Blog#75 日本景観学会 2022年度秋季シンポ「無電柱化」をテーマに2年目の成果

2022年1月3日(木)文化の日14:00~17:00 オンラインZoom方式

14:00		開会挨拶			西原 聡
14:05-14:50	基調講演
 講演1:無電柱化の現状と景観への課題	土岐 寛
 講演2:防災面からみた無電柱化の意義	向殿政男
14:50-14:55	休憩
14:55-15:55	事例報告(無電柱化の現状と課題)
 報告1:兵庫県芦屋市の事例		成田イクコ
 報告2:神奈川県横浜市の事例		山路永司
 報告3:東京都の事例			西原 聡
 報告4:沖縄県の事例			齋藤正己
16:00-16:55	自由討議			進行:山路永司
16:55-17:00	閉会挨拶			土岐 寛

 Blog#44で2021年11月20日(土)の秋季シンポ研究発表会に参加した所感を記した。その後、本格的に電柱の地中化を日本景観学会のテーマとするなら、学会内部で特別に研究会を開設して勉強する必要があると申し上げた。何故なら、このテーマは既に国・都、他各箇所で既に法整備や対策のみならず予算化もし、インターネット等でも相当に取り上げられているだけに、「学会のテーマ」とするのは難しいのではと。会長と幹事に検討を依頼した結果が、本日の発表会になった。

 昨年のシンポジュームと全く変わらぬメンバーで、ほとんど同じ発表方式で、シンポジュームも自由討論も進んだ。この一年間にどれ程の成果ができたかとお手並み拝見であった。文化の日にふさわしく良い天気で、講演者の会長・副会長と4人の幹事報告者には失礼と思いながら、庭を眺めながらのweb拝聴であった。

 結論から申せば、本当に立派な報告であり、この難しいテーマに畏れることなく真正面から取り上げ勉強されていた。自分の足で歩き、現地を確認し、行政当局へのヒアリング等、少なくともコロナ禍の最中にも拘わらず、大きな成果を上げられた。日本の電々柱や電線網を地中化することによって、どれ程、美しい日本の自然の風景、さらには都市景観、防災やコミュニティ形成に寄与するか。論じるまでもなく、分かっていながら実現しない実態やその理由も事例報告や自由討論でよく理解できた。このテーマは日本の文化・文明史そのものを実にリアルに物語る研究であること。

 シンポ終了後に山路幹事が、世話役の皆様と、日本景観学会として、これからも何年かこのテーマで研究しようとの提言されたことに共鳴した。何故なら2011年の東日本大震災と福島原発事故前までは原発依存型の全電力化とカーボンハーフ対策から、電力会社を中心に電柱・電線の地中化が推進されるものと考え、このテーマは時間とともに解決すると考えていた。しかし、今度の研究成果を聞きながら、大きな間違いであったと気づかされた。電力自由化と共に、発送電分離で、電力線地中化の大方針は消し飛んだ。さらには2030年のカーボンハーフ、2050年のカーボンニュートラルの実現に当たって、多くの地方自治体は再生可能電力に期待し、東京の再生可能電力を東北の洋上風力発電やソーラーに依存する計画。しかし、その送電線の新設とコスト負担が、景観とは無関係に問題になっている。防災やコロナ禍で光通信回線のネットワークをもつ二地域居住のライフスタイルが定着し、山奥の別荘地には自営の電線や電柱が建設されている。土岐会長の基調講演にあった、毎年2万本の電柱が撤去されているに反して、7万本が新設されているとの報告で、内訳を知りたく質問したが、詳細は分からなかった。

 ロシアのウクライナ侵攻と欧米のインフレや円安で、日本の電気代が高騰している。こんな状況下にあって、電線の地中化への投資は極めて困難である。それでもやらなければならぬ。随所での事例研究を会員諸兄に期待する次第。

Blog#74_村上陽一郎編『「専門家」とは誰か』(2022.10、晶文社)を読んで

 

 Blog50(2022年2月)で、「村上陽一郎著『エリートと教養』は本当のエリートだからこそ書ける教養書」と評したが、今度の村上陽一郎編『「専門家」とは誰か』も又、本当の専門家だからこそ編集できた「専門家論」である。失礼を承知で、刺激され、共鳴した各先生の文章に傍線を引いた9章を以下に記した。関心を持たれた方は本文を読んでください。

○はじめに
 村上先生は「専門家と言われる人のその分野における知識は、恐るべき深さである一方で、他の領域への知識の万能性は、全く期待できない、という事態も深刻である。」

○専門家とは何か
 村上先生は「『専門』は、『科目』という用語を借りた『専科』という意味が前面に現れた使い方が多く、実際に『専科』という言葉も用いられる。
 英語の<expert>は『専』に偏した意味合いである。この反対語として<amateur>(素人)が挙げられる。
 19世紀半ばのヨーロッパで顕著になり始めた『専門化』現象に、それをそっくり取り込んだのが、近代化の出発点にあった日本であった。西欧から輸入する学問(sciences)を『(わか)れた問』として捉えた結果が、『科学』という和製造語になって、今日まで日本社会の根幹に座った。
 現在では物理学者という専門家はもはや存在しない。ある領域で真の専門家と呼び得る人の数は、世界中でも50人を越えるかどうか。」

○隣の領域に口出しするということ-専門家のためのリベラルアーツ
 東京大学教養学部の藤垣裕子教授は「日本で何故あのような原発事故を起こしてしまったのか。原子力研究も地震や津波研究でも世界トップクラスの研究をしていたのに。
 東京大学教養学部の藤垣裕子教授は「日本で何故あのような原発事故を起こしてしまったのか。原子力研究も地震や津波研究でも世界トップクラスの研究をしていたのに。
 専門化が進んで、隣の領域に口出しできる習慣がなかった点が示唆された。
多様な知を結集するのは、異なる領域間の往復が必要となる。往復の技術を培うために専門家のためのリベラルアーツがある。」

