Blog#122 「新作庭記」(マルモ出版、1999.8)進士五十八・鈴木博之・中村良夫・内田昭蔵・オギュスタン・ベルク連著を読んで

 2024年8月の盆休み、退屈していたことから、富山の自宅庭が荒れ放題になっていたのを何とかせねばと考え、手元にあった庭造りの本に目を通す。

ヘルマン・ヘッセの「庭仕事の愉しみ」(1996.6 草思社)は何度も目を通していたので後にして、富山の庭は「枯山水」が似合うように思ったので、重森三玲著「灯籠と蹲」を参考にして石灯籠を入れたことから、先ずは、この「枯山水」について改めて読んでみる。しかし、本格的枯山水のコストを考えると不可能である。
 結果として、Blogの表題の著書を手にすると、すでに熟読していたらしく何カ所にも折り込みや傍線がつけてあった。その上、本書は内田昭蔵先生からの贈呈で、手紙も入っていた。

 改めて本書を読むと、連著書の第5章 オギュスタン・ベルク氏発言が気になった。1942年生まれで、当時、フランス国立社会科学高等研究院教授、1984~86年、日仏会館フランス学長で、「日本の風景・西欧の景観」(講談社現代新書)や「風土の日本」(ちくま学芸文庫)の著書があった。以下に彼の著述(翻訳:篠田勝英)を抜粋引用する。

・私は日本に興味を持ち、この国のことを学び始めて30余年。日本語の「主体」「主観」「主語」「主題」の四語はフランス語や英語では一つの単語である。日本語の読み方を学ぶヨーロッパ人が直面する問題は「主語」の明示されないのが日本文である。そういう日本文においては、いかなる語も主語の代わりをしない。語っている人物の状況と身分に応じて変化するからだ。

・明治期に、日本の地理学者がドイツ語のLandschaft、英語のLandscape、フランス語のPaysageを「景観」と訳した。この時期、日本の画家達が「山水画」を「風景画」として語り始めたのは、主体の関係の変化であった。とりわけ「景観」という語は、主体から客体に向けられた視線の存在を前提とする。山水(風景)から「景観」に移行することは、文字通りの転倒が含まれている。「山水」の場合、重要なのはモチーフ(山ないし水)であり、「景観」の場合、視線「観」、すなわち主体の存在である。そして、その主体にとってモチーフ(「景」)が客体となるのである。
 一方には「景観」の研究を客観的な科学にしようという近代日本の地理学者の意図があり、他方には、後述する黄枝の句*によって示したような風景の伝統があった。実のところ、両者は両立しがたいものであった。その当時、日本人全員がこの両立不能の「体験」をしたのだった。
  *「風鈴の ちひさき音の 下にゐる」黄枝の句
 視覚以外の感覚(肌に感じる爽やかな風を喚起する音)によって、さらには体感(生活様式)、雰囲気は主体ではない「ゐる」の主語は存在しない。主語の不在が場面を活性化している。この様な風景が日本に存在するからで、日本語の表現がこれを可能にするから、このような句が生まれる。

 逆に、日本の地理学者が「景観」と訳した客体としては、ドイツのLandschaftほど深い根を持っていなかったことは明白である。

○作庭記とは、風情を巡らして空間と景観をつくる思想と方法である。

○主体と客体について、私が考察するところ(主体「観」の対称にあるのは客体「景」である筈が、主語を明示しないことによって景観のあり方を不明、曖昧、いいかげんにしたが、それを良しとするのが日本文化。)
  人間と(時間)空間を対比するように
  地理学と自然(地球の自然)
  社会学と風土(固有の風土)
  作家と風情(人格を求める)
  画家と風景(美しい風景を描く)
  建築家と景観(実景をつくる、設計者)
  物理学と環境(環境を破壊する)

 戦後の日本経済がバブル期にあった1990年代、建築自由の日本社会にあって、ヨーロッパ等の先進諸国に比し、無秩序な乱開発(屋外広告など)として景観の価値が問われ、2004年6月、国土交通省では景観緑三法を公布する。

 1999年11月には黒川紀章や藤沢和氏によって日本景観学会が創立された。日本の都市景観に対する取り組みが全く進まないのは、都市の主体者が不在であること以上に、その「ウラ」にもっと深い日本文化の特性があり、主体(責任者)を曖昧にしてきた故か?本書のオギュスタン・ベルク氏の学説を日本景観学会でも再検討する価値がありそうだ。足立美術館の庭、東京の自宅の庭、八ヶ岳山荘の庭、そして富山の留守宅の庭造りにも主体者不在を認識させられた上、何故かヘルマン・ヘッセの「庭仕事の愉しみ」を再読せずには居られなかった。

