Blog59 第20回NPO-AIUE総会に出席して考えたこと

 2022年6月24日(金)15:00~16:00、東京都練馬区のNPO-AIUE本部で第20回総会を開催する。会員197人、委任状29人、web出席者:北海道・東北3人(須藤、渡辺、小柳)、関東1人(前川)、関西3人(森山・藤本・山田)、九州4人(依田・福田・高・バート)、対面出席8人(吉田・中嶋・高口・市川・佐土原・渋田・小林・尾島)で盛況。小林事務局長の進行で、吉田理事長は手際よく司会。決議案、支部報告後に横浜での第19回国際シンポは、佐土原・村上・高口の実行委員会で順調に進むとの報告。論文の応募状況について高君より報告。中国・韓国他、海外の状況以上に日本国内での支援と同時に、コロナ禍での出国や帰国後が心配。

 最後に、私から4点お願いする。

①2018年、理事長を吉田君に交代したが、NPO-AIUEや国際会議の継続を考え、会長職を創設。経営基盤を確実にするため、DHC協会等、私の関係する各種法人との連携を強化する。

②2020年度に拠点を銀座から練馬に移したこともあって、NPOの研究資金が不足。最小限、年間300万円程確保するためには、事業部と担当を設けたい。

 イ.BΣS事業(増田(幸)・渋田) ロ.JCM事業(吉田・前川) ハ.DHC事業(佐土原・村上) ニ.安全研継承(高口・秋山) ホ.PRH再生(原・中島) ヘ.国際投資(市川・州一) ト.出版・図書等(久保田・岡)を考えている。

③NPO-AIUEとは別に、初心通り、九州に一般社団法人(仮)国際都市環境学会を設立。依田・福田・高・バートを中心に、2023年度には設立。

④2024年10月頃に、尾島の出版(「都市環境学へ」と「尾島研究室の軌跡」の各続編)を予定。2冊の配布と記念会に10~20人の実行委員会(代表:中嶋君)を予定したい。これ迄の尾島研出版物は100種、約3000~5000冊の在庫あり。その処分はNPOに期待している。

 以上4点をお願いして、自由討論に入る。

 Web11人と対面8人での自由討論は画像を活用したことにより、実にドラマチックに展開した。九州の福田・依田・高・バート君の決意や東北の渡邉新学長はなかなかに立派で頼もしく見えたのも、渋田君の演出の成果であった。また高口君のNPOと一般社団法人の名称を変える提案は、「アジア」と「国際」を冠する二つの都市環境学会で了解する。

以上で総会終了。

 Web参加者には申し訳なかったが、16:30~18:00は懇親会。練馬での久しぶり多勢の宴席になった。Blog58で調達した富山の銘酒「黒部峡」の吟醸と大吟醸酒を飲み比べる。お弁当は米八のおこわ弁当、デザートは吉田君の持参した市川ちもと「手児奈の里」で、銀座オフィスとは違ったアットホームな雰囲気で、これからのNPOや一般社団法人としての日本・アジア・世界の都市環境論に花が咲く。

 2000年、北九州で理工総研を設立し、選択定年後の活動基盤としてアジア都市環境学会を創立。2003年のNPO化から20年。国際会議は横浜大会で19回で、次の韓国大会が20周年である。

 九州を拠点とする都市環境学会はアジアから世界へと本格的なAIUE:Association of International Urban Environment(一社)A.I.U.E.として発展するときが来たのだ。温泉でのDrink & Togetherを目的に、早稲田の一研究室卒業生達の懇親会的場を脱皮して、国際的に都市環境学の発展に寄与する時が来たと実感したのは、2021年に北九州市立大学訪問時であった。彼らが間もなく定年退職したときには、その実績を普及させる場が必要になる。大学から学会へと職場を移しての30年間があること。アジアのみならず、世界中が都市環境学の必要性を求めているとき、福田・高・バート君を中心に、依田・堀・三浦君等が協力すれば、新しい職場が創造できる。

 まずは最小限(会員年会費1万円、賛助法人会費1口3万円/年)の一般社団法人国際都市環境学会がその職場であり、そのためにこその設立である。それをNPO-AIUEが全面支援することで、その第1回(通算第21回目)を2024年の西安シンポにして欲しいと願う次第である。

 これを機会に、NPO-AIUEのホームページに新組織と改正定款(案)を記載する予定であり、また私の日記的Blogを公表しているので、御意見を戴ければ幸いである。また本日のBlogでの実名表記と敬称を略した失礼は高齢に免じてお許しを。

(コメントを受けて一部修正しました)

Blog#58 笹山敬輔著「ドリフターズとその時代」(2022.6.20 文春新書)を読んで

 

 2022年6月21日(火)「此の度、息子が新書を出しましたので」と贈られた本を一読して、かねてから非凡な文才を認め、いつか日本の演劇研究者として著名になる縁者の一人と思っていただけに、研究書ならぬドリフターズの新書出版に驚いた。しかし読む程に面白い。また、Blog56でも書いたが、6月11日(土)に妻子と東村山の北山公園に散歩しての帰途、私は東京で唯一の国宝木造建築である正福寺が御開帳とあるから立ち寄ろうと提案したが、それ以上に興味あるのは東村山駅東口の志村けんの銅像を見ることだと言われて唖然!立派な銅像、しかも和服で正装したテレビで見慣れた志村けんのおどけた「バカ殿」の姿と違った立像に加えて、台座には「多くの笑いと感動をありがとう」とあった。

 昨今、急激な時代の変化を感じていただけに、敬輔著の第6章「志村けん「喜劇王」への道」の一文『演劇研究の観点から言えば、志村の改革案は小林一三と同じである』と。私の家内の宝塚ファンには長い年月脱帽で、いつか宝塚と小林一三を勉強せざるを得なくなっていたから、小林一三と並ぶ程に志村けんは「家族連れを中心に広く大衆に娯楽を提供するという理念の共通性」に社会的貢献をしたとして、東村山市の小林一三ならぬ名誉市民になったのには、成る程と感じ入ってしまった。

