塩谷隆英著「下河辺淳小伝 21世紀の人と国土」を読んで

2021年3月19日、(一財)日本開発構想研究所の阿部和彦氏から本書*1)が贈られてきた瞬間、久し振り阿部さんの鋭い嗅覚を感じた。冒頭の推薦者の中村桂子さん同様、決して短くない本書を一気に読んだ。

21世紀の人と国土 下河辺淳小伝

 下河辺さんについては、全くといってもよい程に付き合うことのなかった雲の上の官僚である。唯、二度程強烈に残っている印象を思い出した。

一度目は、私が1979年から1980年にかけ7ヶ月、中国科学院の交換教授として北京と杭州を中心に、中国全土の3市18省1自治区32都市で26回の講義と9回の講演、32回の座談会と23回の宴会を通して交流していたとき*2,3)、下河辺さんの日本での信頼と私の下河辺評を聞かれて、非常に困惑したことである。この間、下河辺氏に関する資料を日本から送ってもらうように依頼したが、新聞や雑誌のコピーばかりであった。1962年の全国総合開発計画以降、1969年の新全総(これが田中角栄の列島改造論のベース)、1977年の三全総(定住圏構想で、私が気に入っていた)等の立役者で、1977年には国土庁の事務次官として、官僚国家・日本の代表者であると答えていた気がする。下河辺さんとは一度も会ったことがない上に、著書も読んだこともないのに、勝手に「日本で最も信頼できる人」等と評していたように思う。

 二度目は、中国から帰国後、1980年から1989年までの10年間、日本建築学会や早大等を通して、なんと80回を超える日中建築交流会を行う間、1985年頃に今一度、当時NIRAの理事長をされていた下河辺さんに新宿の理事長室に呼ばれて、日中研究者の研究費や研究テーマについて話し合う機会があった。当時の記憶は定かではないが、安心して相談できる人と実感、中国での私の勝手な下河辺評は間違っていなかったことに安心した。

 2008年、阿部氏が日本開発構想研究所に「下河辺淳アーカイヴス」を開設した。一見の価値ありで、是非見てくれとのお誘いを受けた。大学の教師のもつ雑本の多さに比べて、如何にも極秘文書と思われる文献・書類の資料集に、なぜ公文書館ではなく民間シンクタンクで預からねばならぬのかと疑問に思った。日本経団連を中心に、国策シンクタンクとしてのNIRAが設立された1970年代に比べて、日本の知識に関する関心のなさに疑問を持ったこと、大学定年後の私は、銀座にオフィスを開いたが、家賃を考えて蔵書は八ヶ岳の山荘に移した。

 2011年11月、建築家の松原弘典君が突然訪ねてきて、1980年代にはあれ程日中交流に熱心だったのに、今はどうしてやっていないのかについてインタビューを受けた。その記事が*4)にあり、この際読み直して、本書の意図に通じていた。

 1989年の天安門事件以降の中国は変わった。日本のバブル崩壊と共に日中の国勢は逆転した。本書の10章で中国の経済学者である凌星光(福井県立大名誉教授)が、「NIRAの理事長として、1981年から1984年、下河辺団長を中心に日本の専門家集団が5回に渡り中国各地を訪問しての中国全土の国土開発について、7点にまとめての報告書を絶賛している。」以下、本書より引用する。

 『日中経済知識交流会の日本側主要メンバーの大来佐武郎、向坂正男、下河辺淳、宮崎勇夫、小林實氏等は、大平正芳首相や稲山嘉實氏等の支援の下、中国の改革・開放政策が成功するために誠意をもって協力した。中国トップクラスは虚心坦懐に日本や欧米先進国に学んだ。中国インテリ層はむさぼるように知識の吸収に励んだ。1980年代以降、小林實氏が「日本は駄目、中国は凄い」と語ったことがある。彼は絶好調の日本が抱える矛盾を見ており、栄える中国の21世紀を見通していた。

 長い日中関係史を見るとき、歴史的に日本は中国に学んできたが、明治維新後は中国の有識者が日本に学ぼうとした。ところが、中国に実益をもたらすには至らなかった。1980年代における日中経済知識交流会に代表される「日本に学ぶ」交流は、中国に大きな実益をもたらした。これは今までの歴史になかったことであり、これからも多分ないであろう。正に空前絶後の日中関係史大事であったと位置づけられよう。

 残念なことに、日中関係は複雑な国際関係に翻弄され、この一大事が正当に評価されず、埋没されようとしている。この一文が、それをすくう契機になってくれることを期待する、と同時に、若い研究者が35年前のこの視察報告書を現地に赴いて検証し、より詳細に客観的評価をしてくれることを願って止まない。』

 1962年の全総、1969年の新全総、1977年の三全総、1987年の四全総、1998年の五全総の全てを指導した下河辺氏は、1987年までの実績から中国を導いたが、五全総ではそのベクトルは全く違ったことは、残念ながら中国には伝えられなかった。

