Blog133 村上陽一郎著「科学史家の宗教論ノート」(2025.1.10 中央公論新社)を読んで

 Blog50で、2022年2月出版の「エリートと教養」の六章で生命と教養についての考えを示され、次は「宗教」との予告通り、今度、本書を出版された。しかも実に分かり易く、科学史家としての立場で。

 本書の出版前に、2022年10月に「専門家とは誰か」(Blog74参照)を、また2023年9月には「音楽 地の塩となりて」(Blog94参照)を出版された。体力の限界と聞いていた先生が次々と出版される様は、建築界の先達で、1967年に文化勲章を受章されてなお、これが最後の遺作と称しながら、その後の作品の方が多かった村野藤吾(1891-1984)先生のことを想い出す。

 村上先生に宗教について書いて欲しかったのは、Blog102(2023年12月)「原発鎮守として、各地の一宮から鳥居を勧請する夢」を報告し、さらに2024年10月に「都市環境学を開く」(鹿島出版会)の第1章で「原発の使用済み核燃料の廃棄保存や緊急事態の住民避難を考えれば、科学的に「安全」を保障することは当然として、「安心」については神頼みとして、各国一宮からの鳥居の勧請で周辺住民は氏子となることを期待しては如何かと。結果は、多くの友人達から原発の安全安心を放棄して再稼働を容認する無責任な発想として非難されることになった。

 しかし今日、原発の再稼働が次々に進められ、第7次エネルギー基本計画でも原発推進を容認するしかない現状を考えると、原発周辺に生活する住民側の立場で考える限り、原発からの「災い」や「穢れ」を取り除く仕掛けとして、安全・安心の守り神である地域の一宮を勧請するという私の考え方についての賛否を村上陽一郎先生に聞きたいと願っていた。

 かくして、私が本書から学んだことは、全ての宗教は「知る」と「信じる」ところを起源として、「人類は本能の壊れた動物である。本能の中に具備されている筈の欲望抑制機能を破壊してしまった結果としての産物が原発であると考えれば、人間がその回復を託した宗教によってしか今日の原発に対する住民の安心が得られない」と解釈してよいであろうが、こんな無責任な解釈をした上、本書を勝手に解釈することで、私の自己実現の一如にさせてもらう幸せを宗教が与えてくれることも学んだ。

 読後感は実に爽やかで、今日のロシアのプーチン大統領がウクライナを侵攻した理由やイスラエルのネタニヤフ首相がガザ地区での非人道的空爆を続ける理由、さらにはイスラム教のコーランはムハンマドの口伝であることは知っていたが、メッカとメディナの両方が聖地である理由やインドネシアのイスラム教の実態、インドのモディ首相の言動なども本書で学ぶことができた。昨今読んだ本で、これほど短時間に多くの理解できない社会現象や世界状況まで知ることが出来たのは、教養としての宗教をベースに、「知る」ことと「信じる」ことの意味が分かったからか。AIが科学と宗教を結ぶ鍵であり、デカルトの「もの」と「こころ」についてまでも。

       科学史家の宗教論ノート (中公新書ラクレ 831)

  末筆ながら、終章の「信仰と私」で、村上先生が「信じる」ことと「愛する」ことについて『両者は類似で、平行の現象と言えそうです』という記述、先生自身がカトリシズムに止まるのかについて書かれたこと。私自身が今年の年賀状で『余生は自己実現に努めたい』と書いてしまって後悔していたが、先生の「あとがき」を読んでホッとしたことなど、何はともあれ、本書の恩恵に浴したことに感謝して。

附記

「文藝春秋」2月号の緊急特集「崩れゆく国のかたち」で、ユダヤ教である仏の歴史人口学者のエマニュエル・トッド氏が「イスラエル・ガザ紛争」について記された文中に「宗教の三段階」と題し、第一段階は、人々は信者としてミサや日曜礼拝に行き、安息日を守る(宗教の活動的状態)。第二段階は(宗教のゾンビ状態)で、人々はもはや信者ではなく、ナチズムなど政治的イデオロギーが宗教の代替物として登場する。第三段階は(宗教のゼロ状態)で、個人レベルの道徳観も宗教的道徳観に由来する社会的枠組みも、もはや存在しない。イスラエルは宗教的に生まれたユダヤ人の国家であったが、今や信仰が崩壊し「ユダヤ教ゾンビ」の段階から、アラブ人と戦うイスラエル人の国家となり、第三段階の「本物のユダヤ人の消滅」した「ユダヤ国家」ではなくなっている。従って「イスラエル建国の父達が『神は存在しないが、神は私たちに国家を与えた』は消滅か?
 「宗教と国家」の関係を論説した、1951年生まれでカトリックの洗礼を受けたエマニュエル・トッド説をこのBlogに附記することを許されたい。