Blog#119 「江戸城天守」の再建!について

 2024年7月9日(火)、東京新橋ロータリークラブの例会で、会員の鞍掛三津雄氏の紹介で、太田道灌第18代目子孫・太田資暁氏による「江戸城天守再建に関する」卓話を聞く機会があった。

 卓話の趣旨は、『江戸城は徳川3代の将軍が次々に天守を築きました。取分け 1657 年明暦の大火で焼失し、その後天守台だけが再建されて上屋の建立は後回しになっている「江戸城寛永度天守」は、日本城郭建築の最高到達点であり、日本一壮大で美しい城であったと言われております。(中略)私たちはこの「江戸城天守」を、日本各地に広がる香り豊かな純国産の木材を使い、伝統工法により再建することを通して、首都東京のそして、各地のお城と連携して、地方の活性化にも貢献して行きたい。(中略)令和の世の「江戸城天守」建立を通して、次の世代がこの国の未来に夢と希望を持ち、日本に生まれたこと、日本人であることに感動と感謝の念を抱き、(中略)日本人の為の『未来遺産』を創り上げる事業と捉えております。』

 たくさんの資料を配付しての熱演を聞きながら、四半世紀も前(1997~98年)、私が日本建築学会会長時代の副会長で、東京駅の再生はじめ日本の伝統建築保存運動の中心であった東大の鈴木博之教授(1945~2014)が、江戸城天守再建だけは反対だと叫んでおられたことを思い出した。その理由は、世界遺産登録に不可欠な真正性(Authenticity)がないからとの説で、私も賛同していた。

 しかし、一緒に仕事をしている伊藤滋先生からは、江戸城天守再建は自分の最後の仕事だから協力するよう言われていたことや、今度、ロータリー会員への「江戸城天守再建活動への請願書」署名へのお願いがあったので、自分の態度を決めなければと考えた。

 「建築家としては鈴木博之説に賛同するも、東京のランドマークとして、皇居(旧江戸城)をバッキンガム宮殿や紫禁城の如き首都の歴史や文化の誇るべきシンボルとして創出することは不可欠で、太田氏や伊藤先生の再建説にも賛同せざるを得ない。

 しかし同時に、これから建設される天守は、必ずや世界遺産にすべきものでなければならない。そのためには、やはり真正性が不可欠で、安易な江戸城天守再建ではなく、東京にとって本物のレガシーとすべき天守として、東京大学建築学科で鈴木博之先生と共に学んだはずの広島大の三浦正幸名誉教授(1954~ )の復元図の真正性を含めて、天守再建のみならず、『皇居のあり方」について再考しては如何であろうか。2020年の東京オリンピックで果たせなかったザハ・ハディド(1950~2016)の国立競技場の反省として。

 1964年の東京オリンピックの会場となった丹下健三(1913~2005)の代々木国立競技場は、私も手伝ったこともあって、槙文彦(1928~2024)の要望もあり、世界遺産に登録すべく頑張っている。少なくとも、大阪城天守は姫路城のような真正性が全くないことから、世界遺産になる可能性はゼロであることを考えれば、江戸城天守の再建にはもっと慎重を期すべきか。

Blog#118 久し振り2024年度早大建築学科の環境系OB会である「七月会」に出席

 7月5日(金)、10年ぶりに早大建築学科の環境系研究室が順番で主催している「七月会」に出席する。
 乾杯の前に一言挨拶を、と言われて『2008年の定年退職時の最終講義テーマは「未完のプロジェクトⅩ」で、教材に「都市環境学へ」を出版。その12章「未完のプロジェクト実現に向けてⅩ」について、2007年開設した銀座尾島研究室で継続研究して10年余、コロナ禍で銀座から練馬へ移転して、その活動を続けていると共に、(一社)都市環境エネルギー協会の理事長として、国土強靱化策の一環で、CGSによる分散電源を推進、2050年対策としてのカーボンニュートラル推進に当たっては、水素等の普及調査活動をしている。

