Blog#119 「江戸城天守」の再建!について

 2024年7月9日(火)、東京新橋ロータリークラブの例会で、会員の鞍掛三津雄氏の紹介で、太田道灌第18代目子孫・太田資暁氏による「江戸城天守再建に関する」卓話を聞く機会があった。

 卓話の趣旨は、『江戸城は徳川3代の将軍が次々に天守を築きました。取分け 1657 年明暦の大火で焼失し、その後天守台だけが再建されて上屋の建立は後回しになっている「江戸城寛永度天守」は、日本城郭建築の最高到達点であり、日本一壮大で美しい城であったと言われております。(中略)私たちはこの「江戸城天守」を、日本各地に広がる香り豊かな純国産の木材を使い、伝統工法により再建することを通して、首都東京のそして、各地のお城と連携して、地方の活性化にも貢献して行きたい。(中略)令和の世の「江戸城天守」建立を通して、次の世代がこの国の未来に夢と希望を持ち、日本に生まれたこと、日本人であることに感動と感謝の念を抱き、(中略)日本人の為の『未来遺産』を創り上げる事業と捉えております。』

 たくさんの資料を配付しての熱演を聞きながら、四半世紀も前(1997~98年)、私が日本建築学会会長時代の副会長で、東京駅の再生はじめ日本の伝統建築保存運動の中心であった東大の鈴木博之教授(1945~2014)が、江戸城天守再建だけは反対だと叫んでおられたことを思い出した。その理由は、世界遺産登録に不可欠な真正性(Authenticity)がないからとの説で、私も賛同していた。

 しかし、一緒に仕事をしている伊藤滋先生からは、江戸城天守再建は自分の最後の仕事だから協力するよう言われていたことや、今度、ロータリー会員への「江戸城天守再建活動への請願書」署名へのお願いがあったので、自分の態度を決めなければと考えた。

 「建築家としては鈴木博之説に賛同するも、東京のランドマークとして、皇居(旧江戸城)をバッキンガム宮殿や紫禁城の如き首都の歴史や文化の誇るべきシンボルとして創出することは不可欠で、太田氏や伊藤先生の再建説にも賛同せざるを得ない。

 しかし同時に、これから建設される天守は、必ずや世界遺産にすべきものでなければならない。そのためには、やはり真正性が不可欠で、安易な江戸城天守再建ではなく、東京にとって本物のレガシーとすべき天守として、東京大学建築学科で鈴木博之先生と共に学んだはずの広島大の三浦正幸名誉教授(1954~ )の復元図の真正性を含めて、天守再建のみならず、『皇居のあり方」について再考しては如何であろうか。2020年の東京オリンピックで果たせなかったザハ・ハディド(1950~2016)の国立競技場の反省として。

 1964年の東京オリンピックの会場となった丹下健三(1913~2005)の代々木国立競技場は、私も手伝ったこともあって、槙文彦(1928~2024)の要望もあり、世界遺産に登録すべく頑張っている。少なくとも、大阪城天守は姫路城のような真正性が全くないことから、世界遺産になる可能性はゼロであることを考えれば、江戸城天守の再建にはもっと慎重を期すべきか。

Blog#118 久し振り2024年度早大建築学科の環境系OB会である「七月会」に出席

 7月5日(金)、10年ぶりに早大建築学科の環境系研究室が順番で主催している「七月会」に出席する。
 乾杯の前に一言挨拶を、と言われて『2008年の定年退職時の最終講義テーマは「未完のプロジェクトⅩ」で、教材に「都市環境学へ」を出版。その12章「未完のプロジェクト実現に向けてⅩ」について、2007年開設した銀座尾島研究室で継続研究して10年余、コロナ禍で銀座から練馬へ移転して、その活動を続けていると共に、(一社)都市環境エネルギー協会の理事長として、国土強靱化策の一環で、CGSによる分散電源を推進、2050年対策としてのカーボンニュートラル推進に当たっては、水素等の普及調査活動をしている。

 幸い、大学時代からよく遊び、よく学ぶ方で、このように身体は頗る元気なので、今も研究活動を続ける。諸君もよく遊び、よく学んで、更なる活躍を祈る次第』と。

 思えば、1970年代までは木村幸一郎教授と井上宇市助教授時代、卒論が始まる7月、大学院生と共に湯豆腐会を始めたのがきっかけで、この会が盛大になったのは、1980年代の井上宇市教授時代で、建築設備系の学生は早大では機械や電気工学科にもOBで活躍する人が居たことから、「建築設備研究会」に改めたのがベースになる。しかし、既に木村建一研や尾島研では建築設備系以外に金融機関やエネルギー会社等への就職者が多くなり、「建築設備研究会」では入会できないOBも居て、「七月会」と名称を変更した筈。

 その上、研究室単位のOB会があまり盛大になると稲門建築会とバッティングするということで、研究室単位のOB会はやめてくれと言われ、私が稲門建築会の会長時は「七月会」への出席を見合わせることで、稲門建築会に「七月会」の存続をお願いした経緯があった。しかし、もう時効と考えての今回の出席である。

 気がつけば米寿の年齢に至って、早大退職時の「都市環境学へ」の(続)として「都市環境学を開く」の出版を鹿島出版会に依頼中である。

 久々に出席した「七月会」は、環境系の教職にあった石福昭・木村建一名誉教授の出席はなく、現職の田辺新一教授の会長挨拶は一言で、高口洋人教授と伯耆原 智世講師の時代である。

 長谷見名誉教授に新任の伯耆原講師を紹介してもらって、高口君と4人で富山の職藝学院について相談する。また、OBの松村亘君や大西君たちとDHC協会で近況を伺う会をもつことになった。

 18:30からの56号館カフェテリアでの懇親会に一時間ほど参加する間、尾島研OBの村上正吾君から始まって、牧村功君の建築基本法制度に当たっては、小川富由さんと神田先生との話し合いの必要性をアドバイス。井上研OBの板谷敏正君が客員教授になったとの挨拶あり。三機の清水君にはアーカイブスでお世話になったこと、相変わらずの外岡、柴田、前川、辻村、大竹君等もなつかしく、DHC協会で世話になった木村研OBの堀川、小野島、伊香賀君等との懇談も実に有意義であった。

