Blog#73_「世界遺産の五〇年」を読んで考えた日本の進路

 

「世界遺産の五〇年」
(2022.10 (株)ブックエンド)

 2022年10月日22日、五十嵐先生から「(つよ)い文化を創る会」のメンバー、松浦晃一郎、岩槻邦男、西村幸夫、五十嵐敬喜連著の『世界遺産の五〇年-文化の多様性と日本の役割-』(2022年10月 (株)ブックエンド)が贈られてきた。先ずは4人の座談会から読み始めて、日本における世界遺産の位置づけがよく理解できた。

 「日本が世界遺産に参加したのは1992年、世界で125番目、世界遺産条約採択から20年後。しかし、その時から30年で現在の日本の世界遺産登録数は25件で、世界11位。間もなくベスト10に入る」という。ユネスコの世界遺産委員会議長で、アジアで初の第8代ユネスコ事務局長であった松浦氏の発言。

 日本イコモス国内委員会委員長であった国学院大学の西村氏は「日本が参加に遅れた理由として、日本の文化遺産は世界遺産に参加する100年前から独立した仕組みがあったためである。しかし実際に参加してみると、日本文化への見方を相対化できて、新しい視点と思想によって見直されることになった」という。

 2007年の文化功労者で、植物学の第一人者である岩槻氏は「文化遺産20件に対し、自然遺産は5件と少ないのは、日本語の『自然』は『nature』の『原生自然』と意味が異なること。また、日本には天然記念物や国立公園、ジオパークやエコパークの指定も含めて検討していたこともある」と話す。

 五十嵐氏は「日本の世界遺産は1万5000年前の縄文時代の2ヶ所(縄文遺跡群と富士山)、4世紀の2ヶ所(沖ノ島と古墳群)、6世紀の(紀伊山地)、7世紀の(法隆寺)、8世紀の2ヶ所(奈良と京都)、11世紀の(平泉)、12世紀の(厳島)、14世紀の(琉球)、15世紀の(石見銀山)、16世紀の(姫路城)、17世紀の2ヶ所(日光と長崎・天草)、18世紀の(白川郷)、19世紀の2ヶ所(富岡製糸場と産業遺産群)、20世紀の2ヶ所(原爆ドームと西洋美術館)のように原始・古代・中世・近世・近現代と全ての時代に亘っている。つまり丸ごと日本の普遍的な価値が世界的に認められていることで、これこそが日本の世界遺産と日本文化の大きな特徴ではないか」という。

 この五十嵐発言に対して、すかさず松浦氏は「弥生時代の遺跡や飛鳥・藤原時代、武士政権の鎌倉時代が抜けているが、その可能性は十分ある」と五十嵐説を支援する。

 こうした討論はなかなかで、特に五十嵐氏の「日本国とは何か、日本人とは何か」という問いに対して、「世界遺産という世界の普遍的な価値という視点から見て、縄文時代から今日に至るまで、日本文化の連続性を示すことができた。」

 この五十嵐見解をも参考に、サミュエル・ハンチントン著の『文明の衝突』(2000年、集英社)を読む。
 「日本が独自の文明をもつようになったのは紀元5世紀頃だった。現代の世界主要8大文明として、中華(中国)、インド(ヒンドゥー)、イスラム、東方正教会(ロシア)、西欧、ラテンアメリカ、アフリカなどの文明と並んで日本文明が挙げられている。しかし一部の学者が日本と中国の文明・文化を同一視するのは、日本文明は中華文明から西暦100年から400年頃に派生したとしているためである。ハンチントンも日本文明の起源は5世紀頃としている。ハンチントン著の「解題」で、京都大学の中西輝政名誉教授が、最後に「日本の選択」として、「中国の共産党独裁体制が続く限り、未熟で粗野な覇権国家になる可能性が高い。こうした状況で、日本は同じ文明をもつ友を見捨て、西欧文明に見方するのかとなる時、日本人は中国と同じ文明に属したことが『ない』と自信を持って発言し、独自の選択をすべき」としている。20年前のハンチントンや中西教授の慧眼に脱帽する。

 7世紀初頭、隋の煬帝に送った聖徳太子の手紙「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す 恙無きや」や、鎌倉時代の元寇(文永と弘安の役)時の日本人の国防意識の高さ、明治維新の日本の先覚者達の言動を考える時、これからの日本の進路を考えるに当たって、こうした五十嵐氏の「日本文化論」は貴重である。日本文明は中華文明の派生ではなく、日本国も日本人も1万5000年前から独立した文明と文化を持ち続けてきたこと。あくまで中華文明の派生ではなく、日本列島に1万5000年以上継続する8大世界文明にあって、特にユニークな平和文明で、今後の世界文明に大きく貢献すべきこと。

