Blog#125 第21回AIUE国際シンポ「都市環境学が開くアジアの未来」(2024.10.12 建築会館ホール)

 早大建築学科の尾島研究室OB達によって、2001年7月、北九州市で創立したアジア都市環境学会の国際シンポジウムが200余人も参加し、毎年のように開催されて21回。いつかレフリー論文の対象にされる程に実績を重ねてきた。
 第20回のソウル大会(Blog#97)も盛大であったが、今回は日本建築学会で、2008年1月の大隈講堂での古希の最終講義に続き、「都市環境学を開く」(2024.10.4 鹿島出版会)を教材に、140名が出席して1時間余の講義に続いて、OBで大学で教職をしていた10人との意見交流会となった。

「都市環境学を開く」(2024.10 鹿島出版会)
「都市環境学が開くアジアの未来(論文集)」(2024.10.12)

 冒頭、どうせ諸君はこの教材を持ち帰っても開かないだろうからと、先ずは第1章「地球環境と都市環境学」を開いて欲しい。その扉の写真は家内が撮影した自宅の紅梅と白梅である。「熱くなる大都市」は、1975年に教授になったばかりの頃に出版したが、この本を読んで、世界的なヒートアイランドや地球温暖化対策の研究者が出現したこと(10p)。さらに、都市環境学を大学院の講座に創設した年代とその歴史的経過を13pの図で解説。究極の結論として、原子力発電所の使用済み核廃棄物の処理処分に当たって、神頼みも良しとする分別も必要なこと。

 第2章「大都市の再生」では、東京の都市環境学で最も大切な自然災害対策には、建築学会のみの力では不足として、日本学術会議で全分野の研究者の知恵を集めて、時の総理大臣(小泉純一郎)に勧告したが、『重く受け止める』とされながら、未だに学者と政治は直結していない。しかし語り続ける必要があること。

 「安心」に関しては、ロイズ等の再保険会社のシティを有するロンドンを参考に、「活力」は熱くなる大都市のモデルとしてニューヨークを例に、そのヒートアイランド対策としての「風の道」は、パークアベニューのセントラルステーションの前に建つパンナムビル(現メットライフビル 54p)を反面教師として、東京駅を低層に、八重洲口の大丸東京店を二分して、八重洲通りから行幸通りに「風の道」を開いたこと。
 同様に、大阪は太閤下水やお城への通り道である南北通りを活かして、御堂筋や船場地区の再開発を職住近接することに加えて、インフラは筋でなく、通りを軸に再開発する必要性と、水の都としての大阪の再生について研究すること。

 第3章「レガシーをつくる」では、姫路城を扉にして、私達の生活は死者ならぬ先達が築いた環境の中での生活であることを考えれば、すべては遺産である都市が生存基盤と考え、その都市のまほろばを求めて、日本の全都市を歩いた。伝統ある日本の諸都市にはクールジャパンとしてのアナログ文化がベースにあること。然るに、近代都市文明は、DX化による都市間競争下、江戸時代の大名達の参勤交代ならぬ日本人の全てが大都市と地方の二地域に生活基盤をもつことを考えたい。何故なら、日本文明を世界文明に列するためには、限界集落や空き家対策が不可欠である。私自身、八ヶ岳山荘や富山の自宅を再活用で、この問題を解決したい。

 第4章の「DXとエネルギー」では、いま取り組んでいるBIMの普及やGXとしてのカーボンニュートラル対策を参照して欲しい。

 第5章の「都市環境学を開く」では、ドイツ帝国のビスマルク宰相の名言『賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ』を引用して、私の「都市環境学」は全て自身の体験に学んでの内容であったことから、諸君には愚者の「都市環境学へ」を導いたことを反省して、これまでの私の都市環境学を抜本見直し、諸君は歴史に学んで、アジアの、そして世界の未来を開く都市環境学を学んで欲しいと願って、丁度60分、ご静聴感謝する。

 終了後、10人の先生方への質問として
1.台湾の王世燁氏「北投市からのコミュニティ大学を発展させているが、何故、北投が拠点になったか」
2.中国の尹軍氏「中国の都市環境学に更なるAIの活用が必要ありについて、中国にこれ以上のAIは何故必要なのか」
3.横浜国大の佐土原聡氏「Biosphere内での生活圏の完結は可能だろうか」
4.青山学院大の黒岩健一郎氏「価値観の転換とライフスタイルの変化で二地域居住制度を可能にするマーケティングの活用を期待する」
5.早大の高口洋人氏「ウェルビーイングの可視化に期待するのは不可能なのか」
6.近畿大の依田浩敏氏「地方に根づいた優しい子供文化の創造は、飯塚市特有の文化によるのではないか」
7.東北大の持田灯氏「樹木の蒸発散量を定量化(実測)するのは、私自身のやり残したテーマで、ミティゲーションに不可欠で継続して欲しい」
8.芝浦工大の鈴木俊治氏「ウォーカビリティこそ、これからのまちづくりに不可欠で、私の郷里・富山を支援して欲しい」