Blog#121 TOKYO2020からパリ2024オリンピックのTV観戦を通して

 2021年7月の東京2020オリンピックはコロナパンデミックとあって、1年遅れの無観客という異例の開催であった。がしかし、205ヶ国(地域)から33競技339種に派遣されたアスリート11,000人中6000余人が全員マスク姿で国立代々木競技場の入場式に参加した。この「コロナに打ち勝った証」はあまりに淋しかった。

 この東京大会に比べて、パリ2024オリンピックは、余りに華やかな開幕であった。エッフェル塔を背景に、セーヌ川の美しい橋を舞台に、1万人余の各国選手団が手を振りながら55隻の船に分乗しての入場式は圧巻であった。

 東京大会と同じ規模の206ヶ国(地域)から32競技329種に分かれての競技は、終わってみると、メダル数の1位はアメリカで、東京の113に比べ、パリでは129、2位の中国は88に比し91、3位の日本は58に比し45。開催国のフランスは4位の豪の53に比し64で5位。但し金の数は日本の20に対し豪は18で、仏は16であった。

 それにしても驚きは、1ケ月前の予測で日本のメダルは金銀銅で12+13+21=46と結果の20+12+13=45とたった1個の違いだったとは。特筆すべきは、パリ2024でスケートボードや初めて種目に加えられたブレイキンで日本が金メダルを得たこと。フェンシングややり投げ、近代五種などでのメダル獲得である。反面、オリンピック前から賑やかだったサッカーやバレーボール、バスケットボール等のチームプレーでの敗退で、2028ロスでの野球復活が話題になっているのは余りにはしたない。

 今度のパリ2024オリンピックでも開催中の前半は八ヶ岳の夏合宿で、後半も家族の観戦を側で観ていた程度であったが。学生時代、剱岳の岩場で訓練していた頃の体重55kg、腕の握力75kgであったのに比べて、昨今の体重は75kg、握力が40kgと情けなきこと。それ故か、東京大会から新種目に加えられたスポーツクライミングで「大和撫子」を思わせる森秋彩さんのリードクライミングのトップには魅せられた。

 この華やかな祭典に今大会も参加出来なかったロシアの存在と、オリンピック中も止むことなきウクライナ侵略。イスラエルのガザ空爆では4万人もの死者と10万人を超える負傷者を考えると、クーベルタンの理想としての戦争に代わる近代オリンピックのあり方が問われてしまう。

 こんな状況下で読んでいた文藝春秋誌の第171回芥川賞受賞作、松永K三蔵著「バリ山行」は、最近の芥川賞にはみられないほど実に読み易く、純文学作品であった。建設業社の下請けサラリーマンが日常の生活苦から解放されるため、神戸の六甲山系の自然に仲間と分け入っての心身の葛藤を綴った作品である。松永さんの受賞会見を読んで感心したのは、『ままならないものを書きたい。「ままならない」とは不条理だ。それは私達が生きているこの世界に厳然と存在する。しかし不条理に対して「なぜ?」と問いながらも、対峙し続ける人間の強さであったり愚かしさであったり、また美しさや哀しさ・・・そんな姿を書きたい』と。

 8月13日、東京の旧盆休みに、改めて人間の不条理を問う!8月28日からのパリ2024パラリンピックを前に、死者を生む戦争よりは平和に生きるオリンピック! 原水爆やミサイルより金・銀・銅のメダルだ!! 兵士よりアスリートを!!! と願うのは不条理か。

 8月11日午後の閉会式では、ロサンゼルス2028オリンピックに向け、あのトム・クルーズがスタジアムの屋根から地上に降りて、ロス市長から五輪旗を預かるとバイクでパリ市中を走り抜け、飛行機でハリウッドの丘へ降り立つ映像が流れる。

 それにしても、古都パリの都市がもつパースペクティブの利いたビスタを最大限に活かしてのアスリートたちの躍動。それを支えるはエッフェル塔、凱旋門、ルーブル、シャイヨー宮、グラン・パレ、コンコルド等の建築、マラソンのゴールがアンバリッドとは出来過ぎである。セーヌで泳いだパリ市長やパリ市内をこの祭典の舞台に解放したパリ市民のおもてなしに東京から最敬礼。

Blog#120 第16回八ヶ岳研究会と尾島山荘夏合宿(ジビエ料理)速報

 

 024年8月の夏合宿は8月1日~5日の4泊5日。日程表の如く参加者18人。8月3日(土)と4日(日)は12人が宿泊したため、テントが2張り、写真の如く賑やかなジビエBBQと猪鍋が二晩続く。渋田君が東京から仕入れての調理である。

八ヶ岳研究会の炭火焼きジビエ料理

 第16回八ヶ岳研究会に向けて、水素を燃料にしたジビエ料理が、池の平ホテルの名物料理にならないかとの小林光先生の発案から、水素利用の料理に関して事前に調査した。しかし、山荘で気軽に水素を利用するにはまだ問題が多く、炭火焼きジビエ料理BBQと猪鍋(ボタン鍋)とピザ窯活用の本格ピザが主役となり大好評。
 保全センターと環境技研の料理腕比べも楽しく、中国釣魚台の白酒や井上高秋さん持参のBOWMORE18年スコッチに、寒いほどの山荘で、夜の時間を忘れる。

