Blog#53 2022年12月に横浜で国際シンポ開催に当たって事前視察

 2022年4月1日、夜半からの雨の音を聞きながら眠ってしまったらしい。付けっぱなしであったラジオが吉永小百合の昭和37年から昭和43年頃の歌を流し続けていた。昭和37年に公開された映画「キューポラのある街」の舞台は、東京オリンピックの聖火台を作った川口市の鋳鉄工場街である。吉永小百合が早大文学部に入学するとあって、同じキャンパスの隣の校舎に登校する彼女を見んと、大学院の同輩達が騒いでいたことを想い出した。

 当時、横浜のクリフサイドで踊ったことや、最近ではホテルニューグランドでの伊藤滋先生の米寿祝い、濱田政則先生の研究会でのスカンディヤや霧笛楼でのディナーを想い出すうちに本格的に目覚めて、仕方なくシャワーを浴びると、何か書きたくなった。

 先日、妻と娘が横浜で一泊するからと留守を頼まれた。桜はまだ早いのではと聞くと、MM-21にAIR-CABINが新設されたので試乗するだけというので、同行可能かと聞くとOK。幸い、桜木町駅前のニューオータニイン横浜プレミアムに予約できたので、ホテル代は娘、夕食は当方での割り勘で同行。

 3月19日(土)正午過ぎ、西武線練馬駅から特急元町中華街行で2時頃にはみなとみらい駅着。MM-21はすっかり完成して、東京とは全く違う、テーマパークに到着した実感である。

 娘の後について歩くと、見覚えのあるパシフィコ横浜ホールやインターコンチネンタルホテルを横手に、国際橋を渡って運河パークの万国橋で早速、新設のYOKOHAMA AIR CABINに乗る。片道1,000円、往復1,500円は割高とあってか、楽に試乗でき、運河の上からの景観はなかなかである。ランドマークタワーの建築はさすがであったが、新設の横浜新市庁舎やアパホテル等が乱立して、歴史的建物が全く見えなくなってしまった。2005年、「この都市のまほろば」で横浜を歩き回っての景観と、20年後にしてすっかり変わってしまっていた。混雑だけは変わらない桜木町駅に到着し、そのままホテルにチェックインして一休みする。

 4時頃、JR根岸線の石川町駅下車。久し振り、すっかり拡幅できた石川町商店街(元町ショッピングストリート)を歩き、娘達のショッピングを眺める間、ベンチで休む。朱雀門から媽祖廟等、豪華な中華店を眺めて、世界一の肉まんを購入。朝陽門からホテルニューグランドを通って、山下公園沿いに開港広場付近のレストラン「スカンディヤ」へ。名物のサラダにフォアグラ・ステーキは十分に満足。雨がひどくなったのと、想い出のクリフサイドは当日休みとあって、タクシーでホテルへ。

 夜はまほろばで取材した当時の資料や、佐土原聡君の「横浜市都心部、MM-21と鶴見、保土ケ谷清掃工場からの排熱ルート図」を見ながら、臨場感をもって国際会議予定の施設や研究会会場の横浜国立大学のキャンパス等を地図上で確認する。2030年迄のカーボンハーフ達成や国土強靱化に向けた分散電源によるBCD実現に当たって、横浜市が地方自治体のリーダーシップをとるに最適な都市に思えてきた。DHC協会がアジア都市環境学会の第19回国際シンポジュームと共催することになったが、今日の視察で成功を確信した。MM-21はすっかり完成しており、そのエネルギー消費密度や大きさからカーボンハーフ実現にはCGSの導入と再生可能エネルギーであるゴミ清掃工場の排熱利用が、この地で十分可能に思えたからだ。

 翌日は幸い晴れたので、朝食は赤レンガ倉庫のレストランへ。予約も大変だったという有名店とあって長蛇の列。娘向きのパンケーキがお勧めというが、ビールなしで呑み込むのは大変である。飛鳥Ⅱが停泊中とあって、赤レンガ倉庫前の広場は賑わっていた。

 今年の12月開催予定のDHC協会とアジア都市環境学会共催のシンポジュームと国際会議の横浜事前視察は、突然であったが十分に楽しく、有意義であった。12月迄にコロナ禍やロシア・ウクライナ戦争が終わっていることを祈って。

Blog#48 一級建築士資格の定期講習をコロナ禍に受講して

 2022年2月1日(火)、池袋のホテルメトロポリタン3階の大会議室で定期講習の考査を受けた。建築事務所に在籍する建築士は3年に一度、定期講習を受けた後に簡単な修了考査を受ける義務(受けないと懲戒処分を受ける)のある第5回目の講習と修了考査である。

 2005年の姉歯事件(構造計算書偽造問題)をきっかけに、性善説から性悪説に変革して、この新建築士制度がスタートした。同時に、建築事務所の開設者は、管理建築士資格者を置く必要性や保険への加入協力義務制度も発足した。その結果、私自身も立場上、新制度発足と同時に、2009年11月に第1回の一級建築士講習、2010年6月に管理建築士講習、2012年6月に第2回、2015年7月に第3回、2018年11月に第4回を受講したが、80歳を越えたことから、5回目は長時間の講習や修了考査を受ける苦痛から解放されようと考えていた。

 しかし、2020年からのコロナ禍で、この制度上の講習はweb上のビデオ講習でOK。しかし修了考査は従来通りという案内が来た。修了考査を受けるかどうかは別として、これまで定期講習を受けた体験と、建築士たる者の倫理観から、webによるビデオ講習は受講しておこうと考えた。

