三浦秀一著「研究者が本気で建てたゼロエネルギー住宅」(2021年1月、農山漁村文化協会出版)を一読して

 ZEH(ゼロエネルギーハウス)に関する著書や翻訳書は、この20余年間に三桁数える程に出版されているが、どれも本気で読む気がしなかった。しかし、三浦秀一君が自分の家を実験台に、本気で建てたという本は本物かと思い、先輩の須藤諭君に、初めての単著出版の筈、何故私の手元に届けられないのかと催促した。その結果、4月17日からの福島原発事故10周年の視察に同行することになり、飯舘村の「風と土の家」で入手する。

研究者が本気で建てたゼロエネルギー住宅 断熱、太陽光・太陽熱、薪・ペレット、蓄電  /農山漁村文化協会/三浦秀一

 視察状況はBlog22で記したが、三浦君の著書を早速一読して気づいたことは、表紙から「実に簡にして要を得ている」「断熱・太陽光・太陽熱・薪・ペレット・蓄電」6点こそがZEHを達成するには不可欠な全ての鍵である。

 しかし、山形に住む三浦宅であれば、薪やペレットは容易に入手できるであろうが、東京での薪の入手やその保管と灰出しは容易でない上、何かと近所様や行政指導もある。この際、私の自宅も出来ないかと考え、先ずは薪の入手を考えると、競争で、しかも60円/kg以上と高価である。自邸の樹木を薪にするのも何かと面倒な様子で、家内が消防署に問い合わせてくれた限りでも、薪ボイラの販売店とよく相談し、安全性に留意するように言われ、さらには庭の落葉や枯れ木を野焼きをするのは近所迷惑な上、絶対ダメだという。大都市では、再生可能な薪などのバイオマス燃料はやはり無理だが、これからの二地域居住時代の田舎生活には三浦宅の実証は絶対に役立つ。別途、Blog13(2021.2.1の小林光先生の二地域居住のゼロエミッション手法も参照)。

福島原発事故から10周年の現地視察

 2021年4月17日(土)早朝5時40分、丸山二郎氏の軽自動車に同乗して自宅出発。関越練馬ICから東京外環・三郷JCTで常磐自動車道に入る。友部SAで休憩。2016年5月の視察時には常磐道が使えず四倉から国道6号を北上したが、今回はあっという間に広野ICを通り過ぎる。右手に福島第二原発の煙突が見えてきたので、手元の空間γ線量計を見ると0.1~0.3µ㏜/h。常磐・富岡ICで県道35号に入ると、まだ9時35分。予定より1時間も早く、待ち合わせた大川原の大熊町仮庁舎(2016年5月、公的施設の発注支援でUR工事)到着。OBで東北芸工大教授の三浦秀一君と待ち合わせる。

 OBで鹿島建設の今泉恭一君の紹介で、大熊町大川原統括事務所の西村正夫・木暮健・村木孝各所長から、環境省の中間貯蔵処理施設での受入分別処理・貯蔵工事について説明を聞く。

 除染廃棄物は焼却処理などでの減容化を行う一方、除去土壌はフレコンパック(1㎥/袋)に封入された状態で仮置場に保管。これを最終処分するまでの一定期間(30年間)安全かつ集中的に管理・保管する。仮置場から約1,400万㎥(2019年7月の集計)の輸送開始で、2022年までに終了予定。

 この工事は8工区に分けられ、その1工区を2021年1月から2023年1月迄の24ヶ月、環境省からの発注工事を鹿島建設(0.6)、東急建設(0.2)、飛島建設(0.2)JVが受注した。福島県内の仮置場から5~150km、1500袋/日(約33万袋)の除染土壌を輸送・受入分別処理する施設であった。

 当方の質問は、仮置場でのフレコンパックの劣化や焼却処分の現場状況、仮置場・仮々置場・一時保管場・積み込み場・汚染土壌の濃度、可燃・不燃・減容化・焼却施設や焼却灰の保管・輸送方法の他、できれば東電・経産省・環境省・国交省・農林省・総務省・復興庁・地方自治体等々の発注者や管理者の現場での理解のされた方、景観や公害対策、立ち入り禁止状況、中間貯蔵施設の詳細等々について学ぶことであった。

 質疑の中で、現場での苦労を知るとともに、整然とした仕事状況に敬意を表した後、11時30分、福島第一原発の処理水タンクの状況を視察せんとしたが、Googleや新聞、TV等々で毎日のように報告されているので、周辺空間線量も相変わらず高いこともあり、2016年も通った国道6号を北上して「道の駅なみえ」に直行する。