○科学と「専門家」を巡る諸概念の歴史
 東京大学教育学研究科の隠岐さや香教授は「有識者会議に呼ばれている状態のその人がexpertなのである。社会が平等になるほどに、あらゆる職業がprofessionと呼ばれ、誰もが何かのexpertのように振る舞う機会が増えている。」

○「ネガティブ・リテラシー」の時代へ
 京都大学教育学研究科の佐藤卓己教授は「専門家になるということは、われわれが発見する要素の数を増やすことであり、それに加えて、常識を無視する習慣をつけることである。」
「何かの専門家になるということは、別の何かの専門家ではないということである。」

○ジャーナリストと専門家は協働できるか
 早稲田大学政治経済学術院の瀬川至朗教授は、「社会における本当の専門家」の要件は、
 ・専門知を有し、その知識を日々更新している
 ・自らの専門知について批判的
 ・哲学的に検討し、意義と限界を理解している
 ・専門知に基づいて社会やメディアに向けて語る意志がある
 ・メディアの特性を理解し、適切に活用できる

○リスク時代における行政と専門家-英国BSE問題から
 千葉大学国際学術研究院の神里達博教授は「専門家の助言なしに行政を遂行することは不可能である。与えられた課題にふさわしい専門家を探すのは案外難しい。若手研究者は本業で手一杯であることが多く、その点でも比較的高齢の『大御所』が選ばれやすい。審議会で専門知を生かすには、先ずは幅広い知見に基づく検討の上で、専門知を審議会に求める二段階方式を提言する。」

○女子教育と男子教育からみる「教養」と「専門」
 同志社大学社会学研究科の佐伯順子教授は「『教養』ある『社会』人、良質な『教養』を身につけた『専門』家を養成することは、短期的成果はみえにくいとしても、長い目で見て環境破壊や国際紛争において的確な判断を下すことができる真の国際的知見を備えた社会的リーダーの出現にもつながる。」

○社会と科学をつなぐ新しい「専門家」
 大阪大学の小林傳司名誉教授は「専門家の二種の類型として、一つは自らの専門的知識や技能が不断に非専門家との接触を通して利用される現場に立ち会う専門家である。『臨床の専門家』と呼ぼう。
 もう一つは自らの専門的知識や技能の流通や使用が比較的閉じた同業者集団に限られ、その種の知識の利用が非専門に及ぶ場面と相対的に切り離された専門家である。いわゆる『基礎研究の専門家』である。同一の人間が両方の役割を演じることが多いのが普通である。しかし現代社会には『社会における科学と社会のための科学』として「プロデューサー」的「媒介の専門家」として哲学者が必要。」

○運動としての専門知-対話型専門知と2061年の子どもたちのために
 京都大学学術出版会の鈴木哲也専務理事は「『専門家』と社会の関係は、今日、危機と言っても良い状況に至った。社会の中で専門家が専門家としての見識を示すことの正統性/正当性を毀損する動きが、次々と起こった。COVID-19においては、日本での感染拡大が懸念されるようになった当初、政府は大慌てで専門家に意見を諮ったが、外出自粛や飲食業の休業など厳しい行動規制が提起されるや、中には専門家を公然と毀損するような発言も含めその意見を軽視・無視する傾向はすぐに現れ」「専門外を知り、専門外と対話する力『威信』。狭い専門の中での威信が必然的に生起するサイロ(タコツボ)化が、社会経済に大打撃を与えたことさえある。」


 実は、この本にやたら傍線を引いたのは、人生の家庭教師であった魚津に住む早稲田の先輩・浜多弘之氏の通夜と葬儀のため、東京から富山への新幹線往復と通夜の夜、断続的に読んだためである。大学の進学相談から今日に至る70年もの長い間、郷里の富山での建築やまちづくりの仕事で面倒をみて貰っていた兄貴分の逝去は突然であった。
 人生百年時代と思い込んで、これから愈々本格的に郷里の家やまちづくり再生の相談をする予定であったから、Blog72(10月9日)に「万事休す」と書いた程の衝撃であった。故浜多弘之氏の弔辞を依頼されたこともあり、本書とともに、2020年2月、文春新書『死ねない時代の哲学』と2022年2月の中公新書ラクレ『エリートと教養』を鞄に入れた帰省であった。


 自分も既に85歳を越えていながら、90歳で逝去した先輩の死が突然と考え、「万事休す」などとブログに書く様では。考えるまでもなく、私には哲学も教養もないことの証である。
「臨床の専門家」として、又、国が認める職能独占の一級建築士というprofessionをもってこれまで生計を立て、大学院では都市の建築をつくるためにと都市環境工学専修を新設して「基礎研究の専門家」となった。そのためか多くの審議会や国際会議に出席し、日本学術会議の会員にもなった。しかしこの段になって、改めて専門家には教養や哲学のベースが必要不可欠であることを教えられた上に、簡単には「死ねないこと」も教えられ、本当に「万事休している。」

Blog#73_「世界遺産の五〇年」を読んで考えた日本の進路

 

「世界遺産の五〇年」
(2022.10 (株)ブックエンド)

 2022年10月日22日、五十嵐先生から「(つよ)い文化を創る会」のメンバー、松浦晃一郎、岩槻邦男、西村幸夫、五十嵐敬喜連著の『世界遺産の五〇年-文化の多様性と日本の役割-』(2022年10月 (株)ブックエンド)が贈られてきた。先ずは4人の座談会から読み始めて、日本における世界遺産の位置づけがよく理解できた。

