小林光著の「エコなお家が横につながる」を読む

 元環境省事務次官で、東京大学客員教授といういかにも堅物風の経歴の人が、自身の体験と私生活を露出しての出版「エコなお家が横につながる」(「エネルギー使いの主人公になる」シリーズ1、2021年6月5日、海象社)を熟読する。

 内容は、21年間も自宅(東京都世田谷区)羽根木エコハウスの実践で経験したことや、再エネ電力の活用に尽力されている現場を取材、再エネ電力を多く使うよう訴える、海象社ブックレットのシリーズ第1号である。

 主旨は、エネルギー政策には下克上が必要とあって、この分野は革命最中にあり、私達の日常にもこれから大いなる変化が起こることを予告している。

 第1章「エコハウスを建てた」では、羽根木の自宅で21年間、建て替え前に2100kg/年CO2排出量が、建て替え時1400kg/年と35%減(OMソーラー(株)による内訳のシミュレーション:高断熱による暖房削減31.9%、太陽光発電27.5%、太陽熱床暖房による暖房削減24.3%、太陽熱給湯11.2%、高断熱による冷房削減1%、インバーター蛍光灯0.1%、節水0.1%、その他0.9%)。それから毎年減らして、今日500kg/年と75%も削減した。

 第2章「今住んでいる家でできること」では、電力自由化で、東京電力のみならず東京ガス他、種々の会社が電力を売り始めたが、少しでもkWh当たりCO2発生量の少ない電力を買い取るためにはどうしたらよいか。冷蔵庫やエアコン、テレビ、照明器具など、最近、革命的に効率を上げていることから買い換えが必要。窓やガラス戸の断熱は有効で、そのリフォームは特に効果的であるが、そのためにどうしたらよいか。その他にも、蓄電や直流ワールド他、専門家顔負けの知識である。

 第3章「お家をエコにすると良いこと」では、LEDにすると5年で償却、羽根木のエコハウスは省エネで快適に生活できた上に、35年で償却できた等。

 第4章「共助でエコな生活をするには」では、人口15万人のアメリカの街は、市が再生可能エネルギー起源の増大を図り、ダイナミック・プライシングでピーク需要を減らすなど温暖化対策に取り組んでいる。また、ハワイでは、電力会社が2045年までにゼロエミッションを達成するためと同時に、低所得者対策も実行するプロジェクトを展開。

 日本の島々でも、宮古島や来間島でハワイ電力以上のスマートグリッドの実現に成功していること。現地での調査で、日本でもやればできることを立証している。

 私が注目したのは、福島原発事故後に福島県が再生可能エネルギー開発に取り組んでいる実情である。2040年に県内の需要総量以上に県内生産の再生エネルギー量を達成する由。これはハワイに比べても5年も早い実装で、そのための努力は並みでないことが詳しく記されている。

 他にも地産地消の実例として、福島県の葛尾村(原発事故前の人口1400人、現在は400人)では、太陽光発電と電気自動車、自営線を使って既に実装している他、東日本大震災の被災地では、災害対策を兼ねた地産地消型ゼロエミッション電力供給として、岩手県の久慈市や野田村、葛巻町、宮城県の南三陸町がある。福島県のLNGガスでCGSを使った新地町や水素を製造したことで有名な浪江町については知っていたが、これ程、多種多様な試みがあるとは知らず、DHC協会として、改めてこの地方を調査しなければと思った。

 ドイツの地産地消としてのシュタットベルケについても、私達専門家以上の鋭い見方で詳しく説明されているのも驚きであった。

 第5章では「東京や大阪でできること」として、2021年の東京オリパラ、2025年の大阪・関西万博を機に、水素活用の現況についての報告としてもさすがである。

 さらに興味深いのは、自宅の世田谷区で地産地消をするには自営線がない限り、非常時の役に立たないため、マイクログリッドの必要性について提言されている。電柱・電線の地中化と同時に、巨大都市での分散電源によるマイクログリッド化は、北海道で体験したブラックアウトを防ぐためにも必要なBCD対策である。電力・ガスの自由化で電力会社は発電と送配電が別会社となった。ガス会社もガスの導管会社とガスの販売会社は別会社となり、ガス管や電力線はすべて託送方式になることから、その利用法を巡って料金や災害時の問題等、沢山の問題が起こってくる筈で、この点についても、この小冊子で様々な問題点が指摘されている。

