックとビーフテンダーロイン等々、ニュージーランドの肉やオイスターがこんなに美味とは。シェフは東洋人で格別とはいえ、お酒も地元のみならず日本の酒も出て、グルメの三谷さんも御満悦の様子。デザートのタルトも絶品の味、コーヒーも格別だ。接待してくださった河村さんの長男もすっかりホテルマンらしく上手である。

図N アーサーズ・パス駅            図O アーサーズ・パスの湖畔

⑩3月13日(月)朝3時起床。日記や荷物の整理。スイート316の部屋を楽しむ。韓国サムソンのR.C.はどうも上手に使えない。chが余りに多いためだ。7時30分朝食、9時、林さんのガイドで祥宏さんも同行してワイナリーへ。ホテルから小雨の中、小一時間、北のWaipara Valleyへ。Waipara HillsとPegasus Bayの2軒で試飲後、Kumikosゲストハウス隣接のBlock Estate B&Bで昼食。一時間以上待たされ心配したが、14時、クライストチャーチ空港着。国際線も一時間遅れとあって、All BlacksのTシャツを購入するためわざわざ都心のスポーツ店へ。コロナ後と人気が高いため、全てに公認のオールブラックスは品切れとか。18時、シドニー空港で河村さんと別れて、出迎えの案内でシドニー都心のAMORA Hotel Jamisonへ。ランチボックスで朝食代替。日本からの味噌汁・ワカメスープを2杯飲んで休む。

⑪3月14日(火)、最後のインスタントの味噌汁とランチボックスのクロワッサンとヨーグルトの朝食。JAL往復切符のためシドニー一泊は実に無駄以上に、体力に影響する。9時、シドニー空港の国際線は広く、2時間の待ち時間は退屈だ。幸い三谷さんの顔で特別待合室へ。土産物に羊毛のスリッパ、これは大きく重い。
 JAL052便の機内食はシドニーのJAL食のため特別なシェフで充実していると言うだけあって酒も日本食も最高に美味。羽田では森田氏出迎え、タクシーで自宅へ。

Blog#84 磯崎新著「瓦礫(デブリ)の未来」(2019.9 青土社)を購入して

 毎月一回は決まって丸善で2時間余、持てるだけの本を購入するようになったのは、3年前のコロナ・パンデミックが始まった頃からだ。

 2023年3月29日は、恒川恵市著「新興国は世界を変えるか」(2023.1 中公新書)、クーリエ・ジャポン編「新しい世界―世界の賢人16人が語る未来」(2021.1 講談社現代新書)、エマニュエル・トッド、マルクス・ガブリエル他書「2035年の世界地図」(2023.2 朝日新書)、伊藤亜聖著「デジタル化する新興国」(2021.6 中公新書)、伊藤元重著「世界インフレと日本経済の未来」(202.3 PHPビジネス新書)、石井亜矢子著、岩崎隼画「仏像図解新書」(2022.8 小学館101新書)を手にしてレジに向かったところで、磯崎新氏の著書が何冊か並んでいるのに気付いた。

「瓦礫(デブリ)の未来」
(2019.9 青土社)

 石原慎太郎や安倍晋三、稲盛和夫等、著名人の逝去に伴っての追悼出版かと思ったが、そのようでもない。これまで彼の著書は殆ど贈呈されていたことから、不思議な気持ちで、初めて見る表紙にArata Isozaki:磯崎新「瓦礫(デブリ)の未来」とあり、彼自身のスケッチとすぐ分かるDEBRISの大文字とデブリの絵が墓標の如きに見えたからである。
開いた瞬間、I.ザハ無念 Ⅱ.クルディスタン Ⅲ. 安仁鎮 Ⅳ.平壌の目次で、2019年9月の出版とあった。

 2018年11月28日、国際文化会館で、中国雄安スマートシティコンペの件で磯崎さんと話し合って、何故か沖縄に住んでいることを聞かされ、玄関で記念撮影をしたときに、これが最後の予感があった。何故なら、上京が最後になるからとの上田篤先生の接待で、わざわざニューオータニの「ほり川」で話し合ったとき、その料亭がEXPO’70の西山・上田対丹下・磯崎の東西戦争の談合の場であったこと等と聞かされ、そのことを翌日、磯崎さんに伝えると、上田・磯崎の最後の談合話を聞くことになった。