 以上、私の聞きたいことを簡単に述べただけで時間切れとなり、パネリストのみならず、会場の方々には本当に失礼してしまった。
 一緒に学んだ学生達との至福な一刻に感謝して。

Blog#124 石井翔大著「恣意と必然の建築 大江宏の作品と思想」(2023.3.20、鹿島出版会)を読んで

 Blog#117でピュリツァー賞の建築評論家ポール・ゴールドバーガーによる初の評伝『建築という芸術 評伝フランク・ゲーリー』が鹿島出版会から出されたのを読んで、こんな評伝を日本の建築家たちにも期待したいと書いた。
 その甲斐あってか、2024年9月18日、藤本貴子さんが法政大学建築学科の創立者の一人、大江宏研究のため、陣内秀信・小堀哲夫・種田元晴氏と共に石井翔大さんを伴って来宅。石井さんから『恣意と必然の建築 大江宏の作品と思想』なる著書を手渡された。

(2023.3 鹿島出版会)

 手元に「建築を教える者と学ぶ者」(1980、鹿島出版会)、「建築学大系(1)概論」(1982、彰国社)、「大江宏=歴史意匠論」(1984、大江宏の会)、「21世紀建築のシナリオ 木から教えられてつくる」(1985、NHK出版会)、日本建築画像大系ビデオ(1985、岩波映画製作所)等と共に、石井翔大著の「大江宏の作品と思想」があり、懇談中に一見して、これはすごい本だと思って開くと、大江作品を全て見て歩いた上、現地でヒアリングしての本当の大江宏研究者の労作であると分かった。本書は、ゴールドバーグ並の労作であり、大江宏の生い立ちや作品の質・量・人格・見識などの面で、大江宏はフランク・ゲーリー並のすごい建築家であることも理解できた。

 当日は、日本の近代建築教育の創始者たちが、如何に偉くて、立派な反面、面白い人たちであったの論は、あまりに楽しく、私としたことがすっかり陣内ペースに乗せられ、その上、陣内先生持参のイタリアの上等な赤ワインをその場で開栓した結果、約束の2時~4時が6時まで、なんと4時間もの懇談会になった(写真)。

後列:石井翔大 種田元晴 藤本貴子
前列:小堀哲夫 陣内秀信 尾島  

 取り急ぎ、多忙な陣内先生や小堀先生のご来宅を感謝し、Blog#117、#123のご一読を願う次第。 

Blog#123 バーツラフ・シュミル著・柴田裕之訳「世界の本当の仕組み」(2024.9.5、草思社)を読んで

 

 2024年9月、OBの柴田裕之(しばた やすし)君が10月に「MAHOROBA賞」を受賞することになったが、その推薦人の佐土原聡君から、彼がまた大変な訳書を出版したと聞き、当人から贈られた書を読むことになった。

 研究者がテーマを選び、探究するに当たっては、先ずは、そのテーマの「本当の仕組みや仕掛け」を知ることが大切なことを繰り返し教えてくれたのが、早稲田大学建築学科時代の3年先輩で、私の郷里・富山県の出身でもあった古田敏雄氏であった。

(2024.9.5 草思社) 

 彼は卒業して清水建設に入社、間もなくカナダのマニトバ大学に留学した。当時はMITやハーバード、イエールかUCLA等への留学が人気の大学であった。然るに、日本ではあまり知られていないカナダの大学へ留学するのかと聞いたら、彼は「本当の近代建築を学ぶのはマニトバ大学の建築学部しかないのだ!!」と啖呵を切られたことを今も鮮明に覚えている。

 この先輩は、学生時代から物知りで、理屈っぽくて、本質論が大好き、とにかく説明し始めたら止まらない癖があった。その彼は、清水建設の設計本部長となり、専務取締役となった後も、よく先輩として面倒をみてくれた。彼の親切な妹さんも建築家になって、郷里の富山で活躍していたこともあって、1990年代、清水建設の初代社長の清水喜助氏の出身地でもあったことから、日本建築様式の本当の技術を継承してゆくには、宮大工の職人学校を創ることしかないと説得され、富山国際職藝学院を創立。その学院長として20余年間、1000人もの大工職人を輩出したが、今はコロナ禍と大工職人の不況下で、休業状況にある。

 何故急に古田先輩のことを書き始めたかと言えば、序の「なぜ本書が必要なのか?」と第一章の「エネルギーを理解する」は、私自身の研究テーマであり、多分に古田先輩の影響であった上に、本書の著者がマニトバ大学の特別栄誉教授であることを知って驚いたからである。

 読後感は、実に素晴らしく,何の反論もできない完璧な説得力で、本当の仕組みを教えてくれる著書であった。古田先輩の学んだマニトバ大学の伝統を輝かしいものにしたシュミル先生に最敬礼、そして脱帽!!である。