 第6章「生活者目線で物申そう」というまとめの背景には、20世紀の日本はエネルギーの殆どが海外からの輸入とあって、通産省がすべてを仕切っていた。しかし石油や石炭、天然ガスなどの化石エネルギーの大量消費によって、地球温暖化対策が21世紀の大きな課題となり、環境省の出番になった。その大ボスとして小林先生は身を以て対策に当たってこられたことが、本ブックレットの随所に見られたが、最後に、この問題は経産省や環境省の力のみでは達成できず、私達自身の意志や行動にあることを記されている。

 これを拝読して、小林先生の師である高橋潤二郎先生と福澤諭吉先生の教えであることに気づいた。2011年6月、東大の伊藤滋先生と慶応大の高橋潤二郎先生と早大の私が共編した「東日本大震災からの日本再生」の「刊行に寄せて」で、高橋先生は『東日本大震災の復興再生の主体はあくまで地元住民・地元自治体であって、国や大学等の専門家は、その支援は出来ても主体になり得ないことである。「住民更新」を考慮にいれた新たな住民力の開発が要望される』と記されていること。また福澤諭吉の「一身独立して一国独立す」の名言に思い当たった。エネルギーと環境問題は、まさに明治維新ならぬ令和維新にあると考えさせられた。

 

東日本大震災(津波)から10周年(B)

 2021年6月10日(木)、東京を早朝出発。東北新幹線(はやぶさ5号)内で渋田玲君と合流して、午前9時、仙台駅東口のトヨタレンタカー店でアクアに乗る。12日の10時迄にJR八戸駅前のレンタカー店に返却する乗り捨て方式で、三陸自動車道で「石巻南浜津波復興祈念公園」に直行する。

 石巻港I.C.から石巻工業港(外港)を通過すると、日本製紙の煙突やバイオマスチップの巨大な山が現れ驚く。これまで旧北上河口の内港や漁港の被害のみに心を奪われていたが、工場地帯でも大きな被害があったことに気づく。

 石巻南浜復興祈念公園は今年3月末に開園したものの、周辺は今も整備中で、南端の雲雀野駐車場から徒歩で「みやぎ東日本大震災津波伝承館」へ。UFOの如きで、円形屋根の高さは6.9m。この地を襲った津波が到達したときの高さという12分のビデオに改めて緊張。一丁目の丘(築山)の標高10mから、40haの公園全体像と共に、4000人の死亡者(津波に加えて火災の延焼で500人も亡くなられたことを、このビデオではじめて知る)。

 何度か登った日和山の眺めは感無量。予定した時間を越えて善海田池や堤防を視察。想い出多い内海橋(新設)を渡って石ノ森漫画館と旧石巻ハリストス正教会教会堂へ。東西内海橋は撤去されたようでアプローチに迷ってしまった。すっかり解体・再築された市指定文化財として機能している旧ハリストス正教会の建物案内者と話し合う。中瀬公園周辺はすっかり変わったことについて、ボランティアガイドらしき案内者から贈られた令和3年3月改定の「いしのまき案内地図」やこの木造のハリストス教会が奇跡的に流されずに残ったこと、解体・再築された話を聞くにつけ、10年前同様、この公園のシンボルとしての石ノ森漫画館とこの小さな木造教会が、この地の大きなランドマークになり続けていることを実感する。「この都市のまほろばvol.7」をこの女性に返礼として贈る。

 石巻駅から石巻マンガロードとして賑わった通りや石巻港線沿いの鮨店や料理店等が、津波の心配なき土地に移転したことを知り、10年前の美味かった料理店をスマホで調べると、新しい三陸自動車道のI.C.近くに見つける。昼食は割烹「浜長」のミニ海鮮丼、やはり美味かった。

 津波伝承館でのビデオや写真、展示品の数々から、津波の脅威と生命の大切さを教えられ、当地訪問毎に痛みが強くなることに気づく。今度の視察目的は、国営の3つの祈念公園と気仙沼市東日本大震災遺構等を10年後の世界遺産に登録するため、現況を調べることを再確認した上で、R45と併走し復興道路として十分に機能している三陸沿岸道路E45で気仙沼へ。

 気仙沼の被害状況が一望できる場所に、市民を中心に建設されたという「陣山」の気仙沼市復興祈念公園は確かに良い立地で、狭いところであったが眺望は抜群であった。復興著しい港湾や新築された気仙沼湾横断橋(かなえおおはし)と大島への新橋も気仙沼市の新しい観光施設になっていた。その一方で、火攻め水攻めの地獄絵を展開した鹿折地区の災害復興住宅群は、何故か生気なく淋しく思えた。「陣山」直下で何度か訪ねた五十鈴神社の神明崎浮見堂前に、サッポロホールディングスの支援によって三代目となる恵比寿様の銅像が再建されていたのは嬉しかった。