 田辺君とは2018年、州一が白川君と開設した中華店での「五人会」以降、5年以上も中断していたので新任の先生を入れての再開を約束する。「七月会」出席はこれを最後と考えていたが、この会はなかなかに価値ありと考えながら早々に退席する。

 西早稲田駅と直結の地下鉄はなんと石神井公園行きで、練馬駅まで15分であった。来たときは高田馬場のBig Box前からタクシーで早大51号館の正面玄関前まで、すっかり生い茂った戸山公園の中を走って5分で到着。住み慣れていた51号館の研究棟から57号館前で古谷誠章・栗生明氏と合う。彼等はEXPO’25の海外パビリオン設計を支援するため、公開シンポジウムを開催中であった。大阪・関西万博EXPO’25会場の設計支援活動が早稲田で行われていたのは嬉しく、何故かホッとした。

 2030年に向けて、西早稲田キャンパスが日建設計と清水建設によって改築中とは承知していたが、予想以上に雑然とした昔ながらの校舎の雰囲気はなかなかに活力がある。

 七月会の名簿を見ると、1941~2024年(83年間)に2500人の名前や住所を記載。尾島研は1965~2008年(43年間)で1000人程か。それにしても、個人情報満載の名簿の取り扱いには留意すべきだ!!

Blog#117 ポール・ゴールドバーガー著「建築という芸術 評伝フランク・ゲーリー(Building Art )」(2024.5.30 鹿島出版会)を読んで

 

 7月1日、鹿島建設の平岡雅哉建築設計副本部長から、例年のお中元に本著が贈られてきた。スペインのバルセロナ市は人口162万人、アントニ・ガウディのサグラダファミリアあっての国際観光都市で、それ以上に人口35万人の工業都市ビルバオが年間100万人以上の観光客で賑わっていると聞く。その要因は、フランク・ゲーリーが1997年に設計したビルバオ・グッゲンハイム美術館にある。ネルビオン川に浮かぶ船のようなチタニウムの皮膜で覆われた不思議な建物である。アメリカで最も有名な建築家フィリップ・ジョンソン(1906-2005)をして「我々の時代の最も偉大な建築」と言わしめた作品である。

 1959年にフランク・ロイド・ライトがN.Y.で設計したらせん状のグッゲンハイム美術館から半世紀、デジタル革命の申し子の如くに、高価なチタニウムの皮膜を惜しげなく駆使した巨大な造形美に圧倒される建物である。この設計で世界的建築家と認められたフランク・ゲーリーは、2003年にはロサンゼルスのダウンタウン沿いに建つウォルト・ディズニー・コンサートホールもよく似た姿で設計し、2014年にはパリのブローニュの森にルイ・ヴィトン美術館も設計した。一度は彼の作品を見たいと思う以上に、設計者の実像を知りたいと考えていただけに、本書の贈呈はありがたかった。

 それにしても、500頁もの大著で、しかも小さな活字に参って、最初は拾い読みのつもりが、二日で完読しての実感は、本当によく書けている。その筈で、ニューヨークタイムス紙の記者で、ピュリツァー賞受賞の建築評論家ポール・ゴールドバーガーによる初の評伝書であった。

 カナダのトロントのユダヤ移民の息子として、1929年2月に生まれたフランク・ゲーリーが、やがて世界的ヒーローになるアメリカンドリーム体験記である。私自身が学んだ先輩たちと同時代の1960年代のロサンゼルスで活躍した。ビクター・グルーエンに勤務していた大沼君を1965年に訪ねたときに体験した、その時代の建築界の様子や、数々の国際コンペに暗躍する同世代の建築家とクライアントとの関係など、赤裸々な筆の運びにのめり込んだ二日間であった。久し振りに、自伝を超える評伝の素晴らしさと建築設計の面白さを体感させた著書を贈って下さった平岡氏に敬礼!

 ビルバオ・グッゲンハイム美術館の設計で一躍世界的に著名になったフランク・ゲーリーを更に有名人にしたのは、ピュリツァー賞を得た程のポール・ゴールドバーガーの巧みな評伝である。しかも、フランクの生存中にアメリカで出版され、日本でも鹿島出版会から坂本和子さんによって訳され、久保田昭子君も支援したという本書を久しく私の読むところとなった。

 このような素晴らしく細密な建築家評伝に相当するのは、日本では丹下健三の評伝を書いた藤森照信氏くらいではなかろうか。残念なことに、フランクのライバルであった磯崎新については、2023年、磯崎アトリエに勤務していた今永和利・佐藤健司・藤本貴子さんらが若い頃の磯崎を知るため取材にみえたが、これからのようだ。

 この取材がきっかけで、藤本さんが勤務する法政大学建築学科の創立者である大江広の若い頃を知る人が少ないので、陣内秀信・小堀哲夫・種田元晴・石井翔大さんらを同行するからとの依頼あり。

 1970年代、日本建築学会をベースに、芸大の山本学治(1923-1977)と日大の近江榮(1929-2005)、東大の鈴木成文(1927-2010)等が建築家像を巡って、教える者と学ぶ者について10年以上も激論を繰り広げていた、その中心に大江広(1913-1989)が居たことを知る人は、全く居なくなっていた。大江は、建築設計のあり方を巡ってのDiscipline論争をからだで覚えさせ、からだで確かめ、触って確かめる徒弟制度の必要性や、「建築」は“Architect”、「建物」は“Building”と訳すが、その相違についての論争等々。建築学会が有楽町から三田へ移転する前の学会の会議室は、登亭のうな丼を食べながらの激論の場であった。当時がなつかしく思い出される。

 改めて、フランクと同時代にあって、日本建築を世界建築のレベルまで高めてくれたのは、黒川紀章(1934-2007)、磯崎新(1931-2022)、槙文彦(1928-2024)、菊竹清訓(1928-2011)、穂積信夫(1927-2024)、池原義郎(1928-2017)等であるも、その評伝が日本語版のみならず、英語版もまだ見受けられないのは残念である。朝日新聞の記者で、松葉清の如き存在が居なくなったことを考えれば、藤本さん等の若い建築評論家に期待するのみで、当時を知る私たちの余生は、彼等、日本を代表する建築家たちの記憶と資料の整理をしなければと考えた次第である。

