Blog#48 一級建築士資格の定期講習をコロナ禍に受講して

 2022年2月1日(火)、池袋のホテルメトロポリタン3階の大会議室で定期講習の考査を受けた。建築事務所に在籍する建築士は3年に一度、定期講習を受けた後に簡単な修了考査を受ける義務(受けないと懲戒処分を受ける)のある第5回目の講習と修了考査である。

 2005年の姉歯事件(構造計算書偽造問題)をきっかけに、性善説から性悪説に変革して、この新建築士制度がスタートした。同時に、建築事務所の開設者は、管理建築士資格者を置く必要性や保険への加入協力義務制度も発足した。その結果、私自身も立場上、新制度発足と同時に、2009年11月に第1回の一級建築士講習、2010年6月に管理建築士講習、2012年6月に第2回、2015年7月に第3回、2018年11月に第4回を受講したが、80歳を越えたことから、5回目は長時間の講習や修了考査を受ける苦痛から解放されようと考えていた。

 しかし、2020年からのコロナ禍で、この制度上の講習はweb上のビデオ講習でOK。しかし修了考査は従来通りという案内が来た。修了考査を受けるかどうかは別として、これまで定期講習を受けた体験と、建築士たる者の倫理観から、webによるビデオ講習は受講しておこうと考えた。

 結果は、なかなかに価値ある情報提供で、最近の空き家問題、糸魚川大火や熊本地震、洪水被害からの法改正や新告示等、建築士たる者は3年に一回は社会状況を知る必要な制度に思われた。開業医や弁護士と共に、建築家は三大自由業として、その分野の職能独占権を与えられている以上、権利と共に義務も発生している。それにしても3年に一度の定期講習と修了考査は本当に面倒で、博士学位と同様、一級建築士の資格は「足の裏に張り付いたお米」の例え通り、取得してもすぐに仕事に恵まれるわけではない。その上、大きな建物は、別に一級構造建築士や設備士の関与が義務付けられたから、免許の守備範囲も限定された。かくして、この制度のみならず、久しく建築基準法のあり方そのものが問われており、これをイギリスのように地方の安全条例として、別途、建築基本法を制定すべきとの声もある。

 昭和38年7月10日付、河野一郎建設大臣名での一級建築士免許は紛失したため、いま手元にあるのは平成15年7月10日(登録40525号の林寛子国土交通大臣名)の再交付免許証である。この免許証は、昭和35年4月、早大理工建築学科を卒業して、2年間の実務経験(大学院修士課程在学中)を経た上で、学科目と設計の実技試験に合格(合格率20%(当時))した証書である。この当時の一級建築士免許は、博士課程時代の構造計算や設計図書のバイトには有効であった。

 しかし昭和40年から大学の教職についたので、一級建築士の資格免許証を使うことはなくなっていた。昭和57年(1982)から平成28年(2016)迄の34年間、練馬区の建築審査会委員(委員は5名、建築基準法に関して特定行政庁が法の例外的取り扱いに当たって同意を与える権限をもつ)を務めたことで、赤本と称する分厚い建築基準法を毎月一回は見る機会があった。そのため、最新の法律や告示が改正されたことを知ることができた。

 1997年に日本建築学会の会長に就任した頃、1995年の阪神・淡路大震災から構造系の法改正や、1997年の京都議定書・COP3の地球温暖化対策に当たって、文部科学省所管の建築学会が中心になって各種の基準作成に当たった。建設省所管の建築士会や建築家協会、建築事務所協会との交流や土木学会との役割分担等、建設業界のあるべき姿を模索すると共に、学会として倫理綱領を定める必要を痛感した。