 結果は、なかなかに価値ある情報提供で、最近の空き家問題、糸魚川大火や熊本地震、洪水被害からの法改正や新告示等、建築士たる者は3年に一回は社会状況を知る必要な制度に思われた。開業医や弁護士と共に、建築家は三大自由業として、その分野の職能独占権を与えられている以上、権利と共に義務も発生している。それにしても3年に一度の定期講習と修了考査は本当に面倒で、博士学位と同様、一級建築士の資格は「足の裏に張り付いたお米」の例え通り、取得してもすぐに仕事に恵まれるわけではない。その上、大きな建物は、別に一級構造建築士や設備士の関与が義務付けられたから、免許の守備範囲も限定された。かくして、この制度のみならず、久しく建築基準法のあり方そのものが問われており、これをイギリスのように地方の安全条例として、別途、建築基本法を制定すべきとの声もある。

 昭和38年7月10日付、河野一郎建設大臣名での一級建築士免許は紛失したため、いま手元にあるのは平成15年7月10日(登録40525号の林寛子国土交通大臣名)の再交付免許証である。この免許証は、昭和35年4月、早大理工建築学科を卒業して、2年間の実務経験(大学院修士課程在学中)を経た上で、学科目と設計の実技試験に合格(合格率20%(当時))した証書である。この当時の一級建築士免許は、博士課程時代の構造計算や設計図書のバイトには有効であった。

 しかし昭和40年から大学の教職についたので、一級建築士の資格免許証を使うことはなくなっていた。昭和57年(1982)から平成28年(2016)迄の34年間、練馬区の建築審査会委員(委員は5名、建築基準法に関して特定行政庁が法の例外的取り扱いに当たって同意を与える権限をもつ)を務めたことで、赤本と称する分厚い建築基準法を毎月一回は見る機会があった。そのため、最新の法律や告示が改正されたことを知ることができた。

 1997年に日本建築学会の会長に就任した頃、1995年の阪神・淡路大震災から構造系の法改正や、1997年の京都議定書・COP3の地球温暖化対策に当たって、文部科学省所管の建築学会が中心になって各種の基準作成に当たった。建設省所管の建築士会や建築家協会、建築事務所協会との交流や土木学会との役割分担等、建設業界のあるべき姿を模索すると共に、学会として倫理綱領を定める必要を痛感した。

 また、2005年には日本学術会議から「大都市における地震災害時の安全の確保について」を小泉純一郎首相に勧告、重く受け止めるとの回答。その成果もあって、2008年の新建築士制度の発足となって、3年に1回の定期講習と修了考査を受けざるを得なくなったことを改めて考えてみた。37万人もの誇り高き一級建築士と75万人もの二級建築士に加えて、7万社以上の一級建築士事務所開設者とその管理者は、3年に1回と義務付けたこの定期講習と修了考査は、内容次第で国土強靱化やカーボンニュートラルの国家目標の達成に大きな戦力になると考えた。コロナ禍の自宅でくつろぎながら、webで受講した内容は、満席の大教室で聞かされる講習とは違って新鮮であったこともある。 2月1日に講習修了考査を受けてすぐ、このBlogを書いたが、それから3月25日付「建築士定期講習修了書」を受領するまで、考査に合格したかどうか、40問中、何問間違ったかなど気になっていた。自動車の免許証同様、高齢者は免許を返却すべきにも思えてきた。この制度も再考すべきかと思ったのは、免許書換え交付の手続きをせんとしたところ、申請書類のExcelテンプレートの生年月日が昭和16年からしか記入できず、困ってしまったので。

Blog#52 五十嵐敬喜著「土地は誰のものか」(2022.2 岩波新書)を読んで

 2022年2月、八ヶ岳研究会で五十嵐先生から八ヶ岳山麓の財産区の土地利用を活性化するに当たってお話を伺う予定であったが、コロナ禍もあって、5月の諏訪大社祭まで延期になった。その代わりか、近著を事前に読んでおくようと贈呈された本書を、早速一読しての感想。

1970年から1995年は人口増大と土地の高騰による乱開発、2000年から今日は人口減少と空き家・空地等の所有者不明問題。この原因について、新旧土地基本法を中心に、法律面からの対策遅延の貧しさを歴史的に解説した上で、今日の土地所有の権利は法務省によって保護され、利用は公共の福祉を優先するも、国交省や農水省がその用途に関して所轄するが、適正に管理する主体者が欠けている。具体的には「土地は適正に利用されるだけでなく管理されなければならない」等で、「土地所有者には管理義務があり、適正に利用する責務が伴う」との論は誠に正論である。

 海外では土地・建物は一体の不動産で、利用優先で(100年単位)、建築不自由であるが、日本は土地と建物は別の建築自由不動産で(20年単位)所有が優先されている。そのためか限界集落や空き家・空地等の所有者不明土地が国土の10数%に及び、その結果、地方都市のみならず大都市でも荒廃が顕著である。

 地方創生と格差是正のためとした都市再生特別措置法(2002~、2020年改正)やコンパクトシティ(2007~ 2014年改正)などによって、成長に次ぐ成長、衰退に次ぐ衰退を助長する状況は、立法の精神に反する成果との説もよく理解できた。

 また、ハワードの田園都市論やレッチワースの実例から、日本の田園都市やニュータウンには「コミュニティ・縁・アソシエーション・コモン」の発想がなく、「幸福と真の豊かさ・美しさや仕事場をつくる土地・建物の共同所有と管理」という考え方が欠けている。トヨタの「ウーブン・シティ(Woven City)」や岸田政権のデジタル田園都市構想にも、この視点からの配慮が欠けているとして、五十嵐先生は「土地公有化と志をもって美しい地域を創造するためには、現代総有がこれから必要になる。」

