早稲田大学 尾島俊雄研究室OBから二人の学長就任を祝し、コロナ禍での都市環境学を考える

 早稲田大学理工学部建築学科の修士・博士過程で、私の研究室に学んでいた二人のOBが相次いで学長に就任したという連絡があった。一人は10月から韓国の有名な国立大学・慶北大学の第19代総長に就任した洪元和君、一人は日本の有名私立大学である東北工業大学の学長に来春から就任する渡辺浩文君である。

 私の早大時代に開設した都市環境学のあり方が、コロナ禍で問われていることから、この学問分野で、私の研究室OBで大学教授になっている50余人に、芝浦工業大学教授を退職した三浦昌生君(都市環境学教材の編集幹事)に頼んで、アフターコロナ時代の都市環境学を展望する論文を募集してもらったところ、なんと日英文で35編も手元に届いた。

 12月14日、私の自宅に横浜国立大学の初代都市科学部長で、来春から副学長に就任予定という佐土原聡君とJ-Power OBで、国際的にスマートシティ等を設計していたNPOアジア都市環境学会理事長の吉田公夫君と三浦君が集まって、既に事前評価されていた論文の評価と公表について話し合った。

 第一線の学者として既に実績をもつ諸先生方の都市環境観は、全て一考に値すること、その中で、建築家の伊東豊雄氏の紹介でベルギーから私の研究室に留学し、北九州市立大学の教授になっているD.バート君の「3つのポストを超えて、ポストモダン・ポストインダストリアル・ポストコロナ」や台湾の建築学会長であった林慶豊先生の紹介で、長い間、私の研究室に在籍し、今は台湾国立台北大学の王世燁君の論文が強く印象に残った。

 私自身、早大の教師時代、常々、大学院生達には、学職に就いても学部長や学長になると自分の目指す学問の道を踏み外すから、余程のことが無い限り就任すべきでない。就任することになったとしても、できる限り早く降りるべきと話していただけに、祝福すべきかどうか考えてしまった。しかし、今度のコロナ禍はやはり余程のことが起こっており、しかも都市環境のあり方自体が問われていること。1970年代に都市環境学の必要性を叫ぶ学生達を集めて学んだポストモダンからポストインダストリー時代の都市のあり方が問われているからである。ポストコロナ時代の都市環境学は、そのあり方と同時に、人間としての生き方そのものが問われている時代にあって、学部長や学長は多様な学問分野の教授や学生達を導く役職であるだけに、その立場に就くことは生命を賭けるに値する。彼等の勇気を称え、影ながら支援することにした。

早稲田大学東京安全研究所の「都市の安全と環境」シリーズ出版に当たって

 2014年から5年余、早稲田大学東京安全研究所で、伊藤滋・尾島俊雄・濱田政則名誉教授を中心に、「東京の減災戦略」「防災性向上」「インフラ老朽化対策」「経済被害削減」を中心とした研究成果を出版した。

  • 伊藤編の都市計画分野 4冊
  • 尾島編の建築分野 3冊
  • 濱田編の土木分野 3冊

 これを基に、2020年1月に早大井深大記念ホールで、「防災・減災の行方」と題し、『国土と社会の強靱化はどこまで進んだか』をテーマにシンポジウムを開催した。

 その結果、1995年の阪神・淡路大震災からの25年、2011年の東日本大震災からの10年は決して失われた年月でなく、2013年の国土強靱化基本法を待つまでもなく、専門的な技術や対策は相当進んだこと。しかし、それ以上に都市の拡大や老朽化が進み、加えて自然災害の規模は想定以上に巨大化しつつあることから、減災対策が喫緊の課題である。特に、政治・行政等の公助限界を考え、共助・自助の面では、東京の安全・安心は、私たちは各自の自己責任で取り組むべきであること。しかし、不安のみが先行してのパニックが心配されることもあり、本研究を指導された先生方から「生命を守る強力な建築・土木・都市計画分野の技術が、どれ程進んでいるか」について知る必要があるというご意見をいただいた。

 これを若手研究者に伝えたところ、鹿島学術振興財団の研究助成を得て、早稲田大学の秋山充良教授が中心に検討して下さった。
 2020年12月、その中間報告会があり、次のような研究目次(案)が出された。


