Blog#72 郷里の畏友・稲葉實氏逝去と浜多弘之氏危篤の報に「ああ万事休す」

 2022年10月5日、職藝学院からの電話で、稲葉實理事長が4日逝去され、通夜・葬儀は稲葉家で執り行うとの連絡。

 去る9月2日、富山の自宅へ職藝学院の上野幸夫教授・久郷慎治教授と尾久彩子さんが来て、稲葉理事長の危篤を伝えて、学院の今後について相談された。しかし強運の稲葉君のこと、いずれ又、何食わぬ顔で現れると軽く考えていただけに、これは一大事となった。同じ時、魚津の浜多弘之氏が富山ろうさい病院に緊急入院、コロナ禍もあって面会謝絶と子息の弘匡氏からの報である。

 1994年正月、中沖豊富山県知事の推薦で、富山高校の後輩であった稲葉君が富山国際職藝学院の理事長で、私が経営責任なしの学院長になり、2015年に副学院長の池嵜助成教授に引き継ぐまで経営のことは全く知らずに、1996年の開校から卒業式のみ参加の学院長をしてきた。全て稲葉君任せであった。建築(大工)32名、造園12名、2学年で80余人の小さな学院も開校10年で全卒業生500余名となかなかの実績で、2007年には日本建築学会から第一回「教育賞」を受賞する程に発展していた。
 しかし実状は、少子高齢化やコロナ・パンデミック等の影響もあって、学生数は目標の半分以下、地元の伝統的木造建築や社寺の再生を支援する先生方の稼ぎを学院経営に充てていたようだ。特に、私の後に学院長に就任した池嵜先生が2年で逝去され、稲葉理事長が学院長も兼務して、経営から生徒の指導まで陣頭指揮をされていたことも、今度の早逝の原因ではと考えると、本当に申し訳なく、「ご苦労様でした。ゆっくりお休みください」と祈るのみである。

 顧みるに、人生の目標であった富山に帰省して設計事務所を開設する予定が、1970年頃、大阪万博や成田空港の設計を担当、早稲田大学の助教授をしながら、富山で設計事務所を開設すると稲葉君が「父の後を継いで富山で建築事務所を経営するに当たって、富山県の内外でテリトリーを分けるべきだ。その代わりに富山県の建築事務所協会の顧問に推薦する」との後輩として強引な申し出があった。

 その一方で、早稲田の先輩として浜多弘之氏からは、魚津の市会議員として、富山県のために地元でも仕事をするようにと常々誘われ、魚津市の講演等に招かれ、市の都市計画の仕事を手伝わせてくださった。NPO-AIUEの支部開設に当たっては北陸支部長を引き受け、2008年の富山でのAIUE国際会議を主催される等々、私にとっては有り難い支援者であった。従って、郷里富山県での建築関係の仕事は全てこの二人の先輩と後輩の力関係で進められてきた。1997年の日本建築学会の選挙での支援、2000年のW-PRHの職藝学院内建設や2007年1月の早稲田大学定年退職時には職藝学院の先生方を総動員してリーガロイヤルホテルで「おわら節」の披露等、本当に良くしてくださった。

 今になって遅きに失したと後悔するのは、2000年、早大の定年退職を早めて帰省して、富山での余生を『太田口物語』などの出版、郷里富山市の再生に当たって、職藝学院に旧居をギャラリーに改築してもらう等、職藝学院との一体的まちづくりを進めたことがあった。しかし何故かこの20年間、早大の理工学部長や日本学術会議会員として、さらには2007年の退職後も銀座に尾島研究室を開設する等、各種社団や財団法人の理事長としての役職に追われて、地元の稲葉・浜多両氏から余程の要求がない限り全く帰省することがなかった。然るに、昨今のコロナ禍で銀座事務所を閉め、20年も遅れて2022年10月、最後に残された西町北総曲輪の再開発とその活動拠点としてのギャラリー太田口の開店に当たって、お二人の支援を期待していただけに、遅きに失したか。

 2022年10月10日(月)はスポーツの日で休日。「稲葉家の通夜・葬儀は供花・供物の儀辞退」とあり、その上コロナ禍とあって帰省する勇気がないまま、このBlogを書く。

「ああ万事休す!」と嘆く前に、気を取り直して富山職藝学院のホームページを開いて驚いた。「万事はまだこれからだ!!」と。

 1970年頃、稲葉君から相当強引に富山県の内と外でテリトリーを分けたいとの要望を受けて後50余年、その間、彼は(株)三四五建築研究所主宰、職藝学院理事長、学院長、教授、NPO法人里山倶楽部理事長として「とやま名匠情報センター」の設立など、富山県がこれまでに必要とした組織を創り、これを自由に彼の思うままに経営してきたとすれば、自己実現を十分に達成しての逝去で、実に立派な生涯であった。

 同時に、彼の残した事業は、これからが本格的に成果が問われる。そしてそのことは彼自身も良く理解していたこともあってか、2015年頃、私が学院長を池嵜先生に禅譲するとき、いずれは理事長は久郷慎治氏、学院長は上野幸夫氏にと考え、建築研究所は子息の伸一氏に、そしてNPO里山については、などと話しながら、名誉学院長として見守ってくれと先輩に向かっての変わらぬ厚かましい要請をしていたことも思い出した。
 それにしても、稲葉君亡き今、考えられるのは、まずは浜多さんがご快復されること。そして活動拠点としてのギャラリー太田口は、笹山眞治郞氏や中川勝正氏の支援、職藝学院のW-PRHを担当した高口洋人や中島裕輔、富山や魚津でお世話になった村上公哉やD.バート君等の支援も考えてみた。しかし先ずは、久郷・上野先生を中心に、建築業界や富山県、富山市の支援が先で、少なくとも職藝学院の継承だけは、地元のみならず日本の建築界にとって不可欠であろう