JES主催の豪華な朝食(12人)風景

 8月4日(日)、保全センターチームは御嶽山ビジターセンター(さとテラス山岳)と(やまテラス大滝)の二ヶ所を訪問。2014年9月の御嶽山噴火災害の展示を視察。JESチームは北杜市の「平山郁夫シルクロード美術館」や「オオムラサキセンター」を訪問する。

御嶽山ビジターセンター(やまテラス王滝)(平瀬有人設計 2022年)

  8月2日の池の平ホテルでの第16回八ヶ岳研究会は、矢島・小林光・中川・福島氏と私の5人の幹事と原君が同席。「かわぐち・たてしなの森」の利活用について、中川・福島両氏のヒアリングの報告。

 (株)白樺村は、さん橋整備に加えて別荘地の改修や県・市・町との調整が進んでいる。『白樺湖と八ヶ岳物語』の2025年出版について、各自から資料提供や記載要求を年度内に受理する。NPO-AIUE出版。(株)白樺村での販売について検討する。

この写真集は、スイス・ツェルマット(マッターホルン)のガイドブックを参考にしたものであるが、リゾート地でのロングスティの参考書としてのみならず、当地をスイスのダボス(標高1560m、人口1万人)やアメリカのアスペン(標高2400m、人口7000人)の如き、世界のコンベンションシティとしての魅力をもたせるべく意図しての出版物にしたい。

白樺湖と八ヶ岳物語(2025年出版予定)

Blog#119 「江戸城天守」の再建!について

 2024年7月9日(火)、東京新橋ロータリークラブの例会で、会員の鞍掛三津雄氏の紹介で、太田道灌第18代目子孫・太田資暁氏による「江戸城天守再建に関する」卓話を聞く機会があった。

 卓話の趣旨は、『江戸城は徳川3代の将軍が次々に天守を築きました。取分け 1657 年明暦の大火で焼失し、その後天守台だけが再建されて上屋の建立は後回しになっている「江戸城寛永度天守」は、日本城郭建築の最高到達点であり、日本一壮大で美しい城であったと言われております。(中略)私たちはこの「江戸城天守」を、日本各地に広がる香り豊かな純国産の木材を使い、伝統工法により再建することを通して、首都東京のそして、各地のお城と連携して、地方の活性化にも貢献して行きたい。(中略)令和の世の「江戸城天守」建立を通して、次の世代がこの国の未来に夢と希望を持ち、日本に生まれたこと、日本人であることに感動と感謝の念を抱き、(中略)日本人の為の『未来遺産』を創り上げる事業と捉えております。』

 たくさんの資料を配付しての熱演を聞きながら、四半世紀も前(1997~98年)、私が日本建築学会会長時代の副会長で、東京駅の再生はじめ日本の伝統建築保存運動の中心であった東大の鈴木博之教授(1945~2014)が、江戸城天守再建だけは反対だと叫んでおられたことを思い出した。その理由は、世界遺産登録に不可欠な真正性(Authenticity)がないからとの説で、私も賛同していた。

 しかし、一緒に仕事をしている伊藤滋先生からは、江戸城天守再建は自分の最後の仕事だから協力するよう言われていたことや、今度、ロータリー会員への「江戸城天守再建活動への請願書」署名へのお願いがあったので、自分の態度を決めなければと考えた。

 「建築家としては鈴木博之説に賛同するも、東京のランドマークとして、皇居(旧江戸城)をバッキンガム宮殿や紫禁城の如き首都の歴史や文化の誇るべきシンボルとして創出することは不可欠で、太田氏や伊藤先生の再建説にも賛同せざるを得ない。

 しかし同時に、これから建設される天守は、必ずや世界遺産にすべきものでなければならない。そのためには、やはり真正性が不可欠で、安易な江戸城天守再建ではなく、東京にとって本物のレガシーとすべき天守として、東京大学建築学科で鈴木博之先生と共に学んだはずの広島大の三浦正幸名誉教授(1954~ )の復元図の真正性を含めて、天守再建のみならず、『皇居のあり方」について再考しては如何であろうか。2020年の東京オリンピックで果たせなかったザハ・ハディド(1950~2016)の国立競技場の反省として。

 1964年の東京オリンピックの会場となった丹下健三(1913~2005)の代々木国立競技場は、私も手伝ったこともあって、槙文彦(1928~2024)の要望もあり、世界遺産に登録すべく頑張っている。少なくとも、大阪城天守は姫路城のような真正性が全くないことから、世界遺産になる可能性はゼロであることを考えれば、江戸城天守の再建にはもっと慎重を期すべきか。