Blog#116 笹山敬輔著「笑いの正解」(2024.5 文藝春秋)を読んで

 5月17日、昔仲人をした著者の両親から贈られた『笑いの正解―東京喜劇と伊東四朗―』の著者は、Blog58の志村けんという喜劇役者を紹介した『ドリフターズとその時代』の著者で、私には全く縁のなかったジャンルの著書であったが、刺激的であった。

 同様に、今度の著書も、伊東四朗という、全くこれまで意識したことがないけれど、確かに本書を読む限り「笑いは歴史に残らない。語り継がなければ忘れられる。(中略)今、現役の喜劇人として東京喜劇を語れるのは伊東四朗しかいない」との『推し』文句に感動した。その上、2024年6月に伊東四朗がゲストで「熱海五郎一座」が新橋演舞場で公演するという。86歳の伊東四朗は私と同じ年齢で、この時を逃すと大変と思わせる記事に、インターネットで早速チケット情報をみると、なんと既に桟敷席は売り切れで、一等席も残り僅かとあって、早速予約する。

 両親には子息の著書を評して「たった一回の挑戦で文藝春秋社に出版を約束させるや、伊東四朗を説得、あっという間にこのような恐ろしいタイトルで出版させたご子息の力量に脱帽。ひたすら頼もしいご子息に敬意を表する次第です!!」との礼状を出す。

 改めて本書を読んで、森繁久彌の喜劇「駅前シリーズ」や「社長シリーズ」、渥美清の倍賞千恵子との「男はつらいよ 寅さんシリーズ」に続く、ヒラ刑事・鴨志田役の伊東四朗とエリート警視・羽田美智子との「おかしな刑事シリーズ」は、私にとってはストレス解消のテレビ番組になっていたことに気づいた。日頃、人生にとって「笑い」こそ不可欠要因と確信しており、この年齢になって「人生の正解とは」について、改めて考えさせられた。入手した6月4日、新橋演舞場での「東京喜劇 熱海五郎一座」で、伊東四朗の尊顔を拝するのを楽しみに。

 ところで著者の敬輔君は、富山の配置薬ケロリン本舗の五代目で、私がお世話になった三代目の忠松氏は銭湯に常備されているケロリンのポリバケツの考案者である。

Blog#115 勅使河原彰著「縄文時代史」(2016年 新泉社)を読んで、八ヶ岳西南麓の縄文遺跡と千葉市加曽利貝塚を比較する

 Blog#114で、縄文社会研究会の雛元昌弘氏と「サピエンス全史」を翻訳した柴田裕之君の懇談会に参加して、狩猟と漁労のどちらが縄文時代1万年もの日本列島の生活文化の中心であったかを考えるに、勅使河原彰著の「縄文時代史」Ⅲ章「縄文人の社会」の2節「集落と村落のつながり」が参考になった。シカやイノシシの狩猟活動による八ヶ岳西南麓と、貝や魚の漁労活動による東京湾東岸の貝塚密集地帯を比較して、5000年~3000年前の縄文時代には同様に栄えていたことが記されていた。

 私は八ヶ岳に山荘をもって60余年、これまで前者の縄文遺跡には関心をもって各地を視察してきたが、東京周辺の貝塚に関してはBlog#45(2021.11.24)で記した江戸東京博物館特別展「東京に生きた縄文人」での体験や、2012年出版の「この都市のまほろば」シリーズvol.6の品川区の紹介で、大森貝塚遺跡庭園と1877年にモース博士が大森貝塚を発見して100年、1985年に国の史跡に指定された程度の知識であった。
 千葉の加曽利貝塚が日本最大級の貝塚であり、1971年に北貝塚が、1977年に南貝塚が国の史跡に指定され、2017年には貝塚として唯一、国の特別史跡に指定されたことは全く知らなかった。

 2024年3月24日(日)、8:00amに自宅出発。地下4階の東京駅から総武線で千葉駅へ。タクシーで、自由に出入りできる加曽利貝塚縄文遺跡公園前で10:00am下車。


 公園入り口に国指定史跡と特別史跡の石碑が建つ。早速、北貝塚貝層断面観覧施設と竪穴住居群観覧施設を見て、博物館に入ろうとしたところでボランティアの案内者に出合ったので、ゆっくり説明を聞くことにした。

(左上)国指定史跡 石碑     南貝塚 貝層断面写真
(左下)北貝塚 貝層断面観覧施設           

 特別史跡のパンフレットの園内マップには、『史跡の面積は約15.1haで、世界でも最大規模の貝塚』とあり、『加曽利貝塚は2017年10月、史跡の中でも「学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴」として、貝塚として初めて国の「特別史跡」に指定されました。』
 『加曽利貝塚の地に残された人類の痕跡は、旧石器時代までさかのぼります。大きなムラがつくられたのは縄文時代中期後半(約5,000年前)で、直径約140mで環状の形をした北貝塚が形成され、後期前半(約4,000年前)になると長径約190mで馬蹄形の南貝塚が形成されます。時期の異なる2つの大型の貝塚が連結して「8の字」状に見え、東京湾東岸の大型貝塚群の中で最大の規模を誇ります。その後、貝塚が形成されなくなった晩期中頃(約3,000年前)まで拠点的な集落が営まれ、この地が2,000年もの長い期間にわたり繰り返し利用されてきた特別な土地であることが明らかになっています』とある。

            

左図は、加曽利貝塚全体像。
直径140mでドーナツ形をした北貝塚と、長径約190mで馬蹄形の南貝塚の2つの貝塚が一部かさなって、上空から見ると8字形をした日本最大級の貝塚。             
北貝塚は今から約5000年から4000年前の縄文時代中期~後期、南貝塚は約4000年から3000年前の縄文時代後期~晩期につくられた。 

 ボランティアの語りを引用すると、八ヶ岳山麓で国宝「縄文のビーナス」が発掘された縄文時代中期BC3000年頃に、当貝塚の北貝塚が使われ始め、縄文時代後期BC2000年の「仮面の女神」が発掘された頃に南貝塚が使われ始めたようだ。

