Blog#80 磯崎新氏逝去の報に想うこと

 2022年の大晦日の早朝、NHK TVで「大谷翔平のメジャーリーグ、アメリカの新たな伝説」を聞きながら、日経新聞と朝日新聞の見出しに磯崎新逝去の記事を見る。進化し続ける大谷の二刀流、大谷が示した道を見、大谷の語りを聞きながら、50年前の磯崎新さんの偉大な建築界の親分的存在を想い出し、今日一日を磯崎さんの想い出で過ごすことにした。

 初めて親しく接したのは、本郷・お茶の水近くの自宅兼アトリエで、中山邸の設計を級友の山本君に頼まれて手伝った時である。代々木競技場で丹下さんの設計を手伝ったとき、1/50模型による次元解析で、室内の気候や温度を推定する方法に成功して自信を持っていたので、この方法でN邸の1/50模型をバルサの手作りで作成。床下冷温風吹き出し実験をしながら、磯崎さんの私的生活を知ると同時に、この実験に異常な関心を寄せて下さったこと。これが縁で、1966年の大分県立図書館(現アートプラザ)の設計を手伝うことになった。構造と設備を一体化して、公立図書館では日本初の冷房を導入、話題になった作品で、建築学会賞をもらった。

 そんな縁で、私達の結婚式でのスピーチをお願いした。また、私が富山で笹山忠松邸と茶室を設計したのを見てもらうためもあり、叔母の笹山みどりさん亭主で、フルコースの茶席を朝10時~夕方の4時頃まで、二人で御馳走になったこと。この時、二人で本当に真面目に世界と将来について語り合った。またこの頃、同じ腰痛で高間君の尊敬する漢方医・紫雲先生を訪ねて大森へ。

 1970年のEXPO’70では、磯崎プロデューサーのお陰で、日本で最初の地域冷房を実現。学会賞のみならず、伊藤滋先生の推薦で中央公論の「現代建築12人」に選ばれた。

 1983年のつくばセンタービルの設計では、1978年のコンペに当たって、当時、つくば新都心やつくば博等に地域冷房を設計していたことから、つくばの事情に詳しいと思われて、審査に当たっては二人で協力して審査説明会に行き、当選した。

 1984年7月には、バルセロナから突然ファーストクラスの飛行機のチケットが送られてきて、川口衛さんと二人、バルセロナ五輪屋内競技場の設計を手伝うことになった。国立代々木競技場の設計者、丹下健三・坪井善勝・井上宇市の弟子として、磯崎・川口衛・尾島が、そして換気実験では勝田先生の弟子である村上周三さんが担当して、大成功したこと。

 2008年の私の早稲田大学退職のパーティには、わざわざ出席してくださった。2009年には、銀座の尾島研に突然やって来て、日本・エジプト工科大学の設計に当たって、ソーラーで全ての電力を得たいというが、その費用がゼロという。お金がないのに高価な設備が必要という困った時には、決まって当方に相談が来るのは毎度のこと。三菱総研の小宮山理事長を一緒に訪ねたり、NOSP研究会(日本海外ソーラープロジェクト)を開いて、中近東でのソーラー活用の可能性を研究して支援していたが、エジプト動乱で中止になった。そのお詫びとして、銀座のあわび専門店で御馳走になった。その時に想い出したのは、福岡総合銀行本店を設計中、よく中州の「河庄」であわびの肝を美味しそうに食べる磯崎さんの顔であった。

 2015年には中国の習近平の主催するスマートシティコンペの協力要請であった。地中熱を利用したバイナリー発電と人工衛星を活用しての気候制御等を織り込んだカーボンニュートラルインフラを提案したところ、当選したらしく、賞金の分け前をくれると聞いて驚いた。この時、すでに健康を気遣って沖縄に本拠を移したと聞いていたので、終の住処が何故沖縄かと考えていた。昨年の暮れにも新しい作品展を開催したとNETで知らされたが、どう対処してよいものかと考えていた状況下、大晦日の両新聞の見出しである。

 磯崎さんは、本当に親分肌の「知の巨人」であり、建築界は本当に偉大な異能のボスを失ったことを実感する。喪主が宙君と聞いた時、初めてご面識を得た本郷のアトリエでの私生活を想い出した。あの頃生まれた長男の宙君が喪主であった。訃報のメールを開くと、2023年1月4日、沖縄県浦添市のいなんせ会館で告別式とあり、供花とともにご冥福をお祈りした次第である。

Blog79 「あこがれの住まいとカタチ」住総研研究会編を読んで気付く

あこがれの住まいとカタチ
(建築資料研究社)2022.12.10

 2022年12月初旬、住総研から送られてきた本書の表紙を見て、急に「憬れる」「憧れる」ひらがなでの「あこがれの住まいとカタチ」の文字に触発され、読んでみたくなった。

 いつもの悪い癖で「はじめに」と「むすびに」を読んで、著者名を見る。何と高山英華先生の晩年の役職、工学院大学理事長職の後藤治教授であった。また、これも最近の悪い癖で遠慮なく、それでも後から消せるように鉛筆で傍線を引く。今度もその箇所を以下に略記する無礼をお許し願いたい。

 「はじめに」から
 『住総研で二年間にわたって行われた「歴史の中の「あこがれの住まいと暮らし」と「現代日本の住まいと暮らし-「あこがれ」と現実のはざまで」によれば、前者は寝殿造、書院造といった上層階級の住宅建築のカタチは、庶民階級のあこがれを生み、-(中略)。-「和室」というカタチになって」、後者として『現代の「タワマンへのあこがれ」を見直すと、-(中略)-、住生活の向上や住文化の形成につながる発展性が、筆者には見えない。」(2022年9月9日 後藤治)