 奇しくも10月23日、中国共産党は集団指導体制から習近平一強の体制にシフトした。ロシアのプーチンに続いての独裁国家として香港に続いて台湾への進撃も予測される。明治維新の日本国と日本人の置かれている立場と同じ状況から、日露や日中との関係性を真っ正面から考え、対策を覚悟しなければならなくなった。

 末筆ながら、五十嵐先生の世界遺産に対する鋭い発言に日頃脱帽していましたが、本書で2008年から4人組の「逞い文化を創る会」支援があったことを知りました。こうした研究会の働きこそが、これからの日本の進路を決定する上で益々大切になると思います。

Blog#72 郷里の畏友・稲葉實氏逝去と浜多弘之氏危篤の報に「ああ万事休す」

 2022年10月5日、職藝学院からの電話で、稲葉實理事長が4日逝去され、通夜・葬儀は稲葉家で執り行うとの連絡。

 去る9月2日、富山の自宅へ職藝学院の上野幸夫教授・久郷慎治教授と尾久彩子さんが来て、稲葉理事長の危篤を伝えて、学院の今後について相談された。しかし強運の稲葉君のこと、いずれ又、何食わぬ顔で現れると軽く考えていただけに、これは一大事となった。同じ時、魚津の浜多弘之氏が富山ろうさい病院に緊急入院、コロナ禍もあって面会謝絶と子息の弘匡氏からの報である。

 1994年正月、中沖豊富山県知事の推薦で、富山高校の後輩であった稲葉君が富山国際職藝学院の理事長で、私が経営責任なしの学院長になり、2015年に副学院長の池嵜助成教授に引き継ぐまで経営のことは全く知らずに、1996年の開校から卒業式のみ参加の学院長をしてきた。全て稲葉君任せであった。建築(大工)32名、造園12名、2学年で80余人の小さな学院も開校10年で全卒業生500余名となかなかの実績で、2007年には日本建築学会から第一回「教育賞」を受賞する程に発展していた。
 しかし実状は、少子高齢化やコロナ・パンデミック等の影響もあって、学生数は目標の半分以下、地元の伝統的木造建築や社寺の再生を支援する先生方の稼ぎを学院経営に充てていたようだ。特に、私の後に学院長に就任した池嵜先生が2年で逝去され、稲葉理事長が学院長も兼務して、経営から生徒の指導まで陣頭指揮をされていたことも、今度の早逝の原因ではと考えると、本当に申し訳なく、「ご苦労様でした。ゆっくりお休みください」と祈るのみである。

 顧みるに、人生の目標であった富山に帰省して設計事務所を開設する予定が、1970年頃、大阪万博や成田空港の設計を担当、早稲田大学の助教授をしながら、富山で設計事務所を開設すると稲葉君が「父の後を継いで富山で建築事務所を経営するに当たって、富山県の内外でテリトリーを分けるべきだ。その代わりに富山県の建築事務所協会の顧問に推薦する」との後輩として強引な申し出があった。

 その一方で、早稲田の先輩として浜多弘之氏からは、魚津の市会議員として、富山県のために地元でも仕事をするようにと常々誘われ、魚津市の講演等に招かれ、市の都市計画の仕事を手伝わせてくださった。NPO-AIUEの支部開設に当たっては北陸支部長を引き受け、2008年の富山でのAIUE国際会議を主催される等々、私にとっては有り難い支援者であった。従って、郷里富山県での建築関係の仕事は全てこの二人の先輩と後輩の力関係で進められてきた。1997年の日本建築学会の選挙での支援、2000年のW-PRHの職藝学院内建設や2007年1月の早稲田大学定年退職時には職藝学院の先生方を総動員してリーガロイヤルホテルで「おわら節」の披露等、本当に良くしてくださった。