 OB・OGたちへの推薦書として、簡単に書評を記せば、第1章の「エネルギーを理解する」については、私自身が「熱くなる大都市」を著し、今日の気候変動による地球温暖化対策に追われていること。政治家の2050年ゼロエミッション宣言の無責任さに日頃憤慨していること。然るに本書では、「ある惑星のきわめて高度な文明が近隣のさまざまな銀河に探査機を送り込み、地球とその生き物も遠隔監視の対象としての論」、その監視の結果、地球上の化石燃料の活用は、2050年では終わらないことと同時に、安心したのは、酸素は地球上の生命を支えるに十分存在しうることを教えられた。

 第2章の「食料生産を理解する」では、縄文時代の採集社会は、光合成による植物由来の食物であったが、今日80億人の多くが都市に住み、その人々の食料は化石エネルギーの支援なくては成立しないことは、日常の食品を考えればよく分かると。

 第3章の「素材の世界を理解する」では、私自身、初めて知る知識であった。「現代文明の四本柱」は、すなわちセメント、鋼鉄、プラスティック、アンモニアだ。2019年時点で、世界では、セメントが約45億トン、鋼鉄は18億トン、プラスティックは3億7千万トン、アンモニアが1億5千万トン消費された。確かに、建築や土木工事に使われるセメントや鋼鉄、プラスティックなくして近代都市生活は成立しないことは分かる。アンモニアは肥料の主役として不可欠であることも、この章で教えられて納得する。

 第4章の「グローバル化を理解する」では、第一次産業の農水産物の世界物流の実態や第二次産業の工業化社会でのエンジンの存在なくしてグローバル化はあり得なかったことはよく理解できる。第三次産業の情報化に至っては、台湾の半導体ならぬマイクロチップがグローバル化を支えていることも確かである。

 第5章の「リスクを理解する」では、ウィルスによるパンデミックや地球温暖化が、世界中の人々にとって、今や最大のリスクであることは、よく理解できた。しかし、全てのエネルギーを再生可能エネルギーである太陽に依存することによって、リスクを避けること以前に、太陽の異変そのもののリスクを考えれば、本当のリスクは何かが見えてくる。

 第6章の「環境を理解する」も、私自身の研究テーマで、人類のみならず生命を育む地球はかけがえのない星で、その地球は、2050年から2060年迄にゼロエミッションにすることによって環境破壊を止めることなどできないことが分かっているのに分かりたくない「本当の仕組み」を説明している。

  第7章の「未来を理解する」では、2030年のSDGs目標達成も不可能なことのみならず、2050年のゼロエミッション、NC達成も今から不可能なことは学者でなくても分かっている。目標が達成できなかった時、結果は「この世の終わり、アポカリプス*と特異点シンキュラリー**」の狭間に入る。人口問題、食糧問題、エネルギー問題、核開発や気候変動等々の恐ろしい予言や破滅の日が到来する筈だが、予測の失敗で、この世は継続するであろう。それは、ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」によるもの。

*  神から選ばれた予言者に与えたとする「天啓(黙示録)」
**  人工知能が2045年に人間を上回る。

Blog#122 「新作庭記」(マルモ出版、1999.8)進士五十八・鈴木博之・中村良夫・内田昭蔵・オギュスタン・ベルク連著を読んで

 2024年8月の盆休み、退屈していたことから、富山の自宅庭が荒れ放題になっていたのを何とかせねばと考え、手元にあった庭造りの本に目を通す。

ヘルマン・ヘッセの「庭仕事の愉しみ」(1996.6 草思社)は何度も目を通していたので後にして、富山の庭は「枯山水」が似合うように思ったので、重森三玲著「灯籠と蹲」を参考にして石灯籠を入れたことから、先ずは、この「枯山水」について改めて読んでみる。しかし、本格的枯山水のコストを考えると不可能である。
 結果として、Blogの表題の著書を手にすると、すでに熟読していたらしく何カ所にも折り込みや傍線がつけてあった。その上、本書は内田昭蔵先生からの贈呈で、手紙も入っていた。

 改めて本書を読むと、連著書の第5章 オギュスタン・ベルク氏発言が気になった。1942年生まれで、当時、フランス国立社会科学高等研究院教授、1984~86年、日仏会館フランス学長で、「日本の風景・西欧の景観」(講談社現代新書)や「風土の日本」(ちくま学芸文庫)の著書があった。以下に彼の著述(翻訳:篠田勝英)を抜粋引用する。

・私は日本に興味を持ち、この国のことを学び始めて30余年。日本語の「主体」「主観」「主語」「主題」の四語はフランス語や英語では一つの単語である。日本語の読み方を学ぶヨーロッパ人が直面する問題は「主語」の明示されないのが日本文である。そういう日本文においては、いかなる語も主語の代わりをしない。語っている人物の状況と身分に応じて変化するからだ。