「首都東京の災害から命を守る技術」(案)

序  予測される首都東京の被災     尾島・秋山・(福島)
(東京直下地震・南海トラフ地震・富士山爆発他/気候変動・津波・洪水・新型コロナ・原発事故)

1編 建築技術分野
   1章 超高層建築         小林紳也/(高口洋人)
   2章 地下空間          原 英嗣/(村上公哉)
   3章 仮設住宅・みなし仮設    小林昌一/(小野道生)
   4章 即時耐震性能センサー    (楠 浩一)/増田幸宏

2編 土木技術分野
   5章 洪水(予測・対策)     関根正人/(秋山充良)
   6章 津波            秋山充良
   7章 コンビナート        濱田政則
   8章 防災・教育         重川希志枝/(福島淑彦)

3編 都市計画技術分野
   9章 BCD・分散電源・CGS    (尾島俊雄)/中嶋浩三
  10章 防災情報・ICT        渋田 玲/(増田幸宏)
  11章 木造密集地         三舩康道/(長谷見雄二)
  12章 エリア防災DCD       関口太一/(小野康道)

4編 総論
  大丸有地区モデル(伊藤 滋)    加藤孝明  

 秋山充良・原 英嗣・増田幸宏氏等の意見では、『2021年には東日本大震災から10周年に当たり、その間の建築・土木・都市計画分野での技術開発は、それなりの成果もあったが、同時に、新型コロナ禍での三密対策やロックダウンの実状から、都市そのもののあり方やライフスタイル、価値観の転換を余儀なくされている今日、シリーズ10冊の既出版物の見直しとアフターコロナ時代の建築・土木・都市計画分野で連携して、ソフト・ハード面からの再構築を検討することになった。

上田篤+縄文社会研究会著「建築から見た日本」を読んで

 「建築から見た日本 その歴史と未来」(2020年10月30日 鹿島出版会)を贈呈されてから一ヶ月後にやっと一読することができた。何故、こんなに時間をかけなければ読むことができなかったのかと改めて思うに、本書の編集時から上田篤の並々ならぬ情熱と編集時の執念のすさまじさを知り、辟易していたからである。無理矢理に自説を押しつけ、それに従えない著者や文章は除去するという方針に賛同しつつも、最初からこれは上田篤の遺言であり、遺書であり、上田の生きた証であり、日本人や私たちへの教書を出版するつもりでもあると判ったからである。

 きっと読みたくない本に違いないと判っていたので、この本の出版を編集した私の研究室卒業生の久保田昭子さんには、申し訳ないが、きっと誰にも読まれないし、売れない本になるかもしれないけれど、きっと良い本になることだけは確かであると告げていたが、最後まで頑張ってくれた。

 そんな状況であったから、何年か後に本書を読むつもりで本棚の奥に入れてあったのが、昨今のコロナ禍で、11月29日の日曜日、余りに時間を持て余していたため、つい読んでしまったのである。

 丸一日掛けて読み終えた夕刻、上田篤著の「30 田園都市」の章と「31 天地笑生」を読み終えて、これは大変だ、早く仲間達に本書を読ませる価値ありと考え、このブログに取り上げた次第である。

 アフターコロナ時代の竿灯に立っての道標として、上田篤が自身の生い立ちを赤裸々に書いた上で、私たちに日本のあるべき姿や考え方、さらには進むべき道をこの2章で示してくれていたからである。

 本書は、不思議な著者達が上田に命じられるまま連著して書いたであろうが、なかなかに面白い内容である。何章かに分散して書かれている上田篤著の部分だけは少なくとも熟読する価値があると思い、一読を勧める次第である。

日本建築画像大系全60巻をYouTubeで公開するに当たって

 1980年春、中国科学院で半年間の在外研究を終えての実感である。日本の建築技術は全て古くは中国、新しくは欧米の模倣としか見られていないことから、日本建築の本質を世界に知ってもらうには、1964年のオリンピックや1970年の万博以降の日本建築の1980年代における高度な専門技術を映像で伝えることが最適と考えた。

