
『1945年8月6日、「リトルボーイ」という暗号名の原子爆弾が爆撃機「エノラ・ゲイ」から投下された――京都ではなく広島の上空で。14万人もの人が亡くなり、その大半が民間人だった。3日後の8月9日、爆撃機「ボックスカー」が「ファットマン」を長崎に落とし、ゾッとするような死亡者数におよそ8万人を加えた。(中略)
2発目の原爆は、小倉に落とされることになっていた。だが、B-29爆撃機が小倉に近づくと、雲のせいで地表が見えにくくなった。(中略)視界不良のまま目標を外すより、第2目標の長崎を攻撃することにした。』
前者は、1926年10月30日、H.L.スティムソン夫妻が京都の都ホテルに泊まって、京都の寺院や庭園の美しさに感動し、この古都を守るためにトルーマン大統領に二度も直訴した結果であり、「ある夫妻の20年近く前に出掛けた旅行」が1つの都市を救い、別の都市が破壊された。後者は雲のせいであり、1つの都市が爆撃を免れ、別の都市が攻撃を受けた。「京都と小倉」が「広島と長崎」の代わりに救われたという物語は聞いてはいたが、本書で初めてその真相を知った。
2025年8月27日、東京のみならず異常な暑さが続く毎日、本書が柴田君から送られ、表紙を見ると『人生は自分次第だなんて大嘘である-カオス理論や進化生物学、歴史、哲学など、多様な知見を縦横無尽に渉猟し、世界の成り立ちや人生について考えさせる壮大かつ感動的な書-』とあって、真っ黒の表紙とその帯を見る限り、この暑さの中、とてもすぐに読む気にならなかった。
しかし第1章の「はじめに」を読みはじめると、最初から上述の如き興味津々の書き出しである。世の中はすべて「偶然」の積み重ねに支配されており、これまで「運命」と考えていたことは、実はすべてが偶然の積み重なった結果であること。然らば「偶然」とはと、「第2章 カオス理論が教えてくれること」を読み進むと、私たちの毎日の生活はカオスの世界にあり、「第3章 万事が理由があって起こるわけでない」ことが分かった。さらに「第4章では、今起こっていることを理解しているのは脳であるが、その脳がまた信用できない」という。「第5章では、そんな人間に制御や予測ができるはずがない」という。「人間社会の複雑系が戦争するに至る」に及んでは、読み進めることが苦痛になって、一眠りすることにした。
翌早朝、半分以上読破したかと思っていたこの難解な本を開くと、なんとまだ1/3。
「第6章 ヘラクレイトスの不確実性の世界」で確率には限界があること。私自身、統計学が趣味で、学生時代から『統計学辞典』(東洋経済新報社)を座右の書にしていたことを思い出し、それが自信過剰の人間を生むとあった。教授になったばかりの頃、よく生意気な奴と言われていたことから、本書を再び読み始めることにした。
「IMF(国際通貨基金)は年に二度見通しを発表する」が、「220回の景気後退のうち、4月の見通しが当たったことはたったの一度もなかった。」「それとは対照的に、人類が2004年に打ち上げた宇宙船は10年間飛び続け、時速13万5000キロメートルほどで動いている幅4キロメートルの彗星に軽着陸した。完璧だった。」この文章は社会科学と理工学の違いであることは明らかで、2003年、私が日本学術会議で文系の学者との論争中、「文系には真実はたくさんあることに比し、理工系では真理は一つだが」という「真理」と「真実」の違いを確認したことから、本章の内容が十分に理解できた。
「第7章 物語を語る動物」では、いま中東で毎日、何千人もの生命が失われている(イスラエルとハマスの戦争)理解できない惨状について、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖書やコーランの「物語」がその原因とすれば、解釈次第で聖戦(ジハード)となり、この悲惨な紛争や難民を生む原因になること。本章ではそれをわかりやく解説してくれているように思えた。
「第8章 地球の籤引き」では、久し振り「籤引き」の字を見て、限りなき「懐かしさ」を憶えたのは、「籤引き」の漢字が昔、町中にあふれていたからではなかろうか。その上「宝籤」ならぬ「地球の籤引き」というタイトルが妙に気に入った。地球上に住んでいる人間たちは地質や地理で「運命や進路が決まったり変わったりした」という。種や政治家の勝敗も「経路依存性」という概念が左右し、それが「人間時空偶発性」によるという。「時間・空間・人間」という「間の理論」である“Space module”は私の研究基盤で、一言あるも、長くなるので略したい。
「第9章 誰もがチョウのように」では、人生に「もし(If・仮に)という仮説が許されれば、誰もが世界を変えることが出来る」という本章はよく理解できた。
「第10章の私たちの人生を支配する時計と暦」タイミングが運命を左右した飛行機事故ではよく聞く物語である。
「第11章 計量化と馬鹿げた方程式」でもまた、社会科学と自然科学の予測についての範例である。人間社会を理解し予測するよりも、理工分野での科学の予測は易しいことについては、すでに第5章で記した。
「第12章 自由意志は世界を変えられるのか?」の答えは6通りあり、「ならない」が3通り、「なる」が3通り。また、1.決定論は正しい、2.世界は非決定論的だが、「それは量子の奇妙さだけに起因する」ということを本書ではじめて知ったことで、自然科学における「真理は一つという決定論は、真実は無限という論同様に疑問を持たせた」ことである。
「第13章 私たちのすることのいっさいが大切な理由」として、この世界における不確実性こそが人間生命のもつ尊厳ともいうべきもの。自由意志の存在がカオスの世界にあって、多くの人にとって、だからこそ「偶然」によってつくられるから、人生は豊かで価値がある。という総論に至って、本当にホッとした。
著者の途方もないたとえ話を実に正確に、忍耐強く、日本語にしてくれた柴田裕之君の労作に、今度も心より感謝して。
20025年9月2日に米寿を迎えるに当たって、人生観であった運命論者を一変させて、「偶然」の積み重ねによってこれからの余生が決まることを教えてくれたことによって、人生を明るく軽くしてくれた本書に、改めて脱帽!!
人生百年時代を生きるOB・OGたちにも一読を薦める次第である。