Blog#66 ウクライナ侵攻を憂う「D.バート君の戦い」を支援したい

 2022年8月14日、北九大のD.バート君からメールが届いた。

 「ご存知の通り、ロシアがウクライナに侵攻しています。私たち、関係ないかも知れませんが、国が、都市が破壊されている。私たちに何ができるか。私はウクライナ大学と連絡をとって、学部卒の学生5名を北九大の大学院に入れたい。彼らに日本の建築と技術、まちづくりと日本の良さを知ってもらいたい。ウクライナの都市を一から造り直す必要があるから。」

 

 D.バート君の壮挙に賛同すると同時に、1979年、日中理工系交換教授として半年間、中国科学院に在籍して、中国の重点大学の全てを訪問したことから、1980年代、沢山の中国留学生や先生方を日本に招くことになった。当時の貧しい中国留学生たちを大学院生として、また招聘教授として招くには、少なくとも1人年間10万円の宿舎と食事代の他、大学院の授業料を免除してもらうため、大学当局との間で激しいバトルがあった。

 そんなことを思い出すと、D.バート君の5人の学生には、少なくとも一人当たり年間100万円の寝食費の他、授業料免責という大学当局の支援が必要である。彼の戦いに要する費用負担は2年間に5人で1000万円必要になる。ウクライナ支援プログラムの募金一口1,000円として1万口の応募は可能であろうか。

 私自身、何はともあれ賛同する以上、今の私にできる範囲で3万円を、このBlogを書く前に送金した。40年以上昔の私の現役時代と違って、インターネット時代のファンド募金の威力は分からないが、私が40代であった当時の友人たちに手当たり次第に無理を承知でお願いしたことを思い出しながら、D.バート君のこれからの戦いを支援したいと考えている

Blog#65 「第12回八ヶ岳研究会」に参加しての抄録

 2022年8月1日(月)14:00~16:00、白樺湖畔の池の平ホテル会議室で開催。

 テーマは①エネルギー地域創生部会:福島氏から、山形県最上町役場が推進する「木質バイオマスを用いた地域熱供給事業」について報告。地元の三浦秀一教授(尾島研OB)が指導して、2007年から2012年度までの4年間、木質バイオマス利用でオーストリア製木質チップボイラーを使って550kW、700kW、180k W、900kW発電。さらに2015年からは地域熱供給と1000kWのバイオマス発電で、マイクログリッド化を達成した資料説明。この実例を参考に、立科町・池の平ホテル・ミライ化成・JESが事業主体となって、2030年を目標に白樺村のマイクログリッド事業を軌道に乗せたいとの発言。ミライ化成の中川氏は、100~50kWの小規模水力と1000kW程のバイオマス熱供給事業を関係会社の製品を使って実装したいと報告。

 尾島からは「白樺スマートヴィラ構想」として、2018年のDHC協会での研究成果を下に、新たに白樺湖畔約4kmの遊歩道(白樺ぐるりん)に沿って、マイクログリッドの電力・情報・熱などのインフラ整備とともに、アートをランドマークとした遊歩道の観光やCVS、PRHの設置等、池の平ホテル本館から蓼科ティディベア美術館に至る参道計画。S-PRHの構造体を活用したアート作品をアートコモンズの協力で配置できないか。さらに別荘群の未来イメージを模型にした経過とその事業体の必要性とGuidebookの作成について提言。

 小林光氏からは金山地区での二地域居住者として、集落毎の法被を着て、里曳きの一員になった体験記、金山デッキでの脱炭素プロジェクトへの補助金のあり方、金山デッキ周辺の自然環境について、実践者ならではの提案。