 そんなこともあって、初めて購入したこの著書を早速、自宅で読み始めた。最初は支離滅裂で全く面白くないと思いながら、読む程に、こんな磯崎の頭の中をもっと早く知っておきたかったと思うと、急に面白くなって、2日間も本書の虜になってしまった。やはりこの著書は磯崎の遺書か回顧録に思えてきた。

 Blog#83で「戦後空間史」を読んでの感想を述べたと同様、磯崎の歩んだ91年間こそ自分が生きていた建築界の最先端の歴史であり、世界の建築家達が活躍した空間であったことを教えられた。本書で語っている磯崎が出合った人々の多くが私も出合ったことのある人たちであったから、余計に面白くなった。

 丹下健三、黒川紀章、菊竹清訓、岡本太郎、東野芳明、川添登、山口勝広、松浦浩平、勅使河原宏、西山卯三、上田篤、折口信夫、バックミンスター・フラー等々は直接に、間接的には、文献などから学んだことのある岡倉天心、柳田国男、大江健三郎、石原裕次郎、安部公房、谷崎潤一郎、三島由紀夫、宮沢賢治、伊藤忠太、毛沢東、周恩来、一柳慧、アンドレア・パラディオ、ラフカディオ・ハーン、スターリン、ヒトラー、ビートルズ、金日成、金正日、金正恩、金寿根、レーニン、ナポレオン、ホーチミン、フリーメーソン、ジェファーソン、ルイ16世、マリーアントワネット、孫文、鄧小平、ジョン・レノン、ガガーリン、エリツィン、アドルフ・ロース、エッフェル、シンケル、ミース・ファンデル・ローエ、アインシュタイン、フィリップ・ジョンソン、ピーター・アイゼンマン、ザハ・ハディド、ノイトラ、ドクシャデス、ダライラマ、ケネディ、ヴィトロ・ヴィウス、ギーデオン、フランク・ロイド・ライト、ル・コルビュジエ、アル・ゴア、栄西、西行、重源、フセイン等々。

 見えない都市、インビジブルシティ、不可視都市、都江堰、デロス島、賢人会議、議定書、CIAM、アテネ憲章、ARK NOVA、宇宙船地球号、御嶽、千年王国、導師、主体思想、先軍思想、パクストン、クリスタルハウス、カツラ(桂離宮)、ガリア戦記、文化大革命、大洪水、未来―弥勒、アルハンブラ、建築の解体、DECON、MOMA、クルド人、トリエンナーレ、梁山泊、電脳都市、アルカイダ、アララット山、ローマクラブ、シャーマン、宇津保物語、結界、補陀落渡海、即身仏、日本書紀、グレートバリアリーフ等々。

 以上、連記した固有名詞が磯崎にとってのDEBRISであり、これが未来を切り拓く種となり、頭の中に棲み着いて連鎖し、生々しい実体験として彼の人生を形成し、彼の作品に反映して未来を切り拓く。これまで贈呈された数多くの磯崎著書の中でもユニークな一冊として、私にとって座右の書となった。

 建築や都市が解体されるとDEBRISになり、そのDEBRISこそが新しい建築や都市の未来を創る。その創り方を教えてくれる人も又、磯崎にとってはDEBRISであったのか。本書を理解するには経験と時間がもっと必要である。

 

Blog#83 「戦後空間史」(2023.3.15 筑摩選書)を読んで

 2023年2月24日、日本建築学会で久し振り、都市環境・都市設備研究会主催「これまでの10年とこれからの10年」のテーマで40分程話す機会があった。特に私には「1970年の大阪万博を中心にして」との要請もあったが、何分にも50年も昔のことである。30代当時は、自分ながら迷うことなく日夜働き活躍できたのは、日本国中が戦後復興で、マズローの欲望の5原則にある「低次の欲求」に、日本中が一体になっての躍動期であったから迷いはなかった。

 然るに、今日の日本は、自然災害や原発事故、コロナパンデミックやロシアのウクライナ侵攻、SDGsやカーボンニュートラルでは化石賞であるから、日本の国力は低下するばかりで明るさが見えない。

 それは今、日本人は「高次の欲求」時代に入って、多様な社会での自己実現のあり方を巡って「日本中が迷える社会」の時代に入っているためではなかろうか。しかし、今の日本の置かれている立場ほど歴史上「個人個人にとってこれ程、豊かな時代はなかったのでは」と問いかけた。勿論、私に解がある訳では無かったが。

