Blog#59 第20回NPO-AIUE総会に出席して考えたこと

 2022年6月24日(金)15:00~16:00、東京都練馬区のNPO-AIUE本部で第20回総会を開催する。会員197人、委任状29人、web出席者:北海道・東北3人(須藤、渡辺、小柳)、関東1人(前川)、関西3人(森山・藤本・山田)、九州4人(依田・福田・高・バート)、対面出席8人(吉田・中嶋・高口・市川・佐土原・渋田・小林・尾島)で盛況。小林事務局長の進行で、吉田理事長は手際よく司会。決議案、支部報告後に横浜での第19回国際シンポは、佐土原・村上・高口の実行委員会で順調に進むとの報告。論文の応募状況について高君より報告。中国・韓国他、海外の状況以上に日本国内での支援と同時に、コロナ禍での出国や帰国後が心配。

 最後に、私から4点お願いする。

①2018年、理事長を吉田君に交代したが、NPO-AIUEや国際会議の継続を考え、会長職を創設。経営基盤を確実にするため、DHC協会等、私の関係する各種法人との連携を強化する。

②2020年度に拠点を銀座から練馬に移したこともあって、NPOの研究資金が不足。最小限、年間300万円程確保するためには、事業部と担当を設けたい。

 イ.BΣS事業(増田(幸)・渋田) ロ.JCM事業(吉田・前川) ハ.DHC事業(佐土原・村上) ニ.安全研継承(高口・秋山) ホ.PRH再生(原・中島) ヘ.国際投資(市川・州一) ト.出版・図書等(久保田・岡)を考えている。

③NPO-AIUEとは別に、初心通り、九州に一般社団法人(仮)国際都市環境学会を設立。依田・福田・高・バートを中心に、2023年度には設立。

④2024年10月頃に、尾島の出版(「都市環境学へ」と「尾島研究室の軌跡」の各続編)を予定。2冊の配布と記念会に10~20人の実行委員会(代表:中嶋君)を予定したい。これ迄の尾島研出版物は100種、約3000~5000冊の在庫あり。その処分はNPOに期待している。

 以上4点をお願いして、自由討論に入る。

 Web11人と対面8人での自由討論は画像を活用したことにより、実にドラマチックに展開した。九州の福田・依田・高・バート君の決意や東北の渡邉新学長はなかなかに立派で頼もしく見えたのも、渋田君の演出の成果であった。また高口君のNPOと一般社団法人の名称を変える提案は、「アジア」と「国際」を冠する二つの都市環境学会で了解する。

以上で総会終了。

 Web参加者には申し訳なかったが、16:30~18:00は懇親会。練馬での久しぶり多勢の宴席になった。Blog58で調達した富山の銘酒「黒部峡」の吟醸と大吟醸酒を飲み比べる。お弁当は米八のおこわ弁当、デザートは吉田君の持参した市川ちもと「手児奈の里」で、銀座オフィスとは違ったアットホームな雰囲気で、これからのNPOや一般社団法人としての日本・アジア・世界の都市環境論に花が咲く。

 2000年、北九州で理工総研を設立し、選択定年後の活動基盤としてアジア都市環境学会を創立。2003年のNPO化から20年。国際会議は横浜大会で19回で、次の韓国大会が20周年である。

 九州を拠点とする都市環境学会はアジアから世界へと本格的なAIUE:Association of International Urban Environment(一社)A.I.U.E.として発展するときが来たのだ。温泉でのDrink & Togetherを目的に、早稲田の一研究室卒業生達の懇親会的場を脱皮して、国際的に都市環境学の発展に寄与する時が来たと実感したのは、2021年に北九州市立大学訪問時であった。彼らが間もなく定年退職したときには、その実績を普及させる場が必要になる。大学から学会へと職場を移しての30年間があること。アジアのみならず、世界中が都市環境学の必要性を求めているとき、福田・高・バート君を中心に、依田・堀・三浦君等が協力すれば、新しい職場が創造できる。