Blog#118 久し振り2024年度早大建築学科の環境系OB会である「七月会」に出席

 7月5日(金)、10年ぶりに早大建築学科の環境系研究室が順番で主催している「七月会」に出席する。
 乾杯の前に一言挨拶を、と言われて『2008年の定年退職時の最終講義テーマは「未完のプロジェクトⅩ」で、教材に「都市環境学へ」を出版。その12章「未完のプロジェクト実現に向けてⅩ」について、2007年開設した銀座尾島研究室で継続研究して10年余、コロナ禍で銀座から練馬へ移転して、その活動を続けていると共に、(一社)都市環境エネルギー協会の理事長として、国土強靱化策の一環で、CGSによる分散電源を推進、2050年対策としてのカーボンニュートラル推進に当たっては、水素等の普及調査活動をしている。

 幸い、大学時代からよく遊び、よく学ぶ方で、このように身体は頗る元気なので、今も研究活動を続ける。諸君もよく遊び、よく学んで、更なる活躍を祈る次第』と。

 思えば、1970年代までは木村幸一郎教授と井上宇市助教授時代、卒論が始まる7月、大学院生と共に湯豆腐会を始めたのがきっかけで、この会が盛大になったのは、1980年代の井上宇市教授時代で、建築設備系の学生は早大では機械や電気工学科にもOBで活躍する人が居たことから、「建築設備研究会」に改めたのがベースになる。しかし、既に木村建一研や尾島研では建築設備系以外に金融機関やエネルギー会社等への就職者が多くなり、「建築設備研究会」では入会できないOBも居て、「七月会」と名称を変更した筈。

 その上、研究室単位のOB会があまり盛大になると稲門建築会とバッティングするということで、研究室単位のOB会はやめてくれと言われ、私が稲門建築会の会長時は「七月会」への出席を見合わせることで、稲門建築会に「七月会」の存続をお願いした経緯があった。しかし、もう時効と考えての今回の出席である。

 気がつけば米寿の年齢に至って、早大退職時の「都市環境学へ」の(続)として「都市環境学を開く」の出版を鹿島出版会に依頼中である。

 久々に出席した「七月会」は、環境系の教職にあった石福昭・木村建一名誉教授の出席はなく、現職の田辺新一教授の会長挨拶は一言で、高口洋人教授と伯耆原 智世講師の時代である。

 長谷見名誉教授に新任の伯耆原講師を紹介してもらって、高口君と4人で富山の職藝学院について相談する。また、OBの松村亘君や大西君たちとDHC協会で近況を伺う会をもつことになった。

 18:30からの56号館カフェテリアでの懇親会に一時間ほど参加する間、尾島研OBの村上正吾君から始まって、牧村功君の建築基本法制度に当たっては、小川富由さんと神田先生との話し合いの必要性をアドバイス。井上研OBの板谷敏正君が客員教授になったとの挨拶あり。三機の清水君にはアーカイブスでお世話になったこと、相変わらずの外岡、柴田、前川、辻村、大竹君等もなつかしく、DHC協会で世話になった木村研OBの堀川、小野島、伊香賀君等との懇談も実に有意義であった。

 田辺君とは2018年、州一が白川君と開設した中華店での「五人会」以降、5年以上も中断していたので新任の先生を入れての再開を約束する。「七月会」出席はこれを最後と考えていたが、この会はなかなかに価値ありと考えながら早々に退席する。

 西早稲田駅と直結の地下鉄はなんと石神井公園行きで、練馬駅まで15分であった。来たときは高田馬場のBig Box前からタクシーで早大51号館の正面玄関前まで、すっかり生い茂った戸山公園の中を走って5分で到着。住み慣れていた51号館の研究棟から57号館前で古谷誠章・栗生明氏と合う。彼等はEXPO’25の海外パビリオン設計を支援するため、公開シンポジウムを開催中であった。大阪・関西万博EXPO’25会場の設計支援活動が早稲田で行われていたのは嬉しく、何故かホッとした。

 2030年に向けて、西早稲田キャンパスが日建設計と清水建設によって改築中とは承知していたが、予想以上に雑然とした昔ながらの校舎の雰囲気はなかなかに活力がある。

 七月会の名簿を見ると、1941~2024年(83年間)に2500人の名前や住所を記載。尾島研は1965~2008年(43年間)で1000人程か。それにしても、個人情報満載の名簿の取り扱いには留意すべきだ!!