・明治期に、日本の地理学者がドイツ語のLandschaft、英語のLandscape、フランス語のPaysageを「景観」と訳した。この時期、日本の画家達が「山水画」を「風景画」として語り始めたのは、主体の関係の変化であった。とりわけ「景観」という語は、主体から客体に向けられた視線の存在を前提とする。山水(風景)から「景観」に移行することは、文字通りの転倒が含まれている。「山水」の場合、重要なのはモチーフ(山ないし水)であり、「景観」の場合、視線「観」、すなわち主体の存在である。そして、その主体にとってモチーフ(「景」)が客体となるのである。
 一方には「景観」の研究を客観的な科学にしようという近代日本の地理学者の意図があり、他方には、後述する黄枝の句*によって示したような風景の伝統があった。実のところ、両者は両立しがたいものであった。その当時、日本人全員がこの両立不能の「体験」をしたのだった。
  *「風鈴の ちひさき音の 下にゐる」黄枝の句
 視覚以外の感覚(肌に感じる爽やかな風を喚起する音)によって、さらには体感(生活様式)、雰囲気は主体ではない「ゐる」の主語は存在しない。主語の不在が場面を活性化している。この様な風景が日本に存在するからで、日本語の表現がこれを可能にするから、このような句が生まれる。

 逆に、日本の地理学者が「景観」と訳した客体としては、ドイツのLandschaftほど深い根を持っていなかったことは明白である。

○作庭記とは、風情を巡らして空間と景観をつくる思想と方法である。

○主体と客体について、私が考察するところ(主体「観」の対称にあるのは客体「景」である筈が、主語を明示しないことによって景観のあり方を不明、曖昧、いいかげんにしたが、それを良しとするのが日本文化。)
  人間と(時間)空間を対比するように
  地理学と自然(地球の自然)
  社会学と風土(固有の風土)
  作家と風情(人格を求める)
  画家と風景(美しい風景を描く)
  建築家と景観(実景をつくる、設計者)
  物理学と環境(環境を破壊する)

 戦後の日本経済がバブル期にあった1990年代、建築自由の日本社会にあって、ヨーロッパ等の先進諸国に比し、無秩序な乱開発(屋外広告など)として景観の価値が問われ、2004年6月、国土交通省では景観緑三法を公布する。

 1999年11月には黒川紀章や藤沢和氏によって日本景観学会が創立された。日本の都市景観に対する取り組みが全く進まないのは、都市の主体者が不在であること以上に、その「ウラ」にもっと深い日本文化の特性があり、主体(責任者)を曖昧にしてきた故か?本書のオギュスタン・ベルク氏の学説を日本景観学会でも再検討する価値がありそうだ。足立美術館の庭、東京の自宅の庭、八ヶ岳山荘の庭、そして富山の留守宅の庭造りにも主体者不在を認識させられた上、何故かヘルマン・ヘッセの「庭仕事の愉しみ」を再読せずには居られなかった。

Blog#121 TOKYO2020からパリ2024オリンピックのTV観戦を通して

 2021年7月の東京2020オリンピックはコロナパンデミックとあって、1年遅れの無観客という異例の開催であった。がしかし、205ヶ国(地域)から33競技339種に派遣されたアスリート11,000人中6000余人が全員マスク姿で国立代々木競技場の入場式に参加した。この「コロナに打ち勝った証」はあまりに淋しかった。

 この東京大会に比べて、パリ2024オリンピックは、余りに華やかな開幕であった。エッフェル塔を背景に、セーヌ川の美しい橋を舞台に、1万人余の各国選手団が手を振りながら55隻の船に分乗しての入場式は圧巻であった。

 東京大会と同じ規模の206ヶ国(地域)から32競技329種に分かれての競技は、終わってみると、メダル数の1位はアメリカで、東京の113に比べ、パリでは129、2位の中国は88に比し91、3位の日本は58に比し45。開催国のフランスは4位の豪の53に比し64で5位。但し金の数は日本の20に対し豪は18で、仏は16であった。

 それにしても驚きは、1ケ月前の予測で日本のメダルは金銀銅で12+13+21=46と結果の20+12+13=45とたった1個の違いだったとは。特筆すべきは、パリ2024でスケートボードや初めて種目に加えられたブレイキンで日本が金メダルを得たこと。フェンシングややり投げ、近代五種などでのメダル獲得である。反面、オリンピック前から賑やかだったサッカーやバレーボール、バスケットボール等のチームプレーでの敗退で、2028ロスでの野球復活が話題になっているのは余りにはしたない。

 今度のパリ2024オリンピックでも開催中の前半は八ヶ岳の夏合宿で、後半も家族の観戦を側で観ていた程度であったが。学生時代、剱岳の岩場で訓練していた頃の体重55kg、腕の握力75kgであったのに比べて、昨今の体重は75kg、握力が40kgと情けなきこと。それ故か、東京大会から新種目に加えられたスポーツクライミングで「大和撫子」を思わせる森秋彩さんのリードクライミングのトップには魅せられた。