 「日本が世界遺産に参加したのは1992年、世界で125番目、世界遺産条約採択から20年後。しかし、その時から30年で現在の日本の世界遺産登録数は25件で、世界11位。間もなくベスト10に入る」という。ユネスコの世界遺産委員会議長で、アジアで初の第8代ユネスコ事務局長であった松浦氏の発言。

 日本イコモス国内委員会委員長であった国学院大学の西村氏は「日本が参加に遅れた理由として、日本の文化遺産は世界遺産に参加する100年前から独立した仕組みがあったためである。しかし実際に参加してみると、日本文化への見方を相対化できて、新しい視点と思想によって見直されることになった」という。

 2007年の文化功労者で、植物学の第一人者である岩槻氏は「文化遺産20件に対し、自然遺産は5件と少ないのは、日本語の『自然』は『nature』の『原生自然』と意味が異なること。また、日本には天然記念物や国立公園、ジオパークやエコパークの指定も含めて検討していたこともある」と話す。

 五十嵐氏は「日本の世界遺産は1万5000年前の縄文時代の2ヶ所(縄文遺跡群と富士山)、4世紀の2ヶ所(沖ノ島と古墳群)、6世紀の(紀伊山地)、7世紀の(法隆寺)、8世紀の2ヶ所(奈良と京都)、11世紀の(平泉)、12世紀の(厳島)、14世紀の(琉球)、15世紀の(石見銀山)、16世紀の(姫路城)、17世紀の2ヶ所(日光と長崎・天草)、18世紀の(白川郷)、19世紀の2ヶ所(富岡製糸場と産業遺産群)、20世紀の2ヶ所(原爆ドームと西洋美術館)のように原始・古代・中世・近世・近現代と全ての時代に亘っている。つまり丸ごと日本の普遍的な価値が世界的に認められていることで、これこそが日本の世界遺産と日本文化の大きな特徴ではないか」という。

 この五十嵐発言に対して、すかさず松浦氏は「弥生時代の遺跡や飛鳥・藤原時代、武士政権の鎌倉時代が抜けているが、その可能性は十分ある」と五十嵐説を支援する。

 こうした討論はなかなかで、特に五十嵐氏の「日本国とは何か、日本人とは何か」という問いに対して、「世界遺産という世界の普遍的な価値という視点から見て、縄文時代から今日に至るまで、日本文化の連続性を示すことができた。」

 この五十嵐見解をも参考に、サミュエル・ハンチントン著の『文明の衝突』(2000年、集英社)を読む。
 「日本が独自の文明をもつようになったのは紀元5世紀頃だった。現代の世界主要8大文明として、中華(中国)、インド(ヒンドゥー)、イスラム、東方正教会(ロシア)、西欧、ラテンアメリカ、アフリカなどの文明と並んで日本文明が挙げられている。しかし一部の学者が日本と中国の文明・文化を同一視するのは、日本文明は中華文明から西暦100年から400年頃に派生したとしているためである。ハンチントンも日本文明の起源は5世紀頃としている。ハンチントン著の「解題」で、京都大学の中西輝政名誉教授が、最後に「日本の選択」として、「中国の共産党独裁体制が続く限り、未熟で粗野な覇権国家になる可能性が高い。こうした状況で、日本は同じ文明をもつ友を見捨て、西欧文明に見方するのかとなる時、日本人は中国と同じ文明に属したことが『ない』と自信を持って発言し、独自の選択をすべき」としている。20年前のハンチントンや中西教授の慧眼に脱帽する。

 7世紀初頭、隋の煬帝に送った聖徳太子の手紙「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す 恙無きや」や、鎌倉時代の元寇(文永と弘安の役)時の日本人の国防意識の高さ、明治維新の日本の先覚者達の言動を考える時、これからの日本の進路を考えるに当たって、こうした五十嵐氏の「日本文化論」は貴重である。日本文明は中華文明の派生ではなく、日本国も日本人も1万5000年前から独立した文明と文化を持ち続けてきたこと。あくまで中華文明の派生ではなく、日本列島に1万5000年以上継続する8大世界文明にあって、特にユニークな平和文明で、今後の世界文明に大きく貢献すべきこと。

 奇しくも10月23日、中国共産党は集団指導体制から習近平一強の体制にシフトした。ロシアのプーチンに続いての独裁国家として香港に続いて台湾への進撃も予測される。明治維新の日本国と日本人の置かれている立場と同じ状況から、日露や日中との関係性を真っ正面から考え、対策を覚悟しなければならなくなった。

 末筆ながら、五十嵐先生の世界遺産に対する鋭い発言に日頃脱帽していましたが、本書で2008年から4人組の「逞い文化を創る会」支援があったことを知りました。こうした研究会の働きこそが、これからの日本の進路を決定する上で益々大切になると思います。

Blog#72 郷里の畏友・稲葉實氏逝去と浜多弘之氏危篤の報に「ああ万事休す」

 2022年10月5日、職藝学院からの電話で、稲葉實理事長が4日逝去され、通夜・葬儀は稲葉家で執り行うとの連絡。

 去る9月2日、富山の自宅へ職藝学院の上野幸夫教授・久郷慎治教授と尾久彩子さんが来て、稲葉理事長の危篤を伝えて、学院の今後について相談された。しかし強運の稲葉君のこと、いずれ又、何食わぬ顔で現れると軽く考えていただけに、これは一大事となった。同じ時、魚津の浜多弘之氏が富山ろうさい病院に緊急入院、コロナ禍もあって面会謝絶と子息の弘匡氏からの報である。