関東の貝塚分布図            縄文海進図

     周辺人口は最大25万人と、八ヶ岳山麓の縄文人口と同じ程で、関東地域は遅れてはいるが、八ヶ岳山麓と並ぶ日本有数の人口集積地であったようだ。3000年前頃には八ヶ岳山麓の人口が増加しすぎて、海退と共に関東地方へ流入したことや、阿久遺跡の如き環状列石が見られないのは、この地方には列石が皆無であったためとか。また、南貝塚から出土した貝の大きさや種類に規制された形跡のあることから、乱獲を防止するコミュニティも十分に維持されていたこと等。貝塚の特性で、人骨や犬等の骨の発見で、DNA等、科学的に考古学に寄与するため、縄文時代の生活研究には、当地の発掘はこれから非常に有効で、当地にやってくる多種多様な専門家が増加している由。塩尻の平出遺跡の竪穴住宅を復元した業者が当地の竪穴住居を復元し、その中で実際に火を焚いて土器の使い方を研究したり、子供たちを接待しているボランティアに感心する。

 2時間半もの見学を終えて、出口の所でタクシーGOを呼ぶも応答なし。スマホのマップを見ながら15分、千葉都市モノレールの桜木駅まで歩き、すっかり立派になっていた千葉駅直結のショッピングセンター「ペリエ千葉」のレストランでヤリイカのパスタと白ワインで一息入れて、中央線で中野駅からタクシーで自宅へ。

 縄文社会研究会としては、身近なところの貝塚調査が生活文化の研究に不可欠で、古墳時代の日本人のルーツ探求も、関東地方での発掘調査が益々大切になりそうに実感した一日であった。

Blog#114 ジェレミー・リフキン著・柴田裕之訳「水素エコノミー」(2003年4月、NHK出版)を読んで気付いたこと

 Blog109『サピエンス全史』、110『レジリエンスの時代』でOBの柴田裕之君を紹介し、NPO-AIUEから「まほろば賞」の推薦をするに至った経緯を記したところ、『サピエンス全史』他、ユヴァル・ノア・ハラリの翻訳書をよく読んで、書評を書いている京大OBで、縄文社会研究会の雛元昌弘氏を中心に、中嶋浩三氏と佐土原聡氏の五人で日本文化の世界文明化について話し合う茶会を開催することになった。

 その時に、柴田君が「20年も前の古い翻訳書ですが」と持参してくれた表題の著書を、2、3日後に何気なく読み始めて驚いた。第8章によると、「水素エコノミー」という言葉を最初に使ったのは、GMだった。1970年にGM技術陣が水素を未来のエネルギー源候補としたためであり、30年後の2000年5月には、GMの取締役ロバート・パーセルは『当社の長期ビジョンは、水素エコノミーの実現だ』と語った。

 『「脱炭素化」とは、新しいエネルギー源が登場するたびに燃料中の水素原子に対する炭素原子の割合が減ることを指して科学者が使う言葉だ。人類の歴史のほとんどを通して、主要エネルギー源として利用されてきた薪は、他の燃料と比べて炭素の割合がもっとも大きく、炭素と水素の原子数の割合は10:1だ。化石燃料の中では石炭がいちばん炭素の比率が高く、水素はわずかに1:4だ。つまり、新たなエネルギー源が登場するたびに、二酸化炭素の排出量は減ることになる。ウィーンにある国際応用システム分析研究所のネボイシャ・ナキシャオヴィッチの推定によれば、世界中で消費される一次エネルギーの単位量当たりの炭素排出量は、140年前から毎年0.3%ずつ減少し続けているという。
 もちろん、燃やされる石炭や石油の絶対量は増えているので、二酸化炭素の排出量の合計は増加の一途をたどり、地表付近の気温を上昇させてきた。―略―
 脱炭素化の終着点は水素だ。水素という燃料は炭素原子をひとつも含まない。水素が未来の主要なエネルギー源となれば、人類の誕生以来ずっと続いてきた炭化水素エネルギーの時代は終わりを告げる。』

 本書は2003年の出版である。訳者は「あとがき」で『水素は無尽蔵で、しかも偏在するので、少数の国に独占される心配はない。燃料として使っても、二酸化炭素はいっさい排出しない。小型の燃料電池を一般家庭や店舗、事務所に置いて発電したり、燃料電池車を普及させて駐車中に発電機として使ったりし、その電力を、水素エネルギー・ウェブ(HEW)で共有すれば、需要を満たして余りあるエネルギーが得られるという。ー略ー
 著者も認めているとおり、水素エコノミーに移行するには、インフラの整備をはじめ、手間も暇もお金もかかり、道はけっして平坦ではない。また、将来、水素以外の有力なエネルギー源が浮上するかもしれない。だが、いずれにしても本書を読んで、多くの方が過去と現在を見直し、発想転換のヒントを得て、現状打破に向かうきっかけとしていただければ、こんな幸いなことはない』と述べている。
 そして、著者は第8章で以下のように主張している。
『ほんとうに問題なのは、電気分解に使用する電力を、太陽光や風力、水力、地熱など、炭素原子を含まない再生可能エネルギーを使って生産できるかどうかだ。ワールドウォッチ研究所のセス・ダンは、「太陽光や風力を利用する電気分解は今はまだ高くつく」が、「今後10年でコストは半分になることが見込まれている」事実を引きあいに出す。―略― 再生可能資源から水素を製造する最大の意義は、二酸化炭素が発生しないのはもちろんだが、太陽エネルギーや風力・水力・地熱エネルギーを水素に変換すると、「貯蔵」エネルギーになり、いつでもどこでも濃縮された形で利用できることだ。この点は強調しておかなければならない。再生可能エネルギーに基づく未来社会の実現は、エネルギー貯蔵の媒体として水素を使わなければ、不可能とは言わないまでもかなりむずかしくなる。エネルギーを変換して得られる電気は、すぐ流れでてしまって貯蔵できない。つまり、太陽が照らない、風が吹かない、水が流れない、燃やす化石燃料がない、という事態になれば電力は生産できず、経済活動は停止する。水素利用は、エネルギーを貯蔵して社会に電力供給を絶やさないための、じつに魅力的な方法なのだ。』

