Blog#113 芥川賞の九段理恵著「東京都同情塔」を読んで

 2024年2月12日(月)、庭掃除で腰を痛めて早く寝たせいで、午前2時頃に目覚めてしまった。枕元の文藝春秋3月号に芥川賞発表とあったが、最近の芥川賞作はとにかく面白くない、というより読後感が気持ち悪い程。毎回、もう読むまいと思いながら、今年もついに読み始めてしまった。

 冒頭の「バベルの塔の再現。シンパシータワートーキョーの建設は、やがて我々の言葉を乱し、世界をばらばらにする」から始まって、主人公が女性建築家で、ザハ・ハディドの新国立競技場のコンペの話は、久々に建築家を主人公にした小説である。寝床での不自然な照明と転々とした姿勢での読書は、文章そのままに支離滅裂に脳裏をかすめ、様々な印象と刺激があって、何故か過去の思いが去来する。

 1957年、私が建築家を志して早大建築学科に入学した時のベストセラー小説が原田康子の「挽歌」で、建築家を主人公にした大人の恋愛小説であった。当時はN.Y.の摩天楼・エンパイア・ステートに憧れての建築家修業であったから、この小説がどれ程か人生を豊かにしてくれたことか。

 バブル期の1986年に出版した「東京21世紀の構図」(NHKカラーブックス)の執筆中は、九段さんの妄想とも瞑想とも幻想とすら思える小説の内容そのままの心境のようであった。私のイメージする「未来の東京像」をそのまま画像にしてくれた画家の藪野正樹・健兄弟や長谷見雄二・伊藤寛氏等のカラースケッチ画を出版したもので、今もって恥ずかしい著書である。

 1970年頃はサンシャイン60の設計顧問をしていたことから、サンシャイン60の超高層建築を戦艦武蔵に例えて、その使い勝手と安全運転を指南するため、ポプラ社から1992年に「超高層ビルと未来都市」を出版した。

 日本全体が産官学民挙げてのバブル期を迎えた時代に、1000メートルビル開発に取り組んでいる状況を出版してくれたのが講談社で、1997年に「千メートルビルを建てる」を出版。この本では、1000メートルから3000メートルビルに挑戦していたゼネコン各社の競演を見ながら、1万メートルの「東京バベルタワー」を提案した。その当時を思い出し、突然、R.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」を夜半に大きな音で聴くことにした。

 『1958年、日本電波塔の愛称に「東京タワー」が選ばれたのは、名称審査会の中に日本語を忌避した日本人がいたからだ。一般公募でもっとも多くの支援を集めていたのは「昭和塔」だった。次いで「日本塔」「平和塔」「富士塔」、応募数第13位の「東京タワー」に決まったのは、ある審査員の鶴の一声によるものだった。』

 『ザハ・ハディドが東京に遺した流線型の巨大な創造物からは、何か特別な波動みたいなものを感じずにいられない。たとえ信仰心など持ち合わせていなくても、文京区の丹下健三設計のカテドラルを見れば自然と神聖な思いが湧き上がってくるように、その屋根はある種、崇高で神秘なエネルギーを私にもたらしていた。』

 『新国立競技場の建設が白紙撤回となる可能性が報じられたのは、ザハ案がコンペで最優秀賞に選ばれ、三年ほど経ってからのことだ。ザハ案の総工費の最終的な見積りが「三千億円」と報道されてからの、数カ月にわたるバッシング。反対運動。不毛な責任の押し付け合い。』

 『何かしら? プリズン・オフィサー?は、直訳すぎるし・・・・タワー・・・・タワースタッフ? シンパシー・・・』

 この文章を読んでいた時、ふいに「サンシャイン60」の設計顧問をしていた当時を思い出した。巣鴨プリズン跡地に60万㎡の超高層やホテルを建設するに当たっての地鎮祭で、何度もお祓いの儀式が行われたことを。

 「東京都同情塔」の住人は元詐欺師の女性で、『時折雑誌から目を離し、勝ち誇ったような表情で新宿御苑に集う塔外の人々を見下ろしていた。彼女を眺めていると、ホモ・ミゼラビリスの生活は、新宿のタワーマンションで昼間からくつろぐセレブの生活と、一体何が違うのだろう?と疑問が浮かんだ。』

 『国立競技場と東京都同情塔が、同時にライトアップされる。そうなるように設計したのだし、それこそ私がコンペを勝ちとった理由なのだから当然だけれど、二つの巨大建築は完全に調和し、親密な話し合いをしているかのようだ。』

 『ギザのピラミッドだって、パルテノン神殿だって、別に誰もが納得できる真っ当な理由によって建てられた建築ではない。本当に存在するかどうかもわからない神々のために、なぜ膨大な時間と資源を費やさなくてはいけないのかと、訝しんだ人々もいただろう。』

 以上が寝床で傍線を引きながら読んでいた九段理恵の著作からの引用で、気付いた時には音楽が終わっていた。

 今は30代の女性建築家が10年程N.Y.で修行した後に独立して、コンペとはいえ、超高層建築を設計することが不思議でない時代である。確かに、富田玲子や妹島和世氏に続いて、乾久美子や永山裕子、杉浦久子や富永美保氏等が活躍する昨今、丹下健三や隈研吾等、有名建築家の書いた本を100冊も読んだ上、国立競技場や神宮外苑、新宿御苑や代々木公園を歩いて、毎日何時間も音楽を聴きながら書いたという小説だけに、不思議と分かり易く、リズミカルで信憑性すら感じられる。