 私自身の体験でも、1970年代の日本のベクトルを伝えたが、1990年代からの中国は、それがそのまま原動力になって、今日に至っている。私が初めて1977年に訪中したときは、文化大革命で破壊された貧しい中国であったが、自然の生態系は素晴らしく、学ぶことが多く、素晴らしい学者にも巡り会った。しかし、今の中国や友人達のことを考えると、実に心配である。

 1980年代末に「日本は駄目、中国は凄い」との小林實氏の考えに私も共鳴した。その頃から40年、今は「日本も駄目、中国も駄目」だ。コロナ禍にあって「禍転じて福と為す」方向にパラダイム転換する時との配慮から、塩谷隆英氏が下河辺淳小伝を著してくださったことに心より敬意を表すると共に、この書を献本くださった阿部和彦氏にも心より感謝申し上げます。

 2021年3月20日、アラスカでは米中が「人権」と「軍拡」を巡って大論争。日本もフリーライダーであり続けることはできない。

*1)塩谷隆英著「下河辺淳小伝 21世紀の人と国土」(2021年3月 商事法務)

*2)尾島俊雄著「現代中国の建築事情」(1980年8月 彰国社)

*3)尾島俊雄著・中国側編集翻訳委員会「日本的建築界」(1980年10月 中国建築工業出版社)

*4)松原弘典著「未像の大国 日本の建築メディアにおける中国認識」(2012年5月 鹿島出版会)

小松幸夫教授の早大最終講義「建築ストック社会の到来とその先に見えるもの」を聴いて

 2020年3月14日に予定していた最終講義がコロナ禍にあって一年間延期したが、本年も対面式で実施出来ず、結局はZoomウェビナーでの講義となった。司会は板谷敏正君で、紹介は高口洋人君。「学生たちに、建築界は新築時代から既築建物の質を高める時代に入っている。然るに、その正確な統計資料さえ日本には存在しなかった。小松先生は、東大・新潟大・横浜国立大・早大と、1968年から2021年の今日に至る半世紀余、一貫して、日本の建築ストック状況を明らかにしてきた」との紹介後に、小松教授の登場(早大西早稲田キャンパス 55 号館 N 棟 1 階大会議室)。

 「1949年12月、文京区関口台で生まれ、西宮の小学校から高校までは関西。1968年の東大入学時は紛争時代。内田祥哉研究室での卒論・修論・博士論文は「建物の耐用性に関する研究」を一貫して行った後、新潟大・横浜国立大を経て、1998年4月、早大の神山幸弘教授の後任として22年間、本日が早大での最終講義になった。」これからも本日のテーマを追求し続けられると聞いて安心する。

 建築の耐久性・耐用性・寿命・償却等々の用語解説と共に、木造分野での杉山英男、十代田三郎、関野克、鋼材では山田水城、コンクリートの松下清、岸谷孝一他、また先達としての真鍋恒博、宇野英隆、高口恭行、飯塚五郎蔵氏等々、私にとっても懐かしい方々の名前が出て、その先生方の研究成果をも見事に語られるのを聴くのは至福の時間。日本の建物が英・米に比べて余りにもサイクル年数や滅失建物平均寿命の少ない原因等についても明確に解説。特に、総務省や学会、財務省令の耐用年数(償却年数と称すべし)の求め方や、その問題点の指摘(寿命は決まるもので、耐用年数は決めるもの等)は当を得ている。

 2008年に私が早大を退職して、(一財)建築保全センターの理事長(2008-2018)に就任していたとき、「公共建築のマネジメント」がこれからの重要テーマとして、財団内に地方自治体と共同研究会をつくった。小松先生はそのリーダーとして最適とあって、何度かお会いしたが、その研究会の成果や研究者達の活躍については、この講義を聴いて初めて、その成果が大きかったことを知った。

 また、先生を早大に迎えたときの歓迎会では、東大・新潟大・横国大等の国立大学に比べて、私学の早大は学生が多い上に、変わった奴がいるから大変。しかし、確か先生は未婚であったことから、定年が長い上に給与も高いから、きっと結婚も出来る筈とご挨拶したような思い出にも浸った一刻でした。

 末筆ながら、その先に見えるものについて、先生の弟子達が先生の指導を得て、少しばかり展望していましたが、まだ十分には見えていないので、是非共、もう20年頑張って明らかにして下さい。日本は、人命のみならず、建築でも世界一の長寿命を達成するために。

 

*「建築ストック社会の到来とその先に見えるもの」の動画(https://youtu.be/Qx40uW2aj_k
*資料のリンク(ダウンロード期限:2021/4/30)https://1drv.ms/u/s!AshriBnIwSCLgYhI0nJdl18VoZ0p3A?e=PczexV

長谷見雄二君の早大最終講義「木造防火都市の夢」を聴いて

 3月13日(土)、都内には「竜巻・大雨・強風・洪水注意報」が発令されていたが、コロナ禍とあって、早大理工57号館での最終講義を在宅(Zoom)で視聴する。

 講義の内容は、長谷見著「木造防災都市・鉄・コンクリートの限界を乗り越える」(2019.9 早大出版部)を参照すると分かり易い。多分、この書に盛り込めなかったであろう実物火災実験の歴史的秘話と共に、産業革命以降の近代建築や巨大都市の発展過程にあっての「火災研究」がもつ影響力の大きさを話すことが当日の主旨と思われ、参考になった。