 司会の矢島社長によるweb参加の五十嵐、阿部、小泉、日置、菅谷、田尻、新野、山路、齋藤氏との質疑応答。

 最後に小平氏と矢島氏から①(株)白樺村が柏原財産区と茅野市・立科町から白樺湖畔と湖上の利用権を得て、観光と環境産業の事業化を推進する承認を得たこと、②立科町と茅野市が合同記者発表会で、白樺湖、女神湖、蓼科湖を連携した「レイクリゾート構想」を宣言したこと。この宣言では③白樺湖では大型廃屋を撤去し、大型施設への建て替えや公園の整備を実施すること。  次回第13回研究会は10月3日に幹事会として開催。本日の成果を下に実装可能なテーマを絞る。この研究会で、新野氏は、美濃戸の森でアートコモンズを創造し、地域資源開発についてサロンを開催。村野藤吾氏の孫や大小島真木、辻陽介氏等を講師として開催。私のGuidebook出版に当たっては、阿部氏より単なる写真集ではなく、存在価値や創成由来についても書いて欲しい。webのため聞き取りにくい発言が多かったが、編集時に再確認の上、皆様の意見を十分に取り入れての実装計画を、次回の幹事会で検討して、年末か年始に第14回研究会を予定する。

Blog#64 2022年度・八ヶ岳山荘の夏合宿

 7月30日(土)午前6時前、丸山車で八ヶ岳山荘へ。途中、財布と上着を忘れたことに気づいて、夕刻到着予定の渋田君に依頼。午前9時30分に山荘到着。早速山荘の内と外の掃除。手慣れたもので11時には終了。山荘での新鮮野菜の天ぷらと冷えたソーメンの昼食は格別に美味である。相場・友森・渋田君到着。5人で夕食前に庭の水場やテントの整備後、縄文温泉で一風呂。コロナ禍にあっても盛況で気分爽快。夕食は渋田シェフのカレーに、原村の朝市で買った新鮮野菜と持参した多様なドレッシングがよくマッチする。昨年仕入れた大吟醸の真澄は格別。加えて、仕舞っていた五粮液に高級ワイン等が気化して半減していたのは驚きで、3本程処理して飲むも、さすがに良い気分で10時半Bed in。夜は寒くなって、シュラフの上に毛布を一枚乗せた。

 7月31日(日)6:00am、全員起床。快晴。朝食の野菜サラダ、八ヶ岳牛乳、ベーコンエッグは定番。午前中、八ヶ岳山荘を若い女性や子供にも好まれるよう、これまでのベースキャンプ機能からリゾートの拠点(グランピング場)にすべく、外も内も大改造することにした。早速、裏庭の整備。ツリーハウスは無理としても、ハンモックを2~3吊せるように天井落下防止の実験に使ったネットで研究する。巨木と雑木を切り、下草はシダのみとして、落下しても怪我をしない上、歩きやすい庭に整備する。

 昼食は新鮮野菜の天ぷらにソーメン。午後は2台の車で柳川に沿った新野氏の八ヶ岳アートコモンズのデザイン拠点を見て、町に出る。マサカリを購入し、茅野駅前ワークラボ八ヶ岳を見学。買い物はオギノで。夜のBBQはピザ釜をフル活用する。

 爽やかな一日。前庭でのBBQは全員手慣れてきて、アフターコロナ時代の山荘スタイルを相談。85歳にもなると、今のうちに、動けなくなってもこの山荘が使えるような大改築を決心する。早速、相場・友森・丸山氏による電動ノコギリと芝刈り機の音が軽やかに響く。その音を聞きながら、Blogを書く気分は悪くない。

 渋田君のよく焼けた特製ピザを中心に、このBBQに使ったのはなんと姉が持参した炭火焼きコンロで、焼き肉や焼き野菜には最高である。お酒は真澄を一升。雷雨模様で、急いで室内へ移動。そのまま炭火焼きを楽しむ。夜の1:00am、なんと8時間もエネルギー論や黒部の幻の大滝、早大山岳部著”リュックサック”の本を見ながら、台湾の新高山(玉山)登山などの昔話に加えて、友森氏の原発論。寺本氏の差し入れボウモア18年ウィスキーは格別で、仙人湯の遠北君も話題に。