 1994年正月、中沖豊富山県知事の推薦で、富山高校の後輩であった稲葉君が富山国際職藝学院の理事長で、私が経営責任なしの学院長になり、2015年に副学院長の池嵜助成教授に引き継ぐまで経営のことは全く知らずに、1996年の開校から卒業式のみ参加の学院長をしてきた。全て稲葉君任せであった。建築(大工)32名、造園12名、2学年で80余人の小さな学院も開校10年で全卒業生500余名となかなかの実績で、2007年には日本建築学会から第一回「教育賞」を受賞する程に発展していた。
 しかし実状は、少子高齢化やコロナ・パンデミック等の影響もあって、学生数は目標の半分以下、地元の伝統的木造建築や社寺の再生を支援する先生方の稼ぎを学院経営に充てていたようだ。特に、私の後に学院長に就任した池嵜先生が2年で逝去され、稲葉理事長が学院長も兼務して、経営から生徒の指導まで陣頭指揮をされていたことも、今度の早逝の原因ではと考えると、本当に申し訳なく、「ご苦労様でした。ゆっくりお休みください」と祈るのみである。

 顧みるに、人生の目標であった富山に帰省して設計事務所を開設する予定が、1970年頃、大阪万博や成田空港の設計を担当、早稲田大学の助教授をしながら、富山で設計事務所を開設すると稲葉君が「父の後を継いで富山で建築事務所を経営するに当たって、富山県の内外でテリトリーを分けるべきだ。その代わりに富山県の建築事務所協会の顧問に推薦する」との後輩として強引な申し出があった。

 その一方で、早稲田の先輩として浜多弘之氏からは、魚津の市会議員として、富山県のために地元でも仕事をするようにと常々誘われ、魚津市の講演等に招かれ、市の都市計画の仕事を手伝わせてくださった。NPO-AIUEの支部開設に当たっては北陸支部長を引き受け、2008年の富山でのAIUE国際会議を主催される等々、私にとっては有り難い支援者であった。従って、郷里富山県での建築関係の仕事は全てこの二人の先輩と後輩の力関係で進められてきた。1997年の日本建築学会の選挙での支援、2000年のW-PRHの職藝学院内建設や2007年1月の早稲田大学定年退職時には職藝学院の先生方を総動員してリーガロイヤルホテルで「おわら節」の披露等、本当に良くしてくださった。

 今になって遅きに失したと後悔するのは、2000年、早大の定年退職を早めて帰省して、富山での余生を『太田口物語』などの出版、郷里富山市の再生に当たって、職藝学院に旧居をギャラリーに改築してもらう等、職藝学院との一体的まちづくりを進めたことがあった。しかし何故かこの20年間、早大の理工学部長や日本学術会議会員として、さらには2007年の退職後も銀座に尾島研究室を開設する等、各種社団や財団法人の理事長としての役職に追われて、地元の稲葉・浜多両氏から余程の要求がない限り全く帰省することがなかった。然るに、昨今のコロナ禍で銀座事務所を閉め、20年も遅れて2022年10月、最後に残された西町北総曲輪の再開発とその活動拠点としてのギャラリー太田口の開店に当たって、お二人の支援を期待していただけに、遅きに失したか。

 2022年10月10日(月)はスポーツの日で休日。「稲葉家の通夜・葬儀は供花・供物の儀辞退」とあり、その上コロナ禍とあって帰省する勇気がないまま、このBlogを書く。

「ああ万事休す!」と嘆く前に、気を取り直して富山職藝学院のホームページを開いて驚いた。「万事はまだこれからだ!!」と。

 1970年頃、稲葉君から相当強引に富山県の内と外でテリトリーを分けたいとの要望を受けて後50余年、その間、彼は(株)三四五建築研究所主宰、職藝学院理事長、学院長、教授、NPO法人里山倶楽部理事長として「とやま名匠情報センター」の設立など、富山県がこれまでに必要とした組織を創り、これを自由に彼の思うままに経営してきたとすれば、自己実現を十分に達成しての逝去で、実に立派な生涯であった。

 同時に、彼の残した事業は、これからが本格的に成果が問われる。そしてそのことは彼自身も良く理解していたこともあってか、2015年頃、私が学院長を池嵜先生に禅譲するとき、いずれは理事長は久郷慎治氏、学院長は上野幸夫氏にと考え、建築研究所は子息の伸一氏に、そしてNPO里山については、などと話しながら、名誉学院長として見守ってくれと先輩に向かっての変わらぬ厚かましい要請をしていたことも思い出した。
 それにしても、稲葉君亡き今、考えられるのは、まずは浜多さんがご快復されること。そして活動拠点としてのギャラリー太田口は、笹山眞治郞氏や中川勝正氏の支援、職藝学院のW-PRHを担当した高口洋人や中島裕輔、富山や魚津でお世話になった村上公哉やD.バート君等の支援も考えてみた。しかし先ずは、久郷・上野先生を中心に、建築業界や富山県、富山市の支援が先で、少なくとも職藝学院の継承だけは、地元のみならず日本の建築界にとって不可欠であろう

Blog#71 塩地博文他著「森林列島再生論」(2022年9月、日経BP)を読んで

 2022年10月4日、昨年大病を患って生死の境目にあった時、偶然巡り会って助けられたという文月恵理さんを同伴して、塩地博文氏がDHC協会を訪ねられた。目的は、一緒に著した「森林列島再生論」の出版とこの出版によって自分自身の再生を賭けているという昔に変わらぬ元気いっぱいの塩地氏。昼食は伊勢廣がよいというので、店長の星野雅信氏に電話で予約。話題は相変わらず面白く、活力があって、とても生死を彷徨った人とは思えない。