 長谷見君自身が語る二毛作人生(公務員としての建築研究所時代の1975-97、早大教授としての教育者時代1997-2021)で体験した実物火災実験を通して得た知識が、大災害に至る初期対策や前兆を見分ける「術」に対する教訓は、この講義でよく理解できた。

 私の知る長谷見君は「災害弱者に対する人並み以上の関心の高さ」や「学位論文のフラッシュオーバーの理論解析等を通しての数学力」から、予測される大災害に対して、これからも信頼できる防災対策を提言できる第一人者として、三毛作の人生を成就して欲しい。

——- 忘れないうちに、私と長谷見君の親交記録 ——-

 長谷見君と露崎暁君と二人で書いた卒論「住宅団地のシステム管理研究」を指導して、二人に共通した弱者を思う心根を発見。露崎君は若死にしたが、生命保険金を尾島研に寄附し、それがNPO-AIUEの基金の一部になっている。長谷見君の修論「大型冷却塔の技術評価」では、東京湾岸の海水冷却型火力発電所を空冷にすると、羽田空港は成立しないことを教えた。その成果で渡米費を得て、NTTに職を得た松島君とMITやGEの大型コンピュータセンターの調査を行った。その間に公務員試験に受かって建研へ。

 1982年に提出した学位論文「区画火災の数学モデルとフラッシュオーバーの物理的機構」は、数学科の審査員をして、彼を早大に誘致するよう勧告。1997年に石山修武建築学科主任と建研から身請けする。その際、所長から建研の火災研究を支援する約束をさせられた結果で、今日に至っていた。

 最終講義の参考書は、伊藤滋先生が早大に寄附した東京安全研の所長としての成果である。

3月5日 横浜国立大学主催「トランジション・シティ 都市をめぐる知の交差」シンポジュームを聞いて

  このシンポジュームに参加して、「横浜国立大学に都市科学部が発足して4年、その完成年度に合わせて『都市科学事典』を出版したこと」や「佐土原君が初代の都市科学部長を務めた後、この事典をベースに、大学院で都市イノベーションを実践する研究院長の要職にある」ことを知った。

 これから都市イノベーション学府に学ぶ修士や博士課程の学生たちにとって、このシンポジュームのもつ役割は大きく、パネリストの責任は大きかった。学部では、Urban Science Encyclopedia(都市科学百科事典)を学び、次に大学院では、不確実性なTransition Cityにあって、Urban Innovation(都市を革新する)を実践するための研究を行うという。

 この分野では最先端のパネリスト(早大の伊藤守、東大の福永真弓・吉見俊哉、横国の吉原直樹・佐土原聡教授等)を中心に、十分に演習されていたことを知り、その段取りprocess(進行過程)の良さに驚かされた。

 Zoomウェビナーによるオンライン参加者の私にとって、自宅で、実に気楽にこの横浜国立大学主催の大変な講演を聴講できるということは、世界最大の東京首都圏はすでにspace(物理的空間)からDX(Digital Transformation)時代に入っていることを教えられた。

 既に私のBlogで都市科学事典の素晴らしき挑戦については賛辞を記した。このシンポジュームは、年度内には横国大のホームページやYouTubeで公開予定とのこと。きっと歴史に残る成果を生むと思います。私の研究室に学んだ卒業生たちにも、是非「都市科学事典」と共に、このシンポジュームを視聴し、アフターコロナ時代にあって、これからの私たちの周辺の都市環境を豊かなものにして欲しいと願って。

 敢えて、4人のパネリストの発言で、印象に残ったことを記せば、

・伊藤守教授:紙ベースの事典は既にレガシー、今の学生たちは歴史像をもっていないが、偶然性や不確実性に敏感で、複眼的感受性をもつ。

・福永真弓准教授:オーガニックプロセス。封じ込めての循環生態系としてのサクラマス。自分も変われるし他者も変わるコミュニティ論。

・吉見俊哉教授:1964年の東京オリンピックの成功体験からの断絶。スローダウン、しなやかに末永く、15分の生活圏、グローバリズムはパンデミックと不可分。文理は複眼で、融合は無理。

・吉原直樹教授:過去から学習できない都市と向き合う。隔離からみんなが繋がる都市。レガシーの喪失。

都市科学事典の編集代表者 佐土原聡君の偉業

 2017年4月、横浜国立大学が50年ぶりの新学部「都市科学部」を開設したのを契機に、横浜の出版社・春風社が2021年2月28日、「都市科学事典」(Urban Science Encyclopedia)を出版した。その編集代表を務めたのが、初代都市科学部長の佐土原聡君である。