 「むすびに」から
 『現代の日本においては、住宅に人を招き交流する機会が、著しく減少しており、それが住宅に対する意識の希薄さに結びついているといえる。過去の日本においても、憧れのカタチとして登場したのは、鎌倉時代の「広間」や室町時代から戦国時代の「茶室」であり、それらはともに人を招き交流する場であった。-(中略)-住宅内にはなくなってしまったが、街中のレストランやカフェといったところがその場となっているのではないだろうか。-(後略)-」

 本書は住総研「あこがれの住まいと暮らし」研究会(委員長:後藤治、委員:島原万丈、豊田啓介、藤田盟児、伏見唯、山本理奈)他、著者・桐浴邦夫、後藤克史、、鈴木あるの、小泉雅生)連著の多様な「あこがれ」論で、実に面白く、久し振り日本の建築文化を堪能させて頂いた。これも住総研という歴史的研究会の存在あっての出版物である。

 ところで、私が何故これ程、本書に拘ったかといえば、この年齢になって、いま困っている生家の活用に大きなヒントを貰ったからである。

 1996年に大工と造園の職人養成を目的に、富山で専門学校・職藝学院を創立して学院長になったのは、当時大手G.C.等が大工職人を要請したためであった。1998年には私の研究室でも木造完全リサイクル住宅の研究を文科省から委託され、後任の高口洋人教授が学位論文とした。そのため、熟練職人の養成に当たって、この専門学校と市内の住居を連携した交流の場として、私の生家をギャラリー太田口と学生の宿舎とした。大工と造園職人の養成を始めて20年間に500人以上の卒業生を送り出し、今日、全国で活躍しているが、昨今の少子高齢化時代に学院希望の生徒数が激減、コロナ禍に直面した。稲葉實理事長の逝去もあって、学院もギャラリーや宿舎も抜本見直しを求められていた。

太田口物語(2004.6.1)
NPOアジア都市環境学会

 今になって考えてみると、20年も前から富山市も市町村合併とコンパクトシティを推進してきた結果、都心と駅周辺には高層マンションが林立して、郊外のみならず都心にも空き家が目立ち始めていたのだ。太田口は当時、既に「歴史を生かした生活拠点」と位置づけられていて、「共同化による建て替えの誘導」「テナントミックスの推進」「回遊空間の整備」地区に認定。結果として、電車通りに面した敷地と一体化して高層マンションが建設され、マンションのタワー型駐車場の出入口となって、商店街としての賑わいが消失していたのだ。(国は歩いて暮らせるまちづくりを推奨し、富山市も平成12年度(2000年))モデル地区20都市に選定されていた。)

 あこがれの家、あこがれのライフスタイルを求め、プライバシーを尊重したマイホームやコンパクトシティの実現とコロナ禍にあって、賑わっていた商店街や伝統的な町屋が太田口から姿を消した。人々の賑わいのないまちづくりが日常になるとすれば、伝統的大工職人や庭職人も不要になる。マンションと車だけの町にあって、あこがれるのは「庭屋一如の日本建築」の存在があって良いのでは、否、不可欠だと考えさせてくれたからだ。

Blog#78 第19回アジア都市環境学会と第29回DHC協会シンポ in 横浜に参加して

 2022年12月2日(金)、西武線練馬駅から中嶋浩三君に同行して、直通特快元町中華街行きに乗車すると一時間でみなとみらい駅到着。新そば天丼の昼食をとって、TKPガーデンシティホールEで、第29回都市環境エネルギーシンポジューム「脱炭素化の都市づくりを考える」に司会者として参加する。

 基調講演は横浜国立大学副学長の佐土原聡教授「脱炭素社会と都市のエネルギーシステム」は鶴見清掃工場からMM21地区等への熱供給で、Co2は1.24万トン/年削減可能との報告はわかりやすいが、実現の可能性は、これからの彼自身の努力によるか。

 基調報告は国交省の鎌田秀一課長と東京ガスの小西雅子法人営業本部長、横浜市の松下功課長で、特に小西さんのe-methaneの社会的実装に向けての報告に注目。横浜市と連携しての実証設備を来春見学させて頂くことになった。

 私の司会したパネルディスカッションは環境省の筒井誠二課長と東京ガスの清田修マネージャー、中嶋浩三君が加わっての討論。会場の質問に応える方法で、限られた時間を有効に活用したのは結果として成功した様子で一安心する。

 入場者はコロナ禍であっても対面で145名と大盛況。質問者は、九州の依田浩敏、福田展淳、D.バート、仙台の須藤諭、JICAの吉田公夫、関電の松塚充弘氏等。予想した通りのなかなかのよい質問であった。 

マホロバマインズ三浦のテラスより

 終了後、佐土原君の案内で2台のバスで三浦半島のマホロバマインズ三浦に直行、一時間で到着。マンション建設中に温泉が湧出したことから、急遽ホテルに変えた面白いホテルで、二日間、第19回アジア都市環境学会の宿泊地である。
 18:00に到着して、3DKの個室に一人、最初落ち着かなかったが、一人で一住居利用できるのはなかなかに居心地が良い。台所や居間も立派で、トイレやバスルームも広くて、テラスから三浦半島の海岸線がよく見える。

 19:00~21:00 Welcome Dinner 残念ながらノンアルコールのバイキングスタイル。中国からの参加者はゼロ、韓国からは20~30人、他にインドネシア等、全体で100余人の盛大な夕食会は雑談の場で、取り留めもなく。21:00~22:00には温泉の大浴場でゆっくりして、夜はテレビでサッカーの観戦。

AIUE2022横浜大会(2022.12.2~4)

 12月3日、5:30am起床。6:00テラスから海を眺めて休息後、6:45朝食。8:00amのバスで横浜国立大学へ直行する。構内に入ってすぐに宮脇昭教授の造園計画と気づいた。自然の植物がもつ活力に支配されてのキャンパスで、一度は来てみたかったが、残念ながら建築物は植栽に見合ったようには思えず、もう少し建築家の頑張りが欲しかった。