 また、2005年には日本学術会議から「大都市における地震災害時の安全の確保について」を小泉純一郎首相に勧告、重く受け止めるとの回答。その成果もあって、2008年の新建築士制度の発足となって、3年に1回の定期講習と修了考査を受けざるを得なくなったことを改めて考えてみた。37万人もの誇り高き一級建築士と75万人もの二級建築士に加えて、7万社以上の一級建築士事務所開設者とその管理者は、3年に1回と義務付けたこの定期講習と修了考査は、内容次第で国土強靱化やカーボンニュートラルの国家目標の達成に大きな戦力になると考えた。コロナ禍の自宅でくつろぎながら、webで受講した内容は、満席の大教室で聞かされる講習とは違って新鮮であったこともある。 2月1日に講習修了考査を受けてすぐ、このBlogを書いたが、それから3月25日付「建築士定期講習修了書」を受領するまで、考査に合格したかどうか、40問中、何問間違ったかなど気になっていた。自動車の免許証同様、高齢者は免許を返却すべきにも思えてきた。この制度も再考すべきかと思ったのは、免許書換え交付の手続きをせんとしたところ、申請書類のExcelテンプレートの生年月日が昭和16年からしか記入できず、困ってしまったので。

Blog#52 五十嵐敬喜著「土地は誰のものか」(2022.2 岩波新書)を読んで

 2022年2月、八ヶ岳研究会で五十嵐先生から八ヶ岳山麓の財産区の土地利用を活性化するに当たってお話を伺う予定であったが、コロナ禍もあって、5月の諏訪大社祭まで延期になった。その代わりか、近著を事前に読んでおくようと贈呈された本書を、早速一読しての感想。

1970年から1995年は人口増大と土地の高騰による乱開発、2000年から今日は人口減少と空き家・空地等の所有者不明問題。この原因について、新旧土地基本法を中心に、法律面からの対策遅延の貧しさを歴史的に解説した上で、今日の土地所有の権利は法務省によって保護され、利用は公共の福祉を優先するも、国交省や農水省がその用途に関して所轄するが、適正に管理する主体者が欠けている。具体的には「土地は適正に利用されるだけでなく管理されなければならない」等で、「土地所有者には管理義務があり、適正に利用する責務が伴う」との論は誠に正論である。

 海外では土地・建物は一体の不動産で、利用優先で(100年単位)、建築不自由であるが、日本は土地と建物は別の建築自由不動産で(20年単位)所有が優先されている。そのためか限界集落や空き家・空地等の所有者不明土地が国土の10数%に及び、その結果、地方都市のみならず大都市でも荒廃が顕著である。

 地方創生と格差是正のためとした都市再生特別措置法(2002~、2020年改正)やコンパクトシティ(2007~ 2014年改正)などによって、成長に次ぐ成長、衰退に次ぐ衰退を助長する状況は、立法の精神に反する成果との説もよく理解できた。

 また、ハワードの田園都市論やレッチワースの実例から、日本の田園都市やニュータウンには「コミュニティ・縁・アソシエーション・コモン」の発想がなく、「幸福と真の豊かさ・美しさや仕事場をつくる土地・建物の共同所有と管理」という考え方が欠けている。トヨタの「ウーブン・シティ(Woven City)」や岸田政権のデジタル田園都市構想にも、この視点からの配慮が欠けているとして、五十嵐先生は「土地公有化と志をもって美しい地域を創造するためには、現代総有がこれから必要になる。」

 この五十嵐著に共鳴しつつ、やっと法律家に、私の専門分野である建築や都市のあり方に関心をもってもらえたと感動すると同時に、30年も前、雑誌「潮」(1988年11月号)に連載された田原総一朗(当時54才)の「時代を招く知の旗手たち⑦」のゲストに、当時51才であった私が登場しての一説。

『尾島はいきなりいった。「東京には土地がないのではない、社会基盤がないのだ。地表は自然に開放、空中には私的空間、地下には公共財を。今こそ21世紀の都市の骨格づくりが必要だ」として、『大都市アングラ構想』を展開すべき。」「東京は土地が足りないから地価が暴騰するなんて理屈がまかりとおっているが、全然違う。東京は広すぎるくらいです。足りないのは土地ではなく発想です。東京を面としてでなく空間(容積)として利用する発想と、それを実現できるインフラが欠けているのである」(注:東京23区の土地6万haに建物延面積が6万ha。これは1階建ての建物が地表べったり、パリはその3倍、N.Y.はその5倍の密度)。