 佐土原君が4~5年前に、世界人口の2/3が集住する都市問題の課題解決という社会的要請に応えるため、横浜国立大学で多分野の知的資産の蓄積と最新の学術的成果である専門知を文系・理系にかかわらず多分野から集め、それらを連携し、経験知とも融合して実践的に活かす統合知を創り出すための都市科学部を創出する。そのためにも、事典を編集する。ついては、私が50年前に早大で初めて創出した都市環境学について、2頁程で原稿を書いてくれないかとの依頼であった。2頁で都市環境について書くのも大変であったが、それ以上に、最初に都市科学部を創ること自体、大学内での仕事はどれ程困難であり、さらにそのための情報収集も合わせた事典を編集するという途方もない夢を淡々と語る佐土原君の才能と包容力の大きさに驚き、かつ賛同しつつも、成功の可能性は限りなくゼロと予測していた。

 しかし、2017年4月には本当に日本で最初の新学部が横浜国立大学に誕生し、彼が初代の学部長に就任した。また、ネット時代にあって、紙ベースの事典が生まれる筈がないと考えていたのに、コロナ禍にあっても着実に出版作業が進行していて、世界中が緊急事態宣言下に置かれている2021年2月に公刊された。

 2021年3月5日には横浜国立大学編「都市科学事典」出版記念オンライン・シンポジューム「TRANSITION CITY 都市をめぐる知の交差」が15:30~18:00に開催されたのである。このシンポに私もZOOMで参加させてもらったが、この一週間前に佐土原君から事典の贈呈を受けた。1000頁を超える立派な箱入りの事典である。まずは3月2日付の佐土原君のさりげない挨拶文「執筆の感謝と都市科学分野の確立は緒に就いたばかりですが、刷り上がって参りましたので、謹んで贈呈します。」何の気負いも感じられない文面を見ながら、編集代表者としての「はじめに」を読み、10余名の編集委員と380余人の執筆者名(この中に私の研究室のOBが10余人)を眺めながら、手当たり次第に頁を捲って読み始めたら、これが面白くなって止められなくなった。都市科学をかくも面白く、1000頁を超える大著に編集されていたことに対して、ボッカチオの「デカメロン」もかくやありしと思った。1348年のペスト大流行時、フィレンツェ市内の寺院で10人が10日間、一人1日1回語り合った「デカメロン」は、時代が生んだ不朽の名作であるが、まさにコロナ禍にあっての「都市科学事典」も斯くの如くに思われたので、その読後感をハガキに記して、佐土原君への祝辞とした。

 私の研究室OBで教師をしている諸兄には、是非、公費・私費問わず、この事典を入手し、一読をお勧めする次第である。

「建築」と「土木」の語源について

 縄文社会研究会の雛元氏から松浦先生に土木の語源を問うメールがあった。

 土木と同じ建築の語源についても諸説あり、いつかこれを明確にしておくことが必要と考えていた。2021年の私の見解は、“Civil Engineering”を初めて日本語に訳した人は誰かわからないが「土木工学」と訳し、“Architecture”を日本語に訳した人も誰かわからないが「建築」と訳した。唯、その訳語が正しかったかどうかわからないが、明治の初期にこの訳語を普及させた人は、建築については、間違いなく東大の初代建築史教授であった伊東忠太であり、土木についてもよくわからないが、土木学会の式典で、紀元前2世紀頃に記された『淮南子』に基づき命名されたと北大総長の丹保憲仁教授が話され、普及したようである。又、早大建築学科を卒業して、東大土木工学科の教授になった内藤廣君も「土木」と「建築」の語源に関心をもって調べているようだ。

 東大の建築学科は、初期は造家学科と称し、日本建築学会も創設期は造家学会であった。土木学会は工学会からではなかったか。

 言葉は時代の生活・文化と共に変わり、何故そうなったかについてはよく分からないのが普通で、今日使っている中国語の建築や土木の用語も、日本語の翻訳を活用したものと考えられる。

 いずれにしろ、明治維新、日本が欧米文化の輸入に熱心であった時代の訳語で、いつかこの言葉が定着し、更には日本独自の建築や土木の文化が生まれていると考えてよかろう。ちなみに、江戸時代の建築に相当する言葉は「作事」であり、土木は「普請」と称していたようだ。

 以上、私の勝手なBlogに記したいと考えたが、念のため、用語に詳しい松浦茂樹先生と高橋信之先生に教えてほしいとメールした。数日して数十頁の調査資料が送られてきた。余りに多様な説明があったので略記して、両先生の了解を得られれば、私自身のBlogに引用させて頂くことにした。なお、手元にあった伊東忠太の書物を読んで、言葉の定義は時代と共に変わっていくことを実感すると共に、私の専門とする「都市環境」という言葉も、この30年間でずいぶん変わってきた。

 ①伊東忠太著「日本建築の美」(昭和19年6月、築地書店)

 ②伊東忠太著「木片集」(昭和3年5月、萬里閣書房)

 ③岸田日出刀著「建築学者 伊東忠太」(昭和20年6月、乾元社)

 ④読売新聞社編「建築巨人 伊東忠太」(平成5年7月、読売新聞社)

 日頃何気なく使っている用語が定着するためには、大変な歴史やその用語に対する思い入れのある人々の多いこともインターネットや両先生からの資料を読んで痛感した次第である。