Blog#117 ポール・ゴールドバーガー著「建築という芸術 評伝フランク・ゲーリー(Building Art )」(2024.5.30 鹿島出版会)を読んで

 

 7月1日、鹿島建設の平岡雅哉建築設計副本部長から、例年のお中元に本著が贈られてきた。スペインのバルセロナ市は人口162万人、アントニ・ガウディのサグラダファミリアあっての国際観光都市で、それ以上に人口35万人の工業都市ビルバオが年間100万人以上の観光客で賑わっていると聞く。その要因は、フランク・ゲーリーが1997年に設計したビルバオ・グッゲンハイム美術館にある。ネルビオン川に浮かぶ船のようなチタニウムの皮膜で覆われた不思議な建物である。アメリカで最も有名な建築家フィリップ・ジョンソン(1906-2005)をして「我々の時代の最も偉大な建築」と言わしめた作品である。

 1959年にフランク・ロイド・ライトがN.Y.で設計したらせん状のグッゲンハイム美術館から半世紀、デジタル革命の申し子の如くに、高価なチタニウムの皮膜を惜しげなく駆使した巨大な造形美に圧倒される建物である。この設計で世界的建築家と認められたフランク・ゲーリーは、2003年にはロサンゼルスのダウンタウン沿いに建つウォルト・ディズニー・コンサートホールもよく似た姿で設計し、2014年にはパリのブローニュの森にルイ・ヴィトン美術館も設計した。一度は彼の作品を見たいと思う以上に、設計者の実像を知りたいと考えていただけに、本書の贈呈はありがたかった。

 それにしても、500頁もの大著で、しかも小さな活字に参って、最初は拾い読みのつもりが、二日で完読しての実感は、本当によく書けている。その筈で、ニューヨークタイムス紙の記者で、ピュリツァー賞受賞の建築評論家ポール・ゴールドバーガーによる初の評伝書であった。

 カナダのトロントのユダヤ移民の息子として、1929年2月に生まれたフランク・ゲーリーが、やがて世界的ヒーローになるアメリカンドリーム体験記である。私自身が学んだ先輩たちと同時代の1960年代のロサンゼルスで活躍した。ビクター・グルーエンに勤務していた大沼君を1965年に訪ねたときに体験した、その時代の建築界の様子や、数々の国際コンペに暗躍する同世代の建築家とクライアントとの関係など、赤裸々な筆の運びにのめり込んだ二日間であった。久し振りに、自伝を超える評伝の素晴らしさと建築設計の面白さを体感させた著書を贈って下さった平岡氏に敬礼!

 ビルバオ・グッゲンハイム美術館の設計で一躍世界的に著名になったフランク・ゲーリーを更に有名人にしたのは、ピュリツァー賞を得た程のポール・ゴールドバーガーの巧みな評伝である。しかも、フランクの生存中にアメリカで出版され、日本でも鹿島出版会から坂本和子さんによって訳され、久保田昭子君も支援したという本書を久しく私の読むところとなった。

 このような素晴らしく細密な建築家評伝に相当するのは、日本では丹下健三の評伝を書いた藤森照信氏くらいではなかろうか。残念なことに、フランクのライバルであった磯崎新については、2023年、磯崎アトリエに勤務していた今永和利・佐藤健司・藤本貴子さんらが若い頃の磯崎を知るため取材にみえたが、これからのようだ。

 この取材がきっかけで、藤本さんが勤務する法政大学建築学科の創立者である大江広の若い頃を知る人が少ないので、陣内秀信・小堀哲夫・種田元晴・石井翔大さんらを同行するからとの依頼あり。

 1970年代、日本建築学会をベースに、芸大の山本学治(1923-1977)と日大の近江榮(1929-2005)、東大の鈴木成文(1927-2010)等が建築家像を巡って、教える者と学ぶ者について10年以上も激論を繰り広げていた、その中心に大江広(1913-1989)が居たことを知る人は、全く居なくなっていた。大江は、建築設計のあり方を巡ってのDiscipline論争をからだで覚えさせ、からだで確かめ、触って確かめる徒弟制度の必要性や、「建築」は“Architect”、「建物」は“Building”と訳すが、その相違についての論争等々。建築学会が有楽町から三田へ移転する前の学会の会議室は、登亭のうな丼を食べながらの激論の場であった。当時がなつかしく思い出される。

 改めて、フランクと同時代にあって、日本建築を世界建築のレベルまで高めてくれたのは、黒川紀章(1934-2007)、磯崎新(1931-2022)、槙文彦(1928-2024)、菊竹清訓(1928-2011)、穂積信夫(1927-2024)、池原義郎(1928-2017)等であるも、その評伝が日本語版のみならず、英語版もまだ見受けられないのは残念である。朝日新聞の記者で、松葉清の如き存在が居なくなったことを考えれば、藤本さん等の若い建築評論家に期待するのみで、当時を知る私たちの余生は、彼等、日本を代表する建築家たちの記憶と資料の整理をしなければと考えた次第である。

Blog#116 笹山敬輔著「笑いの正解」(2024.5 文藝春秋)を読んで

 5月17日、昔仲人をした著者の両親から贈られた『笑いの正解―東京喜劇と伊東四朗―』の著者は、Blog58の志村けんという喜劇役者を紹介した『ドリフターズとその時代』の著者で、私には全く縁のなかったジャンルの著書であったが、刺激的であった。