 NHKの朝ドラ「おかえりモネ」の舞台になっている大島へ新しい気仙沼大島大橋(鶴亀大橋)ができていたので直行する。ロケ地はどの辺か分からぬまま、田中浜や浦の浜を見て、浦島トンネルと乙姫トンネルを結ぶ気仙沼大島大橋を再び通って、気仙沼湾横断橋へ。NHKスペシャル「あの日から8年 黒い津波」で、気仙沼湾のヘドロが津波の黒い水となって市民の命を奪ったという番組を見ていたので、状況を連想せんとしたが、ピンとこない程に美しい湾景である。

 この日に泊まった気仙沼プラザホテルからの夕日や露天風呂からの漁港の景観は余りに美しく、10年前、このホテルが体験した戦場の如き慌ただしさに比べて、この日は唯々静かで、美しかったのは、コロナ禍の週日であったからか。気仙沼漁港に並ぶ漁船が全て真新しく勢揃いした景観は、禍い転じて福となったように思われた。しかし内情は、地元民の生活苦が予想以上とあって、それどころではないことを、夜、マッサージ師に教えられた。

 翌6月11日(金)、コロナ禍とあって大広間の朝食は2~3組、昨夜の夕膳や朝食に並ぶ地産地消の食卓の豪華さに驚きながらも、少しでも地元復興に寄与すべくと、男山の地酒をしたたか飲んだ上、深夜のNHK BSテレビ「天安門事件30年」の再放送を最後まで見てしまって、寝不足。

 E45で陸前高田市へ。見覚えのある気仙大橋を9時前に渡って、新設の国営追悼記念施設「高田松原津波復興祈念公園」入口へ。車のナビが開館は9時と告げたので、街中が高台に移転した大船渡線の北側、300haもの土地を8m盛り土造成した新市街地へ、シンボルロードを走る。

 BRTの陸前高田駅の広場に面した気仙大工の技や地場の素材を最大限活かして設計したという隈研吾氏の「まちの縁側」に入る。『気仙大工の家には必ず南側に縁側があるという意味で、ゼロからつくったかさ上げ地のまちの南側端部、家でいえば「縁側」という意味からの巨大な木造公共施設である。当地を訪ねるすべての人に優しい拠点となる観光や福祉、子育て支援、市民の交流、相談の場として、2020年1月末にオープンした複合コミュニティ施設である。

 隈さんや内藤さんをよく知っていると話したら、ボランティアガイドの説明が一段と熱を帯び、この地のまちづくりや公園の素晴らしさを話してくれた。

 彼等の説明資料『内藤氏の公園設計の主旨は、伝承施設と新しい道の駅を含む建物は全長160mで、復興の軸の上にゲートのように配置されており、正面の壁には追悼の意を表すために、亡くなられた方たちの数である18,434個の穴(2018年3月11日時点)が開けられています。海に向かう祈りの軸の線上には、手前に「鏡のような水盤」、緩やかに降りていったところに「式典広場」と「献花の場」、さらに防潮堤の上に「海を望む場」が設けられています。』

 良く出来たパンフレットで、この案内に従って現地を視察することにした。この地を次世代世界遺産として登録することによって、日本のみならず、世界中で自然の恐怖に立ち向かった当地の人々の記憶が永遠に語り継がれる施設になると考えた。東北大震災での津波対策に日本が国家予算の50%に相当する復興費を投下したのみならず、自然災害に対する体験を忘れないためのレガシーとするための研究はこれからが大切である。内藤廣氏は東大土木工学科の教授を務めたことが、この施設計画の素材選定やスケール感覚、堤防や河川の水辺計画に役立っているように思えた。世界遺産登録申請はこの施設を中心にすべきか。

 この地で予定以上の時間をとってしまったので、大船渡駅や盛駅の周辺は立ち寄りだけにして、また唐丹の柴先生や神田先生の別荘もE45から遠望して、「釜石市民ホールTETTO」と千葉学氏の釜石市復興住宅を一見し、「幸楼」へ。予定の11時30分、若女将に「この都市のまほろばvol.7」を贈呈して、10年前に市長や校長等との復興戦略を話し合った修羅場を想い出しながらの昼食。本田敏秋遠野市長や野田武則釜石市長も健在とあって、今日の復興と今後の市勢について話し合う機会を「幸楼」で今一度話し合うことが出来ればと考え、早々に鵜住居駅へ。