 「いかりや」と「けん」の師匠と弟子の互いの立場。不仲と蜜月の物語。本書にあるドリフターズの愛憎入り交じっての語りの表現は、見事と言う他ない。喜劇と悲劇は紙一重という以上に、この世界の価値を改めて教えられた。昭和のエノケンやロッパ、藤山寛美同様、世界のチャップリンを例に出すまでもなく、喜劇やお笑いの世界がもつ価値について、アニメや漫画が日本文化を世界文化にまで展開せんとする時代にあって、日本のお笑いが世界に通じる時代を開くのは、敬輔君の如き存在あってのものかと。

 それにしても、敬輔君は富山の配置薬の雄「ケロリン本舗」笹山本家の4代目にして、初めて生まれた男の子で、生まれながらの後継者と期待されていただけに、大学進学に当たってお笑いの道に進みたいと周辺を困らせたことを思い出す。Blog57で、私の母が育った富山県泊町を訪ねた夜、浜多氏と話し合っているとき、現在進行中の西町北総曲輪再開発のキーテナントとして、最初は富山県薬業会館の誘致を考えていたが、その薬業界の中心、内外薬品が広貫堂や大協薬品と合併して富山めぐみ製薬になったことも、この時初めて知った。 

 1925年、父の姉のみどり伯母が笹山順蔵氏と結婚。アスピリンを配合した鎮痛剤「ケロリン」を開発、製造販売して財を成したが急逝された。ケロリン本舗を継いだ長女の慶子さんが戦後10年以上も個人商店であったことから、富山県の長者番付のトップであった。その婿に、金沢の前田藩菩提寺(宝円寺)の住職次男の中野忠松氏が決まった。その年に忠松氏をリーダーに、小学生の私や三女の洋子さん等と初めて立山登山をしたのが1950年8月。その時から忠松さんは私の兄貴分として、建築学科の大学院生の時には金沢の茶屋で芸者さんとの遊び方を教わったこと。

市ヶ谷のケロリンビル
  (現存せず)

 富山のケロリン本舗で包装の機械化に当たっての工場設計を託され、続いて1966年には東京の市ヶ谷でケロリン本舗の東京支店ビル(住居と店舗・オフィス)の設計を依頼され(施工:松井建設)、このビルの2階を借りて、私が1970年の大阪万博会場設計をするに当たって、日本環境技研(株)を設立。このビルにはなんと著名な建築家(伊藤・黒川・石井・月尾他)も間借りしていた。

 1971年には富山の笹山忠松自邸の設計(施工:竹中工務店)をさせてもらったこと。1975年には2人で伊東の山荘(日本で初めてフィンランドから購入した山荘を(株)ジェスで建設)。1975年には忠松氏の長女・満里さんと和紀君の仲人をしたが、残念なことに、1981年には50代の若さで逝去された。

 その後、1990年代に満里さんの長男・敬輔君が大学進学を前にお笑い芸人になりたいと引きこもって、みどり伯母様や父の和紀氏を心配させたこと。しかし私が直接面接したときには、全く心配なしと伝えたこと。周辺の人たちの方が富山でお笑い芸人を目指すというのは突飛に思えたようだ。その後、筑波大学の博士論文とにもなった近代演劇に関する研究書「演技術の日本近代」を見て、お笑いの道ならぬ演劇の道を開く「申し子」であったことに気づいた。その彼が今また、家業の薬業と文学との二足草鞋で周辺を驚かせているのは、実に嬉しいことだ。

Blog#57 念願の越中宮崎海岸の「たら汁」と「地酒」に酔う

 2022年6月13日(月)、富山市西町北総曲輪再開発準備組合に出席して後、富山市の藤井裕久市長と三浦良平副市長に表敬訪問。

 14日は金沢でM社の株主総会に出席して、帰途、新幹線の富山駅で今はJRと別会社になった「あいの風とやま鉄道」でSUICAの利用できる魚津駅へ。出迎えの浜多弘之氏と子息の弘匡君の車で泊町(現在は朝日町)へ。

 泊町は私の母が結婚するまで過ごした町(さみさと小学校周辺)とあって、一度来たかった町である。記憶にあるのは、この町の近くの宮崎海岸(東西4km、幅80m、日本の渚百選)で、寒中のたら汁を食べたこと、その味が未だに忘れられない程おいしかったこと。また、この町の山奥の小川温泉(開湯400年、子宝の湯)に泊まりたかったのは、母の新婚旅行地であったこと。しかし残念ながら、当日は休み(不定期)とあって、入善町の黒部川明日(あけび)温泉元湯という20年程前に開湯した温泉に泊まる。

 浜多氏と親しかった朝日町の魚津龍一前町長の案内で、朝日町の料亭月見家で、特に名物たら汁を御馳走になる。この料亭はなんと築100年以上の遊郭の旧居を利用したというだけに、家の造作は実に立派で、天井や床柱を見るだけで、その見事なことに加えて、女将と料理の素晴らしさに感動した。その上、魚津氏は4~5年前まで朝日町の名物町長であっただけに、持ち込まれた地酒「黒部峡」の素晴らしかったこと。すっかり至福の一夜で、3人で夜更けまで昔話に興じた。

 15日は近くの金太郎温泉と鉱脈を一つにすると思われる明日(あけび)温泉元湯の源泉を視察する。地下688mから毎分410ℓ、45.5℃の温泉が湧出する。小川温泉の毎分470ℓと同じ程度で、金太郎温泉の地下700mから毎分1500ℓ、泉温70℃に比べると相当少ないが、泉質の良さは定評があり、「天然の化粧水」と呼ばれる美肌効果の高い源泉掛け流しである。