 今になって遅きに失したと後悔するのは、2000年、早大の定年退職を早めて帰省して、富山での余生を『太田口物語』などの出版、郷里富山市の再生に当たって、職藝学院に旧居をギャラリーに改築してもらう等、職藝学院との一体的まちづくりを進めたことがあった。しかし何故かこの20年間、早大の理工学部長や日本学術会議会員として、さらには2007年の退職後も銀座に尾島研究室を開設する等、各種社団や財団法人の理事長としての役職に追われて、地元の稲葉・浜多両氏から余程の要求がない限り全く帰省することがなかった。然るに、昨今のコロナ禍で銀座事務所を閉め、20年も遅れて2022年10月、最後に残された西町北総曲輪の再開発とその活動拠点としてのギャラリー太田口の開店に当たって、お二人の支援を期待していただけに、遅きに失したか。

 2022年10月10日(月)はスポーツの日で休日。「稲葉家の通夜・葬儀は供花・供物の儀辞退」とあり、その上コロナ禍とあって帰省する勇気がないまま、このBlogを書く。

「ああ万事休す!」と嘆く前に、気を取り直して富山職藝学院のホームページを開いて驚いた。「万事はまだこれからだ!!」と。

 1970年頃、稲葉君から相当強引に富山県の内と外でテリトリーを分けたいとの要望を受けて後50余年、その間、彼は(株)三四五建築研究所主宰、職藝学院理事長、学院長、教授、NPO法人里山倶楽部理事長として「とやま名匠情報センター」の設立など、富山県がこれまでに必要とした組織を創り、これを自由に彼の思うままに経営してきたとすれば、自己実現を十分に達成しての逝去で、実に立派な生涯であった。

 同時に、彼の残した事業は、これからが本格的に成果が問われる。そしてそのことは彼自身も良く理解していたこともあってか、2015年頃、私が学院長を池嵜先生に禅譲するとき、いずれは理事長は久郷慎治氏、学院長は上野幸夫氏にと考え、建築研究所は子息の伸一氏に、そしてNPO里山については、などと話しながら、名誉学院長として見守ってくれと先輩に向かっての変わらぬ厚かましい要請をしていたことも思い出した。
 それにしても、稲葉君亡き今、考えられるのは、まずは浜多さんがご快復されること。そして活動拠点としてのギャラリー太田口は、笹山眞治郞氏や中川勝正氏の支援、職藝学院のW-PRHを担当した高口洋人や中島裕輔、富山や魚津でお世話になった村上公哉やD.バート君等の支援も考えてみた。しかし先ずは、久郷・上野先生を中心に、建築業界や富山県、富山市の支援が先で、少なくとも職藝学院の継承だけは、地元のみならず日本の建築界にとって不可欠であろう

Blog#71 塩地博文他著「森林列島再生論」(2022年9月、日経BP)を読んで

 2022年10月4日、昨年大病を患って生死の境目にあった時、偶然巡り会って助けられたという文月恵理さんを同伴して、塩地博文氏がDHC協会を訪ねられた。目的は、一緒に著した「森林列島再生論」の出版とこの出版によって自分自身の再生を賭けているという昔に変わらぬ元気いっぱいの塩地氏。昼食は伊勢廣がよいというので、店長の星野雅信氏に電話で予約。話題は相変わらず面白く、活力があって、とても生死を彷徨った人とは思えない。

 森林再生と木を使っての建築は今や国是となっているが、既に私自身、上田篤先生と一緒に、2016年5月、藤原書店から「ウッドファースト」なる大著を編集し、また2017年7月には「日本の国富をみなおす」(NPO-AIUE)で「林業の蘇生」について著したこと。2021年6月にはOGの白井裕子さんが「森林で日本は蘇る」(新潮新書)なる傑作を著したことをBlogで紹介したこと等々から、改めて新しい情報とは思えなかったが、OBの高口洋人君も執筆しているというので一読する。

 塩地さんの「プレカット」と「大型パネル」による木造住宅の普及活動は革命的で、これまでの戸建て住宅の供給並びに森林の再生に寄与することは何度も聞かされていたので、新しい知見ではなかった。しかし、それぞれの専門家はそれなりに定量化し、みえる化に成功した著作である。幸い、塩地氏蘇生の恩人・文月さんが最後にそのタネを明かしてくれたように、本書はDX時代の先駆けの価値がある。

 日本列島唯一の天然資源は世界に誇れる森林資源であるに拘わらず、これまではCo2の吸収源としての評価から数兆円程度のアナログ評価であったのが、「大型パネル」に同定することによるデジタル評価では(1拠点50km圏の森林資源の計測もドローンを使うことで簡単に評価できることや金融の専門家がESG投資対象としてファンド構想を提案する等)数百兆円と100倍にもなること。この国富を利用できるのは全国で500ヶ所程で、地方再生の拠点が生まれること。 最終章では、説明が面倒な塩地構想を文月さんがいとも簡単に解説する。日本の国が抱える1000兆円の負債も代替できる程の仕掛けと仕組みを教えてくれる著作である。私もこの考え方で八ヶ岳山麓の新天地創造に当たって500拠点の一として、この手法を取り入れてみたい。