 1982年から文部省の研究助成や民間企業の募金を得て、1983年から岩波映画にお願いし、またこの間の記録はNHK出版から「21世紀建築のシナリオ」と題して出版。15分×25本のビデオを完成。引き続き1988年から住宅シリーズ25本に取り組み、そのシナリオは1989年「21世紀住宅のシナリオ」シリーズとして早大出版部から出版し、25本の住宅シリーズを1990年には完成した。50本の建築と住宅のビデオを製作した上で、大学の教材として担当者に無料で配布していた。

 次なる都市シリーズを製作するに当たっては、バブル崩壊もあって資金が集まらず、これまでの成果を早大出版部に販売してもらうことにして、その20%を大学に寄附してもらうことによって数本を製作。また英語や中国語版、さらにはVHSビデオテープからDVDビデオへの転換も考え、日本学術振興会にも助成を申請した結果として、DVD化を行った。

 2007年、私が大学を定年退職したときには合計60本の製作を終えていたが、それ以降は早大理工総研の研究会に委ねることにした。

その時から15年、DVD化した60本のメディアが劣化して利用できなくなった上、VHSビデオ版として5セットの蓄えがあった分も新鮮みがないことや製作された先生方の多くも逝去され、岩波映画の倒産等もあって、理工総研の研究会や著作権者からも私に全て一任されて今日に至ってしまった。

 私の研究室の卒業生を中心に、2001年設立したNPOアジア都市環境学会に、2020年、この成果(負債?)を引き受けてもらうことにして、有識者の意向に沿ってYouTubeにuploadしてもらうことになった。今後のビデオテープの劣化も考えれば、この時点でデジタル化しなければ、20年前の貴重な記録や努力が水泡に帰すると考えた次第である。この間、残された画像大系の1セットは八ヶ岳の尾島山荘に、2セットは某大学に寄贈し、1セットは当方で保管することにした。

 日本の建築界が輝いていた1980年代の先駆者達の建築にかけた情熱と当時の建築界の実態を、この映像を通して見て下されば、コロナ感染対策でStay Homeされている方々の一興になればと考え、公開した次第である。

2050年の脱炭素化を考える(2020年11月5日 (一社)都市環境エネルギー協会の第27回シンポジウムに寄せて)

東京ガス(株)本社2階大会議室に120人の聴衆を得たシンポジウム。基調講演は東京大学名誉教授・橘川武郎、基調報告は国交省技術審議官・渡辺浩司、東京都地球環境エネルギー部長・小川謙司、東京ガス(株)副社長・野畑邦夫、話題提供は横浜国立大学教授・佐土原聡氏等で、そのパネル討論の成果は、「2050年に菅義偉首相が日本も温室効果ガスの実質ゼロを10月26日に宣言したこと」もあり、これを実行するための具体策について、集中的に検討することになった。

 筆者は、このパネルディスカッションのコーディネーターとして、(一社)都市環境エネルギー協会が貢献可能な分野に限ってパネリストに質問し、その反応を確認しながら、以下の如き活動方針を理事長(私案)として作成してみた。

『当協会も発足して半世紀、電力・ガスに次ぐ、環境にやさしいゼロエミッションとしての熱エネルギー供給を普及促進する産学官の団体として、当協会の役割が益々重要になってきた。2030年をステップとして、2050年には日本も地球温暖化の原因によるCO2等のゼロエミッション宣言により、自然災害対策としてのBCDや格差増大に伴うSDGs等の政策実現に寄与すべく、当協会の実行を伴う活動が期待されている。

世界中が直面している気候変動に伴う自然災害の多発と、その原因となる温室効果ガスを2050年には実質ゼロとすることに、2020年、日本政府も同意した。英仏等では、すでに実質ゼロを法制化する状況下、原発依存が期待されなくなった日本は、中国の2060年ゼロ目標同様、極めて厳しいのが現実である。

当協会は、すでに半世紀の間、都市の安全と脱炭素に向けてCGS活用等の熱エネルギーインフラの普及に努めてきたが、2030年を新しいステップとして、2050年に向けて革命的脱炭素目標を策定する必要がある。

 具体的には、

① 現在の全国における熱供給網(50年間で200km、2,000ha)を2030年までに現状の2倍、2050年までには5倍に拡張すること。

② その熱源としてゴミ焼却熱は全量活用し、分散電源として、東京70万kW、大阪30万kWを、2030年までに東京150万kW、大阪60万kW、2050年までに東京300万kW、大阪150万kWに拡張する。