 森林再生と木を使っての建築は今や国是となっているが、既に私自身、上田篤先生と一緒に、2016年5月、藤原書店から「ウッドファースト」なる大著を編集し、また2017年7月には「日本の国富をみなおす」(NPO-AIUE)で「林業の蘇生」について著したこと。2021年6月にはOGの白井裕子さんが「森林で日本は蘇る」(新潮新書)なる傑作を著したことをBlogで紹介したこと等々から、改めて新しい情報とは思えなかったが、OBの高口洋人君も執筆しているというので一読する。

 塩地さんの「プレカット」と「大型パネル」による木造住宅の普及活動は革命的で、これまでの戸建て住宅の供給並びに森林の再生に寄与することは何度も聞かされていたので、新しい知見ではなかった。しかし、それぞれの専門家はそれなりに定量化し、みえる化に成功した著作である。幸い、塩地氏蘇生の恩人・文月さんが最後にそのタネを明かしてくれたように、本書はDX時代の先駆けの価値がある。

 日本列島唯一の天然資源は世界に誇れる森林資源であるに拘わらず、これまではCo2の吸収源としての評価から数兆円程度のアナログ評価であったのが、「大型パネル」に同定することによるデジタル評価では(1拠点50km圏の森林資源の計測もドローンを使うことで簡単に評価できることや金融の専門家がESG投資対象としてファンド構想を提案する等)数百兆円と100倍にもなること。この国富を利用できるのは全国で500ヶ所程で、地方再生の拠点が生まれること。 最終章では、説明が面倒な塩地構想を文月さんがいとも簡単に解説する。日本の国が抱える1000兆円の負債も代替できる程の仕掛けと仕組みを教えてくれる著作である。私もこの考え方で八ヶ岳山麓の新天地創造に当たって500拠点の一として、この手法を取り入れてみたい。

Blog#70 八ヶ岳尾島山荘をグランピング拠点に改装

 2022年10月1日(土)6:00am、丸山車で自宅出発。快晴、環七は既に混み、八王子へは7:40am。9:00am双葉SAで一休みして、山荘9:40am着。相場氏は自宅8:00am出発、12:00着。午前中に200冊の本の廃棄と2000冊の本を仮の戸棚へ。途中、自由農園で牛乳や野菜、ソーセージ、ベーコン等を購入して、昼食はソーメン。

 午後、丸山・相場は山ブドウ狩りに出掛け、4時間後、疲れて帰ってきた。その間、本の整理に追われる。4:00pm縄文湯へ。痛めた足・腰を温めるため、ゆっくり温泉に浸かる。5:00pm日没。赤岳・阿弥陀岳・横岳のシルエットも尖石考古館の写真もout。

 夕食は黒部峡の一升とカレーライス、キャベツのコンソメスープ。山での食事はとにかく美味しい。玄関横の書庫を改装して、女性用の個室を二室、そのため2000冊の本を廃棄する必要が出たのだ。小林光さんと電話で明日6:00pm、相場氏のベンツで八十川君と私、小林氏の4人で夕食の約束。

 夜は寒くなったので囲炉裏でアクアビットの酒を飲みながら、山ブドウのジャムづくり。白樺湖畔と八ヶ岳周辺ツアーガイドブックの出版相談後、12:00pm、冬用の寝姿はなかなかに快適。

 10月2日(日)6:00am起床。コーヒーを飲みながら日記を書く。7:00am、レーズンパンと牛乳、キャベツと卵の簡単な朝食。さすがに寒くて、とても外では食事できない。午前中は山荘の前庭を整備した上で、後庭にハンモック用の立木の下草を刈る。

12:00、駅前の更科そばで昼食。スーパーオギノで買い物、ホームプラザナフコでピザ釜の雨避け用にトン袋を購入する。2:05pm、八十川君到着。

 5:30pm、丸山氏留守番、3人で小林光氏宅へ。二地域居住の実践者・小林光山荘は芦沢南の金山地区に立地、山の景観は抜群である。八ヶ岳連峰のみならず、車山から中央アルプスまでの山並みがすごい。6kWソーラー発電にバッテリーも十分。新建築に詳細記事。

 6:30pm、(一社)日本ジビエ振興協会代表理事、オーベルジュ・エスポワール(ホテル兼レストランの主、「希望」という店のシェフ)藤木徳彦氏と弟のソムリエ、母の女将が経営する立派な店である。名刺には「農水省地産地消の仕事人」「内閣府地域活性化伝道師」とある。幸か不幸か、当日は宿泊客ゼロ、食事客もゼロの完全貸し切り状況下で、4人の夕食は女将の当地で25年間の苦戦物語もあって、小林光氏を中心に話題が尽きない。しかし、ジビエの岡谷産のうなぎはヨーロッパ風の赤ワイン煮込みとあって全く駄目。この山で採れたというキノコのソテー等、八十川君は美味というが、地元産も今ひとつ。前菜とデザートはなかなかの味として、ブルゴーニュのシャンペンとシャルドネの白ワイン、ボルドーの赤ワインは仏留学の小林光氏の選択だけになかなかのもの。日本の水素戦略やEXPO’25対策によいアイディアを得ると共に、DHC協会での委員会参加を了解させる。

 9:30pm帰宅。予定より1時間以上遅れて丸山氏を心配させる。昼から煙突を塞ぐ立木を伐ったりして整備した暖炉の火はよく燃えて、23:30頃まで雑談。昨日より寒さを感じないのは慣れたせいか。

 10月3日(月)7:00am朝食。午前中は後庭の立木を伐採してグランピング用ハンモックを吊り、使い心地を試す。なかなかの森林リゾートライフになりそうだ。9:30am、角大工務店来荘。八十川・丸山氏と改築の相談。御柱祭りのため忙しいので、2023年5月連休までに完成予定。