「土木」の用語由来

・1869年(明治2年)、民部官土木司が設置され、職制にはじめて「土木」が登場し、明治10年内務省土木局が設置され長く続いた。

・一方、明治元年、会計官が設立されるが、その直前の4月15日の記事に「開墾土木、工事」の用語が記載され、設立後の8月22日の記事に、天竜川堤防修築工事を浜松藩に委任するに当たって、「土木ノ事務タル本官ノ専任に属ス」と土木の用語がある。

・明治2年8月11日、大蔵省から営繕司の事務が民部省土木司に転属。土木事務・公共建築事務のすべてを担当する。

・明治4年7月14日の廃藩置県で民部省廃止につき、土木司は工部省土木寮が所轄するも、土木寮は大蔵省・内務省に移り、明治7年内務省土木寮の営繕事務が工部省に移される。内務省土木寮所轄の建築局が工部省製作料の所管になる。明治10年、寮は局となり、内務省土木寮は土木局となり、1931年(昭和6年)まで55年間続く。

・明治6年刊行の「英和字彙」に”Civil Engineering”が登場し、「土木方」と記されている。

・明治元年刊行の「軍事小典」に「土公兵」なる用語は、Military Engineerを訳したもの。

(以上、松浦氏調査資料より)

「土木」用語の由来

・土木関係者は、2002年5月の土木学会の式典で、丹保憲仁前会長の記念講演で『土木の語源は、紀元前2世紀頃の中国古典「淮南子」に(聖人乃作 為之築土構木 以為室屋上棟下宇 ・・・)』この築土構木からとの説。しかし大正5年頃の土木学会誌で土木ノ改名論に関する激論あるも、築土構木の出典は伝聞としている。しかし、「土木」の二字の歴史は、「淮南子」より3世紀以上前に、中国の「国語」等に2回も登場し、日本でも鎌倉時代の「源平盛衰記」に東大寺建立を叙述したところで「土木(ともく)ノ造録」がある。

「建築」の用語由来

・堀達之助(1823~1894)等編「英和對譯袖珍辞書」(文久2年(1862年)、洋書取調所、出版地:江戸)

   Architect              建築術ノ学者

   Architecture         建築学

 明治4年11月「袖珍英和節用集 全」に同じ訳

・明治2年(1869)薩摩辞書、上海にて印刷刊行

・明治6年(1873)「東京新製活版所蔵版和譯英辞書」

   Architect              建築学者   

   Architecture     建築術

・明治6年(1873)「工学寮・学課並諸規則」

・専門科ヲ分チテ土木・機械・造家・電信・化学・冶金・鉱山ノ七科トシ六ヶ年ヲ以テ卒業ノ期トス。

・明治18年(1885)工部大学校 学課並諸規則

   学課:Build、Construct等に建築

   Architecture              造家

・明治19年(1886)造家学会発足、発行雑誌名「建築雑誌」

   正員は建築学を専修したる者

・明治27年(1894)伊東忠太「我造家学会の改名を望む」(明治30年3月発行の建築雑誌)

・明治30年(1897)造家学会を建築学会に改名

・明治31年(1898)帝国大学工科大学造家学科を建築学科と改名

(以上、高橋氏調査資料より)

尾島の蛇足ですが、

 20世紀後半に輝いた丹下健三や菊竹清訓に代表される日本の建築家や、世界に誇る長大橋や海底トンネルを建設した土木技術者の名声や成果を礎に、建築と土木を合わせた建設産業が花形であった。しかしその時代こそ、日本の失われた30年間であったようで、結果として、日本は世界のDX(Digital Transformation)に乗り遅れた。

 果たして、理工学部の建築学科や土木工学科は、建築学部や社会工学科へと発展・解消する方向に名称を変え始めた。建設業界も”Construction”から”Production”へと、アナログからデジタル技術へ転換、”Architecture”や”Civil”の用語も、BIMやCIM時代にあって、その意味するところが、最近よく使っている人々の声から、建築や土木の専門家ではなく、情報分野に属している人々のようである。

 建設産業界に際立つ高齢化や人手不足、生産効率の低下は、建築や土木の技術や文化に執着した私の世代が世界の潮流に乗り遅れているためであろう。コロナ禍のステーホームでは反省ばかりである。

「震災復興10年の総点検『創造的復興』に向けて」(五十嵐・加藤・渡辺共著、岩波ブックレット)を読んで

 2021年2月、五十嵐敬喜先生から岩波ブックレットNo.1041が贈られてきた。表紙に「32兆円は、人々を幸せにしたのか?」とある。

震災復興10年の総点検
岩波ブックレットNo.1041 2021.2 出版)

 2011年3月11日の東日本大震災時、五十嵐先生は内閣官房参与として総理官邸に居て、国家戦略室で復興院を発足させるについて意見を求められた。その返事に当たって、伊藤滋先生に相談したところ、「日本政府のPublic CommitmentsとSpokesmanの質が問題で、結果として、政官民で感覚のズレがあること。」国とは別に、私達自身で「この大惨事を忘れぬ間に、少しでも正確に市民の目線で捉えた実状を出版することで、せめても被災者に報い、今後の日本再建に寄与したい」となり、「東日本大震災からの日本再生」(中央公論新社、2011.6.25)を出版した。これを海外にもとNPO-AIUEで英・中・韓国語に翻訳出版した。