 まずは最小限(会員年会費1万円、賛助法人会費1口3万円/年)の一般社団法人国際都市環境学会がその職場であり、そのためにこその設立である。それをNPO-AIUEが全面支援することで、その第1回(通算第21回目)を2024年の西安シンポにして欲しいと願う次第である。

 これを機会に、NPO-AIUEのホームページに新組織と改正定款(案)を記載する予定であり、また私の日記的Blogを公表しているので、御意見を戴ければ幸いである。また本日のBlogでの実名表記と敬称を略した失礼は高齢に免じてお許しを。

(コメントを受けて一部修正しました)

Blog#58 笹山敬輔著「ドリフターズとその時代」(2022.6.20 文春新書)を読んで

 

 2022年6月21日(火)「此の度、息子が新書を出しましたので」と贈られた本を一読して、かねてから非凡な文才を認め、いつか日本の演劇研究者として著名になる縁者の一人と思っていただけに、研究書ならぬドリフターズの新書出版に驚いた。しかし読む程に面白い。また、Blog56でも書いたが、6月11日(土)に妻子と東村山の北山公園に散歩しての帰途、私は東京で唯一の国宝木造建築である正福寺が御開帳とあるから立ち寄ろうと提案したが、それ以上に興味あるのは東村山駅東口の志村けんの銅像を見ることだと言われて唖然!立派な銅像、しかも和服で正装したテレビで見慣れた志村けんのおどけた「バカ殿」の姿と違った立像に加えて、台座には「多くの笑いと感動をありがとう」とあった。

 昨今、急激な時代の変化を感じていただけに、敬輔著の第6章「志村けん「喜劇王」への道」の一文『演劇研究の観点から言えば、志村の改革案は小林一三と同じである』と。私の家内の宝塚ファンには長い年月脱帽で、いつか宝塚と小林一三を勉強せざるを得なくなっていたから、小林一三と並ぶ程に志村けんは「家族連れを中心に広く大衆に娯楽を提供するという理念の共通性」に社会的貢献をしたとして、東村山市の小林一三ならぬ名誉市民になったのには、成る程と感じ入ってしまった。

 「いかりや」と「けん」の師匠と弟子の互いの立場。不仲と蜜月の物語。本書にあるドリフターズの愛憎入り交じっての語りの表現は、見事と言う他ない。喜劇と悲劇は紙一重という以上に、この世界の価値を改めて教えられた。昭和のエノケンやロッパ、藤山寛美同様、世界のチャップリンを例に出すまでもなく、喜劇やお笑いの世界がもつ価値について、アニメや漫画が日本文化を世界文化にまで展開せんとする時代にあって、日本のお笑いが世界に通じる時代を開くのは、敬輔君の如き存在あってのものかと。

 それにしても、敬輔君は富山の配置薬の雄「ケロリン本舗」笹山本家の4代目にして、初めて生まれた男の子で、生まれながらの後継者と期待されていただけに、大学進学に当たってお笑いの道に進みたいと周辺を困らせたことを思い出す。Blog57で、私の母が育った富山県泊町を訪ねた夜、浜多氏と話し合っているとき、現在進行中の西町北総曲輪再開発のキーテナントとして、最初は富山県薬業会館の誘致を考えていたが、その薬業界の中心、内外薬品が広貫堂や大協薬品と合併して富山めぐみ製薬になったことも、この時初めて知った。 

 1925年、父の姉のみどり伯母が笹山順蔵氏と結婚。アスピリンを配合した鎮痛剤「ケロリン」を開発、製造販売して財を成したが急逝された。ケロリン本舗を継いだ長女の慶子さんが戦後10年以上も個人商店であったことから、富山県の長者番付のトップであった。その婿に、金沢の前田藩菩提寺(宝円寺)の住職次男の中野忠松氏が決まった。その年に忠松氏をリーダーに、小学生の私や三女の洋子さん等と初めて立山登山をしたのが1950年8月。その時から忠松さんは私の兄貴分として、建築学科の大学院生の時には金沢の茶屋で芸者さんとの遊び方を教わったこと。

市ヶ谷のケロリンビル
  (現存せず)