③ ガス中圧管利用CGS利用を主とする分散電源のため、カーボンオフセット(CCSやCCO等JCM)の必要性から、地方自治体等が事業主体となって、国策として途上国の都市エネルギーインフラの整備をする場合、当協会はそれを支援する。

④ 以上は東京や大阪を中心としての具体策を記したが、大都市以上に地方創生の中心にこのシュタットベルケとして、この手法を普及推進する。

すでに都市環境エネルギー協会は、一種会員企業が中心に、二種会員の学識者と共にBCD事業化委員会を設け、地方自治体が主体となるべく、その可能性を追求し、2021年度からその実装に努めている。

「夢洲EXPO’25会場の水素インフラ導入の可能性について」尾島発言要旨(2020.7  関西経済連合会からのヒアリングに対して)

問い: 2025年のEXPO会場と、1~2年遅れるかもしれないIRに向けて夢洲全体のプロジェクトの中で水素をどう扱うか。

尾島: 一番大きな課題は、再生可能水素、いわゆるグリーン水素をどう処理するのか、水素だけであれば、特に欧米などは副生水素でかなり大きな水素そのものを遠距離運んだり、活用したりしている。日本でも副生水素に関しては、コンビナートの中でいろいろやっているが、問題は再生可能水素、いわゆるゼロ工ミッションの水素をどう獲得し、それをどう商用化するかということ。

 夢洲全体を考えた時に、電力換算して10万キロワット以上のプラントが必要になる。そうすると、年間10万トン以上の水素がないと夢洲全体がゼロ工ミッションの町にはならない。

 エキスポ会場は6か月という会期を切っているので、だいたい5千トン~6千トンぐらいになる。万博会場としては、パビリオンに冷水と電力を供給し会場内の冷水と電力の全てを水素で賄おうとすると6千トンぐらいの水素が必要になる。そのグリーン水素を2025年迄にどのような形のサプライチェーンで夢洲会場に運んでくるのか。天然ガス並みの30円とか35円で水素を運んでこられるのかというサプライチェーン側の課題。商社、メーカー、ゼネコンに問い合わせている最中。

 今すぐにできそうなのは、NEDOの川重プロジェクトの研究を積み重ねて、妥協すれば2千トンぐらいは確保できて、会場全体を水素でやったと言える。1割ぐらいの完全なグリーン水素と、3割ぐらいの川重プロジェクトを延長していけば、4~5割ぐらいはいけそうである。

 第3案は、水素であっても下水とかバイオマスとか、日本には今20種頬ぐらいの多様なシステムがあり、水素を供給することができる。それらは500キロワットとか100キロワットと小さいが、そういうもの何種類か募集して、見える化する将来の技術を展示する。

 万博協会はお金が無くとも、協会が供給規定を作らないといけない。グリーン水素から冷水とグリーン電力を作って供給する。供給規定は、来年か再来年のBIEの供給規定書に書き込まないと間に合わなくなる。将来あるプロジェクトだから、「誰でも手を挙げてください」「誰か背負ってください」という形の研究会を今やっており、まとまった成果はNEDOに報告している。

 2030年目標ロードマップに、2025年時の万博でやった水素チームがパッケージとして東京や大阪の都市のインフラの一端として乗っていけるような戦略を環境省などに働きかけている。そのためにもパッケージのシステムとして日本型の脱炭素ゼロエミッションの都市インフラのプロジェクトを実現したい。

 少なくとも会場のエンドユーザー(パビリオン)に対しては、グリーン電力と冷水は送りたい。政府は2030年の水素のロードマップを作っているので、その踊り場みたいなところで実証研究をしたいと考えているので、協会や商社などには頑張ってほしい。EXPO’70の地域冷房も4大商社のジョイントで事業主体となってもらった。今度も日本の4大商社ぐらいで今後の水素の事業を背負って頂きたい。大阪万博の時の地域冷房は、三井、三菱、住友、丸紅の4大商社全部が人を出して、事業をやって、収支が儲かった。

 2020年7月の関西経済連合会からのヒアリング要旨を11月12日開催のDHC協会「EXPO’25会場内水素インフラ導入委員会」で報告した結果、大きな反対がなかったことで、この方向で政府や大阪府市、さらにはEXPO協会に働きかけたいと考えている。 