 幸い天候も持ち直し、念願の宮崎海岸と母が育った泊町を再び案内してもらう。勿論昔の面影はなく、町はあくまで静かで人影は全くない淋しい町であった。あいの風とやま鉄道の泊駅の次は越中宮崎海岸駅(ヒスイ海岸駅)。駅前はすぐにヒスイ海岸で、テトラポットもなく、昔ながらの美しい松林の砂防林が続く。「たら汁街道」とも呼ばれて、何軒かの食堂もある。駅前のヒスイ海岸観光交流拠点施設ヒスイテラスにはヒスイの鑑定をしてくれる専門家も居て、なかなかに垢抜けたサービス、その説明を聞く限り、この景観を演出したのは明らかに魚津前町長のようだ。

ヒスイ鑑定士とテラス前で、2022年6月14日、越中宮崎海岸ヒスイテラス屋上より

 親不知子不知の西の入口、越中と越後の境関所跡に銘酒ありとして、1626年、加賀藩関所の与力を勤め、傍らに酒造りを始めた創業400年の林酒造へ。林洋一代表の下で息子が杜氏をして、8年連続金沢国税局酒類鑑評会優等賞受賞。昔ながらの寒造りの「黒部峡」「関桜」「若大将」の銘柄は、立山連峰よりの雪解け水と黒部渓谷をイメージしたという。昨夜の料亭で魚津氏が持ち込んだ美酒である。

 

 昔は寒中に漁から帰ってくる漁師のための「たら汁」であったが、今は「宮崎海岸のたら汁街道」に立ち並ぶ店や民宿、ドライブインで一年中味わうことができる。

 蛇足だが、2006年に銀座尾島研究室を開設したとき、研究室のおもてなし用として成功した魚津の銘酒、本江酒造の代表銘柄「北洋の袋吊り」が、2018年頃、杜氏が代わったこともあって、この郷里の銘酒に代替する酒を求めていた。今度の浜多・魚津両氏の案内で、今は亡き母との想い出の地を訪ね、念願の「たら汁」と地酒「黒部峡」に酔うことができた成果は大きい。

 新幹線「黒部宇奈月温泉駅」からわずか2時間13分、一眠りする間に上野着であった。こんな簡単に念願成就できる時代まで生きていたことに感謝すべきか。

Blog#56 東村山の北山公園「菖蒲苑」散歩

 2022年6月11日(土)の朝、娘に「母と出かけるのでよろしく」と言われて、昼食のことを考え、同行できる場所かと聞く。人口15万人余の東村山市の花菖蒲を観るのだから「一緒にどうぞ」となった。嬉しい限りで、足取りも軽く、西武線所沢駅の一つ手前、志村けんで有名になった東村山駅着。10年ほど前に出版した「この都市のまほろば」の5巻、6巻で取り上げたのは、当時は東京で唯一の国宝建造物「正福寺地蔵堂」(1407年建立)であった。室町時代にはこの辺はそれなりに発展していたところだ。

 駅からタクシーで5分の北山公園は午前8時30分開園で、すでに多くの人たちで賑わっていた。北山公園入口には手作りのゲートや屋台が立ち並ぶも、入場無料。新東京百景にも選ばれており、6月の花菖蒲は600種類、8千株、10万本の花菖蒲が咲き競う。景観はゲートを通る間もなく本当に見事で、すごい!すごい!!あまりに立派な花菖蒲に驚きながら、シャッターを押し続ける。学生時代に何故か一人で明治神宮の菖蒲園を見に行ったことを思い出す。あのときの菖蒲園に比べると桁違いの量と質で、9月にはこの花菖蒲が曼珠沙華畑になるというが、曼珠沙華と違って花菖蒲の手入れは大変だ。こんなに沢山の菖蒲を植え、そして毎月手入れをして、入場料も取らず、一般公開している東村山市の行政力に脱帽し、感謝。

 娘の提案で、当地で、少しでも散財しようと絵はがきや地元野菜を購入し、茶所カワセミハウスで一休み。本格手打ちうどんが御当地名物とあって、如何にも田舎風の野口製麺所本店で温玉てんぷらうどんの昼食。

 明日が正福寺の御開帳とあって参拝せんとしたが、妻子は興味ない上、雨模様とあって、タクシーを呼んで東村山駅へ。東口の志村けんの銅像は、正福寺よりも関心がある様子。「多くの笑いと感動をありがとう」の立看板と和服で正装した志村けんらしからぬ銅像を見る。  本日は7000歩の散歩であった。

2022.6.11(土)10:00am

Blog#55 第11回八ヶ岳研究会と御柱祭り

 2021年10月8日、「第10回八ヶ岳研究会(幹事会)」を池の平ホテルで開催し、研究対象の時・空間を拡大したことから、8部会での研究内容を相談した結果、2022年度からは単なる調査研究ではなく、実装を伴う必要ありとして、4部会に再編成。担当者を決めて、それぞれの活動報告を研究会で報告することにした。2022年5月2日、第11回を池の平ホテルで開催する。

  • 景観・縄文部会(尾島*/山路・斎藤・五十嵐・雛元・小松)

  WG ソーラーコレクターの景観破壊(設置基準づくり)

  WG 甲信越の縄文遺跡の世界遺産登録               

  • 二地域・防災部会(小林*/福島/斎藤・阿部・両角・五十嵐)

  WG 二地域居住の実装(サテライトオフィス・ベンチャー)

  WG 移住者と別荘住民の違い(ふるさと納税・コミュニティ)

  WG 空き家・廃屋の活用・都市防災・財産区

  • エネルギー・地方創生部会(中川*/福島*/小平・中島・後町・小泉・矢島)

  WG バイオマスエネルギーへの活用(チップ工場の経営)

  WG 八ヶ岳研究会の活動支援(国・地方自治体)

  • 白樺湖・広報部会(矢島*/尾島/丸山・小林)

  WG 白樺湖畔再生(PRH再生、山善跡地問題)

  WG 広報・出版活動(ガイドブック・Blog・講演会)

  WG 活動拠点事務局

当日の研究会出席者は17名、午後2時から4時30分迄、上記テーマについて報告。その後、バスで矢島社長が案内して白樺湖畔とホテル山善の撤去後、公園に整備中の現地を視察する。6時から7時30分迄、12名の参加者で懇親会後、解散する。8人が一泊して翌日は自由行動となった。