 幸い、大学時代からよく遊び、よく学ぶ方で、このように身体は頗る元気なので、今も研究活動を続ける。諸君もよく遊び、よく学んで、更なる活躍を祈る次第』と。

 思えば、1970年代までは木村幸一郎教授と井上宇市助教授時代、卒論が始まる7月、大学院生と共に湯豆腐会を始めたのがきっかけで、この会が盛大になったのは、1980年代の井上宇市教授時代で、建築設備系の学生は早大では機械や電気工学科にもOBで活躍する人が居たことから、「建築設備研究会」に改めたのがベースになる。しかし、既に木村建一研や尾島研では建築設備系以外に金融機関やエネルギー会社等への就職者が多くなり、「建築設備研究会」では入会できないOBも居て、「七月会」と名称を変更した筈。

 その上、研究室単位のOB会があまり盛大になると稲門建築会とバッティングするということで、研究室単位のOB会はやめてくれと言われ、私が稲門建築会の会長時は「七月会」への出席を見合わせることで、稲門建築会に「七月会」の存続をお願いした経緯があった。しかし、もう時効と考えての今回の出席である。

 気がつけば米寿の年齢に至って、早大退職時の「都市環境学へ」の(続)として「都市環境学を開く」の出版を鹿島出版会に依頼中である。

 久々に出席した「七月会」は、環境系の教職にあった石福昭・木村建一名誉教授の出席はなく、現職の田辺新一教授の会長挨拶は一言で、高口洋人教授と伯耆原 智世講師の時代である。

 長谷見名誉教授に新任の伯耆原講師を紹介してもらって、高口君と4人で富山の職藝学院について相談する。また、OBの松村亘君や大西君たちとDHC協会で近況を伺う会をもつことになった。

 18:30からの56号館カフェテリアでの懇親会に一時間ほど参加する間、尾島研OBの村上正吾君から始まって、牧村功君の建築基本法制度に当たっては、小川富由さんと神田先生との話し合いの必要性をアドバイス。井上研OBの板谷敏正君が客員教授になったとの挨拶あり。三機の清水君にはアーカイブスでお世話になったこと、相変わらずの外岡、柴田、前川、辻村、大竹君等もなつかしく、DHC協会で世話になった木村研OBの堀川、小野島、伊香賀君等との懇談も実に有意義であった。

 田辺君とは2018年、州一が白川君と開設した中華店での「五人会」以降、5年以上も中断していたので新任の先生を入れての再開を約束する。「七月会」出席はこれを最後と考えていたが、この会はなかなかに価値ありと考えながら早々に退席する。

 西早稲田駅と直結の地下鉄はなんと石神井公園行きで、練馬駅まで15分であった。来たときは高田馬場のBig Box前からタクシーで早大51号館の正面玄関前まで、すっかり生い茂った戸山公園の中を走って5分で到着。住み慣れていた51号館の研究棟から57号館前で古谷誠章・栗生明氏と合う。彼等はEXPO’25の海外パビリオン設計を支援するため、公開シンポジウムを開催中であった。大阪・関西万博EXPO’25会場の設計支援活動が早稲田で行われていたのは嬉しく、何故かホッとした。

 2030年に向けて、西早稲田キャンパスが日建設計と清水建設によって改築中とは承知していたが、予想以上に雑然とした昔ながらの校舎の雰囲気はなかなかに活力がある。

 七月会の名簿を見ると、1941~2024年(83年間)に2500人の名前や住所を記載。尾島研は1965~2008年(43年間)で1000人程か。それにしても、個人情報満載の名簿の取り扱いには留意すべきだ!!

Blog#117 ポール・ゴールドバーガー著「建築という芸術 評伝フランク・ゲーリー(Building Art )」(2024.5.30 鹿島出版会)を読んで

 

 7月1日、鹿島建設の平岡雅哉建築設計副本部長から、例年のお中元に本著が贈られてきた。スペインのバルセロナ市は人口162万人、アントニ・ガウディのサグラダファミリアあっての国際観光都市で、それ以上に人口35万人の工業都市ビルバオが年間100万人以上の観光客で賑わっていると聞く。その要因は、フランク・ゲーリーが1997年に設計したビルバオ・グッゲンハイム美術館にある。ネルビオン川に浮かぶ船のようなチタニウムの皮膜で覆われた不思議な建物である。アメリカで最も有名な建築家フィリップ・ジョンソン(1906-2005)をして「我々の時代の最も偉大な建築」と言わしめた作品である。