私の日中交流体験(2020.10.17 日本建築学会主催「戦後空間シンポのコメントとして」)

私は昭和12年、富山県富山市に生まれ、83歳になります。今日の各先生方の話題は、私自身の人生・体験と重なり、誠に感慨深くお聞きしていました。

昭和12年は、北京郊外の盧溝橋で日中戦争が勃発した年で、この戦争がそのまま太平洋戦争に続いて、昭和20年8月15日の終戦を迎えます。

しかしその直前の8月1日に、私が生れ育った富山市が、米軍のB29の空襲で全滅全焼、10万人の市人口の内2000人もの人が亡くなりました。私の向かいの一家、8人全員が防空壕で亡くなりました。私の自宅も土蔵も、小学校も全て全焼してしまい、黒部市に2年間疎開しました。ともかく食べるものもない時期でしたが、子供心に明るかった。

2年間の疎開生活の後、富山市に戻りました。小学校はまさに青空学級で、食べるものもない貧しいバラック家で、その頃から、家を建てたい、学校をつくりたいと、建築家を志して、早稲田大学に入学したのは1955年でした。

1950年の朝鮮戦争勃発で、日本でも防衛大学が創設されたり、自衛隊をつくるとか、アメリカから軍需物資が流れ込んで、朝鮮戦争は日本に大きな特需をもたらした。建築や造船・鉄鋼などの重厚長大産業が、日本の復興のため大躍進する時代にあって、大学の先生方で、構造力学とか材料、私が学んだ設備分野に、日本の陸海空軍の技術将校が、先生として、また学生として仲間に入ってきた。日本の建築技術は飛躍的に発展した時代です。

一年生の時に、東京タワーをつくられた内藤多仲先生の構造力学で、東京タワーは、パリのエッフェル塔のように鋳鉄ではなくて、戦車のくず鉄を焼き直して造ったことで、エッフェル塔の2分の1程の重さでありながら、エッフェル塔より高くて、地震に耐える設計をしたという話を聞きました。

1964年の東京オリンピック時には新幹線ができ、又、丹下健三さんが設計した代々木のオリンピックプール、その設備を私の恩師・井上宇市先生が担当した。井上先生は東大の造船学科を出た海軍中尉で、潜水艦の設計をしていたという先生の指導を受けてオリンピックのプールを手伝いました。そのお礼で1965年にアメリカに一緒に行かせて頂いた。

はじめてニューヨークに行き、日本との格差の大きさに驚きました。井上先生のアメリカ訪問は、東京駅を超高層にするため(当時31mの高さ制限)の調査が目的であった。

当時、ニューヨークでは世界博を開催しており、会場の外は暑くて、パビリオンの中は涼しい、その温度差を体験したことから、地域冷房の必要性を感じたこと。バウハウスの校長であったグロピウスの設計したパンナムビルがセントラルステーションの裏に造られたことで、超高層建築がパークアベニューの風の道を阻害していることを体感したことが、東京駅が八重洲通りと行幸通りの風の道づくりの阻害になる研究に結びつくわけです。東京駅は超高層にならなかったけれども、その時の調査で早稲田大学の55号館や霞が関ビルの設計に役立った。

丁度その頃、私の先生や大成建設の方々が、ソウル大学の建築の先生方と協力して、韓国で初めての大韓生命ビルの超高層を設計していた。当時の韓国は、技術や産業基盤で日本より4~5年遅れていたような気がしますが、兎も角にも一緒に仕事をされていた。

日本も韓国も、ある意味では技術的に頑張った時代。私たち大学院の学生が、オリンピックプールの設計や超高層の設計をしたり、さらには万博の設計をすることになるのも、先輩がほとんど戦争でいなくなった時代です。修士・博士の大学院生は数も少ない上に、授業もないわけで、アメリカやヨーロッパの文献や原書を読む研究だけが大学院生の日課でした。英語やフランス語・ドイツ語やロシア語の文献を私たちが訳す。それがバイトになり、大学院のゼミや文献研究の仕事でした。