 教育文化ホールでのWelcome Greetingでの私の挨拶。webでの洪会長の正式開会宣言の前座として、『2000年、この学会発足時、21世紀はアジアの時代であること。私達はアジア各国の建築様式を考え、身近な町づくりや環境についての状況を一年に一回集まって、お風呂に入って、お酒を飲みながら話し合う機会を持とうという親睦を第一として、出発。気がつけば20年、これからも仲良く、この会を続けて欲しい』という簡単な話。

 その後、AIUE-O賞の授与としてまほろば賞の須藤諭・久保田昭子、論文賞のKwonhoo KIM教授、Congbao XU教授、中島裕輔教授の謝辞。

 11:00~12:30「横浜の都市づくりの歴史と今後の展望」と題して、元横浜市長の小林一美氏((一社)2027年国際園芸博覧会事務所長)の講演。80haのBIE認定国際博が2027年度、横浜で開催されることは全くの初耳であり、同時に長時間の横浜報告で、日本の第2の都市に成長した横浜のスケールや近況についても知るところ多かった。
 午後は幸い、前夜に高口・中島君等には富山や八ヶ岳のことを、高・福田君には九州でのAIUE社団化のことをお願いすることができたので、吉田公夫・森山正和・宮崎ひろ志先生とチャイナタウンでの昼食に拉致されたので、朝陽門の謝甜記に案内。久し振り、美味な老酒と中華粥に大満足して、そのまま、みなとみらい線の元町中華街駅から一人、3人に見送られて帰宅する。皆様には申し訳なかったが、本当に実り多い二日間であった。

中華街 謝甜記にて2022.12.3
(左:吉田氏、中央:森山氏、右:宮崎氏)

Blog#77 66年前からの「同級生・星野芳久君」と京橋「伊勢廣本店」で再会して

 

ちくま文庫

 2022年11月、NHKラジオで、今和次郎著『ジャンパーを着て四十年』がちくま文庫で復刻されたことが話題になった。私が早大建築学科に入学した最初の専門必須の授業が今教授の建築意匠で、確かにジャンパー姿の好々爺風であった。今先生直筆の教材は、左頁に先生のイオニア・コリント・ドーリア様式の柱頭装飾図が描かれ、これを右頁に模写するだけ。これが大学の授業かと驚いたが、同じく清水多嘉示講師のヌードクロッキーもまた星野君の描く態度で話題になった。しかし大学を卒業して後、世界中を旅する時のスケッチ(下図の如き)は、写真とは違って、その町の印象を強く残すことに役立った。

 当時の先生方は、全て自分が体験していることを、そのまま実況中継のように講義される。単なる座学ではなく、全てが実演指導であったことを今頃になって想い出すのは、身心で取得させる早稲田式実習授業にあったようだ。

 同様に、この時の同級生との縁が、66年もの間、身体の何処かに染みついていたことが、2022年11月30日、星野君の生家であった京橋の伊勢廣本店が大改築した記念にと昼食を御馳走になった時に甦った。

 招待者の星野君が、この日、招いたのは何故か、早稲田の建築学科に入学したばかりの時に偶然巡り合って、一生の友人になった沼津の大沼巌君であり、6歳も年長の上野忠君、生まれながらのデザイナー然とした阿部勤君で、建築学科を無事に卒業できたのも、この同級生の支えあってのこととか。加えて、山仲間として今日に至るまで全く変わることなく一緒に山歩きをしてきた小林伸也・小林昌一君、そして私の6人だったらしい。その星野君が半年前、この日の招待を決めた後、ベターハーフであった奥様が逝去され、その悲しみと淋しさから立ち直ったことを知らせるために、昔からの仲間との再会を期したという。しかし66年という年月はすっかり仲間達の心身に影響を与えたようで、結局は山仲間であった4人だけの再会となった。

 当日の話題は余りにとりとめもない想い出ばかりであったが、伊勢廣本店の焼鳥は格別で、その上、星野君が持参した資料の中に特筆すべきことがあった。関東学院大学での2006年11月、最終講義の回想録の中に『1945年3月10日の「東京大空襲」で「焼け出された人は可哀想。何とかして家を建ててあげたい」という思いから「建築」の道を歩む』とあった。私自身が『1945年8月1日の「富山大空襲」で「焼け野原になった学校や実家」を建てるため「建築」を志した』のと全く同じであったことを知ったこと。

 1965年、私の井上先生夫妻との米国旅行日記のコピーがあり、フルブライト留学生としてペンシルベニア大学に留学していた当時の星野君「日本では想像を絶する程、勉強している、良い意味でのエリート達よ。頑張ってくれと祈る。赤ちゃんを抱えながら星野夫妻の作ってくれたおにぎりに胸がつまった」と。

 また、栄光学園山岳部OB会編の「ともに登らんあの嶺に」に、3期生の星野君が10期生の高校生6人のリーダーとして、1960年7月末の夏合宿で剱岳(長治郎谷)での雪上訓練中に滑落した鹿児島大の事故現場に立ち合って、人工呼吸まで試みたとあった。この年の7月中旬は星野君と二人、永平寺で座禅を組んでいた筈で、その後、星野君と福井で別れた後、私は富山の自宅でこの剱岳の遭難事故を新聞で知ったことをよく憶えており、まさかこの時の立役者が星野リーダーであったとは今まで知らなかった。しかも大日岳の山小屋の美談まで残していることは知らなかった。何故なら、この頃、私も一人で大日岳に登っていた筈で、改めて、星野君は偉大なる人格者で、学究の徒であることを再認識した次第である。

 この招待の一年前に、星野君から贈られた想い出多い伊勢廣本店の案内を記して、私達山仲間のみならず友人達との集まる場所にしたい。

 『「銀座尾島研究室」にご愛顧いただいた「伊勢廣銀座八丁目店」は昨年9月に閉店しましたが、時を同じくして「京橋本店」を移転新規開店しました。「移転」といっても道路の向かい側に移動したに過ぎないのですが、ある「因縁話」があるので、一筆お届けする次第です。