 アメリカを代表する文明批評家で、多くのベストセラーを出版している著者が、近年、力を入れてきたのが無尽蔵でクリーンな水素を燃料とする「水素エネルギー」の実現だ。『全世界をつなぐ水素エネルギー・ウェブ(HEW)構想とは? 人類文明史上最大の革命を起こす!』として2003年4月に出版された本書は、イタリアでベストセラーになった。
 日本では、NHK出版に頼まれて柴田君が翻訳したらしいが、余り売れなかったようだ。恥ずかしながら、私も本書の存在を知らなかった。しかし、本書の随処に記されているのは、HEW時代に至る1970年のホップから2000年へのステップ、時代と共にジャンプとして2030年までに実現するであろう「水素エコノミー時代」への正確な予告である。翻訳者もまた、それを裏付ける記述をしていることは前述の如くである。

 著者や訳者の予言どおりに、日本でも2003年以降、20余年間に再生可能電力による電解水素が、カーボンプライシングを支払うことによる化石燃料よりも確実に安価な時代が見え始め、2030年には達成可能と同時に、燃料電池やソーラー発電、CGS等の普及とイノベーションで、脱炭素化に寄与するGX推進の切り札になっている。

 本書の如き名著・名訳書は、古くなる程に価値が出ると実感。20年前の先進書で、20年後を予測して適中させる本書は、2030年代には本格的に「水素エコノミー」時代が来ることを教えてくれた作品だ。これこそ、(一社)都市環境エネルギー協会で今年設置する予定の「国内外からの水素等サプライチェーン構築・利活用調査委員会」の必読書としたい。

 水素に関しては、日本は先進国と言われてきたが、本書を読んで、脱炭素と水素戦略に関しては、明らかに途上国であることを思い知らされた。EXPO‘25やオセアニア、中近東調査団の派遣で何となく分かっていたことではあったが。

(前列左から)柴田・雛元/       ジェレミー・リフキン著・柴田裕之訳
(後列左から)中嶋・尾島・佐土原各氏      「水素エコノミー」(2003.4)

 2009~2011年に、私自身が参加した筑波研究学園都市での「水素エネルギー活用に向けた都市システム技術の開発」の成果を発表した2011年3月11日、東日本大震災の発生で、その後の日本は国土強靱化に追われていたこと。また、2016年5月、DHC協会からの「EUのスマートエネルギー視察団」に参加して見学したのは、2003年2月にイタリアのヴェネツアに設立されたHydrogen Parkこそ、世界発の商用水素発電所の実証モデルで、イタリアは水素の先進国を目指していたことを考えると、2003年の本書がアメリカ以外で翻訳出版され、イタリアでベストセラーになったことも理解されたのである。

Blog#113 芥川賞の九段理恵著「東京都同情塔」を読んで

 2024年2月12日(月)、庭掃除で腰を痛めて早く寝たせいで、午前2時頃に目覚めてしまった。枕元の文藝春秋3月号に芥川賞発表とあったが、最近の芥川賞作はとにかく面白くない、というより読後感が気持ち悪い程。毎回、もう読むまいと思いながら、今年もついに読み始めてしまった。

 冒頭の「バベルの塔の再現。シンパシータワートーキョーの建設は、やがて我々の言葉を乱し、世界をばらばらにする」から始まって、主人公が女性建築家で、ザハ・ハディドの新国立競技場のコンペの話は、久々に建築家を主人公にした小説である。寝床での不自然な照明と転々とした姿勢での読書は、文章そのままに支離滅裂に脳裏をかすめ、様々な印象と刺激があって、何故か過去の思いが去来する。

 1957年、私が建築家を志して早大建築学科に入学した時のベストセラー小説が原田康子の「挽歌」で、建築家を主人公にした大人の恋愛小説であった。当時はN.Y.の摩天楼・エンパイア・ステートに憧れての建築家修業であったから、この小説がどれ程か人生を豊かにしてくれたことか。

 バブル期の1986年に出版した「東京21世紀の構図」(NHKカラーブックス)の執筆中は、九段さんの妄想とも瞑想とも幻想とすら思える小説の内容そのままの心境のようであった。私のイメージする「未来の東京像」をそのまま画像にしてくれた画家の藪野正樹・健兄弟や長谷見雄二・伊藤寛氏等のカラースケッチ画を出版したもので、今もって恥ずかしい著書である。

 1970年頃はサンシャイン60の設計顧問をしていたことから、サンシャイン60の超高層建築を戦艦武蔵に例えて、その使い勝手と安全運転を指南するため、ポプラ社から1992年に「超高層ビルと未来都市」を出版した。

 日本全体が産官学民挙げてのバブル期を迎えた時代に、1000メートルビル開発に取り組んでいる状況を出版してくれたのが講談社で、1997年に「千メートルビルを建てる」を出版。この本では、1000メートルから3000メートルビルに挑戦していたゼネコン各社の競演を見ながら、1万メートルの「東京バベルタワー」を提案した。その当時を思い出し、突然、R.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」を夜半に大きな音で聴くことにした。

 『1958年、日本電波塔の愛称に「東京タワー」が選ばれたのは、名称審査会の中に日本語を忌避した日本人がいたからだ。一般公募でもっとも多くの支援を集めていたのは「昭和塔」だった。次いで「日本塔」「平和塔」「富士塔」、応募数第13位の「東京タワー」に決まったのは、ある審査員の鶴の一声によるものだった。』

 『ザハ・ハディドが東京に遺した流線型の巨大な創造物からは、何か特別な波動みたいなものを感じずにいられない。たとえ信仰心など持ち合わせていなくても、文京区の丹下健三設計のカテドラルを見れば自然と神聖な思いが湧き上がってくるように、その屋根はある種、崇高で神秘なエネルギーを私にもたらしていた。』

 『新国立競技場の建設が白紙撤回となる可能性が報じられたのは、ザハ案がコンペで最優秀賞に選ばれ、三年ほど経ってからのことだ。ザハ案の総工費の最終的な見積りが「三千億円」と報道されてからの、数カ月にわたるバッシング。反対運動。不毛な責任の押し付け合い。』