30代で大阪万博の会場設計をやることになり、300haの土地に6000万人が集まる会場で3万冷凍トンの地域冷房の基本設計をしました。

アメリカのパビリオンが1500冷凍トン、ソ連が2000冷凍トン、日本が2000冷凍トン、あるいは三井とか三菱のパビリオンが700冷凍トンくらいの冷房負荷の建物を造ったのですが、それに対して、中国300、韓国200、インド250、インドネシア150で、日本を除くアジアの全てを集めても1000冷凍トン。要するに、日本館一館にも及ばないくらいが当時の万博のアジアパビリオンのスケールであり、国力でした。

1970年代に大きな変革がありました。佐藤栄作が総理で、田中角栄が通産大臣の1972年の沖縄返還後、沖縄振興のために海洋博を開催するに当たって、那覇ではなくて本部半島という北の方に万博会場を造ることで、そこまでの交通や電力・水などの供給とか、島全体の返還に伴うインフラストラクチャーを提案することになり、高山英華先生の下で、私がお手伝いしました。特に沖縄海洋博の事務総長は、沖縄出身で、早稲田大学の大浜信泉総長が担当されたこともあり、高山先生や大浜先生、さらには中曽根通産大臣の直轄下に、沖縄全体のインフラ設計を手伝わせて頂きました。当時、沖縄には東電や九電に相当する電力会社がなかったので、九州電力や東京電力の支社でなく沖縄電力をつくるべきだと生意気にも主張したりしながら、沖縄海洋博会場でもサンゴ礁の破壊を防ぐ赤水対策等、新しい会場インフラを造るためにはエコロジーケアの大切さを、その設計を通して実感した訳です。当時はローマクラブの「成長の限界」が話題であり、大学の研究テーマでもあった。

沖縄海洋博後の1978年に日中平和条約が結ばれ、鄧小平が日本にやってきました。彼は新幹線を体験して、青少年の友好交流とか理工系教授の交換などを提案しました。私は、日本の都市開発もさることながらエコロジーが大切だと痛感しており、中国は自立更生で自然生態都市として成果を収めていましたので、その実態を勉強したいと、交換教授に申し出ましたら、早速、招待状が届き、1979年に中国に行くことになりました。

9月に北京の中国科学院に行きまして、北京飯店に分室があったのですが、そこで中国全体の様子を学び、その後、彼等に気に入られたみたいで、中国の先生方との交流を希望するなら何処がいいかと仰ったので、私は西湖のある杭州を希望したところ、中国の重点大学で、中国科学院直轄の大学である浙江大学に、半年間、中国全土から優秀な学者が集められて、彼等と合宿して交流が始まりました。浙江大学を拠点として、中国の各重点大学に表敬訪問しながら60回も講演や講義をしました。

帰国した後も日中の交流の橋渡しをしてきました。そういった成果のためか、1986年に建築学会百周年の会長になる芦原義信先生が突然自宅に来られて、開かれた学会をつくるためには、どうしてもアジア、特に中国を中心に交流してほしいと頼まれたので、1986年以降、日本建築学会を中心にアジア各国との交流会を開きました。しかし、1989年に天安門事件があり、鄧小平から江沢民体制になり、反日教育が激しくなる中で、私自身が親しくしていた先生方が表に出て来られなくなったこともあり、交流が少なくなりました。

1990年以降は、1995年の阪神大震災や2011年の東日本大震災等、国内のことで忙殺されて今日に至っています。唯、日本国内のみならず、アジアからの留学生やその弟子達を中心に、毎年1回、アジア都市環境学の国際交流を続けています。

「広域避難住民どこへ」(日経新聞朝刊2020.10.14)を読んで

「台風19号が残した課題、東京東部5区最大250万人、自治体主導の対応限界」の記事。『気候変動を背景に、水害の大規模・広域化が懸念されている。災害基本法でも、災害発生前の広域避難を想定していない。しかし東京の江東5区(墨田・江東・足立・葛飾・江戸川)の大部分はゼロメートル地帯で、最悪の場合、深いところで約10mの浸水が2週間以上続くと見込まれている。2018年5区が策定した計画では、区外への避難を呼びかける対象住民は最大250万人に上るが、この具体対策は進んでいない状況。』