 同様に、今度の著書も、伊東四朗という、全くこれまで意識したことがないけれど、確かに本書を読む限り「笑いは歴史に残らない。語り継がなければ忘れられる。(中略)今、現役の喜劇人として東京喜劇を語れるのは伊東四朗しかいない」との『推し』文句に感動した。その上、2024年6月に伊東四朗がゲストで「熱海五郎一座」が新橋演舞場で公演するという。86歳の伊東四朗は私と同じ年齢で、この時を逃すと大変と思わせる記事に、インターネットで早速チケット情報をみると、なんと既に桟敷席は売り切れで、一等席も残り僅かとあって、早速予約する。

 両親には子息の著書を評して「たった一回の挑戦で文藝春秋社に出版を約束させるや、伊東四朗を説得、あっという間にこのような恐ろしいタイトルで出版させたご子息の力量に脱帽。ひたすら頼もしいご子息に敬意を表する次第です!!」との礼状を出す。

 改めて本書を読んで、森繁久彌の喜劇「駅前シリーズ」や「社長シリーズ」、渥美清の倍賞千恵子との「男はつらいよ 寅さんシリーズ」に続く、ヒラ刑事・鴨志田役の伊東四朗とエリート警視・羽田美智子との「おかしな刑事シリーズ」は、私にとってはストレス解消のテレビ番組になっていたことに気づいた。日頃、人生にとって「笑い」こそ不可欠要因と確信しており、この年齢になって「人生の正解とは」について、改めて考えさせられた。入手した6月4日、新橋演舞場での「東京喜劇 熱海五郎一座」で、伊東四朗の尊顔を拝するのを楽しみに。

 ところで著者の敬輔君は、富山の配置薬ケロリン本舗の五代目で、私がお世話になった三代目の忠松氏は銭湯に常備されているケロリンのポリバケツの考案者である。

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Blog#115 勅使河原彰著「縄文時代史」(2016年 新泉社)を読んで、八ヶ岳西南麓の縄文遺跡と千葉市加曽利貝塚を比較する

 Blog#114で、縄文社会研究会の雛元昌弘氏と「サピエンス全史」を翻訳した柴田裕之君の懇談会に参加して、狩猟と漁労のどちらが縄文時代1万年もの日本列島の生活文化の中心であったかを考えるに、勅使河原彰著の「縄文時代史」Ⅲ章「縄文人の社会」の2節「集落と村落のつながり」が参考になった。シカやイノシシの狩猟活動による八ヶ岳西南麓と、貝や魚の漁労活動による東京湾東岸の貝塚密集地帯を比較して、5000年~3000年前の縄文時代には同様に栄えていたことが記されていた。

 私は八ヶ岳に山荘をもって60余年、これまで前者の縄文遺跡には関心をもって各地を視察してきたが、東京周辺の貝塚に関してはBlog#45(2021.11.24)で記した江戸東京博物館特別展「東京に生きた縄文人」での体験や、2012年出版の「この都市のまほろば」シリーズvol.6の品川区の紹介で、大森貝塚遺跡庭園と1877年にモース博士が大森貝塚を発見して100年、1985年に国の史跡に指定された程度の知識であった。
 千葉の加曽利貝塚が日本最大級の貝塚であり、1971年に北貝塚が、1977年に南貝塚が国の史跡に指定され、2017年には貝塚として唯一、国の特別史跡に指定されたことは全く知らなかった。

 2024年3月24日(日)、8:00amに自宅出発。地下4階の東京駅から総武線で千葉駅へ。タクシーで、自由に出入りできる加曽利貝塚縄文遺跡公園前で10:00am下車。


 公園入り口に国指定史跡と特別史跡の石碑が建つ。早速、北貝塚貝層断面観覧施設と竪穴住居群観覧施設を見て、博物館に入ろうとしたところでボランティアの案内者に出合ったので、ゆっくり説明を聞くことにした。

(左上)国指定史跡 石碑     南貝塚 貝層断面写真
(左下)北貝塚 貝層断面観覧施設           

 特別史跡のパンフレットの園内マップには、『史跡の面積は約15.1haで、世界でも最大規模の貝塚』とあり、『加曽利貝塚は2017年10月、史跡の中でも「学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴」として、貝塚として初めて国の「特別史跡」に指定されました。』
 『加曽利貝塚の地に残された人類の痕跡は、旧石器時代までさかのぼります。大きなムラがつくられたのは縄文時代中期後半(約5,000年前)で、直径約140mで環状の形をした北貝塚が形成され、後期前半(約4,000年前)になると長径約190mで馬蹄形の南貝塚が形成されます。時期の異なる2つの大型の貝塚が連結して「8の字」状に見え、東京湾東岸の大型貝塚群の中で最大の規模を誇ります。その後、貝塚が形成されなくなった晩期中頃(約3,000年前)まで拠点的な集落が営まれ、この地が2,000年もの長い期間にわたり繰り返し利用されてきた特別な土地であることが明らかになっています』とある。