Blog#70 八ヶ岳尾島山荘をグランピング拠点に改装

 2022年10月1日(土)6:00am、丸山車で自宅出発。快晴、環七は既に混み、八王子へは7:40am。9:00am双葉SAで一休みして、山荘9:40am着。相場氏は自宅8:00am出発、12:00着。午前中に200冊の本の廃棄と2000冊の本を仮の戸棚へ。途中、自由農園で牛乳や野菜、ソーセージ、ベーコン等を購入して、昼食はソーメン。

 午後、丸山・相場は山ブドウ狩りに出掛け、4時間後、疲れて帰ってきた。その間、本の整理に追われる。4:00pm縄文湯へ。痛めた足・腰を温めるため、ゆっくり温泉に浸かる。5:00pm日没。赤岳・阿弥陀岳・横岳のシルエットも尖石考古館の写真もout。

 夕食は黒部峡の一升とカレーライス、キャベツのコンソメスープ。山での食事はとにかく美味しい。玄関横の書庫を改装して、女性用の個室を二室、そのため2000冊の本を廃棄する必要が出たのだ。小林光さんと電話で明日6:00pm、相場氏のベンツで八十川君と私、小林氏の4人で夕食の約束。

 夜は寒くなったので囲炉裏でアクアビットの酒を飲みながら、山ブドウのジャムづくり。白樺湖畔と八ヶ岳周辺ツアーガイドブックの出版相談後、12:00pm、冬用の寝姿はなかなかに快適。

 10月2日(日)6:00am起床。コーヒーを飲みながら日記を書く。7:00am、レーズンパンと牛乳、キャベツと卵の簡単な朝食。さすがに寒くて、とても外では食事できない。午前中は山荘の前庭を整備した上で、後庭にハンモック用の立木の下草を刈る。

12:00、駅前の更科そばで昼食。スーパーオギノで買い物、ホームプラザナフコでピザ釜の雨避け用にトン袋を購入する。2:05pm、八十川君到着。

 5:30pm、丸山氏留守番、3人で小林光氏宅へ。二地域居住の実践者・小林光山荘は芦沢南の金山地区に立地、山の景観は抜群である。八ヶ岳連峰のみならず、車山から中央アルプスまでの山並みがすごい。6kWソーラー発電にバッテリーも十分。新建築に詳細記事。

 6:30pm、(一社)日本ジビエ振興協会代表理事、オーベルジュ・エスポワール(ホテル兼レストランの主、「希望」という店のシェフ)藤木徳彦氏と弟のソムリエ、母の女将が経営する立派な店である。名刺には「農水省地産地消の仕事人」「内閣府地域活性化伝道師」とある。幸か不幸か、当日は宿泊客ゼロ、食事客もゼロの完全貸し切り状況下で、4人の夕食は女将の当地で25年間の苦戦物語もあって、小林光氏を中心に話題が尽きない。しかし、ジビエの岡谷産のうなぎはヨーロッパ風の赤ワイン煮込みとあって全く駄目。この山で採れたというキノコのソテー等、八十川君は美味というが、地元産も今ひとつ。前菜とデザートはなかなかの味として、ブルゴーニュのシャンペンとシャルドネの白ワイン、ボルドーの赤ワインは仏留学の小林光氏の選択だけになかなかのもの。日本の水素戦略やEXPO’25対策によいアイディアを得ると共に、DHC協会での委員会参加を了解させる。

 9:30pm帰宅。予定より1時間以上遅れて丸山氏を心配させる。昼から煙突を塞ぐ立木を伐ったりして整備した暖炉の火はよく燃えて、23:30頃まで雑談。昨日より寒さを感じないのは慣れたせいか。

 10月3日(月)7:00am朝食。午前中は後庭の立木を伐採してグランピング用ハンモックを吊り、使い心地を試す。なかなかの森林リゾートライフになりそうだ。9:30am、角大工務店来荘。八十川・丸山氏と改築の相談。御柱祭りのため忙しいので、2023年5月連休までに完成予定。

 11:30am、八十川君を茅野駅へ送って帰路につく。東京着2:00pm。