 鵜住居駅周辺の区画整理や駅から見える復興スタジアムや市民公会堂、小中学校の使われ方を考えると、新日鉄のような巨大産業拠点の必要性が今更不可欠に思えてくる。宝来館や大槌町文化センターも今一度見たかったが、八戸までの道程を考え、宮古の田老堤防に直行する。田老観光ホテルの津波遺構や周辺の整備状況は、野田村で内藤廣氏が防潮堤を三線堤で構成するようにアドバイスした津波対策に比べて分かりにくい。

 NHK朝ドラの「あまちゃん」ロケで有名になった久慈市では、三陸鉄道の北リアス線の始発駅とJR久慈駅に立ち寄る。すっかり当時の活気は消えて淋しき駅前と町並みになっていたので、八戸へ直行する。E45復興道路は一段と整備されて、BRTの路線の如き道を50km。30分もかからないで青森県の階上I.C.に到着する。海岸沿いのウミネコラインに入らんとしたところ、交通規制で大きく迂回させられる。2020東京オリパラの聖火ランナーが走っていたためだった。種差海岸やウミネコの繁殖地として知られる蕪嶋神社は7年前のまほろば取材時見れなかっただけにゆっくりと散策、本八戸のドーミーイン本八戸へ。この夜は「蔵」という居酒屋風の料理店でせんべい汁と八戸酒造の「八仙」で昨夜の睡眠不足を癒やす。

「北海道・北東北の縄文遺跡」の世界遺産登録を祝して

 2018年11月27日、上田篤先生の体調から東京での研究会開催が困難となり、5年続いた縄文社会研究会は「京都部会」と「東京部会」に分け、別々に開催することになった。全体の会長は、名誉会長として上田篤先生が、顧問は尾島、東京部会の会長は松浦氏、副会長は雛元氏、事務局長に山岸氏と決めた。

 2019年4月7日、東京部会の第1回目は、法人化することで会員を増加させ、会計処理を容易にすることを決める。また雛元氏は、縄文文化を文明とすれば、日本文明は5世紀を起源とするハンチントン説を1万年以上も拡張することができ、日本文明は世界一長期の文明として、第8の付属的世界文明ではなくなるとの提言。この提言は、上田篤先生も長年考えていたところと思われる。その証拠に、上田先生は既に日本建築の木造様式は2万年も継承されてきたことを、雑誌「環」の特集「ウッドファースト!建築に木を使い、日本の山を生かす」(2016年5月10日、藤原書店)の編集をされたことに加えて、京都部会では「建築から見た日本~その歴史と未来~」(2020年10月30日、鹿島出版会)の編集に、京都部会のメンバーを中心に全力を投入されていた。

 その結果として、1万年以上続いた縄文百姓の住居や祭柱の建築技術、縄文以来のライフスタイルや価値観、特に民家は弥生や平安、戦国、さらには現代に至るまで不変と説く。少なくとも、この考え方は上田説と考えられるのみならず、日本の代表的建築界のオピニオンリーダーの合意として、分担部分執筆させたことである。その辺の状況について、田中充子氏は「あとがき」で立証している。

 この京都部会の努力に比べて、東京部会は、コロナ禍とあって、2020年8月、雛元、山岸、尾島等が八ヶ岳山麓で合宿したぐらいである。唯、尖石縄文考古館、井戸尻考古館、中ッ原・阿久・平出遺跡の他、黒耀石の星糞峠、諏訪大社の上社前宮・本宮、神長官守矢資料館等、精力的に調査した結果から、縄文の世界遺産には当地こそ世界遺産登録すべき所で、そのための研究を各自の方法で進めることになった。

 2020年10月、上田篤+縄文社会研究会編の出版を機に、東京部会として、登録に詳しい五十嵐敬喜法政大名教授にこの件を相談する。「北海道・北東北の縄文の遺跡群」が2006年から先行しているので、「少なくとも、その邪魔をしてはならない」との五十嵐先生の説得があった。

 2021年5月にはユネスコの勧告で、これが世界遺産登録確実になった。主な遺跡は①BC1万3000年前の大平山元遺跡は簡素な居住地、②BC5000年前の田小屋野貝塚、三内丸山遺跡は集落の施設が大規模であること、③BC2000年前の大湯環状列石の祭祀場。

 それにしても、1万年以上の時間に加えて空間の分散した縄文遺跡を世界遺産に登録し、保全し続けるためには、地元4道県の関係者の苦労が充分に理解される。それだけに、どのように努力したかについて新聞各紙が多様に伝えてくれるのを詳読しながら、改めて五十嵐先生の忠告に感謝する。