 忘れもしない大学三年生夏休みのこと。北海道の大雪山系を黒岳(1984m)、旭岳(2290m)と縦走し、更にニペソツ山(2013m)をも越えて、熊の気配ムンムンの裏大雪を踏破して糠平に下山しました。人里離れた僻地でダム建設が進行中、熊に負けない数の建設労務者で賑わっていました。
 我々は、一軒しかないバーで祝杯を挙げました。バーはそれなりに賑わっていましたが、「えっ!学生さん裏大雪やって来たの!?」…バーの女の子は皆われわれの所に集まってしまったのでした。人夫達は腹を立てたのか、足音も荒く、外へ出て行ってしまいました。

 軽く祝杯を上げて宿へ帰ろうとしたところ、バーの外には人夫達がゾロリと。
 -お前たち、学生か?「うん、そうです」。-東京からか?「うん」。-んじや、斉藤さんを知ってるか?「斉藤さんと言われても…」。-東京から来て、知らねえわけはねえだろう?「それは何人か知ってるけど…」。-どんな斉藤さんだ。「ウチの前の斉藤さんは靴屋さんだけど」。
 …その途端に殴り飛ばされ、小生は全治一月半の重傷を負ったのでした。小生はからかったつもりもなかったけど、彼らはとにかく腹いせにぶん殴りたかったのでしょう。

 小生の話は嘘ではなく、伊勢廣の通り向かいには「斉藤靴店」があったのです。そして今般、ちょうど一年前のことですが、伊勢廣京橋本店は再開発計画に協力して、向かいの土地「斉藤靴店跡地」へ移転したのです。
 しかし、時あたかもコロナ禍の真っ最中、諸兄へお知らせする潮時を計っていたところ、今になってしまったわけで、遅くなりましたが、ここに改めてご案内させて頂く次第です。

 伊勢廣は、大正十年、小生の両親が結婚を機に開業し、今年で丁度百年目にあたります。
多くの職人を育ててきましたが、個性と味を守るために暖簾分けはせず、現在は三代目の雅信・進哉兄弟が店を守っています。幸いにして本店(〒104-0031東京都中央区京橋1-4-9)にご来店の節は雅信宛てにお電話下されば幸甚です。本店の電話番号は03-3281-5864。これについては、局番に3が付加される以前のことですが、上野忠君が「二杯で(281)」「ご飯蒸し(5864)」と教えてくれました。

 また、焼鳥屋はそれぞれ「鳥」のロゴを持っていますが、伊勢廣のは昭和18年に母・なをがデザインしたもので、商標登録してあります。』

伊勢廣本店 ロゴデザイン:星野なを(昭和18年)

Blog#76 三輪真之著『新しい時代の「人間哲学」』を贈られて

 2022年11月27日、久し振り気持ちの良い日曜日、早稲田大学建築学科の卒業生で、不思議な活動を続けている三輪真之君が訪ねてきた。何と1327頁もの著書を持って。しかも、その謝辞に恩師の「愛情に満ちた言葉のおかげで、今日まで頑張ってくることができた」とあり、「76歳にもなって、未だに恩師と呼び得る先生の御指導を直接仰げる」などと書かれていたことに驚き、恐縮してゆっくり話を聞くことになった。

 1時間程、大著の要点を解説して貰った後、抹茶でもてなしながら、「人間哲学」について負うた子に教えられる立場を終始する。そして範例がすごい!!

 認識論的-媒介-存在論的を基本に、「行為」は「精神」(認識論的)と「肉体」(存在論的)を「調和」させる「媒介」である(図1)を一例に、建築界の実例として、「構想」(認識論的)と「建築物」(存在論的)を「調和」させる「媒介」は「図面」である(図2)と説明されると現実がしっかり分かってくる。

図1 「行為」は「精神」(認識論的)と
「肉体」(存在論的)を「調和」させる「媒介」
図2「構想」・「図面」・「建築物」の関係

 かくして、簡単に三輪哲学を解説するに当たっては、大著の「まえがき」にあるように、「人間」はものさえしっかり見ていれば、最終的には正しい判断を下す。もの(存在論的)をしっかり見るための「媒介」について詳述することで「人間を幸福に導く」ことを保証してくれるというすごい著書である。

 特筆すべきは、日本人は「和の哲学」をもって「調和」を好むとの考え、この説に共鳴と共感すると共に感動する。本書のすごいことは「マルクス主義」と「民主主義」の問題点も明確に分かり易く列挙した上、21世紀の人類を「幸福」に導く思想を語る。三輪君は2019年には既に「新しい日本を創る会」を組織し、日本公和党を創立していたこと。唯々、三輪君の活力に脱帽、すっかり洗脳されての一刻であった。この時の三輪君の端正なしたり顔と呆れて物も言えない筆者の馬鹿面の写真と共に、大著『新しい時代の「人間哲学」』と「日本公和党」のパンフレットを転載する。

2022年11月27日(日) 三輪真之君(右)と筆者(左)

Blog#75 日本景観学会 2022年度秋季シンポ「無電柱化」をテーマに2年目の成果

2022年1月3日(木)文化の日14:00~17:00 オンラインZoom方式

14:00		開会挨拶			西原 聡
14:05-14:50	基調講演
 講演1:無電柱化の現状と景観への課題	土岐 寛
 講演2:防災面からみた無電柱化の意義	向殿政男
14:50-14:55	休憩
14:55-15:55	事例報告(無電柱化の現状と課題)
 報告1:兵庫県芦屋市の事例		成田イクコ
 報告2:神奈川県横浜市の事例		山路永司
 報告3:東京都の事例			西原 聡
 報告4:沖縄県の事例			齋藤正己
16:00-16:55	自由討議			進行:山路永司
16:55-17:00	閉会挨拶			土岐 寛