【中古】東日本大震災からの日本再生/伊藤滋,尾島俊雄【監修】【中古】afb
(中央公論新社 2011.6 出版)

 当時の民主党内閣は、菅直人首相の下で、東日本大震災という未曾有の自然災害に加えて、福島原発事故で総理官邸の混乱は極度に達していた。五十嵐参与も、平常時は静かなはずの参与室で、民主党での日本の将来像を進言する予定が、執務できる状況にないため、私の銀座オフィスで後方支援できないかと頼まれた程であった。

 以前、私が岩波ブックレットに「異議あり!臨海副都心」(No.247)を書いたのは、東大先端研の客員教授時代で、東京一極集中を加速させる臨海副都心での東京都市博や副都心づくりに対して、人格をかけての異議申請の出版であった。この成果として都市博は中止になり、副都心づくりは中断した。この善し悪しは別にして、「幸せにしたかどうか旗色鮮明にすること」が総点検者の役割と考えるためである。

(岩波ブックレットNo.247 1992.3 出版)

 岩波ブックレットNo.1041は五十嵐先生も人格をかけての提言かと熟読した。然るに、「32兆円という巨額をかけた復興政策の光と影、防潮堤や住宅、まちづくりなどハードの側面と生業の再建などソフトの側面から検討した結果として、「本当に被災者の役に立っているのか、厳しく検証されるべきであろう」との優しい評価であった。期待したのは5章の「事前復興計画-幸福論と田園都市論」であったが、「日本のあるべき姿」としての「事前復興計画」について高知県や岩手県での範例を示したのみである。「復興とは、つまるところ幸福をどのようにして保証し、積み上げていくのか、ということに尽きるというのが私達の結論なのである。」

 あとがきで、五十嵐先生は、「創造的復興」に32兆円もの巨額(1000住戸入居するタワーマンションが320棟分にも相当)投資をした上に、復興庁なる組織をつくり、これを10年も延長すると閣議決定された。これによって、今後予想される南海トラフ地震や首都直下地震に対して、政府や自治体の描く「公共事業」中心の復興デザインとは別に、独自に新しい行動パターンによって「日本の再生」に取り組む人々が生まれたと書いている。

 本書によって、東京の災害事前復興計画が見えてこないのが残念で、その上、福島原発事故からの復興については、専門外として点検の対象としなかった。

 32兆円という国費の使途についての検証に少しでも災害事前復興計画への予算配慮が欲しかった。コロナ禍のGo Toキャンペーンや一律給付金、さらには予備費の使途について、余りの無駄と思える国費の使途については、これからの五十嵐評を期待している。

 と書いている最中、2月13日(土)23:08の地震である。自宅で震度4、M7.3(阪神淡路大震災や熊本地震と同じレベル)、地下55km、10年前の東日本大震災の余震であった。震度6強の場所もあったに拘わらず、死者も倒壊した家屋もない様子に、宮城・福島地方の建物補強等の防災対策が進んだためか。

 国土交通省都市局のアンケート調査で、「復興事前準備」の必要性に関しては57%も重要と認識しているが、地方公共団体の5%しか実施されていない。他業務の負担が大きく、検討時間がない60%、何をすればよいかわからない37%と、岩手や高知は5%の例外であること。まして「事前復興」に至っては皆無に等しいという。

 1995年の阪神淡路大震災の直後に、建設業界からの委託もあり東京の事前復興計画案を作成して公表したところ、ある新聞で災害待ちの建設業界と叩かれたことや、2011年の東日本大震災後、川口市や江東区・練馬区・中央区等で事前復興計画案を作成して、それぞれ首長に見せるに当たって、区役所職員に説明に行ったところ、実に迷惑顔をされ、学生たちにこの種のテーマで論文を書かせる困難さを感じた。

 今日のコロナ対策としてのワクチン研究や、その接種普及に世界中が争奪戦するに比して、大地震や気候変動に対する事前復興対策投資は、昨今のESG投資状況を見る限り、これからが本番と思えるが、そのためにも五十嵐先生の如き先駆者が欲しいからである。

 東京直下地震の確率が高まる今日、コロナ禍での「創造的復興」以前に、先ずは被災状況を具体的に想定した上で、復興のシンボルとして「生活再建」と「市街地復興」の双方の視点から、「復興事前準備」と「事前復興計画」を検討することの必要性である。なにはともあれ、Society5.0時代のDXまちづくり時代「国費の使途と成果に関する評価の大切さ」を本書で気づかされたことから、こんなBlogを書くことになった。

