私の日中交流体験(2020.10.17 日本建築学会主催「戦後空間シンポのコメントとして」)

私は昭和12年、富山県富山市に生まれ、83歳になります。今日の各先生方の話題は、私自身の人生・体験と重なり、誠に感慨深くお聞きしていました。

昭和12年は、北京郊外の盧溝橋で日中戦争が勃発した年で、この戦争がそのまま太平洋戦争に続いて、昭和20年8月15日の終戦を迎えます。

しかしその直前の8月1日に、私が生れ育った富山市が、米軍のB29の空襲で全滅全焼、10万人の市人口の内2000人もの人が亡くなりました。私の向かいの一家、8人全員が防空壕で亡くなりました。私の自宅も土蔵も、小学校も全て全焼してしまい、黒部市に2年間疎開しました。ともかく食べるものもない時期でしたが、子供心に明るかった。

2年間の疎開生活の後、富山市に戻りました。小学校はまさに青空学級で、食べるものもない貧しいバラック家で、その頃から、家を建てたい、学校をつくりたいと、建築家を志して、早稲田大学に入学したのは1955年でした。

1950年の朝鮮戦争勃発で、日本でも防衛大学が創設されたり、自衛隊をつくるとか、アメリカから軍需物資が流れ込んで、朝鮮戦争は日本に大きな特需をもたらした。建築や造船・鉄鋼などの重厚長大産業が、日本の復興のため大躍進する時代にあって、大学の先生方で、構造力学とか材料、私が学んだ設備分野に、日本の陸海空軍の技術将校が、先生として、また学生として仲間に入ってきた。日本の建築技術は飛躍的に発展した時代です。

一年生の時に、東京タワーをつくられた内藤多仲先生の構造力学で、東京タワーは、パリのエッフェル塔のように鋳鉄ではなくて、戦車のくず鉄を焼き直して造ったことで、エッフェル塔の2分の1程の重さでありながら、エッフェル塔より高くて、地震に耐える設計をしたという話を聞きました。

1964年の東京オリンピック時には新幹線ができ、又、丹下健三さんが設計した代々木のオリンピックプール、その設備を私の恩師・井上宇市先生が担当した。井上先生は東大の造船学科を出た海軍中尉で、潜水艦の設計をしていたという先生の指導を受けてオリンピックのプールを手伝いました。そのお礼で1965年にアメリカに一緒に行かせて頂いた。

はじめてニューヨークに行き、日本との格差の大きさに驚きました。井上先生のアメリカ訪問は、東京駅を超高層にするため(当時31mの高さ制限)の調査が目的であった。

当時、ニューヨークでは世界博を開催しており、会場の外は暑くて、パビリオンの中は涼しい、その温度差を体験したことから、地域冷房の必要性を感じたこと。バウハウスの校長であったグロピウスの設計したパンナムビルがセントラルステーションの裏に造られたことで、超高層建築がパークアベニューの風の道を阻害していることを体感したことが、東京駅が八重洲通りと行幸通りの風の道づくりの阻害になる研究に結びつくわけです。東京駅は超高層にならなかったけれども、その時の調査で早稲田大学の55号館や霞が関ビルの設計に役立った。

丁度その頃、私の先生や大成建設の方々が、ソウル大学の建築の先生方と協力して、韓国で初めての大韓生命ビルの超高層を設計していた。当時の韓国は、技術や産業基盤で日本より4~5年遅れていたような気がしますが、兎も角にも一緒に仕事をされていた。

日本も韓国も、ある意味では技術的に頑張った時代。私たち大学院の学生が、オリンピックプールの設計や超高層の設計をしたり、さらには万博の設計をすることになるのも、先輩がほとんど戦争でいなくなった時代です。修士・博士の大学院生は数も少ない上に、授業もないわけで、アメリカやヨーロッパの文献や原書を読む研究だけが大学院生の日課でした。英語やフランス語・ドイツ語やロシア語の文献を私たちが訳す。それがバイトになり、大学院のゼミや文献研究の仕事でした。

30代で大阪万博の会場設計をやることになり、300haの土地に6000万人が集まる会場で3万冷凍トンの地域冷房の基本設計をしました。

アメリカのパビリオンが1500冷凍トン、ソ連が2000冷凍トン、日本が2000冷凍トン、あるいは三井とか三菱のパビリオンが700冷凍トンくらいの冷房負荷の建物を造ったのですが、それに対して、中国300、韓国200、インド250、インドネシア150で、日本を除くアジアの全てを集めても1000冷凍トン。要するに、日本館一館にも及ばないくらいが当時の万博のアジアパビリオンのスケールであり、国力でした。