 Blog#44で2021年11月20日(土)の秋季シンポ研究発表会に参加した所感を記した。その後、本格的に電柱の地中化を日本景観学会のテーマとするなら、学会内部で特別に研究会を開設して勉強する必要があると申し上げた。何故なら、このテーマは既に国・都、他各箇所で既に法整備や対策のみならず予算化もし、インターネット等でも相当に取り上げられているだけに、「学会のテーマ」とするのは難しいのではと。会長と幹事に検討を依頼した結果が、本日の発表会になった。

 昨年のシンポジュームと全く変わらぬメンバーで、ほとんど同じ発表方式で、シンポジュームも自由討論も進んだ。この一年間にどれ程の成果ができたかとお手並み拝見であった。文化の日にふさわしく良い天気で、講演者の会長・副会長と4人の幹事報告者には失礼と思いながら、庭を眺めながらのweb拝聴であった。

 結論から申せば、本当に立派な報告であり、この難しいテーマに畏れることなく真正面から取り上げ勉強されていた。自分の足で歩き、現地を確認し、行政当局へのヒアリング等、少なくともコロナ禍の最中にも拘わらず、大きな成果を上げられた。日本の電々柱や電線網を地中化することによって、どれ程、美しい日本の自然の風景、さらには都市景観、防災やコミュニティ形成に寄与するか。論じるまでもなく、分かっていながら実現しない実態やその理由も事例報告や自由討論でよく理解できた。このテーマは日本の文化・文明史そのものを実にリアルに物語る研究であること。

 シンポ終了後に山路幹事が、世話役の皆様と、日本景観学会として、これからも何年かこのテーマで研究しようとの提言されたことに共鳴した。何故なら2011年の東日本大震災と福島原発事故前までは原発依存型の全電力化とカーボンハーフ対策から、電力会社を中心に電柱・電線の地中化が推進されるものと考え、このテーマは時間とともに解決すると考えていた。しかし、今度の研究成果を聞きながら、大きな間違いであったと気づかされた。電力自由化と共に、発送電分離で、電力線地中化の大方針は消し飛んだ。さらには2030年のカーボンハーフ、2050年のカーボンニュートラルの実現に当たって、多くの地方自治体は再生可能電力に期待し、東京の再生可能電力を東北の洋上風力発電やソーラーに依存する計画。しかし、その送電線の新設とコスト負担が、景観とは無関係に問題になっている。防災やコロナ禍で光通信回線のネットワークをもつ二地域居住のライフスタイルが定着し、山奥の別荘地には自営の電線や電柱が建設されている。土岐会長の基調講演にあった、毎年2万本の電柱が撤去されているに反して、7万本が新設されているとの報告で、内訳を知りたく質問したが、詳細は分からなかった。

 ロシアのウクライナ侵攻と欧米のインフレや円安で、日本の電気代が高騰している。こんな状況下にあって、電線の地中化への投資は極めて困難である。それでもやらなければならぬ。随所での事例研究を会員諸兄に期待する次第。

Blog#74_村上陽一郎編『「専門家」とは誰か』(2022.10、晶文社)を読んで

 

 Blog50(2022年2月)で、「村上陽一郎著『エリートと教養』は本当のエリートだからこそ書ける教養書」と評したが、今度の村上陽一郎編『「専門家」とは誰か』も又、本当の専門家だからこそ編集できた「専門家論」である。失礼を承知で、刺激され、共鳴した各先生の文章に傍線を引いた9章を以下に記した。関心を持たれた方は本文を読んでください。

○はじめに
 村上先生は「専門家と言われる人のその分野における知識は、恐るべき深さである一方で、他の領域への知識の万能性は、全く期待できない、という事態も深刻である。」

○専門家とは何か
 村上先生は「『専門』は、『科目』という用語を借りた『専科』という意味が前面に現れた使い方が多く、実際に『専科』という言葉も用いられる。
 英語の<expert>は『専』に偏した意味合いである。この反対語として<amateur>(素人)が挙げられる。
 19世紀半ばのヨーロッパで顕著になり始めた『専門化』現象に、それをそっくり取り込んだのが、近代化の出発点にあった日本であった。西欧から輸入する学問(sciences)を『(わか)れた問』として捉えた結果が、『科学』という和製造語になって、今日まで日本社会の根幹に座った。
 現在では物理学者という専門家はもはや存在しない。ある領域で真の専門家と呼び得る人の数は、世界中でも50人を越えるかどうか。」

○隣の領域に口出しするということ-専門家のためのリベラルアーツ
 東京大学教養学部の藤垣裕子教授は「日本で何故あのような原発事故を起こしてしまったのか。原子力研究も地震や津波研究でも世界トップクラスの研究をしていたのに。
 東京大学教養学部の藤垣裕子教授は「日本で何故あのような原発事故を起こしてしまったのか。原子力研究も地震や津波研究でも世界トップクラスの研究をしていたのに。
 専門化が進んで、隣の領域に口出しできる習慣がなかった点が示唆された。
多様な知を結集するのは、異なる領域間の往復が必要となる。往復の技術を培うために専門家のためのリベラルアーツがある。」

○科学と「専門家」を巡る諸概念の歴史
 東京大学教育学研究科の隠岐さや香教授は「有識者会議に呼ばれている状態のその人がexpertなのである。社会が平等になるほどに、あらゆる職業がprofessionと呼ばれ、誰もが何かのexpertのように振る舞う機会が増えている。」

○「ネガティブ・リテラシー」の時代へ
 京都大学教育学研究科の佐藤卓己教授は「専門家になるということは、われわれが発見する要素の数を増やすことであり、それに加えて、常識を無視する習慣をつけることである。」
「何かの専門家になるということは、別の何かの専門家ではないということである。」

○ジャーナリストと専門家は協働できるか
 早稲田大学政治経済学術院の瀬川至朗教授は、「社会における本当の専門家」の要件は、
 ・専門知を有し、その知識を日々更新している
 ・自らの専門知について批判的
 ・哲学的に検討し、意義と限界を理解している
 ・専門知に基づいて社会やメディアに向けて語る意志がある
 ・メディアの特性を理解し、適切に活用できる