 11:30am、八十川君を茅野駅へ送って帰路につく。東京着2:00pm。

Blog#69 日野行介著「原発再稼働」(2022.8 集英社新書)から自助避難を考える

 2022年8月24日、総理官邸での「GX=グリーントランスフォーメーション実行会議」で、これまでに再稼働した原発10基に加え、追加で7基の再稼働を目指す方針を確認した。

 具体的には、福井県の関西電力・高浜原発1号機と2号機、宮城県の東北電力・女川原発2号機、新潟県の東京電力・柏崎原発の6号機と7号機、茨城県の東海第2原発、島根県の中国電力・島根原発2号機で、いずれも規制委員会の審査に合格している。

 既に再稼働している10基はいずれも西日本にあり、今回は7基中4基が東日本に立地している。来夏の再稼働に向け、地元の理解を得るため国が前面に立って対応するとして、2050年のカーボンニュートラル実現に向けて、最長60年まで可能な原発の運転期間の延長の他、次世代の原子炉の開発や建設を検討することも明らかにした。

 これまで政府は原発の新増設については「想定していない」としていた上、「年末までに具体的結論を出せるよう検討を加速して欲しい」との岸田首相発言である。この会議の後、西村経産大臣は「わが国のエネルギー安定供給を再構築すべく、あらゆる選択肢を確保していく。」経団連の十倉会長は「政府は前面に立って、原発の再稼働だけでなく、次世代炉の開発についても、官民が一体となって実用化する戦略を描く」と強調した。

 政府のこうした行動を察知しての日野行介氏の出版であることは「あとがき」を読んで理解した。日野氏は2021年度末をもって23年間勤めた毎日新聞社を退社した機に、それまでに調べ、書き続けた「フクシマの教訓を闇に葬ることによって原発再稼働が進んでいる実態を調査報道すれば、分かってもらえるかもしれない」、「国民一人ひとりの意志を押しつぶさなければ国策は進められない。役所は抽象的スローガンを出し、冷酷な本質を隠し続ける。国策と対峙するのは『狂気と執念』だけ」としての出版とある。

 しかし私自身の考えは、第一部の「安全規制編」で、再稼働ありきの原発規制は確かに多くのウソがあるとしても、福島原発事故から10年間に原発施設に投下された安全対策への投資は、全く無駄ではなかったと思われる。現地を視察した者として、確率の少ない自然災害に対して、それぞれの電力会社はよくぞこれ程の投資を成し遂げたものと思っている。

 しかし、第二部の「避難計画編」では、フクシマの反省から避難計画がなければ再稼働ができないはずが、どうして既に10基も再稼働していて、これから7基も来夏には再稼働できるのだろうかと信じられない思いがする。この編でよく分かったのは、プーチンのウクライナ侵攻に対して、ロシア国民から信頼と賛同を得るためには全てに騙しという非人道的手段を用いているのと同じで、これこそが著者の民主主義の破壊そのものという意味が理解できた。

 捕逸に記された広瀬弘忠氏の鹿児島、静岡、新潟での住民アンケートに伴走されての感想として、「まず再稼働したいという強い欲求だけあって、それを実現するためにデタラメな避難計画を作って、最後に簡単にすり抜けるという騙し方が極めてうまく、微妙なところは後出しにして、再稼働までもっていく」という語りは信じられないが、プーチン並みの強権がありそうだ。

 私自身、2014年7月、松江市の原子力災害広域避難計画の実態をヒアリングする機会があり、PAZ(5km圏)、UPZ(30km圏)の人々の避難が如何に困難かということに加えて、その訓練や長期間避難まで考えると、とてもまともではないと思えたからである。

 1991年6月、都市計画学会誌に「指定容積緩和に伴う広域避難広場の不足に関する研究」として、練馬区の容積率の緩和に対して、現況でも広域避難広場面積が不足しているのに、何故、容積緩和ができるのかを指摘した時、区側は大部分は一時避難までが限度で、広域避難広場まで辿り着けないから十分OKとの見解のあったことを思い出した。

 国にとって、何が最優先課題かによって、多くのものごとの手順や仕掛け、仕組みが役人によって目くらましが行われるのは当たり前と考えるべきなのか。今もそれが政治であり行政であるとしたら、民主主義でなく専制主義であり、中国やロシアの今日の状況と変わりなかろう。少なくとも日本は民主主義の国であれば、今少し透明性を確保し、面倒でも本当に住民参加の実行できる避難計画や避難訓練によっての原発再稼働であって欲しいものである。

 一案として、原発立地周辺を歩いて「日本は世界のまほろば2」(2015.5 中央公論新社)の(p.138-143)で記した八ヶ岳周辺部への原発避難場所(案)である。「津波てんでんこ」の避難同様、原発被災に当たっても自助・共助・公助を優先順とする。先ずはUPZの人々は可能な限りマイカー等で(要介護者をもつ家族等は事前に登録しておいて)、八ヶ岳山麓へ避難することができれば、少しでも共助や公助の助けになる。

 下図に示すように、八ヶ岳山麓から半径150~250km圏内に立地する原発は、新潟県の柏崎、石川県の志賀、福井県の美浜・大飯・高浜、静岡県の浜岡原発である。マイカーであれば2~3時間の距離にあって、広域避難場所として最適である。私たちの調査では、長野県には利用可能な空き家戸数は25万戸、仮に一戸に3人避難するとして75万人のみなし仮設住宅の供給が可能である。少なくとも、住民の生命を守る義務のある地方自治体が再稼働を許可する前に、このようなことも一考して欲しい。