1970年代に大きな変革がありました。佐藤栄作が総理で、田中角栄が通産大臣の1972年の沖縄返還後、沖縄振興のために海洋博を開催するに当たって、那覇ではなくて本部半島という北の方に万博会場を造ることで、そこまでの交通や電力・水などの供給とか、島全体の返還に伴うインフラストラクチャーを提案することになり、高山英華先生の下で、私がお手伝いしました。特に沖縄海洋博の事務総長は、沖縄出身で、早稲田大学の大浜信泉総長が担当されたこともあり、高山先生や大浜先生、さらには中曽根通産大臣の直轄下に、沖縄全体のインフラ設計を手伝わせて頂きました。当時、沖縄には東電や九電に相当する電力会社がなかったので、九州電力や東京電力の支社でなく沖縄電力をつくるべきだと生意気にも主張したりしながら、沖縄海洋博会場でもサンゴ礁の破壊を防ぐ赤水対策等、新しい会場インフラを造るためにはエコロジーケアの大切さを、その設計を通して実感した訳です。当時はローマクラブの「成長の限界」が話題であり、大学の研究テーマでもあった。

沖縄海洋博後の1978年に日中平和条約が結ばれ、鄧小平が日本にやってきました。彼は新幹線を体験して、青少年の友好交流とか理工系教授の交換などを提案しました。私は、日本の都市開発もさることながらエコロジーが大切だと痛感しており、中国は自立更生で自然生態都市として成果を収めていましたので、その実態を勉強したいと、交換教授に申し出ましたら、早速、招待状が届き、1979年に中国に行くことになりました。

9月に北京の中国科学院に行きまして、北京飯店に分室があったのですが、そこで中国全体の様子を学び、その後、彼等に気に入られたみたいで、中国の先生方との交流を希望するなら何処がいいかと仰ったので、私は西湖のある杭州を希望したところ、中国の重点大学で、中国科学院直轄の大学である浙江大学に、半年間、中国全土から優秀な学者が集められて、彼等と合宿して交流が始まりました。浙江大学を拠点として、中国の各重点大学に表敬訪問しながら60回も講演や講義をしました。

帰国した後も日中の交流の橋渡しをしてきました。そういった成果のためか、1986年に建築学会百周年の会長になる芦原義信先生が突然自宅に来られて、開かれた学会をつくるためには、どうしてもアジア、特に中国を中心に交流してほしいと頼まれたので、1986年以降、日本建築学会を中心にアジア各国との交流会を開きました。しかし、1989年に天安門事件があり、鄧小平から江沢民体制になり、反日教育が激しくなる中で、私自身が親しくしていた先生方が表に出て来られなくなったこともあり、交流が少なくなりました。

1990年以降は、1995年の阪神大震災や2011年の東日本大震災等、国内のことで忙殺されて今日に至っています。唯、日本国内のみならず、アジアからの留学生やその弟子達を中心に、毎年1回、アジア都市環境学の国際交流を続けています。

「広域避難住民どこへ」(日経新聞朝刊2020.10.14)を読んで

「台風19号が残した課題、東京東部5区最大250万人、自治体主導の対応限界」の記事。『気候変動を背景に、水害の大規模・広域化が懸念されている。災害基本法でも、災害発生前の広域避難を想定していない。しかし東京の江東5区(墨田・江東・足立・葛飾・江戸川)の大部分はゼロメートル地帯で、最悪の場合、深いところで約10mの浸水が2週間以上続くと見込まれている。2018年5区が策定した計画では、区外への避難を呼びかける対象住民は最大250万人に上るが、この具体対策は進んでいない状況。』

 2017年2月8日、早稲田大学東京安全研究所と日本都市問題会議が主催して、「江東区民の安全・安心に寄与する東京オリパラ施設の活用」について講演したときに、江東区の職員から、江東区のみでは対応できないので、江東5区で広域避難を検討しているとの報告があった。しかし、この2020年10月の新聞報道で、その検討が進んでいないことを知った。

 2017年の講演に先立って、2016年10月、山崎孝明江東区長には、

1.江東区のハザードマップを見る限り、23区中でも最も危険と思われる地域で想定される災害とその具体的安全策について。

「2040年代の東京の都市像とその実現に向けた道筋について」で、2016年5月、都市計画審議会が中間答申した内容には、この水害問題が全く書かれていないこと。

2.江東区に新設されるオリパラ施設が、災害時の避難所として、どれほど活用可能か。

 ロンドンオリパラでは、施設は地域住民のレガシーにすべく、計画時から徹底的に議論し、住民にとって正のレガシーとして機能すべく、レガシーコーポレーションが今も働いている。