 この五十嵐著に共鳴しつつ、やっと法律家に、私の専門分野である建築や都市のあり方に関心をもってもらえたと感動すると同時に、30年も前、雑誌「潮」(1988年11月号)に連載された田原総一朗(当時54才)の「時代を招く知の旗手たち⑦」のゲストに、当時51才であった私が登場しての一説。

『尾島はいきなりいった。「東京には土地がないのではない、社会基盤がないのだ。地表は自然に開放、空中には私的空間、地下には公共財を。今こそ21世紀の都市の骨格づくりが必要だ」として、『大都市アングラ構想』を展開すべき。」「東京は土地が足りないから地価が暴騰するなんて理屈がまかりとおっているが、全然違う。東京は広すぎるくらいです。足りないのは土地ではなく発想です。東京を面としてでなく空間(容積)として利用する発想と、それを実現できるインフラが欠けているのである」(注:東京23区の土地6万haに建物延面積が6万ha。これは1階建ての建物が地表べったり、パリはその3倍、N.Y.はその5倍の密度)。

 田原「何が最大の問題か。」

 尾島「それは施主、主体者の不在だ。都市全体の責任を持つ施主が不在だ。」 

 また、都市問題会議30周年記念編「都市は誰のものか」(2007年2月、清文社)の一説で、私は「都市の主体者を問う」と題して、「家の主体者さえ不明になった今日、都市の主体者は誰かと問われて市長と答える人は居ないように、誰が管理責務をもっているのか分からない。江戸時代の日本の都市は、貧しくとも、それなりの品格があり、ともかくも美しかったと海外の旅行記にある。」

 この本では、鎌倉の竹内謙市長、掛川の榛村純一市長、三春町の伊藤寛町長等の町づくりの苦労談は、五十嵐著にある日本の建築自由と建築確認制度にあって、地方自治体に介入する権利がない不思議な国と述べていることに合致する。この五十嵐説には私も大賛成で、私が日本学術会議会員であった5年間の最後の2005年4月に、小泉総理への勧告、2005年6月には「大都市をめぐる特別委員会委員長」としての報告主旨と等しく、また最近は建築基準法に代替する建築基本法の必要性を提案している神田順先生を支援している。

 末筆ながら、法律家から日本の土地基本法の問題から始めて建築基準法や都市計画法にみる公法や民法のあり方が如何に不思議な状況にあるかを本書で教えられ、これまでに体験してきた日本の理不尽さの背景に「法学界の無視」があったことを知り、よく理解できた。と同時に、もっと詳細に現代総有のあり方を知りたいと思った次第である。

Blog#51 冠松次郎・槙有恒・深田久弥にかかわる想い出

 2022年2月23日は天皇誕生日の休日とあって、コロナ禍であったが、息子に西武デパートで古書市最終日だからと誘われて出かけた。大学定年後は、月一回必ず、丸善や紀伊國屋書店で1~2時間、面白い本をあさっていたが、最近、何故か面倒になってきていたのに、古書市と聞いて急に興味が湧いたのだ。

 約束の40分間で買い求めた10冊の中で、特に気に入って、その晩に完読したのが冠松次郎の「わが山・わが渓」(昭和17年、墨水書房)と再版「峰と渓」(2002年、河出書房新書)である。

 1949年、12歳の時に初めて体験した3泊4日の立山登山がやみつきになって、中学・高校時代には家の奥庭で遊ぶ気楽な気持ちで、立山・白馬・黒部等、近郊の山や渓のみならず、富士山から中央アルプスまで山仲間と遠征する間に、山小屋やテントの中でガイドや友人達から聞いた山々の伝説で最も忘れられない人の名は冠松次郎(1883-1970)であった。

 何故なら、剱沢から黒部へ下山する度に何度も挑戦しようとして出来ず、冠松次郎だけが、私の生まれた昭和12年に見たという黒部の「幻の大滝」伝説である。当時、冠松次郎は地元のガイド(ボッカ、剱の初登頂行者の類)の一人ぐらいに考えていたため、有名なアルピニストで著書もある人とは考えてもいなかった。この時代から既に70年、最近になってテレビでドローンで空中撮影した「幻の大滝」と、更に近くまでカメラマンや登山家が大変な渓谷を登って近づく場面等が放送されて、やっと本当に「幻の大滝」が存在したことや、幻ではなく実在する秘境の名瀑であったことを知ったが、まさかこの古書市で冠松次郎の古書を2冊も手に出来たのは軌跡に思えた。

 この著書の一節、昭和12年6月記「大勢の力で幻の大滝に近づくも九死に一生を得ての撤退。」

 昭和12年7月記「滝を語る」で「剱岳三千余米突に源を発する剱沢中央部の瀑布・剱の大瀑である。その滝の全貌は今日、未だ吾人の前に展開されていない。」

 昭和13年6月記「剱の大滝の上まで深雪の上をのみ行く今は二時間で楽に着くことが出来た。大雪渓はそこで大きく切れている。そして剱の大滝の頭が雪の底から溢れるように奔出している。私等は数丈の雪崖にステップを切ってそのすぐ上まで降りて見た。脚下は井戸側のように丸く削られた花崗岩の大岩壁だ。その底の方から水煙が雲のように濛々と立ち勝って、剱沢全流の水は棒立ちになって崩落している。下を覗くとまるで底なし井戸だ。私等は瀑布を囲む数百米突の断崖をカメラに収めると来た道をまた上流に引き返した。」

 黒部の秘境・剱沢の「幻の大滝」を一度は見たいと考えていた10代の夢が、80代になってドローンの映像を見て、幻の行者の如き山男・冠松次郎が著名なアルピニストで、その著作で上記の如く、生々しく「幻の大滝」に近づき、一見するために何度も何度も、しかも一人でなく、時には大勢の力を借りて挑戦していたことを今になって知った。 