 そんな時、3月4日から14日、オセアニアに「グリーン水素を求める調査団」を組織して、参加した。そしてこの国々には日本の求めるグリーン水素が十分に供給可能なことを発見して、日本の若者達に地球上にまだまだ日本人の活躍する場のあることを実感した。

 その実態を報告書にまとめている時、筑摩書房から「戦後空間史」が送られてきた。早速一読して、中谷礼仁君等が日本建築学会で2017年に設けた特別研究委員会でのシンポジュームを下に、6人の著者が独自の視点で書き下したものであった。本書を読みながら、私自身の85年間の想い出と足跡を重ねてみて、考えもしなかった歴史の一辺に生きていたことを教えられた。

 是非、建築界に身を置く人にこの本の一読を勧めたい。日本の戦後空間史は私自身の建築界での人生にとって、明治維新同様の日本史を飾るに足る時代を生きてきたことを教えられたからである。明治維新、アジアに対して犯した問題を、まがりなりにも戦後の日本が解決し、世界史的に自由になった日本国の役割を考えることが出来る立場をもったこと。21世紀のこれからを考え、迷いながらも世界中に私達は自信を持って歩むことの大切さを教えてくれたように思えた。本書で、私も市川紘司さんのまとめられた第5章でシンポジューム05「戦後空間のアジア」のコメンテーターとしてZoom+YouTubeで発言したことも良く伝えられていて、御礼申し上げる次第である。

 このBlog83を書いていたとき、WBCで侍JAPANが優勝、歓喜に沸くグラウンドでの日本チームのマナーの良さがアメリカのみならず世界の賞賛を浴びるニュースに、日本の若者達にもっと自信を持って欲しいと願った。

                         https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480017697/

Blog#82 親友 阿部勤君への鎮魂

 2023年1月10日、アルテックからの電話で、阿部君の逝去を知らされる。絶句!!

 年末の入院から予想していたが、それにしても、あの精悍な阿部君がこれほど早く逝去するとは。家族葬で執り行うので告別は後程との連絡に、どう対処すべきかと迷い、先ずは山とボートの仲間に連絡した。

 それから一週間、鎮魂に努めても務めても、想い出すのは、楽しい想い出ばかりである。10年程前、私の家族で所沢の阿部家を訪問して、一人暮らしの素晴らしさを、自身で設計した台所で実演しながら、パスタの作り方やハンモックの快適さを妻や娘に教えてくれたお陰で、自宅の改装をさせられる羽目になったが、それがまだ実現できていないこと。

 その時に案内された所沢の墓地で、早くに亡くなった奥様への『愛と感謝と想い出と』の墓碑に、私の妻子が感動して、その後も何かと阿部君は我が家の尊敬すべき人物であったこと。

 そんなことから、Blogで何か阿部君の事を書こうと思いつつも、その間にも職藝の稲葉實氏、魚津の浜多弘之氏、磯崎新氏、セコムの飯田亮さん、縄文社会研究会の山岸修さん等の逝去に、人生の終焉を実感せざるを得ない新年である。

 今日は1月16日(月)、阿部君との墓碑前の写真を見つけ出して、このBlogに記載した上での鎮魂!!

Blog#81(一社)都市環境エネルギー協会の2023年頭所感

 2023年こそ、よい年になるようお祈りする次第です。

 2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻は、第二次世界大戦時代を蘇らせた如き悲惨な状況をウクライナ国民に与え、世界中にエネルギー不足や食糧危機を招きました。その上、コロナパンデミックは、年末のWHO終焉宣言ともとれる発表にも拘わらず、日本では第8波に突入して、2,760万人の感染者と5万4,000人の死者(世界中で6億5千万人、死者667万人)を出す惨状が続いています。