3.江東区民の求めるオリパラ施設であると共に、区民にとって安心できる避難施設になるかを中心に、当研究所と日本都市問題会議が江東区と共にシンポジュームを開催するに当たって、その共催をお願いしたい。

 この時の講演要旨を以下に記す。

 江東区が避難場所と指定しているのは、主として地震対策で、水害に対しては全く機能していないこと。この期に、2021年に延期された東京オリパラ施設は、後利用の負担を少なくする減築対策も出来ていない現況を考え、せめて地域住民の水害避難場所としての機能を今から準備してほしいと、小池百合子都知事に願う次第です。

アフターコロナ時代の都市環境学(2005年4月の日本学術会議「勧告」を想い出して)

 2020年3月11日、人口一千万人の中国の武漢市がロックアウトしている状況下にあって、WHOのテドロス事務局長がやっと新型コロナウイルス感染症をパンデミック認定した。

 4月3日には100万人の感染者と死者5万人超えたニューヨークの市長が悲壮な状況を報告、テレビ画面は地球上に拡散した新型コロナ・パンデミックの恐怖を実感させる。  

 東京もロックアウト寸前で、第2回東京オリンピックはすでに一年後の2021年7月に延期され、株式市場のみならず金融業界は、1987年のブラックマンデーや2007年のリーマンショック以上の経済危機を出現。

 パンデミックとは、感染症(伝染病)の世界的な大流行を表す語で、ギリシャ語の(Pan「全て」とdemos「人々」)が語源という。感染症の流行は、(1)エンデミック(endemic「地域流行」)、(2)エピデミック(epidemic「流行」)、(3)パンデミック(pandemic「汎発流行」)に分類され、最大規模がパンデミックである。

 感染症とは、微生物が体内に侵入し繁殖したために発生する病気のことで、例えばウイルス、細菌・原虫などの病原体が人体の内部に侵入して増殖した結果、咳・発熱・下痢などの症状を示す。天然痘・インフルエンザ・AIDSなどのウイルス感染。ペスト・梅毒・コレラ・結核・発疹チフスなどの細菌感染。マラリアなどの原虫感染がある。

 人口一千万人の大都市、中国大陸の交通要所である武漢市が、全面封鎖以前に、市民の半分に相当する500万人が武漢市から逃げ出していたとの報告から察するに、2019年に発症していた事実が隠ぺいされていた。ウイルス感染の実態をインターネットで広報した医師が当局に止めさせられたうえ、その医師自身が感染して死亡したことから、その医師を英雄と称して当局の責任回避を行ったこと等、この間の隠ぺい工作が米国をはじめ世界が問題視している。

 こうした状況下、ロンドン・パリ・ニューヨークと次々に世界の大都市がロックアウト状況下に置かれている。特に、4月4日、ニューヨークのクオモ知事は10万人余の感染者と2400余人の死者で、人工呼吸器の不足を叫び、「医療体制の崩壊」を告げている。セントラルパークに野外病院を建設、30日にはマンハッタン島に海軍の病院船「コンフォート」が到着。新型コロナ以外の患者を受け入れ、既存の医療機関を支援していた。

 2020年10月、日本学術会議のあり方が政治問題になっているが、私自身、日本学術会議の「大都市をめぐる課題別特別委員会」の委員長として2年間に17回の会議と2回の役員会やシンポジュームを通して、各部から2名、14人の会員を中心に討議を重ねて報告し、2005年4月にはその結果を総会の決議を得て総理に「勧告」している。

 特に感染症の心配については、7部の折茂肇教授と金子章造教授が担当であった。勧告の一部「大都市の安全確保対策として、病院船の建造や感染症対策等の救急医療体制などを早急に整備する必要がある」と。

 災害時緊急医療体制として、病院船・外傷センター等の必要性について、アメリカのこの病院船の例を挙げ説明している。この勧告と報告書について、小泉総理は重く受け止め処理したいとの報告あり。2年後、新潟県での地震対策から病院船の要求が出されたこともあり、後日、学術会議事務局より内閣府に問い合わせたが、検討中であるという回答で終わっている。2020年3月の新聞で病院船の調査予算が計上されたとの記事を見るも、実装は如何なものか。

 私の専門とする都市環境学としては、アフターコロナのメガトレンドとして、1.分散都市、2.監視社会、3.新常態、4.職住融合、5.三密回避によるステイホームのライフスタイルのあり方に関心がある。アフターコロナ時代にあっては、スマートシティやスーパーシティの発想とは一線を画した都市と地方の二地域居住の制度化研究が必要である。この機会を捉えて、地球環境と人類の持続可能な社会に寄与する都市環境学のデシプリンを再構築したい。