 この華やかな祭典に今大会も参加出来なかったロシアの存在と、オリンピック中も止むことなきウクライナ侵略。イスラエルのガザ空爆では4万人もの死者と10万人を超える負傷者を考えると、クーベルタンの理想としての戦争に代わる近代オリンピックのあり方が問われてしまう。

 こんな状況下で読んでいた文藝春秋誌の第171回芥川賞受賞作、松永K三蔵著「バリ山行」は、最近の芥川賞にはみられないほど実に読み易く、純文学作品であった。建設業社の下請けサラリーマンが日常の生活苦から解放されるため、神戸の六甲山系の自然に仲間と分け入っての心身の葛藤を綴った作品である。松永さんの受賞会見を読んで感心したのは、『ままならないものを書きたい。「ままならない」とは不条理だ。それは私達が生きているこの世界に厳然と存在する。しかし不条理に対して「なぜ?」と問いながらも、対峙し続ける人間の強さであったり愚かしさであったり、また美しさや哀しさ・・・そんな姿を書きたい』と。

 8月13日、東京の旧盆休みに、改めて人間の不条理を問う!8月28日からのパリ2024パラリンピックを前に、死者を生む戦争よりは平和に生きるオリンピック! 原水爆やミサイルより金・銀・銅のメダルだ!! 兵士よりアスリートを!!! と願うのは不条理か。

 8月11日午後の閉会式では、ロサンゼルス2028オリンピックに向け、あのトム・クルーズがスタジアムの屋根から地上に降りて、ロス市長から五輪旗を預かるとバイクでパリ市中を走り抜け、飛行機でハリウッドの丘へ降り立つ映像が流れる。

 それにしても、古都パリの都市がもつパースペクティブの利いたビスタを最大限に活かしてのアスリートたちの躍動。それを支えるはエッフェル塔、凱旋門、ルーブル、シャイヨー宮、グラン・パレ、コンコルド等の建築、マラソンのゴールがアンバリッドとは出来過ぎである。セーヌで泳いだパリ市長やパリ市内をこの祭典の舞台に解放したパリ市民のおもてなしに東京から最敬礼。

Blog#120 第16回八ヶ岳研究会と尾島山荘夏合宿(ジビエ料理)速報

 

 024年8月の夏合宿は8月1日~5日の4泊5日。日程表の如く参加者18人。8月3日(土)と4日(日)は12人が宿泊したため、テントが2張り、写真の如く賑やかなジビエBBQと猪鍋が二晩続く。渋田君が東京から仕入れての調理である。

八ヶ岳研究会の炭火焼きジビエ料理

 第16回八ヶ岳研究会に向けて、水素を燃料にしたジビエ料理が、池の平ホテルの名物料理にならないかとの小林光先生の発案から、水素利用の料理に関して事前に調査した。しかし、山荘で気軽に水素を利用するにはまだ問題が多く、炭火焼きジビエ料理BBQと猪鍋(ボタン鍋)とピザ窯活用の本格ピザが主役となり大好評。
 保全センターと環境技研の料理腕比べも楽しく、中国釣魚台の白酒や井上高秋さん持参のBOWMORE18年スコッチに、寒いほどの山荘で、夜の時間を忘れる。

JES主催の豪華な朝食(12人)風景

 8月4日(日)、保全センターチームは御嶽山ビジターセンター(さとテラス山岳)と(やまテラス大滝)の二ヶ所を訪問。2014年9月の御嶽山噴火災害の展示を視察。JESチームは北杜市の「平山郁夫シルクロード美術館」や「オオムラサキセンター」を訪問する。

御嶽山ビジターセンター(やまテラス王滝)(平瀬有人設計 2022年)

  8月2日の池の平ホテルでの第16回八ヶ岳研究会は、矢島・小林光・中川・福島氏と私の5人の幹事と原君が同席。「かわぐち・たてしなの森」の利活用について、中川・福島両氏のヒアリングの報告。

 (株)白樺村は、さん橋整備に加えて別荘地の改修や県・市・町との調整が進んでいる。『白樺湖と八ヶ岳物語』の2025年出版について、各自から資料提供や記載要求を年度内に受理する。NPO-AIUE出版。(株)白樺村での販売について検討する。

この写真集は、スイス・ツェルマット(マッターホルン)のガイドブックを参考にしたものであるが、リゾート地でのロングスティの参考書としてのみならず、当地をスイスのダボス(標高1560m、人口1万人)やアメリカのアスペン(標高2400m、人口7000人)の如き、世界のコンベンションシティとしての魅力をもたせるべく意図しての出版物にしたい。

白樺湖と八ヶ岳物語(2025年出版予定)

