2021年7月の東京2020オリンピックはコロナパンデミックとあって、1年遅れの無観客という異例の開催であった。がしかし、205ヶ国(地域)から33競技339種に派遣されたアスリート11,000人中6000余人が全員マスク姿で国立代々木競技場の入場式に参加した。この「コロナに打ち勝った証」はあまりに淋しかった。
この東京大会に比べて、パリ2024オリンピックは、余りに華やかな開幕であった。エッフェル塔を背景に、セーヌ川の美しい橋を舞台に、1万人余の各国選手団が手を振りながら55隻の船に分乗しての入場式は圧巻であった。
東京大会と同じ規模の206ヶ国(地域)から32競技329種に分かれての競技は、終わってみると、メダル数の1位はアメリカで、東京の113に比べ、パリでは129、2位の中国は88に比し91、3位の日本は58に比し45。開催国のフランスは4位の豪の53に比し64で5位。但し金の数は日本の20に対し豪は18で、仏は16であった。
それにしても驚きは、1ケ月前の予測で日本のメダルは金銀銅で12+13+21=46と結果の20+12+13=45とたった1個の違いだったとは。特筆すべきは、パリ2024でスケートボードや初めて種目に加えられたブレイキンで日本が金メダルを得たこと。フェンシングややり投げ、近代五種などでのメダル獲得である。反面、オリンピック前から賑やかだったサッカーやバレーボール、バスケットボール等のチームプレーでの敗退で、2028ロスでの野球復活が話題になっているのは余りにはしたない。
今度のパリ2024オリンピックでも開催中の前半は八ヶ岳の夏合宿で、後半も家族の観戦を側で観ていた程度であったが。学生時代、剱岳の岩場で訓練していた頃の体重55kg、腕の握力75kgであったのに比べて、昨今の体重は75kg、握力が40kgと情けなきこと。それ故か、東京大会から新種目に加えられたスポーツクライミングで「大和撫子」を思わせる森秋彩さんのリードクライミングのトップには魅せられた。
この華やかな祭典に今大会も参加出来なかったロシアの存在と、オリンピック中も止むことなきウクライナ侵略。イスラエルのガザ空爆では4万人もの死者と10万人を超える負傷者を考えると、クーベルタンの理想としての戦争に代わる近代オリンピックのあり方が問われてしまう。
こんな状況下で読んでいた文藝春秋誌の第171回芥川賞受賞作、松永K三蔵著「バリ山行」は、最近の芥川賞にはみられないほど実に読み易く、純文学作品であった。建設業社の下請けサラリーマンが日常の生活苦から解放されるため、神戸の六甲山系の自然に仲間と分け入っての心身の葛藤を綴った作品である。松永さんの受賞会見を読んで感心したのは、『ままならないものを書きたい。「ままならない」とは不条理だ。それは私達が生きているこの世界に厳然と存在する。しかし不条理に対して「なぜ?」と問いながらも、対峙し続ける人間の強さであったり愚かしさであったり、また美しさや哀しさ・・・そんな姿を書きたい』と。
8月13日、東京の旧盆休みに、改めて人間の不条理を問う!8月28日からのパリ2024パラリンピックを前に、死者を生む戦争よりは平和に生きるオリンピック! 原水爆やミサイルより金・銀・銅のメダルだ!! 兵士よりアスリートを!!! と願うのは不条理か。
8月11日午後の閉会式では、ロサンゼルス2028オリンピックに向け、あのトム・クルーズがスタジアムの屋根から地上に降りて、ロス市長から五輪旗を預かるとバイクでパリ市中を走り抜け、飛行機でハリウッドの丘へ降り立つ映像が流れる。
それにしても、古都パリの都市がもつパースペクティブの利いたビスタを最大限に活かしてのアスリートたちの躍動。それを支えるはエッフェル塔、凱旋門、ルーブル、シャイヨー宮、グラン・パレ、コンコルド等の建築、マラソンのゴールがアンバリッドとは出来過ぎである。セーヌで泳いだパリ市長やパリ市内をこの祭典の舞台に解放したパリ市民のおもてなしに東京から最敬礼。