 田原「何が最大の問題か。」

 尾島「それは施主、主体者の不在だ。都市全体の責任を持つ施主が不在だ。」 

 また、都市問題会議30周年記念編「都市は誰のものか」(2007年2月、清文社)の一説で、私は「都市の主体者を問う」と題して、「家の主体者さえ不明になった今日、都市の主体者は誰かと問われて市長と答える人は居ないように、誰が管理責務をもっているのか分からない。江戸時代の日本の都市は、貧しくとも、それなりの品格があり、ともかくも美しかったと海外の旅行記にある。」

 この本では、鎌倉の竹内謙市長、掛川の榛村純一市長、三春町の伊藤寛町長等の町づくりの苦労談は、五十嵐著にある日本の建築自由と建築確認制度にあって、地方自治体に介入する権利がない不思議な国と述べていることに合致する。この五十嵐説には私も大賛成で、私が日本学術会議会員であった5年間の最後の2005年4月に、小泉総理への勧告、2005年6月には「大都市をめぐる特別委員会委員長」としての報告主旨と等しく、また最近は建築基準法に代替する建築基本法の必要性を提案している神田順先生を支援している。

 末筆ながら、法律家から日本の土地基本法の問題から始めて建築基準法や都市計画法にみる公法や民法のあり方が如何に不思議な状況にあるかを本書で教えられ、これまでに体験してきた日本の理不尽さの背景に「法学界の無視」があったことを知り、よく理解できた。と同時に、もっと詳細に現代総有のあり方を知りたいと思った次第である。

Blog#51 冠松次郎・槙有恒・深田久弥にかかわる想い出

 2022年2月23日は天皇誕生日の休日とあって、コロナ禍であったが、息子に西武デパートで古書市最終日だからと誘われて出かけた。大学定年後は、月一回必ず、丸善や紀伊國屋書店で1~2時間、面白い本をあさっていたが、最近、何故か面倒になってきていたのに、古書市と聞いて急に興味が湧いたのだ。

 約束の40分間で買い求めた10冊の中で、特に気に入って、その晩に完読したのが冠松次郎の「わが山・わが渓」(昭和17年、墨水書房)と再版「峰と渓」(2002年、河出書房新書)である。

 1949年、12歳の時に初めて体験した3泊4日の立山登山がやみつきになって、中学・高校時代には家の奥庭で遊ぶ気楽な気持ちで、立山・白馬・黒部等、近郊の山や渓のみならず、富士山から中央アルプスまで山仲間と遠征する間に、山小屋やテントの中でガイドや友人達から聞いた山々の伝説で最も忘れられない人の名は冠松次郎(1883-1970)であった。

 何故なら、剱沢から黒部へ下山する度に何度も挑戦しようとして出来ず、冠松次郎だけが、私の生まれた昭和12年に見たという黒部の「幻の大滝」伝説である。当時、冠松次郎は地元のガイド(ボッカ、剱の初登頂行者の類)の一人ぐらいに考えていたため、有名なアルピニストで著書もある人とは考えてもいなかった。この時代から既に70年、最近になってテレビでドローンで空中撮影した「幻の大滝」と、更に近くまでカメラマンや登山家が大変な渓谷を登って近づく場面等が放送されて、やっと本当に「幻の大滝」が存在したことや、幻ではなく実在する秘境の名瀑であったことを知ったが、まさかこの古書市で冠松次郎の古書を2冊も手に出来たのは軌跡に思えた。

 この著書の一節、昭和12年6月記「大勢の力で幻の大滝に近づくも九死に一生を得ての撤退。」

 昭和12年7月記「滝を語る」で「剱岳三千余米突に源を発する剱沢中央部の瀑布・剱の大瀑である。その滝の全貌は今日、未だ吾人の前に展開されていない。」

 昭和13年6月記「剱の大滝の上まで深雪の上をのみ行く今は二時間で楽に着くことが出来た。大雪渓はそこで大きく切れている。そして剱の大滝の頭が雪の底から溢れるように奔出している。私等は数丈の雪崖にステップを切ってそのすぐ上まで降りて見た。脚下は井戸側のように丸く削られた花崗岩の大岩壁だ。その底の方から水煙が雲のように濛々と立ち勝って、剱沢全流の水は棒立ちになって崩落している。下を覗くとまるで底なし井戸だ。私等は瀑布を囲む数百米突の断崖をカメラに収めると来た道をまた上流に引き返した。」