 1959年にフランク・ロイド・ライトがN.Y.で設計したらせん状のグッゲンハイム美術館から半世紀、デジタル革命の申し子の如くに、高価なチタニウムの皮膜を惜しげなく駆使した巨大な造形美に圧倒される建物である。この設計で世界的建築家と認められたフランク・ゲーリーは、2003年にはロサンゼルスのダウンタウン沿いに建つウォルト・ディズニー・コンサートホールもよく似た姿で設計し、2014年にはパリのブローニュの森にルイ・ヴィトン美術館も設計した。一度は彼の作品を見たいと思う以上に、設計者の実像を知りたいと考えていただけに、本書の贈呈はありがたかった。

 それにしても、500頁もの大著で、しかも小さな活字に参って、最初は拾い読みのつもりが、二日で完読しての実感は、本当によく書けている。その筈で、ニューヨークタイムス紙の記者で、ピュリツァー賞受賞の建築評論家ポール・ゴールドバーガーによる初の評伝書であった。

 カナダのトロントのユダヤ移民の息子として、1929年2月に生まれたフランク・ゲーリーが、やがて世界的ヒーローになるアメリカンドリーム体験記である。私自身が学んだ先輩たちと同時代の1960年代のロサンゼルスで活躍した。ビクター・グルーエンに勤務していた大沼君を1965年に訪ねたときに体験した、その時代の建築界の様子や、数々の国際コンペに暗躍する同世代の建築家とクライアントとの関係など、赤裸々な筆の運びにのめり込んだ二日間であった。久し振りに、自伝を超える評伝の素晴らしさと建築設計の面白さを体感させた著書を贈って下さった平岡氏に敬礼!

 ビルバオ・グッゲンハイム美術館の設計で一躍世界的に著名になったフランク・ゲーリーを更に有名人にしたのは、ピュリツァー賞を得た程のポール・ゴールドバーガーの巧みな評伝である。しかも、フランクの生存中にアメリカで出版され、日本でも鹿島出版会から坂本和子さんによって訳され、久保田昭子君も支援したという本書を久しく私の読むところとなった。

 このような素晴らしく細密な建築家評伝に相当するのは、日本では丹下健三の評伝を書いた藤森照信氏くらいではなかろうか。残念なことに、フランクのライバルであった磯崎新については、2023年、磯崎アトリエに勤務していた今永和利・佐藤健司・藤本貴子さんらが若い頃の磯崎を知るため取材にみえたが、これからのようだ。

 この取材がきっかけで、藤本さんが勤務する法政大学建築学科の創立者である大江広の若い頃を知る人が少ないので、陣内秀信・小堀哲夫・種田元晴・石井翔大さんらを同行するからとの依頼あり。

 1970年代、日本建築学会をベースに、芸大の山本学治(1923-1977)と日大の近江榮(1929-2005)、東大の鈴木成文(1927-2010)等が建築家像を巡って、教える者と学ぶ者について10年以上も激論を繰り広げていた、その中心に大江広(1913-1989)が居たことを知る人は、全く居なくなっていた。大江は、建築設計のあり方を巡ってのDiscipline論争をからだで覚えさせ、からだで確かめ、触って確かめる徒弟制度の必要性や、「建築」は“Architect”、「建物」は“Building”と訳すが、その相違についての論争等々。建築学会が有楽町から三田へ移転する前の学会の会議室は、登亭のうな丼を食べながらの激論の場であった。当時がなつかしく思い出される。

 改めて、フランクと同時代にあって、日本建築を世界建築のレベルまで高めてくれたのは、黒川紀章(1934-2007)、磯崎新(1931-2022)、槙文彦(1928-2024)、菊竹清訓(1928-2011)、穂積信夫(1927-2024)、池原義郎(1928-2017)等であるも、その評伝が日本語版のみならず、英語版もまだ見受けられないのは残念である。朝日新聞の記者で、松葉清の如き存在が居なくなったことを考えれば、藤本さん等の若い建築評論家に期待するのみで、当時を知る私たちの余生は、彼等、日本を代表する建築家たちの記憶と資料の整理をしなければと考えた次第である。