 『何かしら? プリズン・オフィサー?は、直訳すぎるし・・・・タワー・・・・タワースタッフ? シンパシー・・・』

 この文章を読んでいた時、ふいに「サンシャイン60」の設計顧問をしていた当時を思い出した。巣鴨プリズン跡地に60万㎡の超高層やホテルを建設するに当たっての地鎮祭で、何度もお祓いの儀式が行われたことを。

 「東京都同情塔」の住人は元詐欺師の女性で、『時折雑誌から目を離し、勝ち誇ったような表情で新宿御苑に集う塔外の人々を見下ろしていた。彼女を眺めていると、ホモ・ミゼラビリスの生活は、新宿のタワーマンションで昼間からくつろぐセレブの生活と、一体何が違うのだろう?と疑問が浮かんだ。』

 『国立競技場と東京都同情塔が、同時にライトアップされる。そうなるように設計したのだし、それこそ私がコンペを勝ちとった理由なのだから当然だけれど、二つの巨大建築は完全に調和し、親密な話し合いをしているかのようだ。』

 『ギザのピラミッドだって、パルテノン神殿だって、別に誰もが納得できる真っ当な理由によって建てられた建築ではない。本当に存在するかどうかもわからない神々のために、なぜ膨大な時間と資源を費やさなくてはいけないのかと、訝しんだ人々もいただろう。』

 以上が寝床で傍線を引きながら読んでいた九段理恵の著作からの引用で、気付いた時には音楽が終わっていた。

 今は30代の女性建築家が10年程N.Y.で修行した後に独立して、コンペとはいえ、超高層建築を設計することが不思議でない時代である。確かに、富田玲子や妹島和世氏に続いて、乾久美子や永山裕子、杉浦久子や富永美保氏等が活躍する昨今、丹下健三や隈研吾等、有名建築家の書いた本を100冊も読んだ上、国立競技場や神宮外苑、新宿御苑や代々木公園を歩いて、毎日何時間も音楽を聴きながら書いたという小説だけに、不思議と分かり易く、リズミカルで信憑性すら感じられる。

 彼女が生まれた30年以上も昔の話になるが、10km直径の山手線の外周に沿って300m高さまでを首都圏に住む3400万人を入居可能な建物として「東京バベルタワー」を設計するに当たって、そのイメージを藪野正樹さんに何回も大きな画用紙にスケッチしてもらい、それを見ながら中国からの留学生達がバルサを切り、1万分の1の模型を作成していた。少なくとも人間の生活する空間は太陽の光が入って、風の通る空間にするためには、図のような形態にせざるを得なかった。

文藝春秋(2024年3月号)           東京バベルタワー模型(1992年作成)
                       (1万メートルタワー 3,400万人居住)

 2012年のロンドンオリンピックで17,000人の観客収容の建物を、終了後に3,800人収容に減築したザハ・ハディドのアクアティクス・センターは神々しいまでに美しかった。
 ライトアップされたザハの設計した国立競技場と彼女の設計した刑務所用途のシンパシータワートーキョー(東京都同情塔)が、設計者のコンクリート塑像と並立する。そんな未来都市のイメージを30代の女性建築家が何故描くことが出来たのか、さらには何故、こんな作品が芥川賞なのかが分からぬまま夜が明けてしまった。

Blog#112 福岡天神ビッグバン地区のBCDカーボンニュートラル準備委員会に参加して

 2024年2月9日(金)、羽田空港11:25発のANA251便で福岡空港へ。三連休直前とあってフライトは超満員。子供連れが多く、賑やかなこと。

エルガーラホール

 福岡空港は都心に近い上、地下鉄との連携がよく、会場の天神まで30分程で到着。委員会が始まるまでの一時間、先ずは会場のTPKエルガーラホールの場所を確認して、天神地下街と渡辺通りの西鉄福岡天神駅、三越や大丸デパート内を歩き、中央警察署や福岡市役所を見て、天神南駅から天神中央公園、アクロス福岡などを撮影。改めて、道路の如き立体空間を身体で認識する。午後3時というにレストランやカフェは超満員。すっかり歩き疲れて、会場へ。

 準備委員会というに、依田委員長他、九州大学の住吉大輔教授、日本設計の柳井崇常務、日建設計総合研究所の湯沢秀樹氏、三菱地所設計の佐藤博樹氏、福岡市の方々や西部ガスの髙﨑敬介常務、西部ガステクノソリューションの今給黎督社長等、会場で20人、webで4人参加。当地区のBCDやカーボンニュートラルを考えるに当たっての話し合いは十分に迫力があって、終了時間を20分以上延長。

 6:00~8:00pm、イタリアンレストラン「サンミケーレ」での懇親会の話も面白い。九州ならではの酒も肴も美味しく、楽しい一刻。

 ホテルは博多駅前のANAクラウンプラザホテル福岡。TVで日本三景の魚釣りを見ているうち、呼子のイカ刺しが食べたくなる。マッサージの方に昔、何度か行ったことのある「河庄」のことなど聞くと、「稚加榮」という海鮮料理店が毎日行列が出来る程の人気という。

 翌10日(土)10:00~尾島研OB会に集まってもらった佐土原・福田・高・堀君等に尋ねると、有名なことは知っているが行ったことはないという。予約が出来ないので、11:10にタクシーで行くことにした。

 何はともあれ、①(一社)AIUEの設立は既に手続き中で、2023年6月に登記。2024年6月には一期決算の段取りという。②NPO-AIUEの支部構成と③2024年10月12~14日のDHC協会シンポジュームや出版記念会、米寿のパーティや第21回のAIUE国際会議に九州の支援等を依頼。2024年9月10~13日、京都で開催予定の3ヶ国の建築学会への論文提出も要請する。

稚加榮の行列

 11:20am、「稚加榮」は本当に長い行列であったが、予測通り10分程で入店。
 ランチ定食は2000円の割には豪華。佐賀の銘酒に生け簀からのイカ刺しは実に美味しかった。富山のきときと亭の3倍程大きな店で、200人は入店できる巨大なレストランであった。
 中国は春節とあって、高君は明日杭州へ帰省する由。写真のように十分満足しての昼食後、佐土原君と一緒に空港へ。お土産は稚加榮の辛子明太子である。