 彼女が生まれた30年以上も昔の話になるが、10km直径の山手線の外周に沿って300m高さまでを首都圏に住む3400万人を入居可能な建物として「東京バベルタワー」を設計するに当たって、そのイメージを藪野正樹さんに何回も大きな画用紙にスケッチしてもらい、それを見ながら中国からの留学生達がバルサを切り、1万分の1の模型を作成していた。少なくとも人間の生活する空間は太陽の光が入って、風の通る空間にするためには、図のような形態にせざるを得なかった。

文藝春秋(2024年3月号)           東京バベルタワー模型(1992年作成)
                       (1万メートルタワー 3,400万人居住)

 2012年のロンドンオリンピックで17,000人の観客収容の建物を、終了後に3,800人収容に減築したザハ・ハディドのアクアティクス・センターは神々しいまでに美しかった。
 ライトアップされたザハの設計した国立競技場と彼女の設計した刑務所用途のシンパシータワートーキョー(東京都同情塔)が、設計者のコンクリート塑像と並立する。そんな未来都市のイメージを30代の女性建築家が何故描くことが出来たのか、さらには何故、こんな作品が芥川賞なのかが分からぬまま夜が明けてしまった。

Blog#112 福岡天神ビッグバン地区のBCDカーボンニュートラル準備委員会に参加して

 2024年2月9日(金)、羽田空港11:25発のANA251便で福岡空港へ。三連休直前とあってフライトは超満員。子供連れが多く、賑やかなこと。

エルガーラホール

 福岡空港は都心に近い上、地下鉄との連携がよく、会場の天神まで30分程で到着。委員会が始まるまでの一時間、先ずは会場のTPKエルガーラホールの場所を確認して、天神地下街と渡辺通りの西鉄福岡天神駅、三越や大丸デパート内を歩き、中央警察署や福岡市役所を見て、天神南駅から天神中央公園、アクロス福岡などを撮影。改めて、道路の如き立体空間を身体で認識する。午後3時というにレストランやカフェは超満員。すっかり歩き疲れて、会場へ。

 準備委員会というに、依田委員長他、九州大学の住吉大輔教授、日本設計の柳井崇常務、日建設計総合研究所の湯沢秀樹氏、三菱地所設計の佐藤博樹氏、福岡市の方々や西部ガスの髙﨑敬介常務、西部ガステクノソリューションの今給黎督社長等、会場で20人、webで4人参加。当地区のBCDやカーボンニュートラルを考えるに当たっての話し合いは十分に迫力があって、終了時間を20分以上延長。

 6:00~8:00pm、イタリアンレストラン「サンミケーレ」での懇親会の話も面白い。九州ならではの酒も肴も美味しく、楽しい一刻。

 ホテルは博多駅前のANAクラウンプラザホテル福岡。TVで日本三景の魚釣りを見ているうち、呼子のイカ刺しが食べたくなる。マッサージの方に昔、何度か行ったことのある「河庄」のことなど聞くと、「稚加榮」という海鮮料理店が毎日行列が出来る程の人気という。

 翌10日(土)10:00~尾島研OB会に集まってもらった佐土原・福田・高・堀君等に尋ねると、有名なことは知っているが行ったことはないという。予約が出来ないので、11:10にタクシーで行くことにした。

 何はともあれ、①(一社)AIUEの設立は既に手続き中で、2023年6月に登記。2024年6月には一期決算の段取りという。②NPO-AIUEの支部構成と③2024年10月12~14日のDHC協会シンポジュームや出版記念会、米寿のパーティや第21回のAIUE国際会議に九州の支援等を依頼。2024年9月10~13日、京都で開催予定の3ヶ国の建築学会への論文提出も要請する。

稚加榮の行列

 11:20am、「稚加榮」は本当に長い行列であったが、予測通り10分程で入店。
 ランチ定食は2000円の割には豪華。佐賀の銘酒に生け簀からのイカ刺しは実に美味しかった。富山のきときと亭の3倍程大きな店で、200人は入店できる巨大なレストランであった。
 中国は春節とあって、高君は明日杭州へ帰省する由。写真のように十分満足しての昼食後、佐土原君と一緒に空港へ。お土産は稚加榮の辛子明太子である。

左奥から福田・高・堀、佐土原・筆者(2024.2.10 稚加榮)

 福岡空港15:15発のANA258便も超満員、20分遅れで羽田空港着。久し振りモノレールで浜松町経由にしたのは、浜松町駅のWTC超高層ビルの建て替え状況を見るためであった。羽田から大田区・品川区・港区の海辺の景観とカーボンニュートラル時代の水素受け入れの可能性を見るためでもあったが、既に5時を過ぎて真っ暗。2030年対策としてのBCDとカーボンニュートラルのインフラ整備は、港区・中央区・豊島区に焦点を絞ることが肝心。『百聞は一見にしかず』である。2023年2月から一年ぶりの九州の旅であった。

 中国の春節と三連休が重なった交通難さえなければ、九州大学の水素関連施設や新幹線での長崎市新庁舎、熊本のTSMC工場や熊本城の修復も見たかったが、次回に期待することにした。