            

左図は、加曽利貝塚全体像。
直径140mでドーナツ形をした北貝塚と、長径約190mで馬蹄形の南貝塚の2つの貝塚が一部かさなって、上空から見ると8字形をした日本最大級の貝塚。             
北貝塚は今から約5000年から4000年前の縄文時代中期~後期、南貝塚は約4000年から3000年前の縄文時代後期~晩期につくられた。 

 ボランティアの語りを引用すると、八ヶ岳山麓で国宝「縄文のビーナス」が発掘された縄文時代中期BC3000年頃に、当貝塚の北貝塚が使われ始め、縄文時代後期BC2000年の「仮面の女神」が発掘された頃に南貝塚が使われ始めたようだ。

関東の貝塚分布図            縄文海進図

     周辺人口は最大25万人と、八ヶ岳山麓の縄文人口と同じ程で、関東地域は遅れてはいるが、八ヶ岳山麓と並ぶ日本有数の人口集積地であったようだ。3000年前頃には八ヶ岳山麓の人口が増加しすぎて、海退と共に関東地方へ流入したことや、阿久遺跡の如き環状列石が見られないのは、この地方には列石が皆無であったためとか。また、南貝塚から出土した貝の大きさや種類に規制された形跡のあることから、乱獲を防止するコミュニティも十分に維持されていたこと等。貝塚の特性で、人骨や犬等の骨の発見で、DNA等、科学的に考古学に寄与するため、縄文時代の生活研究には、当地の発掘はこれから非常に有効で、当地にやってくる多種多様な専門家が増加している由。塩尻の平出遺跡の竪穴住宅を復元した業者が当地の竪穴住居を復元し、その中で実際に火を焚いて土器の使い方を研究したり、子供たちを接待しているボランティアに感心する。

 2時間半もの見学を終えて、出口の所でタクシーGOを呼ぶも応答なし。スマホのマップを見ながら15分、千葉都市モノレールの桜木駅まで歩き、すっかり立派になっていた千葉駅直結のショッピングセンター「ペリエ千葉」のレストランでヤリイカのパスタと白ワインで一息入れて、中央線で中野駅からタクシーで自宅へ。

 縄文社会研究会としては、身近なところの貝塚調査が生活文化の研究に不可欠で、古墳時代の日本人のルーツ探求も、関東地方での発掘調査が益々大切になりそうに実感した一日であった。

Blog#114 ジェレミー・リフキン著・柴田裕之訳「水素エコノミー」(2003年4月、NHK出版)を読んで気付いたこと

 Blog109『サピエンス全史』、110『レジリエンスの時代』でOBの柴田裕之君を紹介し、NPO-AIUEから「まほろば賞」の推薦をするに至った経緯を記したところ、『サピエンス全史』他、ユヴァル・ノア・ハラリの翻訳書をよく読んで、書評を書いている京大OBで、縄文社会研究会の雛元昌弘氏を中心に、中嶋浩三氏と佐土原聡氏の五人で日本文化の世界文明化について話し合う茶会を開催することになった。

 その時に、柴田君が「20年も前の古い翻訳書ですが」と持参してくれた表題の著書を、2、3日後に何気なく読み始めて驚いた。第8章によると、「水素エコノミー」という言葉を最初に使ったのは、GMだった。1970年にGM技術陣が水素を未来のエネルギー源候補としたためであり、30年後の2000年5月には、GMの取締役ロバート・パーセルは『当社の長期ビジョンは、水素エコノミーの実現だ』と語った。

 『「脱炭素化」とは、新しいエネルギー源が登場するたびに燃料中の水素原子に対する炭素原子の割合が減ることを指して科学者が使う言葉だ。人類の歴史のほとんどを通して、主要エネルギー源として利用されてきた薪は、他の燃料と比べて炭素の割合がもっとも大きく、炭素と水素の原子数の割合は10:1だ。化石燃料の中では石炭がいちばん炭素の比率が高く、水素はわずかに1:4だ。つまり、新たなエネルギー源が登場するたびに、二酸化炭素の排出量は減ることになる。ウィーンにある国際応用システム分析研究所のネボイシャ・ナキシャオヴィッチの推定によれば、世界中で消費される一次エネルギーの単位量当たりの炭素排出量は、140年前から毎年0.3%ずつ減少し続けているという。
 もちろん、燃やされる石炭や石油の絶対量は増えているので、二酸化炭素の排出量の合計は増加の一途をたどり、地表付近の気温を上昇させてきた。―略―
 脱炭素化の終着点は水素だ。水素という燃料は炭素原子をひとつも含まない。水素が未来の主要なエネルギー源となれば、人類の誕生以来ずっと続いてきた炭化水素エネルギーの時代は終わりを告げる。』