 この興奮から、このBlogを書きながらもう一冊、建築家槇文彦の叔父・槙有恒(1894-1988)の古書「山行」(昭和23年7月、岡書店)を一読して驚く。なんとこの本に「板倉勝宣君の死(大正12年1月)」の章があった。

 富山高校時代の友達には立山山麓から通学している学生が多く、その一人に雄山神社の宮司の息子(遠北邦彦君)がいて、彼を中心に多くの山小屋に仲間がいたことが幸いして、全国・四季の山々を楽しめた。

 早稲田の建築学科に入ると時間がなく、東京からの山歩きは大変で、土日や春夏の休みくらいになったが、学部・大学院時代の9年間は立山・黒部開山・中興の祖である佐伯宗義代議士別宅での寄宿生活もあって、アルバイトを兼ねての立山山麓を散策する機会が多かった。

 印象に残っているのは、小学校から中学校時代にはまだ称名滝を登って弥陀ヶ原から天狗平・室堂ルートか立山温泉経由、松尾峠かザラ峠ルートで一ノ越ルートが主で、何度もこの道を歩く度に、著名な登山家である槙有恒一行が何故こんなところで遭難したのかを知りたいと思っていた。

 特に大学院2年の5月連休時、立山登頂後に一ノ越で骨折。一本足スキーで天狗平から松尾峠を目指して滑降しつつ、弥陀ヶ原を見ながら、何度も疲れて果てて天を仰いで休みながら、槙有恒の遭難時伝説を想い出して頑張り、下山したこともあり、天候次第でこの辺が一番危険で、一番美しく快適な所と認識していた。しかしこの本のこの章を読むまで、実際の遭難状況を知らぬままに居たことである。

 この生々しい体験記を読みながら、若い頃に何度もこの遭難記に類似した体験をしたことを想い出し、改めて私が山に行く度、下山するまで母がどれほど心配していたかよくわかった。仏壇の母に感謝し、今更、山歩きの危険さを知るのであった。

 ついでにもう一冊、深田久弥著「山頂の想い」(昭和46年7月、新潮社)のあとがきに、妻・深田志げ子は「この本は図らずも自選の最後の山の紀行文集となった」とあり、最初に久弥は「日本百名山その後」として「百の名山は私個人の選択であって、客観的妥当性があるわけでないが、しかし一つの目安にはなると見えて、百のうち自分は幾つ登ったか目次にしるしをつけて、その数のふえて行くのを楽しみにしている読者が多いようである。」また「この本は案外評判がよく、1964年の初版以来、毎年増刷を重ね、今年12刷に及んだ。」

 私自身、この本の初版以来3~4冊は購入し、60座以上に〇印を付している。特に大学院生から一人で山を歩くことが多くなって、いつかこの百名山の簡にして要を得た山案内記は、5万分1地図同様、必携の書になっていた。最近では200名山から300~500名山と誰が編集しているかわからなくなっていたが、そのこともすでに深田久弥(1903-1971)は見越して居たことを教えられた。

 10冊購入の内4冊は山の本であったが、他にも面白い古書が手元にあって、これからは古書の旅に出るのも健康の秘訣と想った次第である。

村上陽一郎著「エリートと教養―ポストコロナの日本考―」(2022年2月10日 中央公論新社)を読んで

 1988年から3年程、東京大学先端科学技術研究センターの客員教授として、伊藤滋先生を中心に、竹内啓・平田賢・村上陽一郎先生と月一回の「東京湾ドレネージ共同研究」(浦賀水道にダムを造ると10万haの海が簡単に干拓できるが、その影響を考える)がきっかけで、2002年に村上陽一郎先生の対談集「安全学の現在」(2003年、青土社)にゲスト出演、「東京の大深度地下ライフラインは生命の安全、生活の安心、人生の豊かさのため建設すべき」と話した。また、2015年4月には「福島原発事故の安全について」お話を伺う機会もあり、村上先生は同じ時代に生きる人生の導師としている。その先生から贈られた中公新書「エリートと教養」なる著書は、久し振り圧倒され、刺激されたので、以下Blogに報告する。

 本書の実体験と実名による毅然とした教養論は、本当のエリートだからこそ書ける、余りに当たり前の教養論であり、それを淡々と書けるのは本当の教養ある人だからこそで、日頃、エリートや教養ある社会と余りに縁のない建設業界にある私には、全て模範や規範とすべき内容であった。

 2022年2月18日19:00~20:30、Zoomを利用したオンラインイベント、Wireless Wire News編集部主催の「新教養主義宣言」で、竹内茂氏が「村上陽一郎氏による私塾として、本書刊行記念特別講義」を開催。これに参加して、久し振り村上陽一郎先生のお元気な様子に一安心。

 私の理解した本書の主旨を忘れないためと、間違いを指摘されることを期待して、以下に略記する。

第一章 政治と教養

人間はサルや猫より劣るのは余計なことをするからである。それをさせないために教養が大切(プーチンのウクライナ攻略等がその実例か)

第二章 コロナ禍と教養

 ペストやコレラ等のパンデミックは、抗生物質の発明で退治できたが、コロナは生物ではないため免疫による他ないことや、不明瞭な社会にあっては、Best解がないこと。コロナ禍にはUnique Solutionはなく、優柔不断は勇気ある行動。

第三章 エリートと教養

 日本学術会議などで「Science for ScienceからScience for Societyへ」として、文理融合と教養の必要性を問うも、今日の大学や社会はStart up起業への投資等、専らお金儲けの時代へ傾く。