 昨年の所感には、50周年の記念誌を発行して、その祝賀の宴を賀詞交歓会で開催する予定としながら断念。今年こそは、と考えていますが。

 何はともあれ、2025年の大阪・関西万博会場での水素インフラ導入を実現することで、この無念さを晴らさんと、国や地方自治体の宣言する国土強靭化と2030年カ―ボンハーフ、2050年のカーボンニュートラルの実装を実現するため、会員の物心両面での御支援を得て、
 ①中央区カーボンニュートラルBCD  
 ②新宿新都心カーボンニュートラルBCD
 ③大阪夢洲地区カーボンニュートラルBCD 
 ④横浜新都心臨海カーボンニュートラルBCD 
等の事業化委員会を強力に推進して参ります。この成果を下に、国や地方自治体に、今年こそリーダーシップを期待しています。

 更には、第29回都市環境エネルギーシンポジウムを横浜市みなとみらいホールで145人の会員と対面形式で「脱炭素化の都市づくり」開催。大きな成果を得たことから、神戸三宮駅周辺BCD特別委員会やEXPO’25会場における新エネルギー導入状況調査委員会、海外からの水素・アンモニアサプライチェーン調査委員会等も本格的に始動しています。

 今年こそ、50周年を経た当協会として、日本を明るい年に導くような活動を展開したいと考えています。会員皆様の御支援御鞭撻をよろしくお願いする次第です。 

Blog#80 磯崎新氏逝去の報に想うこと

 2022年の大晦日の早朝、NHK TVで「大谷翔平のメジャーリーグ、アメリカの新たな伝説」を聞きながら、日経新聞と朝日新聞の見出しに磯崎新逝去の記事を見る。進化し続ける大谷の二刀流、大谷が示した道を見、大谷の語りを聞きながら、50年前の磯崎新さんの偉大な建築界の親分的存在を想い出し、今日一日を磯崎さんの想い出で過ごすことにした。

 初めて親しく接したのは、本郷・お茶の水近くの自宅兼アトリエで、中山邸の設計を級友の山本君に頼まれて手伝った時である。代々木競技場で丹下さんの設計を手伝ったとき、1/50模型による次元解析で、室内の気候や温度を推定する方法に成功して自信を持っていたので、この方法でN邸の1/50模型をバルサの手作りで作成。床下冷温風吹き出し実験をしながら、磯崎さんの私的生活を知ると同時に、この実験に異常な関心を寄せて下さったこと。これが縁で、1966年の大分県立図書館(現アートプラザ)の設計を手伝うことになった。構造と設備を一体化して、公立図書館では日本初の冷房を導入、話題になった作品で、建築学会賞をもらった。

 そんな縁で、私達の結婚式でのスピーチをお願いした。また、私が富山で笹山忠松邸と茶室を設計したのを見てもらうためもあり、叔母の笹山みどりさん亭主で、フルコースの茶席を朝10時~夕方の4時頃まで、二人で御馳走になったこと。この時、二人で本当に真面目に世界と将来について語り合った。またこの頃、同じ腰痛で高間君の尊敬する漢方医・紫雲先生を訪ねて大森へ。

 1970年のEXPO’70では、磯崎プロデューサーのお陰で、日本で最初の地域冷房を実現。学会賞のみならず、伊藤滋先生の推薦で中央公論の「現代建築12人」に選ばれた。

 1983年のつくばセンタービルの設計では、1978年のコンペに当たって、当時、つくば新都心やつくば博等に地域冷房を設計していたことから、つくばの事情に詳しいと思われて、審査に当たっては二人で協力して審査説明会に行き、当選した。

 1984年7月には、バルセロナから突然ファーストクラスの飛行機のチケットが送られてきて、川口衛さんと二人、バルセロナ五輪屋内競技場の設計を手伝うことになった。国立代々木競技場の設計者、丹下健三・坪井善勝・井上宇市の弟子として、磯崎・川口衛・尾島が、そして換気実験では勝田先生の弟子である村上周三さんが担当して、大成功したこと。

 2008年の私の早稲田大学退職のパーティには、わざわざ出席してくださった。2009年には、銀座の尾島研に突然やって来て、日本・エジプト工科大学の設計に当たって、ソーラーで全ての電力を得たいというが、その費用がゼロという。お金がないのに高価な設備が必要という困った時には、決まって当方に相談が来るのは毎度のこと。三菱総研の小宮山理事長を一緒に訪ねたり、NOSP研究会(日本海外ソーラープロジェクト)を開いて、中近東でのソーラー活用の可能性を研究して支援していたが、エジプト動乱で中止になった。そのお詫びとして、銀座のあわび専門店で御馳走になった。その時に想い出したのは、福岡総合銀行本店を設計中、よく中州の「河庄」であわびの肝を美味しそうに食べる磯崎さんの顔であった。