 最初の五十嵐先生の報告は、八ヶ岳山麓の縄文遺跡を世界遺産に登録するに当たっての問題点について。続いての財産区の未来については、初めて同行された(一社)ダイアローグプレイスの新野圭二郎代表理事と風早互近所支援プラットフォームの桑原洋一代表理事から、五十嵐報告予定の資料を下にして、財産区や地方の未来について具体例を提言。

財産区の未来について

一.深刻な危機

高度経済成長期のスキー場、ゴルフ場、ホテル、別荘という開発セットが音を立ててくずれていること。その後の開発イメージがわかない。

住民の高齢化が進み、後継者がなく、森林も材を生み出すどころか、逆に維持管理を含めて負担が大きくなっている。

二.活用の一事例

アートコモンズの進出

芸術家集団 都市から離れ自然での自由な創造を目指す

A株式会社は財産区から土地の提供を受け(借地権)、運営会社を作り、ここを運営する。

 会員の募集

芸儒家の参集と活動

その成果を会員に分配

 その他、展示や文化アピール

組織

会員は芸術を愛する1万人。B社団法人の一員になり会費を払い芸術の創造に尽くす。

 特徴、9割が外国人ターゲット

収益と分配

 Å会社は芸術家の創造する作品をB社団法人の会員に分配するほか展示会などを企画する。

特徴

財産区の共同利用の一形態。

つまり土地を所有せず、アーキテクトと会員を結びつける。

A会社は利益をB社団法人は公共性の獲得を目指す。

従来、財産区は、会社に土地を売る(貸借)し、その利益を受けるというだけであった。しかしアートコモンズは利益と公共性の双方を目指す。こういう新鮮な発想をどんどん開拓していきたい。 

 この五十嵐提案を下にして、当地での検討については、懇親会で話し合うことになった。続いて

  • 尾島から、甲信越の世界遺産登録に向けた縄文社会研究会はgive upすることになった理由と、御柱祭りと縄文との関連について質問すると、井戸尻考古館の小松館長より、当地でもこの接点についてはよくわかっていないとの説明に納得する。
  • Web参加の小林先生からは、4ヶ月前から二地域居住を金山地区で開始された状況について、再生可能ソーラーの有効性と採算性について、収支以上に挑戦の大切さについてと同時に、当地区での環境に関する企業活動やバイオマス利用のあり方について報告。
  • 中川氏から、バイオマスの現地利用の実態について報告。昨今の社会的要請からも実践する必要が出てきているので、事業化を急いでいる由。

 4時30分になったので、バスで白樺湖開拓記念館と尾島研で作成した当地区の模型で初めて参加の方々に状況説明後、①図のごとく、ボート乗り場の手前のホテル山善は2棟共撤去されている上、②図のように、既に一部が公園用地としてテラス状の空地が段状に整備されていた。この地にPRHの鉄骨躯体をモニュメントとして再建されると面白いと直感したので、この考えを新野さんに翌日伝えて検討を要請する。

 6時からの懇親会は、五十嵐チームを中心に、日置弁護士夫妻の東京の神楽坂界隈のまちづくりと新しいコミュニティの再生に当たって、OBの鈴木俊治君等が参加しての成功談。桑原氏の神奈川県葉山市での新しいまちづくりの話題は、実に愉快で楽しい。少子高齢化や格差・空き家・空地・分断社会にあってのこれからのまちづくりに参考になる。そのほか、八ヶ岳山麓に新しいコミュニティをいかに創造するかについて議論あり。その実践には、中川氏や福島氏の支援と五十嵐グループの次回での提案を期待して7時30分終宴となる。

 翌日は改めて白樺湖畔の阿部氏宅前を通って八子ケ峰ホテル前の白樺湖ロイヤルヒルスキー場から山善跡地の写真①を撮る。その後改めて②写真を撮影後、偶然とはいえ不思議な縁と思えた美濃戸高原別荘地のN-7(尾島山荘)に近いY-10の新野氏山荘のチタンパネルのアート作品を見学する。幸い、彼の仲間と共に尾島山荘に案内して、尾島山荘の活用についても相談する。

 ①ホテル山善撤去後の状況           ②撤去後、公園のテラスとして整備(2022年5月3日)

 連休中の渋滞を予測して3日の午前中に東京に向かうことにして、諏訪の御柱祭りの当日、藤森宅への訪問は中止する。2日午前中に御柱の山出しのルートを確認しながら、宮川小学校脇の木落し地を見て、3日の出発地、安国寺の宮川沿いに並べられた御柱群を見る。曳行開始地点にトレーラーで運ばれた③の如き8本の御柱群は、さすがに巨大で美しい。宮川小の木落しの地から、上川と宮川、鉄道と中央自動車道の横断をどのようにしたのか。やはり実際に立ち合いたいと思ったが。3日の早朝8時からの里曳きは交通規制もあって、地元の人々でも入場券がない限り近づけないという。

③5月3日、安国寺前曳行開始地点の柱群(2022年5月2日)

 第12回は2022年8月1日~4日の間に池の平ホテルで開催することにした。

Blog#54 吉阪隆正展「ひげから地球へ、パノラみる」に寄せて

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 吉阪先生の子息・正邦さんから東京都現代美術館で開催の吉阪隆正展の入場券とパンフレットが送られてきた。3月19日~6月19日(3ヶ月)もの長期間展示については、稲門建築会からも知らされていたので、当然行く予定にしていた。

 4月2日(土)、地下鉄門前仲町からタクシーで午前10時に入館すると、既にたくさんの入場者が熱心に模型やパネルに見入っているのに驚く。大空間の壁一面に描かれている年譜や図面、巨大な模型や等身大の写真、自邸の壁画等に加えて、たくさんのスケッチや画集は見事である。逝去されて40年以上、生誕100年を超えて、これだけの展示資料と入場者の多さは、吉阪神社を創始しようと、当時OBたちが叫んでいたことを想い出す。