第四章 日本語と教養

 お笑い芸人の話す笑えない日本語に迎合するTV番組は「貧すれば鈍す」の象徴。出版・著作等は文化であって、産業ではないこと。

第五章 音楽と教養

 クラシック音楽は質の高い教養、日本の伝統音楽としての田楽や神楽等、日本の多種多様な音楽は十分なる教養と考えてよい。

第六章 生命と教養

 自死や安楽死の考え方については、優柔不断である。弘法大師の説に「生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死んで 死の終わりに冥し」。

おわりに

 「宗教と教養」については、是非、次なる出版を期待。宗教と科学、技術と経済、科学と技術他、 mentalとSpiritual論、Dataはエビデンスで(客観)、Factは仁義で(主観)。

稲門建築会の新年座談会「ゼネコン TWO TOP に迫る!」を聞いて

 2022年1月28日6:15~7:30pm、オンラインで稲門建築会の新年座談会「ゼネコン TWO TOP に迫る!」を聞いた。

 TWO TOPとは、2016年4月、清水建設の社長に就任した井上和幸氏(早稲田学院から早大建築・大学院で田村恭研OB)と、2021年6月に鹿島建設社長に就任した天野裕正氏(開成高校から早大建築学科、安東勝男研OB)で、この二人に迫るのは、稲門建築会会長で、日建設計会長の亀井忠夫氏(早大建築卒)。「迫る!」というから余程激しい討論会になるのかと期待していたところ、早稲田の新年会とは思えぬ、上品で紳士的、しかもこれからのG.C.や日本のあり方を楽しく教え導いてくれる座談会であった。

 この三人が早大で学んだのは1970年代で、早大理工学部が西早稲田から新大久保の新校舎に移った頃である。安東勝男教授が設計し、松井源吾教授が構造、田村恭教授が施工を管理して、日本最初の18階建の超高層ビルである51号館に建築学科教室があった時代である。

 1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博の国威高揚、理工系学部の定員倍増から、1970年代はオイルショックや公害等、高度経済成長期への激変期で、麻雀や山歩きぐらいが学生の娯楽だった。建築学科の卒業生は、設計のみならず、施工や環境方面、大学院進学、更には金融機関等、多方面に就職した時代であった。

 しかし、先生方の就職指導は的確であったことを連想させる彼等の進路選択で、就職後の建設現場での過酷な毎日、日進月歩の設計や施工技術の発展にも真正面から真面目に立ち向かった成果としての今日の社長就任であったこと。無理なく自然体で、堂々たる人生を歩んだことを教えてくれた。司会の亀井氏の進行は実に分かりやすく、スーパー建設会社の実態を教えられ、清々しい話し合いで、あっという間に7:20pmになり、まとめとして建設業界のBefore Afterの段になる。

 両氏は、物づくりの建築現場は「金と物」のマネジメントが全てで、そのためには話し合いとチームプレイが大切という。早稲田大学の建築教育のデシプリンそのものと実感。

 まとめとしての二人の提言は「建築界の長時間労働、高齢化、少ない休日は問題であるも、世界中が激変するこの時代、建築は間違いなく不変で安定した職場であり、『三方良しのESG(環境・社会・企業統治)』の先陣を切っている上、DX時代にあって、BIMや女性の活躍する場を先取りしての革新的職場であり、新しい時代を創り出す中心にあるのは建築界と確信する」と言う。TWOならぬTHREE TOPの意気投合した提言に、明るい建築界の未来を直接聞けたことは、私のみならず、会場やwebで参加した400余人にとって、実に素晴らしい新年の座談会であった。

 最後にコロナ禍の困難な状況下、稲門建築会事務局の皆様に感謝する次第である。

コロナ禍の帰省で「故郷の味」

 2021年12月9日(木)、新幹線の上野駅12:30出発で富山駅途中下車。お土産は上野駅で購入する恒例の品と違って、新しいカステラとキャラメル煎餅にする。

 富山駅14:52着。金沢駅に比べて相変わらず実に殺風景である。南富山行きの市電(LRT)に直行して西町下車、210円。隈研吾設計のガラス美術館「TOYAMA キラリ」はなかなかの景観で安心する。太田口通りへのアプローチはよくなったが、15階建てのマンションが自宅の向かい側に建設され、町の変化が激しい。ギャラリー太田口の(Ⅰ)も(Ⅱ)も、改築構想が定まらない。

 16:00~17:00、西町北総曲輪再開発の近況について、理事長代行の石井隆信氏と相談。主テナント予定の病院がコロナ禍で入居不可能な事態になって、その代替のキーテナントを探すことで、来春こそ本組合立ち上げに合意する。

 高岡から妹夫婦が来てくれて、夜食は高岡の川魚料理「北栄亭」へ。好物のどじょうの唐揚げと柳川鍋、鱈白子の酢漬け、里いもの煮ころがし、三笑楽の熱燗、昆布のおにぎりに白菜の漬け物は郷里の食べ慣れた家庭の味で、すっかり満足して、新高岡駅から新幹線で金沢駅前のANAホテル泊。

 翌10日(金)は一日中、某社の役員会とビジネスコンクール。夜は金城楼で夕食。今が旬の「ぶりしゃぶ」や「蟹」の加賀料理で実に美味しい。加賀鳶の大吟醸酒にすっかり良い気持ちで、ゆとりある人は「ひがし茶屋」へ。夕食からの接待は茶屋の芸者や仲居さんが主で、それぞれに金沢大学文学部の史学科や哲学科の卒業生というインテリだ。ひがし茶屋には20年前にもお茶大卒の芸妓さんが居たが、金沢の茶屋で勤めることは、当時から出世と金持ちへの近道とか。