「アフターコロナ時代の都市環境」の「NPOまほろば賞」について

 2020年10月27日、NPOアジア都市環境学会が会員向けに募集した論文の締め切り時、世界のCOVID-19の陽性者4,317万人、死者115万人。

 2020年12月14日に論文選考会が開かれ、34編中3編がまほろば賞に選ばれた。私も選考委員の一人として全ての論文を読んだ結果、それぞれが刺激的で、新鮮な論文に感銘した。コロナ禍の惨状下にあって、会員諸兄がこの非常事態に如何に発言の場を求めていたかを知った。従って、選考に当たっては、まずは類型化して読みやすい論文集として出版することに加えて、ISBNには定価をつける必要があることや、まほろば賞の贈呈についても議論した。

 出版作業は全て三浦昌生君が九州で仕上げてくれることになり、表紙は渋田玲君が担当して、2021年2月1日、NPOアジア都市環境学会編の著作集が手元に届いた。

 この日の米国ジョンズ・ホプキンス大学発表のCOVID-19の陽性者は1億人を突破して、死者も225万余人と、この3ヶ月足らずで倍増のすさまじさであった。すでにワクチンが各国で使われ始めたにも関わらず、更に強力な変異ウイルスが増殖中という。1月7日に11都道府県に発出された緊急事態宣言は、2月7日解除の予定が1ヶ月延期され、今も医療機関の崩壊が叫ばれ続けている。

 高齢者である私自身は不要不急の要件なき身とあって、ステイホームの毎日。先日送られてきた神田順先生の「小さな声からはじまる建築思想」(現代書館)の書評に加えて、三浦君がせっかく立派な論文集として出版してくれた本についても書評を書かねばと考えて、春一番が例年より早く吹いたとのテレビ報道のあった日に係わらず、散歩に出た。

小さな声からはじまる建築思想 神田順(著/文) - 現代書館

 寒風のなかの散歩中に思い当たったのは、神田先生の著も、まほろば賞を受賞した3人の論文に共通しているところは、「自覚」「生命」を第一とする教育者としての使命感であった。

 神田先生は、東大本郷キャンパスでは建築構造学の世界的権威でありながら、建築基準法の限界から建築基本法の策定を提言し、東大柏キャンパスに移って、新領域創成科学研究科の環境学分野にあって、阪神・淡路大震災や東日本大震災の復興に当たって、建築の安全問題と共に、人間が安心できる生活環境についての体験著であった。

 また、北九州市大のD.バート君の論文は「3つのポストを超えて ポストモダン・ポストインダストリアル・ポストコロナ」と題し、「ポストモダンは思想学者に向けたものであり、ポストインダストリアルは経済の観点における議論が中心であった。ポストコロナは人々の生命を脅かすものであるとして、世界中の「日常」を変える衝撃であった」とする。彼はベルギー人らしい世界観をもって、ポストコロナ社会を見通していたこと。

 「台湾で見たCOVID-19感染症」と題した台湾国立台北大学の王世燁君の論文は、台湾の歴史・民族・自然・風土を統括した上で、ポストコロナ時代にあって、台湾人らしい生き方の代表として、世界の人々が共鳴せざるを得ない説得力をもって「世界中の誰もがマスクを着用することで、人間が口を閉じる必要があることを暗示しているかのような今日、人間は地球の生態系のグループの一つに過ぎず、もはや地球の支配者であってはなりません。感染症の流行期間に多くの生態系の回復を振り返り、新しい世代を迎えるために更に謙虚な心を持つべきでしょう。」

 「エネルギーとDXから考える分散・クラスター都市」と題した摂南大学の大橋巧君の論文は、日本としての進路を明確に示したように思える。「オフィスビルや巨大工場等の職場に多くの人を詰め込む20世紀の都市モデルは、情報化社会ではその必要性は次第に薄れつつあったが、今回のCOVID-19の感染拡大は、そのことをわかりやすい形で人々に示した。幸い、進化したデジタル技術が人々の生活をよい方向に変化させるというDX(デジタル・トランスフォーメーション)の概念が一部実証された。」

 以上が4人の先生方の論旨のように思えたが、会員諸兄には是非共、原著の一読を勧める次第です。

廃業ホテル撤去で白樺湖景観蘇生

 1946年、地元住民や旧制諏訪中学在校生により農業用ため池として「蓼科大池」が完成した。1950年代に入って、標高1420mのこの地にも電気や電話が開通し、路線バスの本数も増え、農林業から観光地としての脱皮に当たって、地元の要望で「蓼科大池」が「白樺湖」に、近くの女神湖やすずらん峠、ビーナスライン等と国際観光地らしい名称に改名された。1955年、池の平ホテル開業。1964年、東京オリンピックの年には、当地に昭和天皇も行幸された。

 1964年、八ヶ岳が国定公園に指定。1967年にはレイクランド(現ファミリーランド)開園。幾多の開拓地をレジャーランドに変化させた。白樺湖周辺が開拓地から観光開発地となる創成期である。