 F1処理水タンクの状況は、新聞報道によれば、初期170トン/日から現在は140トン/日、汚染はトリチウムのみなので「汚染水」から「処理水」とすることになった由。

 2020年頃には 1,061基(137万トン貯水可、約1,300トン/基)、2021年3月時時点では 90%が満杯(タンク増設の余地なし)。空きタンクが10%として106基。1,300トン/基/140トン/日=9日/基として、106基×9日≒900日分(2年余で超満タン)。従って、2021年4月17日の現地視察時、2年後から放出開始との菅総理宣言は理解できる。この新聞報道に中国・韓国・ロシアは大使を呼びつけ、日本の状況を厳しく追及しているが、櫻井よしこの反論やIEAの報道から日本の総理発言を支持する立場からも、請戸漁港の実態状況を視察の上、浪江の海鮮食堂で白魚などを試食することにした。

    国      施  設年間放出量(㏃)
  イギリスセラフィールド再処理施設約1,624兆(2015)
  フランスラ・アーグ再処理施設約1京3778兆(2015)
  中国大亜湾原発約42兆(2002)
  韓国月城原発約136兆(2016)
  カナダダーリントン原発約495兆(2015)
*海洋放出は、処理水を大幅に希釈した上で実施。放出するトリチウムの年間総量は、事故前の福島第1原発の放出管理量(年間22兆ベクレル)を下回る水準になるように行う、としている。タンクに保管している水のトリチウム濃度は、約15万~約250万㏃/ℓ。放出期間は30~40年としている廃炉期間内で相当程度の時間が掛かると想定。国際原子力機関(IAEA)グロッシー事務局長は日本の放出量は合法としている。

 請戸漁港や魚市場は土曜日とあって休み。市場や港の整備に比べて、周辺は津波ですっかり荒野になっており、淋しさがこみ上げる。幸い、浪江の海鮮和食処「くろさか」は昼時とあって満員盛況。1600円の特別海鮮丼の白魚・いくら・ウニ・まぐろ等の美味いこと。すっかり気分をよくして「道の駅なみえ」でNHKで放送していた相馬焼のぐい呑みと浪江の米から造った「磐城壽」の生酒と白魚等を田尾家の土産として購入する。

 昼食後は、浪江町「福島水素エネルギー研究フィールド」FH2R(2020年3月竣工)を視察。設置パネル68,420枚、20MWの太陽光発電で10MWの水素製造装置、1,200N㎥/hの水素を製造する建屋(S造、2F、延べ985㎡)。900トンH2/年(東芝エネルギーシステムズ(株)は2017年東芝から分社。

 午後2時、相馬LNG基地(JAPEX 石油資源開発株式会社)を視察する。2018年3月、相馬郡新地町駒ヶ嶺字今神の相馬港4号埠頭に建設された巨大な施設で、LNG地上式タンク23万㎘×2基(2020年)に加えて、LPGタンク1,000トン×2基、気化装置75t/h×2基。福島ガス発電(株)(FGP)の福島天然ガス発電所は2020年には59万kW×2基=118万kW(発電端効率は約61%)。

 相馬共同石炭火力発電に隣接して、東北のエネルギー拠点機能の役割を持ち、新地町のバイオマス発電や熱供給の新施設と共に東日本復興の象徴的施設である。国道115号(中村街道)のバイパストンネル化も完成しており、佐須の「風と土の家」へは予定より1時間も早く到着する。

 田尾夫人の案内で仮設住宅等の廃材で建設されたという横ログ材による「風と土の家」と地元業者が別途縦ログ材を使ったという田尾家の建築物語を聞く。この夜は田尾家で御馳走になる。土産に持参した相馬焼のぐい呑みで、今年初めて浪江米で造った「磐城壽」の生酒に請戸漁港でとれた白魚の刺身とイカの一夜干しに加えて奥様の山菜や地場の牛肉等の手料理を楽しみながら、飯舘村再生の話を聞く。

 震災前6,500人の飯舘村人口が、2021年3月時点で村内居住者1,481人(住民台帳では5,206人)で、殆どが70才以上とか。2025年までに居住者を3,000人に回復するためには、当初30億円/年だった村予算が、震災後は200億円/年となったが、2025年には15億円/年(予測)と減額になるようでは、これからの生活は大変になること。新村長は2016年の訪問時、係長として案内して下さった杉岡誠氏とか。浄土真宗の僧侶で、2020年無競争で当選、44才でなかなかに人気があるとか。長泥地区の土壌で栽培した花(規制委員会の田中俊一氏も参加)について議論。「NPOふくしま再生の会」では地元の山菜を独自に計測して食べているとか。

