Blog#52 五十嵐敬喜著「土地は誰のものか」(2022.2 岩波新書)を読んで

 2022年2月、八ヶ岳研究会で五十嵐先生から八ヶ岳山麓の財産区の土地利用を活性化するに当たってお話を伺う予定であったが、コロナ禍もあって、5月の諏訪大社祭まで延期になった。その代わりか、近著を事前に読んでおくようと贈呈された本書を、早速一読しての感想。

1970年から1995年は人口増大と土地の高騰による乱開発、2000年から今日は人口減少と空き家・空地等の所有者不明問題。この原因について、新旧土地基本法を中心に、法律面からの対策遅延の貧しさを歴史的に解説した上で、今日の土地所有の権利は法務省によって保護され、利用は公共の福祉を優先するも、国交省や農水省がその用途に関して所轄するが、適正に管理する主体者が欠けている。具体的には「土地は適正に利用されるだけでなく管理されなければならない」等で、「土地所有者には管理義務があり、適正に利用する責務が伴う」との論は誠に正論である。

 海外では土地・建物は一体の不動産で、利用優先で(100年単位)、建築不自由であるが、日本は土地と建物は別の建築自由不動産で(20年単位)所有が優先されている。そのためか限界集落や空き家・空地等の所有者不明土地が国土の10数%に及び、その結果、地方都市のみならず大都市でも荒廃が顕著である。

 地方創生と格差是正のためとした都市再生特別措置法(2002~、2020年改正)やコンパクトシティ(2007~ 2014年改正)などによって、成長に次ぐ成長、衰退に次ぐ衰退を助長する状況は、立法の精神に反する成果との説もよく理解できた。

 また、ハワードの田園都市論やレッチワースの実例から、日本の田園都市やニュータウンには「コミュニティ・縁・アソシエーション・コモン」の発想がなく、「幸福と真の豊かさ・美しさや仕事場をつくる土地・建物の共同所有と管理」という考え方が欠けている。トヨタの「ウーブン・シティ(Woven City)」や岸田政権のデジタル田園都市構想にも、この視点からの配慮が欠けているとして、五十嵐先生は「土地公有化と志をもって美しい地域を創造するためには、現代総有がこれから必要になる。」

 この五十嵐著に共鳴しつつ、やっと法律家に、私の専門分野である建築や都市のあり方に関心をもってもらえたと感動すると同時に、30年も前、雑誌「潮」(1988年11月号)に連載された田原総一朗(当時54才)の「時代を招く知の旗手たち⑦」のゲストに、当時51才であった私が登場しての一説。

『尾島はいきなりいった。「東京には土地がないのではない、社会基盤がないのだ。地表は自然に開放、空中には私的空間、地下には公共財を。今こそ21世紀の都市の骨格づくりが必要だ」として、『大都市アングラ構想』を展開すべき。」「東京は土地が足りないから地価が暴騰するなんて理屈がまかりとおっているが、全然違う。東京は広すぎるくらいです。足りないのは土地ではなく発想です。東京を面としてでなく空間(容積)として利用する発想と、それを実現できるインフラが欠けているのである」(注:東京23区の土地6万haに建物延面積が6万ha。これは1階建ての建物が地表べったり、パリはその3倍、N.Y.はその5倍の密度)。

 田原「何が最大の問題か。」

 尾島「それは施主、主体者の不在だ。都市全体の責任を持つ施主が不在だ。」 

 また、都市問題会議30周年記念編「都市は誰のものか」(2007年2月、清文社)の一説で、私は「都市の主体者を問う」と題して、「家の主体者さえ不明になった今日、都市の主体者は誰かと問われて市長と答える人は居ないように、誰が管理責務をもっているのか分からない。江戸時代の日本の都市は、貧しくとも、それなりの品格があり、ともかくも美しかったと海外の旅行記にある。」

 この本では、鎌倉の竹内謙市長、掛川の榛村純一市長、三春町の伊藤寛町長等の町づくりの苦労談は、五十嵐著にある日本の建築自由と建築確認制度にあって、地方自治体に介入する権利がない不思議な国と述べていることに合致する。この五十嵐説には私も大賛成で、私が日本学術会議会員であった5年間の最後の2005年4月に、小泉総理への勧告、2005年6月には「大都市をめぐる特別委員会委員長」としての報告主旨と等しく、また最近は建築基準法に代替する建築基本法の必要性を提案している神田順先生を支援している。

 末筆ながら、法律家から日本の土地基本法の問題から始めて建築基準法や都市計画法にみる公法や民法のあり方が如何に不思議な状況にあるかを本書で教えられ、これまでに体験してきた日本の理不尽さの背景に「法学界の無視」があったことを知り、よく理解できた。と同時に、もっと詳細に現代総有のあり方を知りたいと思った次第である。