 2015年には中国の習近平の主催するスマートシティコンペの協力要請であった。地中熱を利用したバイナリー発電と人工衛星を活用しての気候制御等を織り込んだカーボンニュートラルインフラを提案したところ、当選したらしく、賞金の分け前をくれると聞いて驚いた。この時、すでに健康を気遣って沖縄に本拠を移したと聞いていたので、終の住処が何故沖縄かと考えていた。昨年の暮れにも新しい作品展を開催したとNETで知らされたが、どう対処してよいものかと考えていた状況下、大晦日の両新聞の見出しである。

 磯崎さんは、本当に親分肌の「知の巨人」であり、建築界は本当に偉大な異能のボスを失ったことを実感する。喪主が宙君と聞いた時、初めてご面識を得た本郷のアトリエでの私生活を想い出した。あの頃生まれた長男の宙君が喪主であった。訃報のメールを開くと、2023年1月4日、沖縄県浦添市のいなんせ会館で告別式とあり、供花とともにご冥福をお祈りした次第である。

Blog79 「あこがれの住まいとカタチ」住総研研究会編を読んで気付く

あこがれの住まいとカタチ
(建築資料研究社)2022.12.10

 2022年12月初旬、住総研から送られてきた本書の表紙を見て、急に「憬れる」「憧れる」ひらがなでの「あこがれの住まいとカタチ」の文字に触発され、読んでみたくなった。

 いつもの悪い癖で「はじめに」と「むすびに」を読んで、著者名を見る。何と高山英華先生の晩年の役職、工学院大学理事長職の後藤治教授であった。また、これも最近の悪い癖で遠慮なく、それでも後から消せるように鉛筆で傍線を引く。今度もその箇所を以下に略記する無礼をお許し願いたい。

 「はじめに」から
 『住総研で二年間にわたって行われた「歴史の中の「あこがれの住まいと暮らし」と「現代日本の住まいと暮らし-「あこがれ」と現実のはざまで」によれば、前者は寝殿造、書院造といった上層階級の住宅建築のカタチは、庶民階級のあこがれを生み、-(中略)。-「和室」というカタチになって」、後者として『現代の「タワマンへのあこがれ」を見直すと、-(中略)-、住生活の向上や住文化の形成につながる発展性が、筆者には見えない。」(2022年9月9日 後藤治)

 「むすびに」から
 『現代の日本においては、住宅に人を招き交流する機会が、著しく減少しており、それが住宅に対する意識の希薄さに結びついているといえる。過去の日本においても、憧れのカタチとして登場したのは、鎌倉時代の「広間」や室町時代から戦国時代の「茶室」であり、それらはともに人を招き交流する場であった。-(中略)-住宅内にはなくなってしまったが、街中のレストランやカフェといったところがその場となっているのではないだろうか。-(後略)-」

 本書は住総研「あこがれの住まいと暮らし」研究会(委員長:後藤治、委員:島原万丈、豊田啓介、藤田盟児、伏見唯、山本理奈)他、著者・桐浴邦夫、後藤克史、、鈴木あるの、小泉雅生)連著の多様な「あこがれ」論で、実に面白く、久し振り日本の建築文化を堪能させて頂いた。これも住総研という歴史的研究会の存在あっての出版物である。

 ところで、私が何故これ程、本書に拘ったかといえば、この年齢になって、いま困っている生家の活用に大きなヒントを貰ったからである。

 1996年に大工と造園の職人養成を目的に、富山で専門学校・職藝学院を創立して学院長になったのは、当時大手G.C.等が大工職人を要請したためであった。1998年には私の研究室でも木造完全リサイクル住宅の研究を文科省から委託され、後任の高口洋人教授が学位論文とした。そのため、熟練職人の養成に当たって、この専門学校と市内の住居を連携した交流の場として、私の生家をギャラリー太田口と学生の宿舎とした。大工と造園職人の養成を始めて20年間に500人以上の卒業生を送り出し、今日、全国で活躍しているが、昨今の少子高齢化時代に学院希望の生徒数が激減、コロナ禍に直面した。稲葉實理事長の逝去もあって、学院もギャラリーや宿舎も抜本見直しを求められていた。