 翌日の視察予定地としては、深谷「風の子広場」、飯舘「いいたて希望の里学園」(4校統合)の他、飯舘電力(株)やNTTのソーラーパネル、菅野宗夫さん宅と隣接の牛舎を改装した「NPOふくしま再生の会」事務所と研究拠点に加えて、小宮の大久保金一さんのマキバノハナゾノ(いまは水仙が最盛)を視察することになった。

 「風と土の家」はなかなか便利で、自給自足できるように間取りや部屋が配置され、増築も進んでいる隣に「学び舎irori」が建設されていた。

 夜間の雨を心配したが、翌朝は幸い晴れたので、午前8時、田尾氏の案内で昨夜の予定地を走る。予定になかった東北大学の惑星圏飯舘観測所へ。仙台から遠隔運転されている巨大な電波望遠鏡に驚くと共に、天文台の光学望遠鏡はハワイに移設されたとかで、この天文台は村人に毎年星の観測会が開催されていたという。天文台の敷地も田尾さんが鍵を預かっている由。この建屋屋上から周辺が一望できる。国道399は、いわき市では磐城街道と呼ばれ、いわきから川内村、葛尾村を通り、浪江からの114号と交差し、飯舘村の長泥から飯樋の中央を通り、伊達市の月舘、さらに福島市から山形へ抜ける道である。この道こそ放射線に追われた人々が逃げた道である。天文台の屋上から遠望する限りでも、福島第一原発の水素爆発で放射能を帯びたプルームが風に乗って浪江方面から飯舘村へ国道114号の谷間から津島・長泥地区を直撃した。F1から半径5・10・20kmと同心円的に避難した住民たちに比べて、SPEEDIの情報があれば、50kmでも汚染されることから避難させるべき飯舘村住民への避難勧告が遅れたところだ。田尾氏が力説する399号の長泥から葛尾村へ抜ける「ロマンチック街道」と呼ばれる「阿武隈山なみの道」だけは、出来る限り早く除染して開通させたいとの願いは、この場所に立ってはじめて理解できた。当日も吉野桜は満開で、本当に美しかった。特別立入許可証を持つ者だけが見ることが出来るこの「花の道」を除染することで、当地を明るくしたいとの田尾氏の願いが分かった。

2021.4.18(日) 国道399号 長泥立入禁止

 その一方、現状は過酷である。国道399号と県道62号の交差地区周辺の特定復興拠点事業の現場は、今も高濃度の汚染土壌の処理・処分に追われての仕掛けの大きさに驚かされる。今も一般の人々の目に見えない施設も、帰宅してGoogleマップを見ると、現地ではよく見えなかったフレコンパックの山や、ソーラーパネルの海の如き広がり、点在する処理・処分施設の巨大な施設群を見ることが出来る。

 その後、飯樋小学校や陣屋跡、飯舘村役場、道の駅から大久保さんの「マキバノハナゾノ」へ。今度は水仙畑の素晴らしさに感動し、拙著を贈呈。田尾さんの愛娘・矢野淳さんの新会社MARBLiNGの事業に共鳴し、協力者に三浦君を推薦。午後1時、現地解散後、那須の鹿湯で一泊して帰宅する。

塩谷隆英著「下河辺淳小伝 21世紀の人と国土」を読んで

2021年3月19日、(一財)日本開発構想研究所の阿部和彦氏から本書*1)が贈られてきた瞬間、久し振り阿部さんの鋭い嗅覚を感じた。冒頭の推薦者の中村桂子さん同様、決して短くない本書を一気に読んだ。

21世紀の人と国土 下河辺淳小伝

 下河辺さんについては、全くといってもよい程に付き合うことのなかった雲の上の官僚である。唯、二度程強烈に残っている印象を思い出した。

一度目は、私が1979年から1980年にかけ7ヶ月、中国科学院の交換教授として北京と杭州を中心に、中国全土の3市18省1自治区32都市で26回の講義と9回の講演、32回の座談会と23回の宴会を通して交流していたとき*2,3)、下河辺さんの日本での信頼と私の下河辺評を聞かれて、非常に困惑したことである。この間、下河辺氏に関する資料を日本から送ってもらうように依頼したが、新聞や雑誌のコピーばかりであった。1962年の全国総合開発計画以降、1969年の新全総(これが田中角栄の列島改造論のベース)、1977年の三全総(定住圏構想で、私が気に入っていた)等の立役者で、1977年には国土庁の事務次官として、官僚国家・日本の代表者であると答えていた気がする。下河辺さんとは一度も会ったことがない上に、著書も読んだこともないのに、勝手に「日本で最も信頼できる人」等と評していたように思う。