○リスク時代における行政と専門家-英国BSE問題から
 千葉大学国際学術研究院の神里達博教授は「専門家の助言なしに行政を遂行することは不可能である。与えられた課題にふさわしい専門家を探すのは案外難しい。若手研究者は本業で手一杯であることが多く、その点でも比較的高齢の『大御所』が選ばれやすい。審議会で専門知を生かすには、先ずは幅広い知見に基づく検討の上で、専門知を審議会に求める二段階方式を提言する。」

○女子教育と男子教育からみる「教養」と「専門」
 同志社大学社会学研究科の佐伯順子教授は「『教養』ある『社会』人、良質な『教養』を身につけた『専門』家を養成することは、短期的成果はみえにくいとしても、長い目で見て環境破壊や国際紛争において的確な判断を下すことができる真の国際的知見を備えた社会的リーダーの出現にもつながる。」

○社会と科学をつなぐ新しい「専門家」
 大阪大学の小林傳司名誉教授は「専門家の二種の類型として、一つは自らの専門的知識や技能が不断に非専門家との接触を通して利用される現場に立ち会う専門家である。『臨床の専門家』と呼ぼう。
 もう一つは自らの専門的知識や技能の流通や使用が比較的閉じた同業者集団に限られ、その種の知識の利用が非専門に及ぶ場面と相対的に切り離された専門家である。いわゆる『基礎研究の専門家』である。同一の人間が両方の役割を演じることが多いのが普通である。しかし現代社会には『社会における科学と社会のための科学』として「プロデューサー」的「媒介の専門家」として哲学者が必要。」

○運動としての専門知-対話型専門知と2061年の子どもたちのために
 京都大学学術出版会の鈴木哲也専務理事は「『専門家』と社会の関係は、今日、危機と言っても良い状況に至った。社会の中で専門家が専門家としての見識を示すことの正統性/正当性を毀損する動きが、次々と起こった。COVID-19においては、日本での感染拡大が懸念されるようになった当初、政府は大慌てで専門家に意見を諮ったが、外出自粛や飲食業の休業など厳しい行動規制が提起されるや、中には専門家を公然と毀損するような発言も含めその意見を軽視・無視する傾向はすぐに現れ」「専門外を知り、専門外と対話する力『威信』。狭い専門の中での威信が必然的に生起するサイロ(タコツボ)化が、社会経済に大打撃を与えたことさえある。」


 実は、この本にやたら傍線を引いたのは、人生の家庭教師であった魚津に住む早稲田の先輩・浜多弘之氏の通夜と葬儀のため、東京から富山への新幹線往復と通夜の夜、断続的に読んだためである。大学の進学相談から今日に至る70年もの長い間、郷里の富山での建築やまちづくりの仕事で面倒をみて貰っていた兄貴分の逝去は突然であった。
 人生百年時代と思い込んで、これから愈々本格的に郷里の家やまちづくり再生の相談をする予定であったから、Blog72(10月9日)に「万事休す」と書いた程の衝撃であった。故浜多弘之氏の弔辞を依頼されたこともあり、本書とともに、2020年2月、文春新書『死ねない時代の哲学』と2022年2月の中公新書ラクレ『エリートと教養』を鞄に入れた帰省であった。


 自分も既に85歳を越えていながら、90歳で逝去した先輩の死が突然と考え、「万事休す」などとブログに書く様では。考えるまでもなく、私には哲学も教養もないことの証である。
「臨床の専門家」として、又、国が認める職能独占の一級建築士というprofessionをもってこれまで生計を立て、大学院では都市の建築をつくるためにと都市環境工学専修を新設して「基礎研究の専門家」となった。そのためか多くの審議会や国際会議に出席し、日本学術会議の会員にもなった。しかしこの段になって、改めて専門家には教養や哲学のベースが必要不可欠であることを教えられた上に、簡単には「死ねないこと」も教えられ、本当に「万事休している。」

Blog#73_「世界遺産の五〇年」を読んで考えた日本の進路

 

「世界遺産の五〇年」
(2022.10 (株)ブックエンド)

 2022年10月日22日、五十嵐先生から「(つよ)い文化を創る会」のメンバー、松浦晃一郎、岩槻邦男、西村幸夫、五十嵐敬喜連著の『世界遺産の五〇年-文化の多様性と日本の役割-』(2022年10月 (株)ブックエンド)が贈られてきた。先ずは4人の座談会から読み始めて、日本における世界遺産の位置づけがよく理解できた。

 「日本が世界遺産に参加したのは1992年、世界で125番目、世界遺産条約採択から20年後。しかし、その時から30年で現在の日本の世界遺産登録数は25件で、世界11位。間もなくベスト10に入る」という。ユネスコの世界遺産委員会議長で、アジアで初の第8代ユネスコ事務局長であった松浦氏の発言。

 日本イコモス国内委員会委員長であった国学院大学の西村氏は「日本が参加に遅れた理由として、日本の文化遺産は世界遺産に参加する100年前から独立した仕組みがあったためである。しかし実際に参加してみると、日本文化への見方を相対化できて、新しい視点と思想によって見直されることになった」という。

 2007年の文化功労者で、植物学の第一人者である岩槻氏は「文化遺産20件に対し、自然遺産は5件と少ないのは、日本語の『自然』は『nature』の『原生自然』と意味が異なること。また、日本には天然記念物や国立公園、ジオパークやエコパークの指定も含めて検討していたこともある」と話す。