 富山のケロリン本舗で包装の機械化に当たっての工場設計を託され、続いて1966年には東京の市ヶ谷でケロリン本舗の東京支店ビル(住居と店舗・オフィス)の設計を依頼され(施工:松井建設)、このビルの2階を借りて、私が1970年の大阪万博会場設計をするに当たって、日本環境技研(株)を設立。このビルにはなんと著名な建築家(伊藤・黒川・石井・月尾他)も間借りしていた。

 1971年には富山の笹山忠松自邸の設計(施工:竹中工務店)をさせてもらったこと。1975年には2人で伊東の山荘(日本で初めてフィンランドから購入した山荘を(株)ジェスで建設)。1975年には忠松氏の長女・満里さんと和紀君の仲人をしたが、残念なことに、1981年には50代の若さで逝去された。

 その後、1990年代に満里さんの長男・敬輔君が大学進学を前にお笑い芸人になりたいと引きこもって、みどり伯母様や父の和紀氏を心配させたこと。しかし私が直接面接したときには、全く心配なしと伝えたこと。周辺の人たちの方が富山でお笑い芸人を目指すというのは突飛に思えたようだ。その後、筑波大学の博士論文とにもなった近代演劇に関する研究書「演技術の日本近代」を見て、お笑いの道ならぬ演劇の道を開く「申し子」であったことに気づいた。その彼が今また、家業の薬業と文学との二足草鞋で周辺を驚かせているのは、実に嬉しいことだ。

Blog#57 念願の越中宮崎海岸の「たら汁」と「地酒」に酔う

 2022年6月13日(月)、富山市西町北総曲輪再開発準備組合に出席して後、富山市の藤井裕久市長と三浦良平副市長に表敬訪問。

 14日は金沢でM社の株主総会に出席して、帰途、新幹線の富山駅で今はJRと別会社になった「あいの風とやま鉄道」でSUICAの利用できる魚津駅へ。出迎えの浜多弘之氏と子息の弘匡君の車で泊町(現在は朝日町)へ。

 泊町は私の母が結婚するまで過ごした町(さみさと小学校周辺)とあって、一度来たかった町である。記憶にあるのは、この町の近くの宮崎海岸(東西4km、幅80m、日本の渚百選)で、寒中のたら汁を食べたこと、その味が未だに忘れられない程おいしかったこと。また、この町の山奥の小川温泉(開湯400年、子宝の湯)に泊まりたかったのは、母の新婚旅行地であったこと。しかし残念ながら、当日は休み(不定期)とあって、入善町の黒部川明日(あけび)温泉元湯という20年程前に開湯した温泉に泊まる。

 浜多氏と親しかった朝日町の魚津龍一前町長の案内で、朝日町の料亭月見家で、特に名物たら汁を御馳走になる。この料亭はなんと築100年以上の遊郭の旧居を利用したというだけに、家の造作は実に立派で、天井や床柱を見るだけで、その見事なことに加えて、女将と料理の素晴らしさに感動した。その上、魚津氏は4~5年前まで朝日町の名物町長であっただけに、持ち込まれた地酒「黒部峡」の素晴らしかったこと。すっかり至福の一夜で、3人で夜更けまで昔話に興じた。

 15日は近くの金太郎温泉と鉱脈を一つにすると思われる明日(あけび)温泉元湯の源泉を視察する。地下688mから毎分410ℓ、45.5℃の温泉が湧出する。小川温泉の毎分470ℓと同じ程度で、金太郎温泉の地下700mから毎分1500ℓ、泉温70℃に比べると相当少ないが、泉質の良さは定評があり、「天然の化粧水」と呼ばれる美肌効果の高い源泉掛け流しである。

 幸い天候も持ち直し、念願の宮崎海岸と母が育った泊町を再び案内してもらう。勿論昔の面影はなく、町はあくまで静かで人影は全くない淋しい町であった。あいの風とやま鉄道の泊駅の次は越中宮崎海岸駅(ヒスイ海岸駅)。駅前はすぐにヒスイ海岸で、テトラポットもなく、昔ながらの美しい松林の砂防林が続く。「たら汁街道」とも呼ばれて、何軒かの食堂もある。駅前のヒスイ海岸観光交流拠点施設ヒスイテラスにはヒスイの鑑定をしてくれる専門家も居て、なかなかに垢抜けたサービス、その説明を聞く限り、この景観を演出したのは明らかに魚津前町長のようだ。