 黒部の秘境・剱沢の「幻の大滝」を一度は見たいと考えていた10代の夢が、80代になってドローンの映像を見て、幻の行者の如き山男・冠松次郎が著名なアルピニストで、その著作で上記の如く、生々しく「幻の大滝」に近づき、一見するために何度も何度も、しかも一人でなく、時には大勢の力を借りて挑戦していたことを今になって知った。 

 この興奮から、このBlogを書きながらもう一冊、建築家槇文彦の叔父・槙有恒(1894-1988)の古書「山行」(昭和23年7月、岡書店)を一読して驚く。なんとこの本に「板倉勝宣君の死(大正12年1月)」の章があった。

 富山高校時代の友達には立山山麓から通学している学生が多く、その一人に雄山神社の宮司の息子(遠北邦彦君)がいて、彼を中心に多くの山小屋に仲間がいたことが幸いして、全国・四季の山々を楽しめた。

 早稲田の建築学科に入ると時間がなく、東京からの山歩きは大変で、土日や春夏の休みくらいになったが、学部・大学院時代の9年間は立山・黒部開山・中興の祖である佐伯宗義代議士別宅での寄宿生活もあって、アルバイトを兼ねての立山山麓を散策する機会が多かった。

 印象に残っているのは、小学校から中学校時代にはまだ称名滝を登って弥陀ヶ原から天狗平・室堂ルートか立山温泉経由、松尾峠かザラ峠ルートで一ノ越ルートが主で、何度もこの道を歩く度に、著名な登山家である槙有恒一行が何故こんなところで遭難したのかを知りたいと思っていた。

 特に大学院2年の5月連休時、立山登頂後に一ノ越で骨折。一本足スキーで天狗平から松尾峠を目指して滑降しつつ、弥陀ヶ原を見ながら、何度も疲れて果てて天を仰いで休みながら、槙有恒の遭難時伝説を想い出して頑張り、下山したこともあり、天候次第でこの辺が一番危険で、一番美しく快適な所と認識していた。しかしこの本のこの章を読むまで、実際の遭難状況を知らぬままに居たことである。

 この生々しい体験記を読みながら、若い頃に何度もこの遭難記に類似した体験をしたことを想い出し、改めて私が山に行く度、下山するまで母がどれほど心配していたかよくわかった。仏壇の母に感謝し、今更、山歩きの危険さを知るのであった。

 ついでにもう一冊、深田久弥著「山頂の想い」(昭和46年7月、新潮社)のあとがきに、妻・深田志げ子は「この本は図らずも自選の最後の山の紀行文集となった」とあり、最初に久弥は「日本百名山その後」として「百の名山は私個人の選択であって、客観的妥当性があるわけでないが、しかし一つの目安にはなると見えて、百のうち自分は幾つ登ったか目次にしるしをつけて、その数のふえて行くのを楽しみにしている読者が多いようである。」また「この本は案外評判がよく、1964年の初版以来、毎年増刷を重ね、今年12刷に及んだ。」

 私自身、この本の初版以来3~4冊は購入し、60座以上に〇印を付している。特に大学院生から一人で山を歩くことが多くなって、いつかこの百名山の簡にして要を得た山案内記は、5万分1地図同様、必携の書になっていた。最近では200名山から300~500名山と誰が編集しているかわからなくなっていたが、そのこともすでに深田久弥(1903-1971)は見越して居たことを教えられた。

 10冊購入の内4冊は山の本であったが、他にも面白い古書が手元にあって、これからは古書の旅に出るのも健康の秘訣と想った次第である。