 1978年、ハーバードの招聘教授やアフガニスタン等の訪問で超多忙な先生を早大総長に推薦していた私たちにとって、驚いたのは、学生が集まらなくて困っていた専門学校長を引き受けられたことである。その専門学校の卒業生たちの一人が、会場で突然話しかけてきた。早朝からの参観者の多くは、実はその当時の専門学校の卒業生と知らされて了解した。
 それにしても、壁一杯の詳細な年譜を見ているうちに、その時代の自分が想い出され、改めて多大な恩恵を受けていたことを知らされた。

・1950年代
 早大山岳部のベースキャンプが毎年立山の剱沢に開設されていて、中学・高校時代から山歩きをしていた私にとっては憧れの地であった。この山仲間の中心にあった吉阪先生等がブラジルのビエンナーレ(建築展)で1等になったというニュースが富山の新聞でも一面記事になり、私の進学第一志望は早大建築学科になった。 

・1960年代
 早大建築学科では、卒計は黒部の観光ホテルで、大学院の井上研では吉阪研の江津市庁舎のエアコン設計を担当したことから、吉阪先生のクラスメートで、台湾の建築学会長であった林慶豊先生を紹介され、日本山岳会からは新高山登山入山許可推薦状をもらった。
 1966年8月、軽井沢で婚約者の伶子を吉阪夫妻と丹下健三夫妻に紹介し、その10月には富山の代議士・佐伯宗義氏仲人による結婚式での吉阪スピーチもあって、佐伯氏の立山黒部貫光開発(大観峰やニューフサジ(現雷鳥沢ヒュッテ)設計)を支援された。
 1968年、難波理工学部長から『告示録』の吉阪理工学部長への禅譲時、新任講師としての学生対策から辞表を出すも慰留された。

・1970年代
 日中建築技術交流会長時の1976年、吉阪先生の代理で中国訪問を体験して、1979年から半年間、中国科学院の交換教授として、杭州の浙江大学に滞在。その間、吉阪先生が重慶を訪問されたとき、『「蜀犬日に吠ゆ」の重慶に来て驚いたのは、日本の著名な教授が重慶での集中講義予定で忙しいので、十分な案内が出来ないと言われている』とのハガキで、その宛先は「杭州市 日本の尾島教授殿」だけで配達されたことを今も忘れない。

・1980年代
 1980年聖路加病院にお見舞いに行くと、突然、早苗会と木葉会とのテニス対抗戦の部長交代を依頼され、併せて各種のチャンピオン交代との申し渡し文書である。そのようなこともあって、日中建築交流会や理工学部長、日本建築学会長などを引き受けることになった。

・1990年代
 1997年の学会長時代、突然、早朝にHabitatの主催者であった清家清先生から「吉阪先生が夢枕に立って、住宅の工業製品化は建築家にとってよくないから止めるようにと叱られたが、どうしよう」と相談される(死せる孔明・・・の伝説を信じた)。
建築学会の図書室を開放してBook Cafeにし、そのマスターに正邦氏が就任したのを喜んでいたが、反対され閉鎖になったのが今も淋しい。吉阪隆正集vol.17の解説2『未完の吉阪「美学」』と題して、寄稿する栄に浴した。

 こんなことを会場で想い出しながらメモをとっていると、美術館の管理者から落書き防止のため、自分のペンは使わないでくれとの注意あり。吉阪ならずとも、私自身、今もって何処でもスケッチならぬメモをとる習慣を恥じて退館する。

 帰途、売店で何冊かの吉阪著書を購入した一冊。
『好きなことはやらずにいられない 吉阪隆正との対話(ことばが姿へ)』を、このBlogを書きながら拝読する。
吉阪先生の『告示録』に倣って、昭和50年(1975)に雄山閣から出版した私の著書『らいふめもりい(人生の黙示録)』の推薦文と、ニュートンの編集者で東大の竹内均先生の推薦文を以下に。私にNHKブックス「熱くなる大都市」を書かせたのは、竹内先生の子息・竹内幸彦氏である。

Blog#53 2022年12月に横浜で国際シンポ開催に当たって事前視察

 2022年4月1日、夜半からの雨の音を聞きながら眠ってしまったらしい。付けっぱなしであったラジオが吉永小百合の昭和37年から昭和43年頃の歌を流し続けていた。昭和37年に公開された映画「キューポラのある街」の舞台は、東京オリンピックの聖火台を作った川口市の鋳鉄工場街である。吉永小百合が早大文学部に入学するとあって、同じキャンパスの隣の校舎に登校する彼女を見んと、大学院の同輩達が騒いでいたことを想い出した。

 当時、横浜のクリフサイドで踊ったことや、最近ではホテルニューグランドでの伊藤滋先生の米寿祝い、濱田政則先生の研究会でのスカンディヤや霧笛楼でのディナーを想い出すうちに本格的に目覚めて、仕方なくシャワーを浴びると、何か書きたくなった。

 先日、妻と娘が横浜で一泊するからと留守を頼まれた。桜はまだ早いのではと聞くと、MM-21にAIR-CABINが新設されたので試乗するだけというので、同行可能かと聞くとOK。幸い、桜木町駅前のニューオータニイン横浜プレミアムに予約できたので、ホテル代は娘、夕食は当方での割り勘で同行。

 3月19日(土)正午過ぎ、西武線練馬駅から特急元町中華街行で2時頃にはみなとみらい駅着。MM-21はすっかり完成して、東京とは全く違う、テーマパークに到着した実感である。

 娘の後について歩くと、見覚えのあるパシフィコ横浜ホールやインターコンチネンタルホテルを横手に、国際橋を渡って運河パークの万国橋で早速、新設のYOKOHAMA AIR CABINに乗る。片道1,000円、往復1,500円は割高とあってか、楽に試乗でき、運河の上からの景観はなかなかである。ランドマークタワーの建築はさすがであったが、新設の横浜新市庁舎やアパホテル等が乱立して、歴史的建物が全く見えなくなってしまった。2005年、「この都市のまほろば」で横浜を歩き回っての景観と、20年後にしてすっかり変わってしまっていた。混雑だけは変わらない桜木町駅に到着し、そのままホテルにチェックインして一休みする。