太田口物語(2004.6.1)
NPOアジア都市環境学会

 今になって考えてみると、20年も前から富山市も市町村合併とコンパクトシティを推進してきた結果、都心と駅周辺には高層マンションが林立して、郊外のみならず都心にも空き家が目立ち始めていたのだ。太田口は当時、既に「歴史を生かした生活拠点」と位置づけられていて、「共同化による建て替えの誘導」「テナントミックスの推進」「回遊空間の整備」地区に認定。結果として、電車通りに面した敷地と一体化して高層マンションが建設され、マンションのタワー型駐車場の出入口となって、商店街としての賑わいが消失していたのだ。(国は歩いて暮らせるまちづくりを推奨し、富山市も平成12年度(2000年))モデル地区20都市に選定されていた。)

 あこがれの家、あこがれのライフスタイルを求め、プライバシーを尊重したマイホームやコンパクトシティの実現とコロナ禍にあって、賑わっていた商店街や伝統的な町屋が太田口から姿を消した。人々の賑わいのないまちづくりが日常になるとすれば、伝統的大工職人や庭職人も不要になる。マンションと車だけの町にあって、あこがれるのは「庭屋一如の日本建築」の存在があって良いのでは、否、不可欠だと考えさせてくれたからだ。

Blog#78 第19回アジア都市環境学会と第29回DHC協会シンポ in 横浜に参加して

 2022年12月2日(金)、西武線練馬駅から中嶋浩三君に同行して、直通特快元町中華街行きに乗車すると一時間でみなとみらい駅到着。新そば天丼の昼食をとって、TKPガーデンシティホールEで、第29回都市環境エネルギーシンポジューム「脱炭素化の都市づくりを考える」に司会者として参加する。

 基調講演は横浜国立大学副学長の佐土原聡教授「脱炭素社会と都市のエネルギーシステム」は鶴見清掃工場からMM21地区等への熱供給で、Co2は1.24万トン/年削減可能との報告はわかりやすいが、実現の可能性は、これからの彼自身の努力によるか。

 基調報告は国交省の鎌田秀一課長と東京ガスの小西雅子法人営業本部長、横浜市の松下功課長で、特に小西さんのe-methaneの社会的実装に向けての報告に注目。横浜市と連携しての実証設備を来春見学させて頂くことになった。

 私の司会したパネルディスカッションは環境省の筒井誠二課長と東京ガスの清田修マネージャー、中嶋浩三君が加わっての討論。会場の質問に応える方法で、限られた時間を有効に活用したのは結果として成功した様子で一安心する。

 入場者はコロナ禍であっても対面で145名と大盛況。質問者は、九州の依田浩敏、福田展淳、D.バート、仙台の須藤諭、JICAの吉田公夫、関電の松塚充弘氏等。予想した通りのなかなかのよい質問であった。 

マホロバマインズ三浦のテラスより

 終了後、佐土原君の案内で2台のバスで三浦半島のマホロバマインズ三浦に直行、一時間で到着。マンション建設中に温泉が湧出したことから、急遽ホテルに変えた面白いホテルで、二日間、第19回アジア都市環境学会の宿泊地である。
 18:00に到着して、3DKの個室に一人、最初落ち着かなかったが、一人で一住居利用できるのはなかなかに居心地が良い。台所や居間も立派で、トイレやバスルームも広くて、テラスから三浦半島の海岸線がよく見える。

 19:00~21:00 Welcome Dinner 残念ながらノンアルコールのバイキングスタイル。中国からの参加者はゼロ、韓国からは20~30人、他にインドネシア等、全体で100余人の盛大な夕食会は雑談の場で、取り留めもなく。21:00~22:00には温泉の大浴場でゆっくりして、夜はテレビでサッカーの観戦。

AIUE2022横浜大会(2022.12.2~4)

 12月3日、5:30am起床。6:00テラスから海を眺めて休息後、6:45朝食。8:00amのバスで横浜国立大学へ直行する。構内に入ってすぐに宮脇昭教授の造園計画と気づいた。自然の植物がもつ活力に支配されてのキャンパスで、一度は来てみたかったが、残念ながら建築物は植栽に見合ったようには思えず、もう少し建築家の頑張りが欲しかった。