 五十嵐氏は「日本の世界遺産は1万5000年前の縄文時代の2ヶ所(縄文遺跡群と富士山)、4世紀の2ヶ所(沖ノ島と古墳群)、6世紀の(紀伊山地)、7世紀の(法隆寺)、8世紀の2ヶ所(奈良と京都)、11世紀の(平泉)、12世紀の(厳島)、14世紀の(琉球)、15世紀の(石見銀山)、16世紀の(姫路城)、17世紀の2ヶ所(日光と長崎・天草)、18世紀の(白川郷)、19世紀の2ヶ所(富岡製糸場と産業遺産群)、20世紀の2ヶ所(原爆ドームと西洋美術館)のように原始・古代・中世・近世・近現代と全ての時代に亘っている。つまり丸ごと日本の普遍的な価値が世界的に認められていることで、これこそが日本の世界遺産と日本文化の大きな特徴ではないか」という。

 この五十嵐発言に対して、すかさず松浦氏は「弥生時代の遺跡や飛鳥・藤原時代、武士政権の鎌倉時代が抜けているが、その可能性は十分ある」と五十嵐説を支援する。

 こうした討論はなかなかで、特に五十嵐氏の「日本国とは何か、日本人とは何か」という問いに対して、「世界遺産という世界の普遍的な価値という視点から見て、縄文時代から今日に至るまで、日本文化の連続性を示すことができた。」

 この五十嵐見解をも参考に、サミュエル・ハンチントン著の『文明の衝突』(2000年、集英社)を読む。
 「日本が独自の文明をもつようになったのは紀元5世紀頃だった。現代の世界主要8大文明として、中華(中国)、インド(ヒンドゥー)、イスラム、東方正教会(ロシア)、西欧、ラテンアメリカ、アフリカなどの文明と並んで日本文明が挙げられている。しかし一部の学者が日本と中国の文明・文化を同一視するのは、日本文明は中華文明から西暦100年から400年頃に派生したとしているためである。ハンチントンも日本文明の起源は5世紀頃としている。ハンチントン著の「解題」で、京都大学の中西輝政名誉教授が、最後に「日本の選択」として、「中国の共産党独裁体制が続く限り、未熟で粗野な覇権国家になる可能性が高い。こうした状況で、日本は同じ文明をもつ友を見捨て、西欧文明に見方するのかとなる時、日本人は中国と同じ文明に属したことが『ない』と自信を持って発言し、独自の選択をすべき」としている。20年前のハンチントンや中西教授の慧眼に脱帽する。

 7世紀初頭、隋の煬帝に送った聖徳太子の手紙「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す 恙無きや」や、鎌倉時代の元寇(文永と弘安の役)時の日本人の国防意識の高さ、明治維新の日本の先覚者達の言動を考える時、これからの日本の進路を考えるに当たって、こうした五十嵐氏の「日本文化論」は貴重である。日本文明は中華文明の派生ではなく、日本国も日本人も1万5000年前から独立した文明と文化を持ち続けてきたこと。あくまで中華文明の派生ではなく、日本列島に1万5000年以上継続する8大世界文明にあって、特にユニークな平和文明で、今後の世界文明に大きく貢献すべきこと。

 奇しくも10月23日、中国共産党は集団指導体制から習近平一強の体制にシフトした。ロシアのプーチンに続いての独裁国家として香港に続いて台湾への進撃も予測される。明治維新の日本国と日本人の置かれている立場と同じ状況から、日露や日中との関係性を真っ正面から考え、対策を覚悟しなければならなくなった。

 末筆ながら、五十嵐先生の世界遺産に対する鋭い発言に日頃脱帽していましたが、本書で2008年から4人組の「逞い文化を創る会」支援があったことを知りました。こうした研究会の働きこそが、これからの日本の進路を決定する上で益々大切になると思います。

Blog#72 郷里の畏友・稲葉實氏逝去と浜多弘之氏危篤の報に「ああ万事休す」

 2022年10月5日、職藝学院からの電話で、稲葉實理事長が4日逝去され、通夜・葬儀は稲葉家で執り行うとの連絡。

 去る9月2日、富山の自宅へ職藝学院の上野幸夫教授・久郷慎治教授と尾久彩子さんが来て、稲葉理事長の危篤を伝えて、学院の今後について相談された。しかし強運の稲葉君のこと、いずれ又、何食わぬ顔で現れると軽く考えていただけに、これは一大事となった。同じ時、魚津の浜多弘之氏が富山ろうさい病院に緊急入院、コロナ禍もあって面会謝絶と子息の弘匡氏からの報である。

 1994年正月、中沖豊富山県知事の推薦で、富山高校の後輩であった稲葉君が富山国際職藝学院の理事長で、私が経営責任なしの学院長になり、2015年に副学院長の池嵜助成教授に引き継ぐまで経営のことは全く知らずに、1996年の開校から卒業式のみ参加の学院長をしてきた。全て稲葉君任せであった。建築(大工)32名、造園12名、2学年で80余人の小さな学院も開校10年で全卒業生500余名となかなかの実績で、2007年には日本建築学会から第一回「教育賞」を受賞する程に発展していた。
 しかし実状は、少子高齢化やコロナ・パンデミック等の影響もあって、学生数は目標の半分以下、地元の伝統的木造建築や社寺の再生を支援する先生方の稼ぎを学院経営に充てていたようだ。特に、私の後に学院長に就任した池嵜先生が2年で逝去され、稲葉理事長が学院長も兼務して、経営から生徒の指導まで陣頭指揮をされていたことも、今度の早逝の原因ではと考えると、本当に申し訳なく、「ご苦労様でした。ゆっくりお休みください」と祈るのみである。

 顧みるに、人生の目標であった富山に帰省して設計事務所を開設する予定が、1970年頃、大阪万博や成田空港の設計を担当、早稲田大学の助教授をしながら、富山で設計事務所を開設すると稲葉君が「父の後を継いで富山で建築事務所を経営するに当たって、富山県の内外でテリトリーを分けるべきだ。その代わりに富山県の建築事務所協会の顧問に推薦する」との後輩として強引な申し出があった。