Blog#119 「江戸城天守」の再建!について

 2024年7月9日(火)、東京新橋ロータリークラブの例会で、会員の鞍掛三津雄氏の紹介で、太田道灌第18代目子孫・太田資暁氏による「江戸城天守再建に関する」卓話を聞く機会があった。

 卓話の趣旨は、『江戸城は徳川3代の将軍が次々に天守を築きました。取分け 1657 年明暦の大火で焼失し、その後天守台だけが再建されて上屋の建立は後回しになっている「江戸城寛永度天守」は、日本城郭建築の最高到達点であり、日本一壮大で美しい城であったと言われております。(中略)私たちはこの「江戸城天守」を、日本各地に広がる香り豊かな純国産の木材を使い、伝統工法により再建することを通して、首都東京のそして、各地のお城と連携して、地方の活性化にも貢献して行きたい。(中略)令和の世の「江戸城天守」建立を通して、次の世代がこの国の未来に夢と希望を持ち、日本に生まれたこと、日本人であることに感動と感謝の念を抱き、(中略)日本人の為の『未来遺産』を創り上げる事業と捉えております。』

 たくさんの資料を配付しての熱演を聞きながら、四半世紀も前(1997~98年)、私が日本建築学会会長時代の副会長で、東京駅の再生はじめ日本の伝統建築保存運動の中心であった東大の鈴木博之教授(1945~2014)が、江戸城天守再建だけは反対だと叫んでおられたことを思い出した。その理由は、世界遺産登録に不可欠な真正性(Authenticity)がないからとの説で、私も賛同していた。

 しかし、一緒に仕事をしている伊藤滋先生からは、江戸城天守再建は自分の最後の仕事だから協力するよう言われていたことや、今度、ロータリー会員への「江戸城天守再建活動への請願書」署名へのお願いがあったので、自分の態度を決めなければと考えた。

 「建築家としては鈴木博之説に賛同するも、東京のランドマークとして、皇居(旧江戸城)をバッキンガム宮殿や紫禁城の如き首都の歴史や文化の誇るべきシンボルとして創出することは不可欠で、太田氏や伊藤先生の再建説にも賛同せざるを得ない。

 しかし同時に、これから建設される天守は、必ずや世界遺産にすべきものでなければならない。そのためには、やはり真正性が不可欠で、安易な江戸城天守再建ではなく、東京にとって本物のレガシーとすべき天守として、東京大学建築学科で鈴木博之先生と共に学んだはずの広島大の三浦正幸名誉教授(1954~ )の復元図の真正性を含めて、天守再建のみならず、『皇居のあり方」について再考しては如何であろうか。2020年の東京オリンピックで果たせなかったザハ・ハディド(1950~2016)の国立競技場の反省として。

 1964年の東京オリンピックの会場となった丹下健三(1913~2005)の代々木国立競技場は、私も手伝ったこともあって、槙文彦(1928~2024)の要望もあり、世界遺産に登録すべく頑張っている。少なくとも、大阪城天守は姫路城のような真正性が全くないことから、世界遺産になる可能性はゼロであることを考えれば、江戸城天守の再建にはもっと慎重を期すべきか。

Blog#118 久し振り2024年度早大建築学科の環境系OB会である「七月会」に出席

 7月5日(金)、10年ぶりに早大建築学科の環境系研究室が順番で主催している「七月会」に出席する。
 乾杯の前に一言挨拶を、と言われて『2008年の定年退職時の最終講義テーマは「未完のプロジェクトⅩ」で、教材に「都市環境学へ」を出版。その12章「未完のプロジェクト実現に向けてⅩ」について、2007年開設した銀座尾島研究室で継続研究して10年余、コロナ禍で銀座から練馬へ移転して、その活動を続けていると共に、(一社)都市環境エネルギー協会の理事長として、国土強靱化策の一環で、CGSによる分散電源を推進、2050年対策としてのカーボンニュートラル推進に当たっては、水素等の普及調査活動をしている。

 幸い、大学時代からよく遊び、よく学ぶ方で、このように身体は頗る元気なので、今も研究活動を続ける。諸君もよく遊び、よく学んで、更なる活躍を祈る次第』と。

 思えば、1970年代までは木村幸一郎教授と井上宇市助教授時代、卒論が始まる7月、大学院生と共に湯豆腐会を始めたのがきっかけで、この会が盛大になったのは、1980年代の井上宇市教授時代で、建築設備系の学生は早大では機械や電気工学科にもOBで活躍する人が居たことから、「建築設備研究会」に改めたのがベースになる。しかし、既に木村建一研や尾島研では建築設備系以外に金融機関やエネルギー会社等への就職者が多くなり、「建築設備研究会」では入会できないOBも居て、「七月会」と名称を変更した筈。

 その上、研究室単位のOB会があまり盛大になると稲門建築会とバッティングするということで、研究室単位のOB会はやめてくれと言われ、私が稲門建築会の会長時は「七月会」への出席を見合わせることで、稲門建築会に「七月会」の存続をお願いした経緯があった。しかし、もう時効と考えての今回の出席である。