ヒスイ鑑定士とテラス前で、2022年6月14日、越中宮崎海岸ヒスイテラス屋上より

 親不知子不知の西の入口、越中と越後の境関所跡に銘酒ありとして、1626年、加賀藩関所の与力を勤め、傍らに酒造りを始めた創業400年の林酒造へ。林洋一代表の下で息子が杜氏をして、8年連続金沢国税局酒類鑑評会優等賞受賞。昔ながらの寒造りの「黒部峡」「関桜」「若大将」の銘柄は、立山連峰よりの雪解け水と黒部渓谷をイメージしたという。昨夜の料亭で魚津氏が持ち込んだ美酒である。

 

 昔は寒中に漁から帰ってくる漁師のための「たら汁」であったが、今は「宮崎海岸のたら汁街道」に立ち並ぶ店や民宿、ドライブインで一年中味わうことができる。

 蛇足だが、2006年に銀座尾島研究室を開設したとき、研究室のおもてなし用として成功した魚津の銘酒、本江酒造の代表銘柄「北洋の袋吊り」が、2018年頃、杜氏が代わったこともあって、この郷里の銘酒に代替する酒を求めていた。今度の浜多・魚津両氏の案内で、今は亡き母との想い出の地を訪ね、念願の「たら汁」と地酒「黒部峡」に酔うことができた成果は大きい。

 新幹線「黒部宇奈月温泉駅」からわずか2時間13分、一眠りする間に上野着であった。こんな簡単に念願成就できる時代まで生きていたことに感謝すべきか。

Blog#56 東村山の北山公園「菖蒲苑」散歩

 2022年6月11日(土)の朝、娘に「母と出かけるのでよろしく」と言われて、昼食のことを考え、同行できる場所かと聞く。人口15万人余の東村山市の花菖蒲を観るのだから「一緒にどうぞ」となった。嬉しい限りで、足取りも軽く、西武線所沢駅の一つ手前、志村けんで有名になった東村山駅着。10年ほど前に出版した「この都市のまほろば」の5巻、6巻で取り上げたのは、当時は東京で唯一の国宝建造物「正福寺地蔵堂」(1407年建立)であった。室町時代にはこの辺はそれなりに発展していたところだ。

 駅からタクシーで5分の北山公園は午前8時30分開園で、すでに多くの人たちで賑わっていた。北山公園入口には手作りのゲートや屋台が立ち並ぶも、入場無料。新東京百景にも選ばれており、6月の花菖蒲は600種類、8千株、10万本の花菖蒲が咲き競う。景観はゲートを通る間もなく本当に見事で、すごい!すごい!!あまりに立派な花菖蒲に驚きながら、シャッターを押し続ける。学生時代に何故か一人で明治神宮の菖蒲園を見に行ったことを思い出す。あのときの菖蒲園に比べると桁違いの量と質で、9月にはこの花菖蒲が曼珠沙華畑になるというが、曼珠沙華と違って花菖蒲の手入れは大変だ。こんなに沢山の菖蒲を植え、そして毎月手入れをして、入場料も取らず、一般公開している東村山市の行政力に脱帽し、感謝。

 娘の提案で、当地で、少しでも散財しようと絵はがきや地元野菜を購入し、茶所カワセミハウスで一休み。本格手打ちうどんが御当地名物とあって、如何にも田舎風の野口製麺所本店で温玉てんぷらうどんの昼食。

 明日が正福寺の御開帳とあって参拝せんとしたが、妻子は興味ない上、雨模様とあって、タクシーを呼んで東村山駅へ。東口の志村けんの銅像は、正福寺よりも関心がある様子。「多くの笑いと感動をありがとう」の立看板と和服で正装した志村けんらしからぬ銅像を見る。  本日は7000歩の散歩であった。

2022.6.11(土)10:00am