 4時頃、JR根岸線の石川町駅下車。久し振り、すっかり拡幅できた石川町商店街(元町ショッピングストリート)を歩き、娘達のショッピングを眺める間、ベンチで休む。朱雀門から媽祖廟等、豪華な中華店を眺めて、世界一の肉まんを購入。朝陽門からホテルニューグランドを通って、山下公園沿いに開港広場付近のレストラン「スカンディヤ」へ。名物のサラダにフォアグラ・ステーキは十分に満足。雨がひどくなったのと、想い出のクリフサイドは当日休みとあって、タクシーでホテルへ。

 夜はまほろばで取材した当時の資料や、佐土原聡君の「横浜市都心部、MM-21と鶴見、保土ケ谷清掃工場からの排熱ルート図」を見ながら、臨場感をもって国際会議予定の施設や研究会会場の横浜国立大学のキャンパス等を地図上で確認する。2030年迄のカーボンハーフ達成や国土強靱化に向けた分散電源によるBCD実現に当たって、横浜市が地方自治体のリーダーシップをとるに最適な都市に思えてきた。DHC協会がアジア都市環境学会の第19回国際シンポジュームと共催することになったが、今日の視察で成功を確信した。MM-21はすっかり完成しており、そのエネルギー消費密度や大きさからカーボンハーフ実現にはCGSの導入と再生可能エネルギーであるゴミ清掃工場の排熱利用が、この地で十分可能に思えたからだ。

 翌日は幸い晴れたので、朝食は赤レンガ倉庫のレストランへ。予約も大変だったという有名店とあって長蛇の列。娘向きのパンケーキがお勧めというが、ビールなしで呑み込むのは大変である。飛鳥Ⅱが停泊中とあって、赤レンガ倉庫前の広場は賑わっていた。

 今年の12月開催予定のDHC協会とアジア都市環境学会共催のシンポジュームと国際会議の横浜事前視察は、突然であったが十分に楽しく、有意義であった。12月迄にコロナ禍やロシア・ウクライナ戦争が終わっていることを祈って。

Blog#48 一級建築士資格の定期講習をコロナ禍に受講して

 2022年2月1日(火)、池袋のホテルメトロポリタン3階の大会議室で定期講習の考査を受けた。建築事務所に在籍する建築士は3年に一度、定期講習を受けた後に簡単な修了考査を受ける義務(受けないと懲戒処分を受ける)のある第5回目の講習と修了考査である。

 2005年の姉歯事件(構造計算書偽造問題)をきっかけに、性善説から性悪説に変革して、この新建築士制度がスタートした。同時に、建築事務所の開設者は、管理建築士資格者を置く必要性や保険への加入協力義務制度も発足した。その結果、私自身も立場上、新制度発足と同時に、2009年11月に第1回の一級建築士講習、2010年6月に管理建築士講習、2012年6月に第2回、2015年7月に第3回、2018年11月に第4回を受講したが、80歳を越えたことから、5回目は長時間の講習や修了考査を受ける苦痛から解放されようと考えていた。

 しかし、2020年からのコロナ禍で、この制度上の講習はweb画像でOK。しかし修了考察は従来通りという案内が来た。修了考査を受けるかどうかは別として、これまで定期講習を受けた体験と、建築士たる者の倫理観から、webによる画像講習は受講しておこうと考えた。

 結果は、なかなかに価値ある情報提供で、最近の空き家問題、糸魚川大火や熊本地震、洪水被害からの法改正や新告示等、建築士たる者は3年に一回は社会状況を知る必要な制度に思われた。開業医や弁護士と共に、建築家は三大自由業として、その分野の職能独占権を与えられている以上、権利と共に義務も発生している。それにしても3年に一度の定期講習と修了考査は本当に面倒で、博士学位と同様、一級建築士の資格は「足の裏に張り付いたお米」の例え通り、取得してもすぐに仕事に恵まれるわけではない。その上、大きな建物は、別に一級構造建築士や設備士の関与が義務付けられたから、免許の守備範囲も限定された。かくして、この制度のみならず、久しく建築基準法のあり方そのものが問われており、これをイギリスのように地方の安全条例として、別途、建築基本法を制定すべきとの声もある。

 昭和38年7月10日付、河野一郎建設大臣名での一級建築士免許は紛失したため、いま手元にあるのは平成15年7月10日(登録40525号の林寛子国土交通大臣名)の再交付免許証である。この免許証は、昭和35年4月、早大理工建築学科を卒業して、2年間の実務経験(大学院修士課程在学中)を経た上で、学科目と設計の実技試験に合格(合格率20%)した証書である。この当時の一級建築士免許は、博士課程時代の構造計算や設計図書のバイトには有効であった。

 しかし昭和40年から大学の教職についたので、一級建築士の資格免許証を使うことはなくなっていた。昭和57年(1982)から平成28年(2016)迄の34年間、練馬区の建築審査会委員(委員は5名、建築基準法に関して特定行政庁が法の例外的取り扱いに当たって同意を与える権限をもつ)を務めたことで、赤本と称する分厚い建築基準法を毎月一回は見る機会があった。そのため、最新の法律や告示が改正されたことを知ることができた。

 1997年に日本建築学会の会長に就任した頃、1995年の阪神・淡路大震災から構造系の法改正や、1997年の京都議定書・COP3の地球温暖化対策に当たって、文部科学省所管の建築学会が中心になって各種の基準作成に当たった。建設省所管の建築士会や建築家協会、建築事務所協会との交流や土木学会との役割分担等、建設業界のあるべき姿を模索すると共に、学会として倫理綱領を定める必要を痛感した。

