Blog#94 9.20 村上陽一郎著「音楽  地の塩となりて」(2023.9.9 平凡社)を読んで

(2023.9.9 平凡社)

 村上陽一郎先生から贈られた著書については、以前、Blog50『「エリートと教養-ポストコロナの日本考」(2022.2 中央公論新社)を読んで』とBlog74『「専門家とは誰か」(2022.10 晶文社)を読んで』に書きました。

 今度は村上先生自身の私生活に限りなく影響を与えた(生命にとって必要不可欠な塩の如き)音楽を中心に、面白い本を出版されました。86歳になっての暇な毎日、この本を一週間かけて読ませて頂いたお陰で、9月に入っての酷暑も楽しく、有意義に過ごすことが出来たことをお伝えしたく思います。

 Blogの題名通り、村上先生の人生にとって音楽は「地の塩」の如き存在であったことが本書の「はじめに」から「楽器の話」「違いの判らない男」「明日には!」「オーケストラ」「クラシック音楽とエンターテイメント」「音楽とは」「能とは何か』「タンゴの世界」「機会音楽と前衛」「ピアノ三重奏曲」「美しい声」「美しくない(?)声」「オーケストラの中のチェロ」「ベートーヴェン断章」「景清」「最大の欠点」と書き進めた上で、233頁に「しかし、私にはほとんど時間が残っていません」とあった。

 次頁からは「出会い、対決、そして融合」と章を改め、「世界に、およそ恥知らずに、あらゆる文化を貪欲に取り込んだ文化圏が二つあった。一つは古代ギリシャ、そしてもう一つは日本。」

 この日本についてこそ、私が今一番知りたいことであった。『明治維新の日本は「和魂洋才」と「表意文字としての漢字と表音文字としての仮名」を巧みに駆使した。西欧文明の翻訳には異なった認識系、異なった存在系、異なった思考系」を伝えるに当たって、西欧の「あれか、これか」でなく、日本の「あれも、これも」と「対決の忌避」(グレイゾーン、曖昧な領域を多くとることによって「対決」を「忌避」する)ことが日本文化の特色で、あれもこれも身内に抱き込んで、事情と状況に応じてどれかを取り出すことができるという「柔軟な」戦略を採用してきた。これがもしかすると「和魂」の神髄ではなかろうか。

 続いて「神の手から人間の手へ」では、『18世紀には文明(civilization)という言葉がつくられた。「文明」とは実は「人間化」のことで、20世紀初頭まで「自然な」とは「野蛮な」と同義語であった。また「人間化」とは、「進歩」であった。この神ではなく人間が主役になる世界は、20世紀に入ると、さすがに人間中心主義は陰りを迎えると。』

 森羅万象に詳しい村上先生にお願いしたいのは、日本文明が世界文明として位置づられるには、日本人に普及している多神教である仏教や神道などの科学的解説である。