 気がつけば米寿の年齢に至って、早大退職時の「都市環境学へ」の(続)として「都市環境学を開く」の出版を鹿島出版会に依頼中である。

 久々に出席した「七月会」は、環境系の教職にあった石福昭・木村建一名誉教授の出席はなく、現職の田辺新一教授の会長挨拶は一言で、高口洋人教授と伯耆原 智世講師の時代である。

 長谷見名誉教授に新任の伯耆原講師を紹介してもらって、高口君と4人で富山の職藝学院について相談する。また、OBの松村亘君や大西君たちとDHC協会で近況を伺う会をもつことになった。

 18:30からの56号館カフェテリアでの懇親会に一時間ほど参加する間、尾島研OBの村上正吾君から始まって、牧村功君の建築基本法制度に当たっては、小川富由さんと神田先生との話し合いの必要性をアドバイス。井上研OBの板谷敏正君が客員教授になったとの挨拶あり。三機の清水君にはアーカイブスでお世話になったこと、相変わらずの外岡、柴田、前川、辻村、大竹君等もなつかしく、DHC協会で世話になった木村研OBの堀川、小野島、伊香賀君等との懇談も実に有意義であった。

 田辺君とは2018年、州一が白川君と開設した中華店での「五人会」以降、5年以上も中断していたので新任の先生を入れての再開を約束する。「七月会」出席はこれを最後と考えていたが、この会はなかなかに価値ありと考えながら早々に退席する。

 西早稲田駅と直結の地下鉄はなんと石神井公園行きで、練馬駅まで15分であった。来たときは高田馬場のBig Box前からタクシーで早大51号館の正面玄関前まで、すっかり生い茂った戸山公園の中を走って5分で到着。住み慣れていた51号館の研究棟から57号館前で古谷誠章・栗生明氏と合う。彼等はEXPO’25の海外パビリオン設計を支援するため、公開シンポジウムを開催中であった。大阪・関西万博EXPO’25会場の設計支援活動が早稲田で行われていたのは嬉しく、何故かホッとした。

 2030年に向けて、西早稲田キャンパスが日建設計と清水建設によって改築中とは承知していたが、予想以上に雑然とした昔ながらの校舎の雰囲気はなかなかに活力がある。

 七月会の名簿を見ると、1941~2024年(83年間)に2500人の名前や住所を記載。尾島研は1965~2008年(43年間)で1000人程か。それにしても、個人情報満載の名簿の取り扱いには留意すべきだ!!

Blog#117 ポール・ゴールドバーガー著「建築という芸術 評伝フランク・ゲーリー(Building Art )」(2024.5.30 鹿島出版会)を読んで

 

 7月1日、鹿島建設の平岡雅哉建築設計副本部長から、例年のお中元に本著が贈られてきた。スペインのバルセロナ市は人口162万人、アントニ・ガウディのサグラダファミリアあっての国際観光都市で、それ以上に人口35万人の工業都市ビルバオが年間100万人以上の観光客で賑わっていると聞く。その要因は、フランク・ゲーリーが1997年に設計したビルバオ・グッゲンハイム美術館にある。ネルビオン川に浮かぶ船のようなチタニウムの皮膜で覆われた不思議な建物である。アメリカで最も有名な建築家フィリップ・ジョンソン(1906-2005)をして「我々の時代の最も偉大な建築」と言わしめた作品である。

 1959年にフランク・ロイド・ライトがN.Y.で設計したらせん状のグッゲンハイム美術館から半世紀、デジタル革命の申し子の如くに、高価なチタニウムの皮膜を惜しげなく駆使した巨大な造形美に圧倒される建物である。この設計で世界的建築家と認められたフランク・ゲーリーは、2003年にはロサンゼルスのダウンタウン沿いに建つウォルト・ディズニー・コンサートホールもよく似た姿で設計し、2014年にはパリのブローニュの森にルイ・ヴィトン美術館も設計した。一度は彼の作品を見たいと思う以上に、設計者の実像を知りたいと考えていただけに、本書の贈呈はありがたかった。

 それにしても、500頁もの大著で、しかも小さな活字に参って、最初は拾い読みのつもりが、二日で完読しての実感は、本当によく書けている。その筈で、ニューヨークタイムス紙の記者で、ピュリツァー賞受賞の建築評論家ポール・ゴールドバーガーによる初の評伝書であった。

 カナダのトロントのユダヤ移民の息子として、1929年2月に生まれたフランク・ゲーリーが、やがて世界的ヒーローになるアメリカンドリーム体験記である。私自身が学んだ先輩たちと同時代の1960年代のロサンゼルスで活躍した。ビクター・グルーエンに勤務していた大沼君を1965年に訪ねたときに体験した、その時代の建築界の様子や、数々の国際コンペに暗躍する同世代の建築家とクライアントとの関係など、赤裸々な筆の運びにのめり込んだ二日間であった。久し振りに、自伝を超える評伝の素晴らしさと建築設計の面白さを体感させた著書を贈って下さった平岡氏に敬礼!