 しかし、コロナ禍の2年間はインバウンドの旅行客も激減して、政府からの給付金に助けられていた由。コロナ・パンデミックはこの分野に最もインパクトを与えた様子。しかしこの間に考えることや学ぶことも多かったとか。ひがし茶屋の「八の福」の女将、福太郎さんや佳丸、小梅さんの話題は、これまでの酒席では考えられないほど真面目な話が多く、10人程の役員達も三味線や太鼓に手を出す人は居ない。これもコロナ禍の生々しい現況で、23:00にホテルへ。このホテルで何度もお世話になっているマッサージのおばさんに、筋肉はまだ70才の若さと褒められて、熟睡する。

 11日(土)も北陸では珍しく青空とあって、9:00am、金沢駅で土産の銘菓店を覗きながら、年末のお菓子は何処も過飽和と考え、自分用の酒のつまみとしてハタハタ、フグ、金目、のどぐろ等々の干物を購入。富山駅途中下車でコインロッカーへ。

 この日は魚津の金太郎温泉か小川温泉に泊まって、宮崎海岸の寒鱈の味噌汁を食す予定であったが、地元の名士・浜多氏が手配するも超満員で、キャンセルも期待されぬ状況下、長い町の歴史でこんなことはコロナ禍の惨事か珍事という。尤も、お店にとっては嬉しい悲鳴であろうか。仔細は、県内の食事クーポン券の給付であった。この2年間ものコロナの嵐の合間とあってか、「緊急事態ならぬ異常事態発生」という浜多氏からの電話。

 幸い、わざわざ神戸から来てくれた吉國君と、伊東山荘の売却値相当の改修費でギャラリー太田口(Ⅰ)の Book Café 改築設計について現場で相談した後、太田口通りや総曲輪通りを散策して、魚津に寄らず帰京する。

 それにしても新高岡駅や富山駅等の駅内のみならず、周辺にはなんと多くの江戸前すし屋が増したことか。それらの店々は余りに画一的なチェーン店の様子に、本当に地元の”きときと”の魚や旬の料理を出しているのだろうかと心配になる。その上、政府や自治体のバラマキ給付のクーポン券での食事や温泉での憩いは幸せなのか。コロナ・パンデミックの心の傷を癒やす本当の「故郷の味」は来春に延期することにした。

(注) ひがし茶屋街は、1820年に加賀藩主の許可で金沢の中心部に点在していた百軒程のお茶屋を集めて、格子戸と大戸、二階の造りが高い街並みのある公認遊里とした。芸妓も百人余と大いに賑わい、この藩政時代からの伝統を受け継いで、現在、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、電柱・電線も地中に埋設した石畳は美しい。1960年代に加賀藩の菩提寺の一つである宝円寺住職の中野松禅氏の次男・忠松氏と従姉が結婚したことから設計を頼まれ、よくひがし茶屋で遊んで芸者遊びの面白さを知る。その忠松氏と伊東温泉で遊んだときに購入した伊豆高原の土地に1975年建設した山荘を、今年売却することになった。その資金で今度ギャラリー太田口の改装費を充てることになったのも因果である。

 

第18回アジア都市環境学会(北九州市立大学拠点)に出席

 2020年に中国の青島理工大学で予定していた第17回の国際会議がコロナ禍とあってweb開催となったため、2021年度も青島開催になった。しかし、これも第5波のコロナ禍とあって、2021年の第18回アジア都市環境学会は、国と国との交流はできないが、同一国内であれば比較的自由に動けることから、中国は長春と青島、韓国は大邱、日本は北九州で対面での異例の国際会議になった。

 12月4日午前10時30分に、私は北九大ひびきのキャンパスで参加。80人程の聴講者と主催者の先生方20余名は4ケ所の拠点を結んで、大変な通信装置を駆使しての合同講演会になった。開会挨拶は初代の尾島、2代目の尹軍、3代目の洪元和会長がそれぞれの国から挨拶し、基調講演はD.バート氏で「Beyond the 3posts, Post-Modern, Post-Industry, Post-Corona」のテーマで30分間、多様な画像を示しての熱演で、それぞれの拠点に集まった聴講者や自宅でオンライン参加している総勢300~500余人にとっては、不幸中の幸いの一般公開講演になった。これも大会運営委員、特に高偉俊教授と研究室の大学院生達の支援によるもので、北九州市の役員もこの国際会議には大変満足している様子を実感する。

 昼食の金鍋の弁当はなかなかの質。午後の論文発表会は多拠点でwebを利用し、司会者と解説者、発表者は、4拠点会場からの質疑に対しても、英語を駆使しての国際会議は大成功と思われる。最後にwebで、第19回は横浜国立大で開催するに当たってのプレゼンは佐土原聡副学長。久し振りに4時間も大教室での論文発表会を、しかも英語での聴講に疲れも並みではない。

 手元に配布された”18th International Conference of Asia Institute of Urban EnvironmentのJournal of A.I.U.E”( Special Issue:AIUE2021@Hybrid Conference in Qingdao(China),Daegu(Korea),Kitakyushu(Japan) Dec.4th-5th)はNET536頁の論文集で、100余人の発表者からなる。

 懇親会は学生たちとは別に車で移動、小倉でも著名な料亭・観山荘別館へ。なかなかに立派な料亭で、D.バート、福田、高教授等、OBの接待を受けたのは、東京から出席した高口洋人、吉田公夫、私の3人。地元福岡の酒は繁枡で、座敷・庭の一如景色もなかなかにして、久し振りOB達との懇談は教師冥利に尽きる。北九大に留学している東南アジアからの留学生は博士過程が多い。その論文受理には福田、高、バートの3人の審査委員チームが最適で、建築のみならず、早大理工大学院の学生も対象にするという。各自50余人を担当する学生の内訳は、博士20、修士15、学生10、他という一般の私立大とは反対の逆ピラミッドで、これが大きな戦力である。博士の教育ができない東南アジアの途上国を支援できるのは、これからの20年程で、今が大切な時代との結論。