 2017年2月8日、早稲田大学東京安全研究所と日本都市問題会議が主催して、「江東区民の安全・安心に寄与する東京オリパラ施設の活用」について講演したときに、江東区の職員から、江東区のみでは対応できないので、江東5区で広域避難を検討しているとの報告があった。しかし、この2020年10月の新聞報道で、その検討が進んでいないことを知った。

 2017年の講演に先立って、2016年10月、山崎孝明江東区長には、

1.江東区のハザードマップを見る限り、23区中でも最も危険と思われる地域で想定される災害とその具体的安全策について。

「2040年代の東京の都市像とその実現に向けた道筋について」で、2016年5月、都市計画審議会が中間答申した内容には、この水害問題が全く書かれていないこと。

2.江東区に新設されるオリパラ施設が、災害時の避難所として、どれほど活用可能か。

 ロンドンオリパラでは、施設は地域住民のレガシーにすべく、計画時から徹底的に議論し、住民にとって正のレガシーとして機能すべく、レガシーコーポレーションが今も働いている。

3.江東区民の求めるオリパラ施設であると共に、区民にとって安心できる避難施設になるかを中心に、当研究所と日本都市問題会議が江東区と共にシンポジュームを開催するに当たって、その共催をお願いしたい。

 この時の講演要旨を以下に記す。

 江東区が避難場所と指定しているのは、主として地震対策で、水害に対しては全く機能していないこと。この期に、2021年に延期された東京オリパラ施設は、後利用の負担を少なくする減築対策も出来ていない現況を考え、せめて地域住民の水害避難場所としての機能を今から準備してほしいと、小池百合子都知事に願う次第です。

アフターコロナ時代の都市環境学(2005年4月の日本学術会議「勧告」を想い出して)

 2020年3月11日、人口一千万人の中国の武漢市がロックアウトしている状況下にあって、WHOのテドロス事務局長がやっと新型コロナウイルス感染症をパンデミック認定した。

 4月3日には100万人の感染者と死者5万人超えたニューヨークの市長が悲壮な状況を報告、テレビ画面は地球上に拡散した新型コロナ・パンデミックの恐怖を実感させる。  

 東京もロックアウト寸前で、第2回東京オリンピックはすでに一年後の2021年7月に延期され、株式市場のみならず金融業界は、1987年のブラックマンデーや2007年のリーマンショック以上の経済危機を出現。

 パンデミックとは、感染症(伝染病)の世界的な大流行を表す語で、ギリシャ語の(Pan「全て」とdemos「人々」)が語源という。感染症の流行は、(1)エンデミック(endemic「地域流行」)、(2)エピデミック(epidemic「流行」)、(3)パンデミック(pandemic「汎発流行」)に分類され、最大規模がパンデミックである。

 感染症とは、微生物が体内に侵入し繁殖したために発生する病気のことで、例えばウイルス、細菌・原虫などの病原体が人体の内部に侵入して増殖した結果、咳・発熱・下痢などの症状を示す。天然痘・インフルエンザ・AIDSなどのウイルス感染。ペスト・梅毒・コレラ・結核・発疹チフスなどの細菌感染。マラリアなどの原虫感染がある。

 人口一千万人の大都市、中国大陸の交通要所である武漢市が、全面封鎖以前に、市民の半分に相当する500万人が武漢市から逃げ出していたとの報告から察するに、2019年に発症していた事実が隠ぺいされていた。ウイルス感染の実態をインターネットで広報した医師が当局に止めさせられたうえ、その医師自身が感染して死亡したことから、その医師を英雄と称して当局の責任回避を行ったこと等、この間の隠ぺい工作が米国をはじめ世界が問題視している。

 こうした状況下、ロンドン・パリ・ニューヨークと次々に世界の大都市がロックアウト状況下に置かれている。特に、4月4日、ニューヨークのクオモ知事は10万人余の感染者と2400余人の死者で、人工呼吸器の不足を叫び、「医療体制の崩壊」を告げている。セントラルパークに野外病院を建設、30日にはマンハッタン島に海軍の病院船「コンフォート」が到着。新型コロナ以外の患者を受け入れ、既存の医療機関を支援していた。

 2020年10月、日本学術会議のあり方が政治問題になっているが、私自身、日本学術会議の「大都市をめぐる課題別特別委員会」の委員長として2年間に17回の会議と2回の役員会やシンポジュームを通して、各部から2名、14人の会員を中心に討議を重ねて報告し、2005年4月にはその結果を総会の決議を得て総理に「勧告」している。