 その一方で、早稲田の先輩として浜多弘之氏からは、魚津の市会議員として、富山県のために地元でも仕事をするようにと常々誘われ、魚津市の講演等に招かれ、市の都市計画の仕事を手伝わせてくださった。NPO-AIUEの支部開設に当たっては北陸支部長を引き受け、2008年の富山でのAIUE国際会議を主催される等々、私にとっては有り難い支援者であった。従って、郷里富山県での建築関係の仕事は全てこの二人の先輩と後輩の力関係で進められてきた。1997年の日本建築学会の選挙での支援、2000年のW-PRHの職藝学院内建設や2007年1月の早稲田大学定年退職時には職藝学院の先生方を総動員してリーガロイヤルホテルで「おわら節」の披露等、本当に良くしてくださった。

 今になって遅きに失したと後悔するのは、2000年、早大の定年退職を早めて帰省して、富山での余生を『太田口物語』などの出版、郷里富山市の再生に当たって、職藝学院に旧居をギャラリーに改築してもらう等、職藝学院との一体的まちづくりを進めたことがあった。しかし何故かこの20年間、早大の理工学部長や日本学術会議会員として、さらには2007年の退職後も銀座に尾島研究室を開設する等、各種社団や財団法人の理事長としての役職に追われて、地元の稲葉・浜多両氏から余程の要求がない限り全く帰省することがなかった。然るに、昨今のコロナ禍で銀座事務所を閉め、20年も遅れて2022年10月、最後に残された西町北総曲輪の再開発とその活動拠点としてのギャラリー太田口の開店に当たって、お二人の支援を期待していただけに、遅きに失したか。

 2022年10月10日(月)はスポーツの日で休日。「稲葉家の通夜・葬儀は供花・供物の儀辞退」とあり、その上コロナ禍とあって帰省する勇気がないまま、このBlogを書く。

「ああ万事休す!」と嘆く前に、気を取り直して富山職藝学院のホームページを開いて驚いた。「万事はまだこれからだ!!」と。

 1970年頃、稲葉君から相当強引に富山県の内と外でテリトリーを分けたいとの要望を受けて後50余年、その間、彼は(株)三四五建築研究所主宰、職藝学院理事長、学院長、教授、NPO法人里山倶楽部理事長として「とやま名匠情報センター」の設立など、富山県がこれまでに必要とした組織を創り、これを自由に彼の思うままに経営してきたとすれば、自己実現を十分に達成しての逝去で、実に立派な生涯であった。

 同時に、彼の残した事業は、これからが本格的に成果が問われる。そしてそのことは彼自身も良く理解していたこともあってか、2015年頃、私が学院長を池嵜先生に禅譲するとき、いずれは理事長は久郷慎治氏、学院長は上野幸夫氏にと考え、建築研究所は子息の伸一氏に、そしてNPO里山については、などと話しながら、名誉学院長として見守ってくれと先輩に向かっての変わらぬ厚かましい要請をしていたことも思い出した。
 それにしても、稲葉君亡き今、考えられるのは、まずは浜多さんがご快復されること。そして活動拠点としてのギャラリー太田口は、笹山眞治郞氏や中川勝正氏の支援、職藝学院のW-PRHを担当した高口洋人や中島裕輔、富山や魚津でお世話になった村上公哉やD.バート君等の支援も考えてみた。しかし先ずは、久郷・上野先生を中心に、建築業界や富山県、富山市の支援が先で、少なくとも職藝学院の継承だけは、地元のみならず日本の建築界にとって不可欠であろう

Blog#71 塩地博文他著「森林列島再生論」(2022年9月、日経BP)を読んで

 2022年10月4日、昨年大病を患って生死の境目にあった時、偶然巡り会って助けられたという文月恵理さんを同伴して、塩地博文氏がDHC協会を訪ねられた。目的は、一緒に著した「森林列島再生論」の出版とこの出版によって自分自身の再生を賭けているという昔に変わらぬ元気いっぱいの塩地氏。昼食は伊勢廣がよいというので、店長の星野雅信氏に電話で予約。話題は相変わらず面白く、活力があって、とても生死を彷徨った人とは思えない。

 森林再生と木を使っての建築は今や国是となっているが、既に私自身、上田篤先生と一緒に、2016年5月、藤原書店から「ウッドファースト」なる大著を編集し、また2017年7月には「日本の国富をみなおす」(NPO-AIUE)で「林業の蘇生」について著したこと。2021年6月にはOGの白井裕子さんが「森林で日本は蘇る」(新潮新書)なる傑作を著したことをBlogで紹介したこと等々から、改めて新しい情報とは思えなかったが、OBの高口洋人君も執筆しているというので一読する。

 塩地さんの「プレカット」と「大型パネル」による木造住宅の普及活動は革命的で、これまでの戸建て住宅の供給並びに森林の再生に寄与することは何度も聞かされていたので、新しい知見ではなかった。しかし、それぞれの専門家はそれなりに定量化し、みえる化に成功した著作である。幸い、塩地氏蘇生の恩人・文月さんが最後にそのタネを明かしてくれたように、本書はDX時代の先駆けの価値がある。

 日本列島唯一の天然資源は世界に誇れる森林資源であるに拘わらず、これまではCo2の吸収源としての評価から数兆円程度のアナログ評価であったのが、「大型パネル」に同定することによるデジタル評価では(1拠点50km圏の森林資源の計測もドローンを使うことで簡単に評価できることや金融の専門家がESG投資対象としてファンド構想を提案する等)数百兆円と100倍にもなること。この国富を利用できるのは全国で500ヶ所程で、地方再生の拠点が生まれること。 最終章では、説明が面倒な塩地構想を文月さんがいとも簡単に解説する。日本の国が抱える1000兆円の負債も代替できる程の仕掛けと仕組みを教えてくれる著作である。私もこの考え方で八ヶ岳山麓の新天地創造に当たって500拠点の一として、この手法を取り入れてみたい。