 二度目は、中国から帰国後、1980年から1989年までの10年間、日本建築学会や早大等を通して、なんと80回を超える日中建築交流会を行う間、1985年頃に今一度、当時NIRAの理事長をされていた下河辺さんに新宿の理事長室に呼ばれて、日中研究者の研究費や研究テーマについて話し合う機会があった。当時の記憶は定かではないが、安心して相談できる人と実感、中国での私の勝手な下河辺評は間違っていなかったことに安心した。

 2008年、阿部氏が日本開発構想研究所に「下河辺淳アーカイヴス」を開設した。一見の価値ありで、是非見てくれとのお誘いを受けた。大学の教師のもつ雑本の多さに比べて、如何にも極秘文書と思われる文献・書類の資料集に、なぜ公文書館ではなく民間シンクタンクで預からねばならぬのかと疑問に思った。日本経団連を中心に、国策シンクタンクとしてのNIRAが設立された1970年代に比べて、日本の知識に関する関心のなさに疑問を持ったこと、大学定年後の私は、銀座にオフィスを開いたが、家賃を考えて蔵書は八ヶ岳の山荘に移した。

 2011年11月、建築家の松原弘典君が突然訪ねてきて、1980年代にはあれ程日中交流に熱心だったのに、今はどうしてやっていないのかについてインタビューを受けた。その記事が*4)にあり、この際読み直して、本書の意図に通じていた。

 1989年の天安門事件以降の中国は変わった。日本のバブル崩壊と共に日中の国勢は逆転した。本書の10章で中国の経済学者である凌星光(福井県立大名誉教授)が、「NIRAの理事長として、1981年から1984年、下河辺団長を中心に日本の専門家集団が5回に渡り中国各地を訪問しての中国全土の国土開発について、7点にまとめての報告書を絶賛している。」以下、本書より引用する。

 『日中経済知識交流会の日本側主要メンバーの大来佐武郎、向坂正男、下河辺淳、宮崎勇夫、小林實氏等は、大平正芳首相や稲山嘉實氏等の支援の下、中国の改革・開放政策が成功するために誠意をもって協力した。中国トップクラスは虚心坦懐に日本や欧米先進国に学んだ。中国インテリ層はむさぼるように知識の吸収に励んだ。1980年代以降、小林實氏が「日本は駄目、中国は凄い」と語ったことがある。彼は絶好調の日本が抱える矛盾を見ており、栄える中国の21世紀を見通していた。

 長い日中関係史を見るとき、歴史的に日本は中国に学んできたが、明治維新後は中国の有識者が日本に学ぼうとした。ところが、中国に実益をもたらすには至らなかった。1980年代における日中経済知識交流会に代表される「日本に学ぶ」交流は、中国に大きな実益をもたらした。これは今までの歴史になかったことであり、これからも多分ないであろう。正に空前絶後の日中関係史大事であったと位置づけられよう。

 残念なことに、日中関係は複雑な国際関係に翻弄され、この一大事が正当に評価されず、埋没されようとしている。この一文が、それをすくう契機になってくれることを期待する、と同時に、若い研究者が35年前のこの視察報告書を現地に赴いて検証し、より詳細に客観的評価をしてくれることを願って止まない。』

 1962年の全総、1969年の新全総、1977年の三全総、1987年の四全総、1998年の五全総の全てを指導した下河辺氏は、1987年までの実績から中国を導いたが、五全総ではそのベクトルは全く違ったことは、残念ながら中国には伝えられなかった。

 私自身の体験でも、1970年代の日本のベクトルを伝えたが、1990年代からの中国は、それがそのまま原動力になって、今日に至っている。私が初めて1977年に訪中したときは、文化大革命で破壊された貧しい中国であったが、自然の生態系は素晴らしく、学ぶことが多く、素晴らしい学者にも巡り会った。しかし、今の中国や友人達のことを考えると、実に心配である。

 1980年代末に「日本は駄目、中国は凄い」との小林實氏の考えに私も共鳴した。その頃から40年、今は「日本も駄目、中国も駄目」だ。コロナ禍にあって「禍転じて福と為す」方向にパラダイム転換する時との配慮から、塩谷隆英氏が下河辺淳小伝を著してくださったことに心より敬意を表すると共に、この書を献本くださった阿部和彦氏にも心より感謝申し上げます。

 2021年3月20日、アラスカでは米中が「人権」と「軍拡」を巡って大論争。日本もフリーライダーであり続けることはできない。

*1)塩谷隆英著「下河辺淳小伝 21世紀の人と国土」(2021年3月 商事法務)

*2)尾島俊雄著「現代中国の建築事情」(1980年8月 彰国社)

*3)尾島俊雄著・中国側編集翻訳委員会「日本的建築界」(1980年10月 中国建築工業出版社)

*4)松原弘典著「未像の大国 日本の建築メディアにおける中国認識」(2012年5月 鹿島出版会)