 1970年代には石油危機を迎えるも、池の平ホテルは順調に発展。1983年にはスキー場にナイター照明を新設、1986年には池の平博21オープン。この頃、湯川財産区でも柳沢英次氏の「蓼科グランドホテル滝の湯」や矢崎善美氏等の蓼科湖周辺の開発が進み、東急の進出もある。白樺湖畔でも篠原氏の「白樺湖ホテル山善」が開業することで、地区全体が年間240万人の観光客を集める日本有数の観光地に発展。池の平ホテルも1985年の年商75億円から1995年には100億円に拡張。

 2000年、早大理工学部と慶大医学部の先生方が中心になって「茅野市の新観光産業の展開」国際シンポジュームを茅野市役所で開催したのは、ライトのタリアセンを模して尾島山荘を建設したことによる。毎年この山荘での夏合宿が恒例となった。

 2013年9月にはOB中心のアジア都市環境学会の国際会議に合わせて、池の平ホテルで日本景観学会を開催した。このシンポジューム・テーマを「白樺湖畔の景観再生を考える」としたのは、白樺湖畔の廃ホテルや空き店舗が著しく景観を破壊し、観光産業に大きなダメージを与えている状況からであった。慶応大学文学部の川村晃生教授は「風景を楽しむ建物が風景を壊している。人間が変わらなければ風景は変わらない」。法政大学法学部の五十嵐敬喜教授は「放置建物撤去に当たって財産区や公共が代執行するには法整備が必要」。柳平千代一茅野市長「1991年のバブル崩壊以降、白樺湖畔の宿泊施設が相次ぎ閉鎖した。その原因は団体から個人、物見遊山から体験学習へという観光の転換に追いつかなかった」等の発言が翌日の新聞に掲載された。

 2015年、柳平市長が柏原財産区の役員20余人と現地視察した結果、1956年創業した「白樺湖ホテル山善」が2007年に破産し、廃業された建物劣化は景観破壊に直結しているとして、市と財産区で協議会を設置した。

 2018年10月、柏原財産区から1億5千万円を借りて、柏原農業協同組合が撤去することになった。その跡地利用に当たっては市が全面支援するという約束で、2019年、道路反対側の本館を除いて、目障りな南館2棟が撤去された。かくして、白樺湖畔の景観は見事な自然景観として蘇生したのである。

 しかし、市が財産区民にバックアップすると約束した跡地利用を地主の利益と蘇った自然景観を両立させるのは大変である。 1945年に池の平地区の山林開拓者として入植し、戦争で荒廃したこの土地の農地改革に寄与し、一大観光地にまで発展させた池の平ホテル創業者の矢島三人氏が残した写真を見ながら、自然と人間との共存のあり方として、地域循環型共生圏構想を具体化する秘策を考えるコロナ禍の毎日である。

「この都市のまほろば」を電子書籍出版するに当たって

 2020年8月、突然「この都市のまほろば」vol.1を電子書籍出版しないかとの電話であった。「一読者としてこの本に感動した。ついては自分がその仕事をしているので協力してほしい。」滅多に直接電話に出ない私は、何かの運命と思ってOKしてしまった。どんなノルマや利益があるか判らないまま、コロナ禍の新常態の状況下、時代の波に乗った。

 本書のシリーズは、事実上、全7巻とその総まとめとしての「日本は世界のまほろば」シリーズ全3巻で、合計10巻は2017年7月に終了しており、出版社も既に絶版として販売を終えている。依頼された電子書籍出版は、著者の承認だけで処理できる由。手数料は必要だが、読者次第で収支は十分可能というので、その後は事務局(NPOアジア都市環境学会)にお願いすることになった。

 それから4ヶ月後、350頁の校正が送られてきたので、お正月に熟読することになった。「この都市のまほろば」vol.1は、雑誌「中央公論」に2003年4月号から2004年12月号まで連載した20都市を単行本とし、2005年5月、中央公論新社より「この都市のまほろば(消えるもの、残すもの、そして創ること)」と題して、編集は関知良、写真は高橋信之、挿絵は藪野健さん、私が著者として出版したものである。

 早稲田大学教授として最も多忙な時期に4人が一緒にこの20都市を歩き、楽しく議論しながら著した書である。十分に時間をかけた現職時代の作品だけに、改めて読み直してみるとよく勉強している上、中央公論の編集者や中央公論新社の目が通っているだけに殆ど修正するところがなかった。20年前の著作であるが、それぞれの都市への熱い思いは、今も殆ど変わらなかったことに、むしろ驚いてしまった。同時に、日本は失われた20年と言われるだに、上海・ソウルの海外2都市を除いた日本の18都市は全く変わっていないので、当時提言した試みが成功すればと今も思えてきた。従って、vol.1が読まれることに成功すれば、是非ともvol.2~7のみならず、「日本は世界のまほろば」も電子書籍出版してほしいと考えた。アフターコロナ時代の二地域居住や地方創生の支援策としても、原発立地周辺の再生に当たっても、今度の試みを機会に、一緒に考えてほしいと考える次第である。COVID-19の禍がいつ収束するか判らず、事実上ロックアウト状況下にあって、改めて、本書シリーズの抜本見直しの旅をしてみたいと考えた2021年の長い長い正月休みであった。

(2021年4月初旬 amazonで販売予定)