 特に感染症の心配については、7部の折茂肇教授と金子章造教授が担当であった。勧告の一部「大都市の安全確保対策として、病院船の建造や感染症対策等の救急医療体制などを早急に整備する必要がある」と。

 災害時緊急医療体制として、病院船・外傷センター等の必要性について、アメリカのこの病院船の例を挙げ説明している。この勧告と報告書について、小泉総理は重く受け止め処理したいとの報告あり。2年後、新潟県での地震対策から病院船の要求が出されたこともあり、後日、学術会議事務局より内閣府に問い合わせたが、検討中であるという回答で終わっている。2020年3月の新聞で病院船の調査予算が計上されたとの記事を見るも、実装は如何なものか。

 私の専門とする都市環境学としては、アフターコロナのメガトレンドとして、1.分散都市、2.監視社会、3.新常態、4.職住融合、5.三密回避によるステイホームのライフスタイルのあり方に関心がある。アフターコロナ時代にあっては、スマートシティやスーパーシティの発想とは一線を画した都市と地方の二地域居住の制度化研究が必要である。この機会を捉えて、地球環境と人類の持続可能な社会に寄与する都市環境学のデシプリンを再構築したい。

現代総有研究所のパネルディスカッションに参加して

日本の社会では「建築自由」という表現で、建築家は、大都市あっても田舎にあっても、周辺環境を無視して、勝手に粗大ごみを造り出すと評価されているようです。しかし、日本には戦後60余年間、建築基準法があり、この法に依らぬ限り、建物は造ることすらできないという、世界で最も「建築不自由」な国であること。(建築基準法は法律的には禁止法の一種であると考えてよい)を知ってほしい。

もっとも、この法律に依っている限り、建築家や建設業者は建物が地震等で崩壊しても、その下敷きで死者を出しても、刑法上のみならず社会的・経済的責任が問われないことを考えれば、建築自由との評価はこの面では事実であるといえます。ヨーロッパや中国等に見る羅城都市にあっては、市民の安全に関する責任は都市の管理者が責任をもつことから、シビルミニマムとして、個人所有が多い建物は都市側の要求の下にあり、日本に比べて「建築不自由」との評価がされてきたと思います。

日本の多くの都市は城壁のない城下町の歴史をもっているため、市民意識(シビルミニマム)は少なく(戦争や大火の時には焼け出されて当たり前)、そのための景観(日照権など、やっと最近の法律で守られ始めているも)、一般的建築物の所有権者には景観三法もザル法にしか思われていないのが現状です。都市計画法で各種線引きはあっても、城壁の歴史をもたない日本の国民には未だに理解されていないように思われます。

このシンポジュームで実感した現代総有研究の面で考えるに、建物と土地の価値評価は基本的に異なることです。前者は人間が造った人工物であり、その建築物は竣工時(確認審査及び完了検査時)における強・用・美は、その瞬間から劣化を始める。特に躯体である構造・材料等の強度は必ず劣化する。インフィルとしての設備などは、その機能や性能劣化の進み具合は早く本来の用を果たせなくなる。

また流行に敏感な美については、ファッションのみならず景観的評価も周辺の状況の劣化と共に、その美的価値観が変わってくる。RC造やS造では50~60年で50%、木造では20~30年で50%も劣化し、残存価値が半減するといわれる。

しかしながら、日本の建築基準法では、この経年変化に対する評価基準が曖昧で、度重なる改正で、12条などで法定点検や機能維持が求められているも、耐震診断などの義務(公表)は無いに等しく、建物の管理者に一任されてきた。特に問題なのは、マンション等にみる区分所有ビル等の場合、管理者のみならず、素人のテナントには国が一度認可した建物であり、法的に既存不適格を認めている以上、劣化は無いに等しいものと信じている(信じたいとしている)ため、40~50年すれば建て替えは不可欠であることを本当に知らないのではないか。

「諸行無常の響き」ならぬ形あるものは無になる典型として、建物は竣工と共に劣化し、無になる宿命を持っていることを考えれば、区分所有者の所有権であるマンションの区分所有権ははじめからなくなるものと考えるべきである。