八ヶ岳山麓バックアップシティ計画

Blog#68 飯山陽著「中東問題再考」(2022年5月 扶桑社新書)を読み、NOSPを再考する

 1976年東京生まれのイスラム思想研究家で、46歳の女性アラビア語通訳者の著で学んだ「中東のパラダイムシフト」。

・一つは、自由と民主主義、西側諸国と共存志向の親米陣営にあるサウジアラビア、UAE、イスラエル、エジプト

・一つは、現在の秩序を破壊し、暴力で拡張覇権を狙う親中陣営(親日にあらず)

 イラン(8500万人)、レバノンのヒズボラ、パレスチナのハマス、アフガニスタン(4000万人)のタリバン(10万人程)はリッチなテロ組織。

(イラク、シリア、レバノン、イエメンはイランの支配下にある)

 トルコやカタールは親米のふりをしつつ、この陣営に深くコミットする。

・2021年の経産省「エネルギー白書」によると、2019年の日本の原油輸入先

 ①サウジアラビア34.1% ②UAE32.7% ③カタール9.3% ④クウェート8.9% ⑤ロシア4.8%

 この現実を直視しない日本外交と日本の報道や専門家について実名で反論する明快さに脱帽する。

 特にアフガニスタンのタリバンを支援する日本政府や日本のジャーナリスト・専門家の間違いを糾弾する。また反米国家「イランは親日」というのも間違いである。8500万人のペルシャ人、イスラム教の国でアルカイダを匿い、国家主導でテロを実行。ホメイニの大量処刑を取り仕切った4人の司法官の一人、イブラヒム・ライシが現大統領。

 トルコ(8500万人のトルコ人、イスラム教が大部分)は、親日国の代表格というが、2003年から続くエルドアン大統領の独裁下にあって、イランと並ぶ「伝統的友好国」とか「価値観を共有する民主国家」との認識は間違っている。

 2020年9月、「UAE、バーレーン、イスラエルはアブラハム合意宣言」に署名。仲介者はトランプ政権。スーダンとモロッコも参加。エジプト・ヨルダンは既にイスラエルと正常化。いずれサウジアラビアもイスラエル人とパレスチナ人の国家問題解決に向かっている。

 以上の如き偏見とは思えない情報をこの新書から読み取った結果、これ迄の私自身の中東問題に対する疑問が相当解決した上で、NOSPを再開したい。

 2009年2月、公共建築協会主催でUAEのアブダビ・ドバイ視察時、オマーンのマスカット等を訪問。UAEでは2008年から地域冷房を義務化して、既に300万RTが稼働中。日本全国を合計しても100万RTの規模である。「この都市のまほろば」(中公新書vol.5 p206の図参照)に東京-静岡間の東海道メガロポリスに比較して、UAEのアブダビードバイ間の都市建設に200兆円投資、2020年のドバイ万博を機に、2030年迄にさらに100兆円投資予定。

 少なくとも、そのためには200万kW以上の電力が不足するに当たって、2000haのソーラーパネルを設置するスペースは、このアブダビ・ドバイ間の高速道路周辺に十分用意されていた。

 このような実態を知って帰国後、このソーラー発電とソーラーパネルの受注のみならずエネルギーを日本に輸送するための液化水素技術や水素船の研究をすべきと考えた。2009年4月からNOSP(日本オーバーシーズ ソーラープロジェクト)研究会を組織して、第1期(2009~2012年、14回)、第2期(2016~2017年、6回)、第3期(2018~2020年、4回)開催している。2020年のドバイ博は、この研究チームで訪問予定であったが、コロナ・パンデミックとあって、2020年8月5日の通算第27回以降、中止になっていた。

 このNOSP調査の実現に当たって、目下、2023年春、以下の地域を訪問したいと考えている。それは2025年の大阪・関西EXPO‘25会場にグリーン水素を少なくも1000トン活用したいと考えたが、水素運搬船がNEDOの実験船「すいそ ふろんてぃあ」(78トン)のみで、とても間に合わなかった。2030年であれば川崎重工(株)の1万トンの実用船が利用できるとあって、この水素量を輸出できるのはUAE、サウジ、オマーンが有望となった。

 然るに、この親米陣営の国への訪問団に当たっての事前調査が日本の政府関係者からはなかなか困難と聞課されていた次第が飯山著で何となく理解できた。従って、今後は直接、欧米の国々や現地関係者と直接連絡を取りたいと考えた次第である。

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<NOSP第1期研究会におけるプロジェクト構想>

<2022年時 中近東におけるグリーン水素輸出可能地域調査>

○UAE:
 ①三井物産(アブダビのルワイス工業地域内、ブルー水素20万t/年)
CCUS・ENEOS・NEDO・GIB
Helios Industry グリーン水素事業 K12AD(UAE)
 ②マスダール社 マスダールシティ2030年迄グリーン水素実証事業 48万t/年
 ③ドバイ MBRソーラーパーク、万博跡地利用状況  1300kW SIEMENS
○サウジアラビア:
 ④サウジアラビア 未来都市NEOM、グリーンアンモニア事業(米・デンマーク・独)   グリーンイニチアチブ 100万kW~400万kW ソーラー発電 グリーン水素650t/日
○オマーン:
 ⑤オマーン・グリーンエナジー事業 2032年~ 250万kWソーラー発電 180万t/年 グリーン水素  1000万tグリーンアンモニア輸出

<水素運搬船の開発>

日本にグリーン水素を海外から輸入するには、LNG船同様の液化水素運搬船の開発が不可欠である。2022年4月、川崎重工(株)が16万㎥型(4万㎥タンク4基≒1万トン)の基本設計承認を取得。2022年に1,250㎥(78トン)の「すいそ ふろんてぃあ」実験船の成果をベースに、2025~2030年には実用化予定。