 教育文化ホールでのWelcome Greetingでの私の挨拶。webでの洪会長の正式開会宣言の前座として、『2000年、この学会発足時、21世紀はアジアの時代であること。私達はアジア各国の建築様式を考え、身近な町づくりや環境についての状況を一年に一回集まって、お風呂に入って、お酒を飲みながら話し合う機会を持とうという親睦を第一として、出発。気がつけば20年、これからも仲良く、この会を続けて欲しい』という簡単な話。

 その後、AIUE-O賞の授与としてまほろば賞の須藤諭・久保田昭子、論文賞のKwonhoo KIM教授、Congbao XU教授、中島裕輔教授の謝辞。

 11:00~12:30「横浜の都市づくりの歴史と今後の展望」と題して、元横浜市長の小林一美氏((一社)2027年国際園芸博覧会事務所長)の講演。80haのBIE認定国際博が2027年度、横浜で開催されることは全くの初耳であり、同時に長時間の横浜報告で、日本の第2の都市に成長した横浜のスケールや近況についても知るところ多かった。
 午後は幸い、前夜に高口・中島君等には富山や八ヶ岳のことを、高・福田君には九州でのAIUE社団化のことをお願いすることができたので、吉田公夫・森山正和・宮崎ひろ志先生とチャイナタウンでの昼食に拉致されたので、朝陽門の謝甜記に案内。久し振り、美味な老酒と中華粥に大満足して、そのまま、みなとみらい線の元町中華街駅から一人、3人に見送られて帰宅する。皆様には申し訳なかったが、本当に実り多い二日間であった。

中華街 謝甜記にて2022.12.3
(左:吉田氏、中央:森山氏、右:宮崎氏)

Blog#77 66年前からの「同級生・星野芳久君」と京橋「伊勢廣本店」で再会して

 

ちくま文庫

 2022年11月、NHKラジオで、今和次郎著『ジャンパーを着て四十年』がちくま文庫で復刻されたことが話題になった。私が早大建築学科に入学した最初の専門必須の授業が今教授の建築意匠で、確かにジャンパー姿の好々爺風であった。今先生直筆の教材は、左頁に先生のイオニア・コリント・ドーリア様式の柱頭装飾図が描かれ、これを右頁に模写するだけ。これが大学の授業かと驚いたが、同じく清水多嘉示講師のヌードクロッキーもまた星野君の描く態度で話題になった。しかし大学を卒業して後、世界中を旅する時のスケッチ(下図の如き)は、写真とは違って、その町の印象を強く残すことに役立った。

 当時の先生方は、全て自分が体験していることを、そのまま実況中継のように講義される。単なる座学ではなく、全てが実演指導であったことを今頃になって想い出すのは、身心で取得させる早稲田式実習授業にあったようだ。

 同様に、この時の同級生との縁が、66年もの間、身体の何処かに染みついていたことが、2022年11月30日、星野君の生家であった京橋の伊勢廣本店が大改築した記念にと昼食を御馳走になった時に甦った。

 招待者の星野君が、この日、招いたのは何故か、早稲田の建築学科に入学したばかりの時に偶然巡り合って、一生の友人になった沼津の大沼巌君であり、6歳も年長の上野忠君、生まれながらのデザイナー然とした阿部勤君で、建築学科を無事に卒業できたのも、この同級生の支えあってのこととか。加えて、山仲間として今日に至るまで全く変わることなく一緒に山歩きをしてきた小林伸也・小林昌一君、そして私の6人だったらしい。その星野君が半年前、この日の招待を決めた後、ベターハーフであった奥様が逝去され、その悲しみと淋しさから立ち直ったことを知らせるために、昔からの仲間との再会を期したという。しかし66年という年月はすっかり仲間達の心身に影響を与えたようで、結局は山仲間であった4人だけの再会となった。

 当日の話題は余りにとりとめもない想い出ばかりであったが、伊勢廣本店の焼鳥は格別で、その上、星野君が持参した資料の中に特筆すべきことがあった。関東学院大学での2006年11月、最終講義の回想録の中に『1945年3月10日の「東京大空襲」で「焼け出された人は可哀想。何とかして家を建ててあげたい」という思いから「建築」の道を歩む』とあった。私自身が『1945年8月1日の「富山大空襲」で「焼け野原になった学校や実家」を建てるため「建築」を志した』のと全く同じであったことを知ったこと。