 また、2005年には日本学術会議から「大都市における地震災害時の安全の確保について」を小泉純一郎首相に勧告、重く受け止めるとの回答。その成果もあって、2008年の新建築士制度の発足となって、3年に1回の定期講習と修了考査を受けざるを得なくなったことを改めて考えてみた。37万人もの誇り高き一級建築士と75万人もの二級建築士に加えて、7万社以上の一級建築士事務所開設者とその管理者は、3年に1回と義務付けたこの定期講習と修了考査は、内容次第で国土強靱化やカーボンニュートラルの国家目標の達成に大きな戦力になると考えた。コロナ禍の自宅でくつろぎながら、webで受講した内容は、満席の大教室で聞かされる講習とは違って新鮮であったこともある。 2月1日に講習修了考査を受けてすぐ、このBlogを書いたが、それから3月25日付「建築士定期講習修了書」を受領するまで、考査に合格したかどうか、40問中、何問間違ったかなど気になっていた。自動車の免許証同様、高齢者は免許を返却すべきにも思えてきた。この制度も再考すべきかと思ったのは、免許書換え交付の手続きをせんとしたところ、申請書類のExcelテンプレートの生年月日が昭和16年からしか記入できず、困ってしまったので。

Blog#52 五十嵐敬喜著「土地は誰のものか」(2022.2 岩波新書)を読んで

 2022年2月、八ヶ岳研究会で五十嵐先生から八ヶ岳山麓の財産区の土地利用を活性化するに当たってお話を伺う予定であったが、コロナ禍もあって、5月の諏訪大社祭まで延期になった。その代わりか、近著を事前に読んでおくようと贈呈された本書を、早速一読しての感想。

1970年から1995年は人口増大と土地の高騰による乱開発、2000年から今日は人口減少と空き家・空地等の所有者不明問題。この原因について、新旧土地基本法を中心に、法律面からの対策遅延の貧しさを歴史的に解説した上で、今日の土地所有の権利は法務省によって保護され、利用は公共の福祉を優先するも、国交省や農水省がその用途に関して所轄するが、適正に管理する主体者が欠けている。具体的には「土地は適正に利用されるだけでなく管理されなければならない」等で、「土地所有者には管理義務があり、適正に利用する責務が伴う」との論は誠に正論である。

 海外では土地・建物は一体の不動産で、利用優先で(100年単位)、建築不自由であるが、日本は土地と建物は別の建築自由不動産で(20年単位)所有が優先されている。そのためか限界集落や空き家・空地等の所有者不明土地が国土の10数%に及び、その結果、地方都市のみならず大都市でも荒廃が顕著である。

 地方創生と格差是正のためとした都市再生特別措置法(2002~、2020年改正)やコンパクトシティ(2007~ 2014年改正)などによって、成長に次ぐ成長、衰退に次ぐ衰退を助長する状況は、立法の精神に反する成果との説もよく理解できた。

 また、ハワードの田園都市論やレッチワースの実例から、日本の田園都市やニュータウンには「コミュニティ・縁・アソシエーション・コモン」の発想がなく、「幸福と真の豊かさ・美しさや仕事場をつくる土地・建物の共同所有と管理」という考え方が欠けている。トヨタの「ウーブン・シティ(Woven City)」や岸田政権のデジタル田園都市構想にも、この視点からの配慮が欠けているとして、五十嵐先生は「土地公有化と志をもって美しい地域を創造するためには、現代総有がこれから必要になる。」

 この五十嵐著に共鳴しつつ、やっと法律家に、私の専門分野である建築や都市のあり方に関心をもってもらえたと感動すると同時に、30年も前、雑誌「潮」(1988年11月号)に連載された田原総一朗(当時54才)の「時代を招く知の旗手たち⑦」のゲストに、当時51才であった私が登場しての一説。

『尾島はいきなりいった。「東京には土地がないのではない、社会基盤がないのだ。地表は自然に開放、空中には私的空間、地下には公共財を。今こそ21世紀の都市の骨格づくりが必要だ」として、『大都市アングラ構想』を展開すべき。」「東京は土地が足りないから地価が暴騰するなんて理屈がまかりとおっているが、全然違う。東京は広すぎるくらいです。足りないのは土地ではなく発想です。東京を面としてでなく空間(容積)として利用する発想と、それを実現できるインフラが欠けているのである」(注:東京23区の土地6万haに建物延面積が6万ha。これは1階建ての建物が地表べったり、パリはその3倍、N.Y.はその5倍の密度)。

 田原「何が最大の問題か。」

 尾島「それは施主、主体者の不在だ。都市全体の責任を持つ施主が不在だ。」 

 また、都市問題会議30周年記念編「都市は誰のものか」(2007年2月、清文社)の一説で、私は「都市の主体者を問う」と題して、「家の主体者さえ不明になった今日、都市の主体者は誰かと問われて市長と答える人は居ないように、誰が管理責務をもっているのか分からない。江戸時代の日本の都市は、貧しくとも、それなりの品格があり、ともかくも美しかったと海外の旅行記にある。」

 この本では、鎌倉の竹内謙市長、掛川の榛村純一市長、三春町の伊藤寛町長等の町づくりの苦労談は、五十嵐著にある日本の建築自由と建築確認制度にあって、地方自治体に介入する権利がない不思議な国と述べていることに合致する。この五十嵐説には私も大賛成で、私が日本学術会議会員であった5年間の最後の2005年4月に、小泉総理への勧告、2005年6月には「大都市をめぐる特別委員会委員長」としての報告主旨と等しく、また最近は建築基準法に代替する建築基本法の必要性を提案している神田順先生を支援している。

 末筆ながら、法律家から日本の土地基本法の問題から始めて建築基準法や都市計画法にみる公法や民法のあり方が如何に不思議な状況にあるかを本書で教えられ、これまでに体験してきた日本の理不尽さの背景に「法学界の無視」があったことを知り、よく理解できた。と同時に、もっと詳細に現代総有のあり方を知りたいと思った次第である。

Blog#51 冠松次郎・槙有恒・深田久弥にかかわる想い出

 2022年2月23日は天皇誕生日の休日とあって、コロナ禍であったが、息子に西武デパートで古書市最終日だからと誘われて出かけた。大学定年後は、月一回必ず、丸善や紀伊國屋書店で1~2時間、面白い本をあさっていたが、最近、何故か面倒になってきていたのに、古書市と聞いて急に興味が湧いたのだ。