Blog#67 楠浩一教授の「建物残余耐震計測法」と「BΣS」の開発普及に期待する

 2022年8月29日(月)、東大地震研の楠浩一教授の「加速度観測記録を用いた建物の被災度判定」の講義をwebで聴講するに当たって、彼の略歴をみて、急に一緒に聴講する仲間達もBΣS開発の意義を知ってもらうことにした。

 楠教授は九州で生まれ関西で育ち、1997年、東大生研の岡田・中埜研で博士修了。生研助手から2000年建研、2006年横国大、2018年東大地震研教授とあった。

 私にとって六本木の東大生研は、1964年の東京オリンピックで丹下健三の代々木競技場の模型実験をしていた場所であり、1994年から1997年迄、第1部の岡田教授と第5部の村上教授の共通・客員教授として4年間在籍し、思い出の多い研究所である。

 この間に1995年の阪神大震災があり、建物の安全性への関心を高くした。1997年からの建築学会長に続いて2004年迄、日本学術会議会員として、大都市や建築の安全問題を検討した。当時の学術会議の理系リーダー達の関心は、センサー技術の開発こそ日本のこれからの進路と熱心であったこと。同じ頃、私の早大研究室に、突然、三谷産業(株)がCAD-BIM開発に多大な研究費と社員を派遣され、共同研究を始めた。当時の大学院生や助手が増田幸宏君や渋田玲君達であったこと。2008年に早大を退職した後も三谷産業の役員に招かれ、また安全・安心をテーマとする(株)セコムからはデータセンターの設計を請け、研究助成は(公財)セコム科学技術振興財団の全面協力を受けたことから、この財団にBΣS研究所を附属できないか検討したが、(公財)の制度限界もあってCAD-BIMの研究継続だけは大型助成制度をつくって対処した。

 幸い、楠教授や増田君の今日のテーマに着目。これを支援すると共に、共同研究に入った。後に建築保全センター理事長時、次世代公共建築委員会の座長として「BIM部会」をつくり、これが今日のBIMコンソーシアムを形成、今日のBLCJに発展した。この間、BΣSとは“Building Safety, Security, Sensing, System, Service”の略で、建物の安全・安心を科学的に感知するシステムを構築して、これをサービスとする産業を育成することを目指してきた。

 しかし、現実にBΣSを実装・普及するには建物の所有者やテナント、設計者や施工者、管理会社の賛同が不可欠である。実装の第1ステップとして、増田君へのセコム財団からの研究助成で新宿の超高層マンションにBΣSの原型を設置することからスタートした。続いて洪水予測値に市庁舎を立地した時からの責任者として、川口市役所、また千里中央駅周辺のエリアマネージメントの防災分野を担当する大阪ガスグループにBΣS普及の第2ステップの導入を予定することができた。この間、楠教授の研究グループとエーラボの荒木氏等の協力で被災度判定のセンサーやサーバーの開発も進み、建防協の認定等に当たっては、三谷産業(株)の支援をお願いして今日に至った。

 2022年度はBΣS普及元年と考え、J.P.R.の渋田君には商標登録も(4部門)でお願いした。同時に、空調とインフィル部門をベースに、リフォームサブコンを目指していた三谷産業(株)がBΣSを事業化することでリフォームゼネコンへのステップを切ることが可能として、役員会で資金の支援を要請し、三谷社長の賛同を得た。

 この機会に、阪神大震災から30周年を迎える神戸市三宮駅周辺でのBCD事業化に向け、大阪ガスの岡本氏やDHC協会の中嶋氏には破壊された神戸市庁舎建て替えに当たって、この庁舎再建に当たって、是非BΣS導入に努めてもらいたい。 楠教授と中嶋氏の千里中央駅周辺エリマネでの第2、第3ステップに向けた話を聞いて、東京直下地震や東南海地震を想定するまでもなく、被災時の避難や建物の応急危険度判定に当たって、技術者の目視による判定の限界を考えれば、楠方式による被災度判定が如何に優れているかを認識した。願わくば、年末か来春には是非、神戸市で関係者を集め、直接、両氏のお話を聴かせて欲しい。

Blog#66 ウクライナ侵攻を憂う「D.バート君の戦い」を支援したい

 2022年8月14日、北九大のD.バート君からメールが届いた。

 「ご存知の通り、ロシアがウクライナに侵攻しています。私たち、関係ないかも知れませんが、国が、都市が破壊されている。私たちに何ができるか。私はウクライナ大学と連絡をとって、学部卒の学生5名を北九大の大学院に入れたい。彼らに日本の建築と技術、まちづくりと日本の良さを知ってもらいたい。ウクライナの都市を一から造り直す必要があるから。」

 

 D.バート君の壮挙に賛同すると同時に、1979年、日中理工系交換教授として半年間、中国科学院に在籍して、中国の重点大学の全てを訪問したことから、1980年代、沢山の中国留学生や先生方を日本に招くことになった。当時の貧しい中国留学生たちを大学院生として、また招聘教授として招くには、少なくとも1人年間10万円の宿舎と食事代の他、大学院の授業料を免除してもらうため、大学当局との間で激しいバトルがあった。

 そんなことを思い出すと、D.バート君の5人の学生には、少なくとも一人当たり年間100万円の寝食費の他、授業料免責という大学当局の支援が必要である。彼の戦いに要する費用負担は2年間に5人で1000万円必要になる。ウクライナ支援プログラムの募金一口1,000円として1万口の応募は可能であろうか。

 私自身、何はともあれ賛同する以上、今の私にできる範囲で3万円を、このBlogを書く前に送金した。40年以上昔の私の現役時代と違って、インターネット時代のファンド募金の威力は分からないが、私が40代であった当時の友人たちに手当たり次第に無理を承知でお願いしたことを思い出しながら、D.バート君のこれからの戦いを支援したいと考えている