 本書は2003年の出版である。訳者は「あとがき」で『水素は無尽蔵で、しかも偏在するので、少数の国に独占される心配はない。燃料として使っても、二酸化炭素はいっさい排出しない。小型の燃料電池を一般家庭や店舗、事務所に置いて発電したり、燃料電池車を普及させて駐車中に発電機として使ったりし、その電力を、水素エネルギー・ウェブ(HEW)で共有すれば、需要を満たして余りあるエネルギーが得られるという。ー略ー
 著者も認めているとおり、水素エコノミーに移行するには、インフラの整備をはじめ、手間も暇もお金もかかり、道はけっして平坦ではない。また、将来、水素以外の有力なエネルギー源が浮上するかもしれない。だが、いずれにしても本書を読んで、多くの方が過去と現在を見直し、発想転換のヒントを得て、現状打破に向かうきっかけとしていただければ、こんな幸いなことはない』と述べている。
 そして、著者は第8章で以下のように主張している。
『ほんとうに問題なのは、電気分解に使用する電力を、太陽光や風力、水力、地熱など、炭素原子を含まない再生可能エネルギーを使って生産できるかどうかだ。ワールドウォッチ研究所のセス・ダンは、「太陽光や風力を利用する電気分解は今はまだ高くつく」が、「今後10年でコストは半分になることが見込まれている」事実を引きあいに出す。―略― 再生可能資源から水素を製造する最大の意義は、二酸化炭素が発生しないのはもちろんだが、太陽エネルギーや風力・水力・地熱エネルギーを水素に変換すると、「貯蔵」エネルギーになり、いつでもどこでも濃縮された形で利用できることだ。この点は強調しておかなければならない。再生可能エネルギーに基づく未来社会の実現は、エネルギー貯蔵の媒体として水素を使わなければ、不可能とは言わないまでもかなりむずかしくなる。エネルギーを変換して得られる電気は、すぐ流れでてしまって貯蔵できない。つまり、太陽が照らない、風が吹かない、水が流れない、燃やす化石燃料がない、という事態になれば電力は生産できず、経済活動は停止する。水素利用は、エネルギーを貯蔵して社会に電力供給を絶やさないための、じつに魅力的な方法なのだ。』

 アメリカを代表する文明批評家で、多くのベストセラーを出版している著者が、近年、力を入れてきたのが無尽蔵でクリーンな水素を燃料とする「水素エネルギー」の実現だ。『全世界をつなぐ水素エネルギー・ウェブ(HEW)構想とは? 人類文明史上最大の革命を起こす!』として2003年4月に出版された本書は、イタリアでベストセラーになった。
 日本では、NHK出版に頼まれて柴田君が翻訳したらしいが、余り売れなかったようだ。恥ずかしながら、私も本書の存在を知らなかった。しかし、本書の随処に記されているのは、HEW時代に至る1970年のホップから2000年へのステップ、時代と共にジャンプとして2030年までに実現するであろう「水素エコノミー時代」への正確な予告である。翻訳者もまた、それを裏付ける記述をしていることは前述の如くである。

 著者や訳者の予言どおりに、日本でも2003年以降、20余年間に再生可能電力による電解水素が、カーボンプライシングを支払うことによる化石燃料よりも確実に安価な時代が見え始め、2030年には達成可能と同時に、燃料電池やソーラー発電、CGS等の普及とイノベーションで、脱炭素化に寄与するGX推進の切り札になっている。

 本書の如き名著・名訳書は、古くなる程に価値が出ると実感。20年前の先進書で、20年後を予測して適中させる本書は、2030年代には本格的に「水素エコノミー」時代が来ることを教えてくれた作品だ。これこそ、(一社)都市環境エネルギー協会で今年設置する予定の「国内外からの水素等サプライチェーン構築・利活用調査委員会」の必読書としたい。

 水素に関しては、日本は先進国と言われてきたが、本書を読んで、脱炭素と水素戦略に関しては、明らかに途上国であることを思い知らされた。EXPO‘25やオセアニア、中近東調査団の派遣で何となく分かっていたことではあったが。

(前列左から)柴田・雛元/       ジェレミー・リフキン著・柴田裕之訳
(後列左から)中嶋・尾島・佐土原各氏      「水素エコノミー」(2003.4)

 2009~2011年に、私自身が参加した筑波研究学園都市での「水素エネルギー活用に向けた都市システム技術の開発」の成果を発表した2011年3月11日、東日本大震災の発生で、その後の日本は国土強靱化に追われていたこと。また、2016年5月、DHC協会からの「EUのスマートエネルギー視察団」に参加して見学したのは、2003年2月にイタリアのヴェネツアに設立されたHydrogen Parkこそ、世界発の商用水素発電所の実証モデルで、イタリアは水素の先進国を目指していたことを考えると、2003年の本書がアメリカ以外で翻訳出版され、イタリアでベストセラーになったことも理解されたのである。