左奥から福田・高・堀、佐土原・筆者(2024.2.10 稚加榮)

 福岡空港15:15発のANA258便も超満員、20分遅れで羽田空港着。久し振りモノレールで浜松町経由にしたのは、浜松町駅のWTC超高層ビルの建て替え状況を見るためであった。羽田から大田区・品川区・港区の海辺の景観とカーボンニュートラル時代の水素受け入れの可能性を見るためでもあったが、既に5時を過ぎて真っ暗。2030年対策としてのBCDとカーボンニュートラルのインフラ整備は、港区・中央区・豊島区に焦点を絞ることが肝心。『百聞は一見にしかず』である。2023年2月から一年ぶりの九州の旅であった。

 中国の春節と三連休が重なった交通難さえなければ、九州大学の水素関連施設や新幹線での長崎市新庁舎、熊本のTSMC工場や熊本城の修復も見たかったが、次回に期待することにした。

Blog#111 2024年正月の熱海家族旅行で「江之浦測候所」を堪能する

 1月25日(木)、品川から東海道新幹線で熱海着。快晴とあって、駅前の賑わいはなかなか。11時半開店の「和食処こばやし」で昼食。開店10分前には10人以上の行列。4人とも自分の好きな品々、共通は金目の煮付け。

 熱海パールスターホテルは3時がチェックインとあって、熱川駅へ。伊東の山荘を一昨年処分した費用を毎年の家族旅行費に当てることになったのだ。車窓から眺める伊豆高原駅の山桃の大木や鉄道沿線の風景がもう懐かしく思える。

 熱川のバナナワニ園は1958年開園。熱い温泉が噴出する伊豆半島の名所で、1970年代に伊豆高原の山荘を建設するにあたって、当地から温泉を引いている泉源をみるために来たことがあり、バナナやワニの温室、自噴する駅前からの風景に感動した。
 その頃から50余年、全く変わらぬ駅前の温泉や自噴する大量の湯櫓からモクモクと湯けむりを上げている風景、立派になった熱川バナナワニ園は何か所にも分散している出入口に迷いながら、レッサーパンダやワニ、熱帯魚、カメ、バナナやパパイヤ、ブーゲンビリヤ、多種多様なラン等々、2時間余すっかり癒された楽しい時間。

 熱海から熱川まで1時間の普通車はリゾート21「キンメ電車」で、実に快適であったが、帰途の踊り子号もなかなかの乗り心地であった。

 4時、ホテルにチェックイン。なんと「お宮の松」の真正面だ。バブル景気以降の熱海不況下、つるやホテルが外資に売却され、その後解体。2022年9月に新しくリゾートホテル「熱海パールスターホテル」として開業。木の匂いのする、天井の高い、なかなかのホテル各室である。夕食や温泉からの景観もよく、ベランダからの御来光は格別であった。

「お宮の松」と銅像真前のホテルパールスター2Fのベランダより御来光

 チェックアウトは正午とあってゆっくり休んで、10FLの温泉に入浴。予約に苦労した杉本博司構想の江之浦測候所へ。熱海からタクシーで直行する。

 オーナーの杉本氏は1948年東京生まれ。1970年に渡米してN.Y.を中心に写真・彫刻・建築・造園・料理など、アートと歴史、東洋と西洋文化の橋渡し、2008年には建築設計事務所開設。2017年に文化功労者。昨年、森財団の講演で聴いた考え方をベースにして、世界中から迫力あるアートを収集した成果を小田原市江之浦地区の箱根外輪山を背にした相模湾を借景に、ギャラリー棟、石舞台、茶室、庭園、門などを配置。造園計画は平安末期の「作庭記」を原典に配置。

 「江之浦測候所」と命名したのは『悠久の昔、古代人が意識を持って、まずした事は、天空のうちにある自身の場を確認する作業であった。そしてそれがアートの起源でもあった。 新たなる命が再生される冬至、重要な折り返し点の夏至、通過点である春分と秋分。天空を測候する事にもう一度立ち戻ってみる、そこにこそかすかな未来へと通ずる糸口が開いているように私は思う。杉本博司』

 「夏至光遙拝100メートルギャラリー」や冬至光遥拝隧道など、建築的には実に見事な空間認識装置である。古墳時代の石像鳥居、千利休作「待庵」の本歌取りした茶室「雨聴天(うちょうてん)」、根府川石の浮橋、天平時代の東大寺七重塔礎石等々。十分に刺激的な個人収集博物館であった。70代の杉本氏が100才迄活躍すれば、どれ程この施設も充実するか、楽しみである。

江之浦測候所 夏至光遙拝100メートルギャラリー   冬至光遥拝隧道     

 帰途は路線バスの停車場から小田原へ出て、ロマンスカーで5時過ぎ新宿着。

Blog#110 名著の名翻訳者として柴田裕之君をNPO-AIUE「まほろば賞」に推薦するに当たって

 2024年1月18日(木)、(一社)都市環境エネルギー協会で、佐土原聡君から、尾島研OBの柴田裕之君がジェレミー・リフキン著「レジリエンスの時代」(2023.9.30 集英社)を翻訳したのですが参考になりますと推薦してくれた。

 早大で50余年前に都市環境工学講座を創設し、多くの学生たちを育てるに当たってのデシプリンとして、熱力学の法則とエントロピー論があり、近代建築や都市にあっては、生態系や災害時のレジリエンスをキーワードにしていたが、この説明はなかなかに難しかった。そんな大切なキーワードを実に分かりやすく解釈し、その本来の意味や意義についても本書は実に上手に翻訳していることに感動する。佐土原聡君の書評は「本文以上に、訳者あとがきが参考になるからすごいんです!!是非読んでやってください」であった。
 考えるまでもなく、60代の現役佳境の弟子が、著者の本の要旨を上手に表現するのは当然であることに気づき、柴田君の訳者あとがきから私の共鳴した部分を要約させてもらった。

訳者あとがきの要約:

①ジェレミー・リフキン著「レジリエンスの時代」

 私たちは「進歩の時代」から「レジリエンスの時代」へ移行しつつある。進歩に伴う弊害があまりに多過ぎるためだ。自然界からの果てしない収奪が地球温暖化や生態系の崩壊をもたらした。「進歩の考え」から「レジリエンスに満ちた適応と共存」のパラダイムシフトが必要。そのためには第一に、(IoT)を形成する。第二に、人類の適応力は予測しがたい未来にも発揮される筈。第三は、私たちが持っている「共感能力」すなわち「生命愛」、第四は、特に若い世代の「我参加す、故に我あり」で、著者には「進歩」の名の下に地球環境を破壊する深刻な実情を危惧し、その対策としての「レジリエンスの時代」を願う切迫感がある。(柴田裕之 「訳者あとがき」からの抜粋・要約)

 本書と共に、Y.N.ハラリ著・柴田裕之訳「緊急提言パンデミック」(2020年8月)の翻訳も読んで、NPO-AIUEで「アフターコロナ時代の都市環境」について論文募集し、3人に「まほろば賞」を贈呈したことから、柴田君の訳した本書の成果に対し、2024年に「まほろば賞」を贈りたいと考えた。
 実は、Blog109に、Y.N.ハラリ著・柴田裕之訳「サピエンス全史(上下)」についてを読んでを書いた時、柴田君がOBであることを気付かなかった次第。改めて柴田君の関連翻訳書をamazonから取り寄せ、以下に訳者あとがきから抜粋・要約して記した。

②Y.N.ハラリ著「緊急提言パンデミック」(2020.10. 河出書房新社)

緊急提言パンデミック
(河出書房新社、2020.10.20)

 本書は世界的ベストセラーになった「サピエンス全史」「ホモ・デウス」「21Lessons」三部作の著者Y.N.ハラリが、人類が新型コロナのパンデミックを迎えるなかで緊急に発表した見解の書で、日本オリジナル版だ。「著者はいつもながら物事を単体でとらえるよりも、むしろ広い視野を保ちながら大きな歴史の文脈の中で考察する。先ず、過去を振り返って、これが初めての感染症危機でないことを思い出させ、(人類はこのパンデミックを生き延びます)とあっさり言い切り、無用の不安を払拭するとともに、(眼前の脅威をどう克服するかに加えて嵐が過ぎた後に、どのような世界に暮らすことになるかについても自問する必要がある)」と私たちの目を未来へ向かわせる。
 世界有数の監視国家イスラエルに暮らす著者は、ネタニヤフ首相が感染防止を理由に議会の閉会を命じようとしたときに「これは独裁だ」と抗議した。著者が民主的体制を信頼していることが分かる。(2020.8. 柴田裕之「訳者あとがき」からの抜粋・要約)

③Y.N.ハラリ著「サピエンス全史」(2023.11.20 河出書房新社)世界2500万部

 本書は30ケ国以上で刊行されて世界的ベストセラーとなる。「取るに足らない動物」というのは、私たち現生人類にほかならない。その私たちが食物連鎖の頂点に立ち、万物の霊長を自称し、自らを「ホモ・サピエンス(賢いヒト)」と名付け、地球を支配するに至ったか? それは見知らぬ者同士が協力し、柔軟に物事に対処する能力をサピエンスだけが身につけたからだ。約7万年前の「認知革命」を経て「共同主観的」な想像世界に暮らせるようになって、アフリカ大陸から外へ流出した。狩猟採集民として世界中で定住し、豊かな暮らしを得たサピエンスは、1万年以上前に「農業革命」を迎えて爆発的に増加し、統合への道を歩む。貨幣と帝国と宗教という3つの普遍的な秩序を得て、500年前の「科学革命」、200年前の「産業革命」を経て、今日に至る。
 最終章で、『私たちが直面している真の疑問は、(私たちは何になりたいのか?)ではなく、(私たちは何を望みたいのか?)かもしれない。歴史を研究するのは、私たちの前には想像しているよりもずっとずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。』(2016.6 柴田裕之「訳者あとがき」からの抜粋・要約)

サピエンス全史(上下)
(河出文庫、2023.11.20)

③Y.N.ハラリ著「ホモ・デウス上下」(2022.9 河出書房新社)

 著者序文より『未来について書くというのは、一筋縄ではいかない。本書「ホモ・デウス(神)」では旧来の神話や宗教やイデオロギーが画期的テクノロジーの数々と結びついているときに何が起こりうるかを考えた。世界中の科学者が協力してワクチンを開発、パンデミックを止めた。だが政治家はグローバルなリーダーシップを発揮せず、プーチンは邪魔立てする者などいないとウクライナ侵攻に乗り出した。』(2022.4.27 Y.N.ハラリ)
 「サピエンス全史』では認知革命・農業革命・科学革命を転機とし、虚構や幸福をはじめとする過去を振り返り、私たちの固定観念を揺るがすサピエンスの終焉と超人誕生筋書を提示した。
 それを受け、本作はその未来を描く。サピエンスは神々のような力を持つホモ・デウスになることを目指すも、墓穴を掘る。バベルの塔はフィクションであるに対して、本書は歴史的考察である。(2018.7 柴田裕之「訳者あとがき」からの抜粋・要約)

ホモ・デウス(上下)
(河出文庫、2022.9.30)

④Y.N.ハラリ著「21 Lessons 」(2021.11.8. 河出書房新社)

21 Lessons
(河出文庫、2021.11.20)

 著者は「サピエンス全史」ではヒトが地球の支配者となる過程を、「ホモ・デウス」では人間はいずれ神となる可能性や最終的にどのような運命を辿るかについて考察した。
 本書は『今、ここ』にズームインする。各章のテーマは、先送りされた歴史の終わり・雇用・自由・平等等のテクノロジー面の難題、コミュニティ・文明・ナショナリズム・宗教・移民の政治面の課題、テロ・戦争・謙虚さ・神・世俗主義の絶望と希望、無知・正義・フェイクニュース・S.F.の真実、教育、意味、瞑想などのレジリエンス)
 11章の「人間の愚かさを決して過小評価してはならない」については、本書を読んでくださる余裕のある啓発者に共感と行動を期待している。(2019.8. 柴田裕之「訳者あとがき」からの抜粋・要約)