 ビルバオ・グッゲンハイム美術館の設計で一躍世界的に著名になったフランク・ゲーリーを更に有名人にしたのは、ピュリツァー賞を得た程のポール・ゴールドバーガーの巧みな評伝である。しかも、フランクの生存中にアメリカで出版され、日本でも鹿島出版会から坂本和子さんによって訳され、久保田昭子君も支援したという本書を久しく私の読むところとなった。

 このような素晴らしく細密な建築家評伝に相当するのは、日本では丹下健三の評伝を書いた藤森照信氏くらいではなかろうか。残念なことに、フランクのライバルであった磯崎新については、2023年、磯崎アトリエに勤務していた今永和利・佐藤健司・藤本貴子さんらが若い頃の磯崎を知るため取材にみえたが、これからのようだ。

 この取材がきっかけで、藤本さんが勤務する法政大学建築学科の創立者である大江広の若い頃を知る人が少ないので、陣内秀信・小堀哲夫・種田元晴・石井翔大さんらを同行するからとの依頼あり。

 1970年代、日本建築学会をベースに、芸大の山本学治(1923-1977)と日大の近江榮(1929-2005)、東大の鈴木成文(1927-2010)等が建築家像を巡って、教える者と学ぶ者について10年以上も激論を繰り広げていた、その中心に大江広(1913-1989)が居たことを知る人は、全く居なくなっていた。大江は、建築設計のあり方を巡ってのDiscipline論争をからだで覚えさせ、からだで確かめ、触って確かめる徒弟制度の必要性や、「建築」は“Architect”、「建物」は“Building”と訳すが、その相違についての論争等々。建築学会が有楽町から三田へ移転する前の学会の会議室は、登亭のうな丼を食べながらの激論の場であった。当時がなつかしく思い出される。

 改めて、フランクと同時代にあって、日本建築を世界建築のレベルまで高めてくれたのは、黒川紀章(1934-2007)、磯崎新(1931-2022)、槙文彦(1928-2024)、菊竹清訓(1928-2011)、穂積信夫(1927-2024)、池原義郎(1928-2017)等であるも、その評伝が日本語版のみならず、英語版もまだ見受けられないのは残念である。朝日新聞の記者で、松葉清の如き存在が居なくなったことを考えれば、藤本さん等の若い建築評論家に期待するのみで、当時を知る私たちの余生は、彼等、日本を代表する建築家たちの記憶と資料の整理をしなければと考えた次第である。

Blog#116 笹山敬輔著「笑いの正解」(2024.5 文藝春秋)を読んで

 5月17日、昔仲人をした著者の両親から贈られた『笑いの正解―東京喜劇と伊東四朗―』の著者は、Blog58の志村けんという喜劇役者を紹介した『ドリフターズとその時代』の著者で、私には全く縁のなかったジャンルの著書であったが、刺激的であった。

 同様に、今度の著書も、伊東四朗という、全くこれまで意識したことがないけれど、確かに本書を読む限り「笑いは歴史に残らない。語り継がなければ忘れられる。(中略)今、現役の喜劇人として東京喜劇を語れるのは伊東四朗しかいない」との『推し』文句に感動した。その上、2024年6月に伊東四朗がゲストで「熱海五郎一座」が新橋演舞場で公演するという。86歳の伊東四朗は私と同じ年齢で、この時を逃すと大変と思わせる記事に、インターネットで早速チケット情報をみると、なんと既に桟敷席は売り切れで、一等席も残り僅かとあって、早速予約する。

 両親には子息の著書を評して「たった一回の挑戦で文藝春秋社に出版を約束させるや、伊東四朗を説得、あっという間にこのような恐ろしいタイトルで出版させたご子息の力量に脱帽。ひたすら頼もしいご子息に敬意を表する次第です!!」との礼状を出す。

 改めて本書を読んで、森繁久彌の喜劇「駅前シリーズ」や「社長シリーズ」、渥美清の倍賞千恵子との「男はつらいよ 寅さんシリーズ」に続く、ヒラ刑事・鴨志田役の伊東四朗とエリート警視・羽田美智子との「おかしな刑事シリーズ」は、私にとってはストレス解消のテレビ番組になっていたことに気づいた。日頃、人生にとって「笑い」こそ不可欠要因と確信しており、この年齢になって「人生の正解とは」について、改めて考えさせられた。入手した6月4日、新橋演舞場での「東京喜劇 熱海五郎一座」で、伊東四朗の尊顔を拝するのを楽しみに。

 ところで著者の敬輔君は、富山の配置薬ケロリン本舗の五代目で、私がお世話になった三代目の忠松氏は銭湯に常備されているケロリンのポリバケツの考案者である。