 1965年、私の井上先生夫妻との米国旅行日記のコピーがあり、フルブライト留学生としてペンシルベニア大学に留学していた当時の星野君「日本では想像を絶する程、勉強している、良い意味でのエリート達よ。頑張ってくれと祈る。赤ちゃんを抱えながら星野夫妻の作ってくれたおにぎりに胸がつまった」と。

 また、栄光学園山岳部OB会編の「ともに登らんあの嶺に」に、3期生の星野君が10期生の高校生6人のリーダーとして、1960年7月末の夏合宿で剱岳(長治郎谷)での雪上訓練中に滑落した鹿児島大の事故現場に立ち合って、人工呼吸まで試みたとあった。この年の7月中旬は星野君と二人、永平寺で座禅を組んでいた筈で、その後、星野君と福井で別れた後、私は富山の自宅でこの剱岳の遭難事故を新聞で知ったことをよく憶えており、まさかこの時の立役者が星野リーダーであったとは今まで知らなかった。しかも大日岳の山小屋の美談まで残していることは知らなかった。何故なら、この頃、私も一人で大日岳に登っていた筈で、改めて、星野君は偉大なる人格者で、学究の徒であることを再認識した次第である。

 この招待の一年前に、星野君から贈られた想い出多い伊勢廣本店の案内を記して、私達山仲間のみならず友人達との集まる場所にしたい。

 『「銀座尾島研究室」にご愛顧いただいた「伊勢廣銀座八丁目店」は昨年9月に閉店しましたが、時を同じくして「京橋本店」を移転新規開店しました。「移転」といっても道路の向かい側に移動したに過ぎないのですが、ある「因縁話」があるので、一筆お届けする次第です。

 忘れもしない大学三年生夏休みのこと。北海道の大雪山系を黒岳(1984m)、旭岳(2290m)と縦走し、更にニペソツ山(2013m)をも越えて、熊の気配ムンムンの裏大雪を踏破して糠平に下山しました。人里離れた僻地でダム建設が進行中、熊に負けない数の建設労務者で賑わっていました。
 我々は、一軒しかないバーで祝杯を挙げました。バーはそれなりに賑わっていましたが、「えっ!学生さん裏大雪やって来たの!?」…バーの女の子は皆われわれの所に集まってしまったのでした。人夫達は腹を立てたのか、足音も荒く、外へ出て行ってしまいました。

 軽く祝杯を上げて宿へ帰ろうとしたところ、バーの外には人夫達がゾロリと。
 -お前たち、学生か?「うん、そうです」。-東京からか?「うん」。-んじや、斉藤さんを知ってるか?「斉藤さんと言われても…」。-東京から来て、知らねえわけはねえだろう?「それは何人か知ってるけど…」。-どんな斉藤さんだ。「ウチの前の斉藤さんは靴屋さんだけど」。
 …その途端に殴り飛ばされ、小生は全治一月半の重傷を負ったのでした。小生はからかったつもりもなかったけど、彼らはとにかく腹いせにぶん殴りたかったのでしょう。

 小生の話は嘘ではなく、伊勢廣の通り向かいには「斉藤靴店」があったのです。そして今般、ちょうど一年前のことですが、伊勢廣京橋本店は再開発計画に協力して、向かいの土地「斉藤靴店跡地」へ移転したのです。
 しかし、時あたかもコロナ禍の真っ最中、諸兄へお知らせする潮時を計っていたところ、今になってしまったわけで、遅くなりましたが、ここに改めてご案内させて頂く次第です。

 伊勢廣は、大正十年、小生の両親が結婚を機に開業し、今年で丁度百年目にあたります。
多くの職人を育ててきましたが、個性と味を守るために暖簾分けはせず、現在は三代目の雅信・進哉兄弟が店を守っています。幸いにして本店(〒104-0031東京都中央区京橋1-4-9)にご来店の節は雅信宛てにお電話下されば幸甚です。本店の電話番号は03-3281-5864。これについては、局番に3が付加される以前のことですが、上野忠君が「二杯で(281)」「ご飯蒸し(5864)」と教えてくれました。

 また、焼鳥屋はそれぞれ「鳥」のロゴを持っていますが、伊勢廣のは昭和18年に母・なをがデザインしたもので、商標登録してあります。』

伊勢廣本店 ロゴデザイン:星野なを(昭和18年)