 かくして2日目の長い一日が終わって、リーガロイヤル小倉での休息は快適。マッサージのおばさんは10年前に北九大の清掃員であったことから、創立期からの10余年間、北九大の先生や学生たちの裏話を心地良く聞かせてもらった。

第1日目は「ふく一」での白子三昧コース、ふく料理に最適の佐賀の大吟醸酒・鍋島に続いての二日目もまた素晴らしい接待に感謝のみ。

 3日目は快晴であったが、学生たちは朝から一日論文発表とあって、私と吉田君は福田・バート氏の案内で福岡市へ。北九州市から1時間程で福岡市内の見覚えのある渡辺通りに到着。途中、磯崎新設計のJR博多駅前の西日本シティ銀行本店が撤去されたことや航空規制が改正され、天神の建物高さを上げることができ、天神ビッグバン再開発が行われていること、地下街の災害時利用を考えて尾島研OB達が実態調査をしたその後や、古谷研OBの平瀨有人君等の作品が注目されていること、アクロス福岡に代表されるグリーン建築の成功実態、再開発による環境問題として、特にエネルギーインフラについて心配している由。これが三日目にわざわざ2人で都心案内した理由と思われたので、早速、(一社)都市環境エネルギー協会で「天神都心BCD特別委員会」を東京で発足させた時の中心スタッフになる了解を得る。都市再開発緊急整備地区としてのみならず、安全確保地エリアに含まれていると思われる大名小学校跡地活用とザ・リッツ・カールトン福岡等の高層複合ビルの再開発現場を視察。黒川紀章設計の福岡銀行本店は、幸い撤去の話題になっていないことにホッとして、この建物内オープンスペースでコーヒータイム。その後、重松氏や日本設計の再開発ビルを見学。アクロス福岡のステップガーデンの20年間の変遷画像や旧福岡公会堂貴賓館、平瀨君の作品に満足して、昼食は河岸のステーキ。話題が尽きずゆっくりしてしまって、急いで地下街を視察後、空港へ。

 翌6日の午後、(一社)都市環境エネルギー協会で、早速、福岡市の状況をネットで確認。中嶋理事や井原部長と来年度の特別委員会について検討を深めることにした。同時に、アジア都市環境学会の第1回国際会議が2001年7月、北九州市で開催されて20周年を機会に、北九州を本部とする法人化と東南アジア諸国の支部を設立、支援することにした。

江戸東京博物館の特別展「縄文2021―東京に生きた縄文人」を見て

 2021年11月24日(水)、飯田橋での研究会に出席した快晴の午後、突然、江戸東京博物館で、特別展「縄文2021―東京に生きた縄文人―」と共に企画展「ひきつがれる都市の記憶―江戸東京3万年史」が開催されているとの情報に驚く。先週の縄文社会研究会・東京部会で北海道・北東北の縄文遺跡世界遺産登録に続いて「甲信越の縄文遺跡(現・日本遺産)」を世界遺産に登録する活動を開始したばかりで、その時も北関東の縄文遺跡をどうするか、気になっていたからである。

 何はともあれ、12月5日までの開催とあって、午後4時を過ぎていたが、JR両国駅から殺風景な線路沿いを歩いて、何度も訪れたことのある階段を上って、洪水対策とはいえ全く人気のない面倒な3階の空中階でチケットを購入。

 先ずはエスカレーターで1階の「縄文2021―東京に生きた縄文人―」展へ。参観者の割には立派な展示物にホッとして一通り視察する。多摩ニュータウンの開発時に問題になっていた縄文遺跡を中心とする埋蔵文化財を多数収蔵してきた東京都埋蔵文化センターと江戸東京博物館と国立歴史民族博物館の協働というだけに充実している。

 帰宅して、「東京に生きた縄文人」(2021.10.9 TOTO出版)で、館長の藤本照信氏と山田昌久氏(東京都立大名誉教授)との対談「縄文人の智恵」を読んでのインパクトは絶大であった。

 江戸東京たてもの園の特別展「縄文竪穴式住居復元プロジェクト」(2021年2月3日~8月1日)の報告にある1930年;八幡一郎指導の戌立(いんだて)遺跡復元家屋写真、1949年;堀口捨巳の尖石の与助尾根遺跡復元、1951年;藤島亥治郎の平出(ひらいで)遺跡復元、1951年;関野克の登呂遺跡復元写真、岩手県の芝棟写真、他に関する藤森解説は実に明解であった。

 関東地方縄文海進と貝塚分布図を見ると、縄文人の生活にとって海との関係は強く、丸木舟や大森貝塚の展示と共に、伊豆諸島の縄文時代遺跡など、全く新しい知見を得た。土器を使った食文化に海産物が入ってこそ和食文化の「かたち」で、縄文人の暮らしにこそ、その源があることもこの縄文2021・特別展で教えられた。

 少々不自然に思えた5階の常設展示室内の企画展「ひきつがれる都市の記憶―江戸・東京3万年史―」も、この特別展を参観しての後であったが故か、無理なく観覧することになった。