 約束の40分間で買い求めた10冊の中で、特に気に入って、その晩に完読したのが冠松次郎の「わが山・わが渓」(昭和17年、墨水書房)と再版「峰と渓」(2002年、河出書房新書)である。

 1949年、12歳の時に初めて体験した3泊4日の立山登山がやみつきになって、中学・高校時代には家の奥庭で遊ぶ気楽な気持ちで、立山・白馬・黒部等、近郊の山や渓のみならず、富士山から中央アルプスまで山仲間と遠征する間に、山小屋やテントの中でガイドや友人達から聞いた山々の伝説で最も忘れられない人の名は冠松次郎(1883-1970)であった。

 何故なら、剱沢から黒部へ下山する度に何度も挑戦しようとして出来ず、冠松次郎だけが、私の生まれた昭和12年に見たという黒部の「幻の大滝」伝説である。当時、冠松次郎は地元のガイド(ボッカ、剱の初登頂行者の類)の一人ぐらいに考えていたため、有名なアルピニストで著書もある人とは考えてもいなかった。この時代から既に70年、最近になってテレビでドローンで空中撮影した「幻の大滝」と、更に近くまでカメラマンや登山家が大変な渓谷を登って近づく場面等が放送されて、やっと本当に「幻の大滝」が存在したことや、幻ではなく実在する秘境の名瀑であったことを知ったが、まさかこの古書市で冠松次郎の古書を2冊も手に出来たのは軌跡に思えた。

 この著書の一節、昭和12年6月記「大勢の力で幻の大滝に近づくも九死に一生を得ての撤退。」

 昭和12年7月記「滝を語る」で「剱岳三千余米突に源を発する剱沢中央部の瀑布・剱の大瀑である。その滝の全貌は今日、未だ吾人の前に展開されていない。」

 昭和13年6月記「剱の大滝の上まで深雪の上をのみ行く今は二時間で楽に着くことが出来た。大雪渓はそこで大きく切れている。そして剱の大滝の頭が雪の底から溢れるように奔出している。私等は数丈の雪崖にステップを切ってそのすぐ上まで降りて見た。脚下は井戸側のように丸く削られた花崗岩の大岩壁だ。その底の方から水煙が雲のように濛々と立ち勝って、剱沢全流の水は棒立ちになって崩落している。下を覗くとまるで底なし井戸だ。私等は瀑布を囲む数百米突の断崖をカメラに収めると来た道をまた上流に引き返した。」

 黒部の秘境・剱沢の「幻の大滝」を一度は見たいと考えていた10代の夢が、80代になってドローンの映像を見て、幻の行者の如き山男・冠松次郎が著名なアルピニストで、その著作で上記の如く、生々しく「幻の大滝」に近づき、一見するために何度も何度も、しかも一人でなく、時には大勢の力を借りて挑戦していたことを今になって知った。 

 この興奮から、このBlogを書きながらもう一冊、建築家槇文彦の叔父・槙有恒(1894-1988)の古書「山行」(昭和23年7月、岡書店)を一読して驚く。なんとこの本に「板倉勝宣君の死(大正12年1月)」の章があった。

 富山高校時代の友達には立山山麓から通学している学生が多く、その一人に雄山神社の宮司の息子(遠北邦彦君)がいて、彼を中心に多くの山小屋に仲間がいたことが幸いして、全国・四季の山々を楽しめた。

 早稲田の建築学科に入ると時間がなく、東京からの山歩きは大変で、土日や春夏の休みくらいになったが、学部・大学院時代の9年間は立山・黒部開山・中興の祖である佐伯宗義代議士別宅での寄宿生活もあって、アルバイトを兼ねての立山山麓を散策する機会が多かった。

 印象に残っているのは、小学校から中学校時代にはまだ称名滝を登って弥陀ヶ原から天狗平・室堂ルートか立山温泉経由、松尾峠かザラ峠ルートで一ノ越ルートが主で、何度もこの道を歩く度に、著名な登山家である槙有恒一行が何故こんなところで遭難したのかを知りたいと思っていた。

 特に大学院2年の5月連休時、立山登頂後に一ノ越で骨折。一本足スキーで天狗平から松尾峠を目指して滑降しつつ、弥陀ヶ原を見ながら、何度も疲れて果てて天を仰いで休みながら、槙有恒の遭難時伝説を想い出して頑張り、下山したこともあり、天候次第でこの辺が一番危険で、一番美しく快適な所と認識していた。しかしこの本のこの章を読むまで、実際の遭難状況を知らぬままに居たことである。

 この生々しい体験記を読みながら、若い頃に何度もこの遭難記に類似した体験をしたことを想い出し、改めて私が山に行く度、下山するまで母がどれほど心配していたかよくわかった。仏壇の母に感謝し、今更、山歩きの危険さを知るのであった。

 ついでにもう一冊、深田久弥著「山頂の想い」(昭和46年7月、新潮社)のあとがきに、妻・深田志げ子は「この本は図らずも自選の最後の山の紀行文集となった」とあり、最初に久弥は「日本百名山その後」として「百の名山は私個人の選択であって、客観的妥当性があるわけでないが、しかし一つの目安にはなると見えて、百のうち自分は幾つ登ったか目次にしるしをつけて、その数のふえて行くのを楽しみにしている読者が多いようである。」また「この本は案外評判がよく、1964年の初版以来、毎年増刷を重ね、今年12刷に及んだ。」

 私自身、この本の初版以来3~4冊は購入し、60座以上に〇印を付している。特に大学院生から一人で山を歩くことが多くなって、いつかこの百名山の簡にして要を得た山案内記は、5万分1地図同様、必携の書になっていた。最近では200名山から300~500名山と誰が編集しているかわからなくなっていたが、そのこともすでに深田久弥(1903-1971)は見越して居たことを教えられた。

 10冊購入の内4冊は山の本であったが、他にも面白い古書が手元にあって、これからは古書の旅に出るのも健康の秘訣と想った次第である。