 第一章の旧石器から古墳時代までの暮らしとして、縮尺1/10の縄文時代中期の住居、1階の丸木舟展示、縄文後期、品川・大田区での大森貝塚出土の土器(複製)、弥生時代の文京区本郷の壺形土器(複製)、古墳時代の大田区の埴輪。第二章の奈良時代から鎌倉時代の武蔵国では、国分寺市の武蔵国分寺跡出土の瓦、平安時代では八王子市の白山神社経塚出土資料。第三章の江戸の成り立ちでは太田道灌「山吹の里」(江戸名所図会)、八王子城址出土資料等。第四章の江戸時代以降の400年間、この吹き抜けた大展示スペースに収められている江戸東京博物館収蔵62万点からの出展である。

 「江戸東京3万年史」というタイトルを見て大法螺企画にと思えたが、「都市の記憶として」引き継いでいると解釈すれば分からぬでもない。日本文明はAD500年以降の1500年との解釈を、これを機会に3万年としても良いのか、都市は少なくとも文明の産物とすれば、である。それとも日本文化3万年・文明1500年と称すべきか。

 縄文社会研究会・東京部会としては、このような企画展や特別展で大々的に東京や関東地方縄文海進と貝塚分布図、衣食住の生活面で、現在の東京人との密接な繋がりが展示された以上、甲信越に絞った研究会は、貝塚に見る漁業や多摩の落とし穴による狩猟など、身近な関東や東京島嶼の縄文遺跡を調査し、文明の手段をもった縄文人の生活様式をもっと研究する必要性を痛感する。

日本景観学会 2021年度秋季シンポジューム研究発表会

2021年11月20日(土)13:00~17:00、オンラインZOOM方式で

 13:00 開会 

 13:10 開会挨拶:中矢雄二副会長

 13:20-14:40 基調講演

  講演1:土岐 寛:電柱問題を改めて考える−経済大国・文化小国から脱皮の展望−

  講演2:向殿政男:「鉄道のある風景」と景観概念について

 14:40-14:50 休憩

 14:50-16:10 研究発表

  発表1:成田イクコ:景観計画における色彩規制をとりまく環境

  発表2:山路永司:農村地域における太陽光パネルの景観

  発表3:西原 聡:柿田川湧水にみる富士山がくれた水辺景観

  発表4:齋藤正己:離島の景観−観光が果たした役割とは?

 16:10-16:30 自由討議

 16:30 閉会挨拶:土岐 寛

 土岐基調講演:日本の電柱・電線の景観破壊は国辱的、地中化率は東京23区でも10%、台北の95%、シンガポールの100%と比較して、何とかしなければならない。東京都の小池知事も国土交通省も地中化を推進する条例や支援策を提案しているが、今も電柱は増加し続けている。このままでは年間4000kmの地中化では128万kmの道路を全地中化するには300年必要とする。日本景観学会として「宣言」や「声明」を出すに当たって、電線のみならず、CATVや光ケーブル等の架空施設による景観破壊防止についての方策を、土岐会長を中心に検討することになった。

 向殿基調講演:「鉄道のある風景」をテーマに、「風景」「景色」「景観」を英訳すれば、どれも”Landscape”である。しかし、日本人にとってその違いは鮮明で、スケールの大中小、人間関与の強弱で比較すると、いずれも風景>景色>景観となって、景観は最もスケールが小さく、人間の関与度合いが最も大きい、と景観概念の定義に言及。

 尾島は、藤澤前会長は「景観」を”KEIKAN”と訳して、学会誌の表紙として、また商標登録したことを話す。広辞苑で「景観」とは「自然と人間界のことが入り交じっている現実のさま」とある。共生の思想やFuzzy(あいまいさを許容する)、自然のみ、人間のみでは「景観」とは呼ばない、哲学・思想が欲しいと向殿氏。

 続く研究発表会は斎藤氏司会で、

1.成田イクコ氏:景観計画は色彩規制が中心で、地域固有の色、特性として茶・黒・白中心。中津川市や中山道の伝建地区、犬山城下等の低彩度色彩について言及。

2.山路氏:太陽光パネルの景観破壊の実情について説明。地産地消の立場や景観を破壊しない限りはGHGの観点から太陽光パネルの普及に反対しない。特に耕作放棄地でのソーラーシェアリング等は、3年毎から10年毎の申請でも良い。17~27度の傾斜地で1ha以上のソーラーパネル等は、伊豆山での土砂災害などを考えると危険である。「景観破壊のない限り」とか「森林や農地、スケールや地勢等」で定性的に「賛成」とか「反対」ではなく、確かなる定義に基づいたGHG対策としてのソーラー普及策をつくるべきと。これは山路氏の課題となった。

3.西原氏:柿田川遊水池の水辺景観については、報告通りに重要な指摘であった。具体的に、富士山周辺環境の整備は重要であるが、余りに課題が多いこと。500万㎥/日の美しい富士山湧水が毎年減っている。柿田川一級河川1200mの景観保全の大切さを再認識し、アクセスや休憩地の整備が第一歩。

4.斎藤氏:沖縄離島の宮古島・石垣島・竹富島・西表島での星野リゾート開発等、日本景観学会も苦労したが、その後、景観破壊や限界集落問題はインバウンドの増加で解決した。クルーズ船の観光客等では600万人から1000万人に増加。そのうち30%が外国人で、限界集落が激変。観光、環境、産業、地元の入島税対策等について興味深い報告。

 16:00からの自由討議は、山路氏の司会で、実に有意義な勉強会になった。健康を害して会長を引退された藤澤和先生もwebとあって自宅から出演。シンポと発表会の総括をされて、無事終了。

 閉会の挨拶で土岐会長自身が大きな宿題を持ったと話された。日本景観学会の立ち位置が明確になるに及んで、学会の責任が益々重要になってきたことから、事務局4人の方々の役割も再認識されて、終了。