 8月1日(月)6:00am起床。午前中に富山のBook Cafe用に利用する本を50冊程選定。なんとクール宅急便で官庁営繕で四国に転勤された井上高秋氏より大吟醸無濾過原酒(香川の綾菊酒造「国重」)が届き、全員感動する。残念ながら相場・友森氏、昼頃レンタカー返却で、先に帰宅。私は渋田・丸山車で池の平ホテルへ。

 八ヶ岳研究会はWeb10人、対面10人と20人出席。矢島社長司会で、福島・中川・尾島・小林の発表。Web参加の五十嵐先生他、新野、阿部、山路、齋藤氏他からの質問。4:00pm終了(研究会の詳細はBlog65)。

 地元では①(株)白樺村を発足させ、白樺湖周辺と湖上の活用を柏原財産区と立科町・茅野市より権利移し、経営を行う計画。②「レイクリゾート構想」を立科町と茅野市で7月6日に合同発表。女神湖・蓼科湖・白樺湖を中心に、それぞれの特性を活かす。③二地域居住用のワーケーション施設を計画している由。次回第13回は幹事会で10月3日(月)予定(池の平ホテルで)。

 4:00pm現地解散。丸山氏と二人カッパの湯。オギノ、DIY店。6:30pm、山荘でスーパーで購入した鰻と味噌汁、冷や奴、枝豆、お酒とビール。10:00pm、本日の研究会資料を修正してBed in。

 8月2日(火)、朝食は2人とあって、ゆっくりした時間。ニラのバター炒めは失敗。ニラ炒めの料理ぐらい学ぶべきで、トマトとウインナーはよくマッチする。富山へ送る本を3箱選定。快晴で、実にすがすがしい日だ。

 朝食後、裏庭を測量してハンモックを吊るための配置計画。図面を見つけ出して本格的に裏庭の設計準備、2人で測量する。朝市は休日とあってJA・農協へ。豆腐・大根・わさび・インゲン・きゅうり・トウモロコシ・枝豆などを買い、山荘へ。

 50余年昔、この山荘の土地買い付けに当たって手付金として5000円の手持ち金を支払ったのは、当時、私の秘書であった増田夫人で、その増田夫人と増田君がこの山荘が出来て初めての来荘で、昼食を共にする。昼食は山菜天ぷらとソーメン。増田夫妻へのお土産はトウモロコシ・トマト・枝豆。増田君の病気は26年前に奥さんが体験したとかで、何とかなりそう。男の子2人で孫が5人とか。吉田公夫君からも電話でタイの計画で、NEDOと環境省を分けることなど了解済みとか。

 増田夫妻が帰ると原君が来訪。丸山氏と早速にして前庭の唐松と赤松の処理に1時間半。縄文の湯へ。夕食はカレーライス。山荘の利用計画と管理体制について相談。

 8月3日(水)6:00am起床、快晴。ピザ釜と炉の屋根防水計画。9:30~12:00丸山・原チームの買い出し。昼は雑煮・コンソメとソーセージの出汁。3時、森山・山田氏到着。天候は良くなり、外でピザ釜活用して4枚の大型ピザ。アンチョビ、ベーコン、マッシュルーム、シラス、焼き鳥etc. 5人で4枚のピザ。焼き肉は牛と牛タン。外での食事は快適。新野氏の「対話と創造の森」のサロン、アートコモンズのように各月一回のサロンを開催するのも悪くない。

 8月4日(木)早朝から雨音が激しかったので、ゆっくり休んで7:00am起床。8:00朝食。山田シェフ、なかなかの味。8:30am出発。なんと青空になった。新野氏のアートコモンズを見て、柳川橋で一休み。御小屋で駐車。昨年の4~8本の御柱の切り株を確認。OKOYAの石堂から4本切り株のみならず、新しく伐り出される予定の(建屋酢蔵神社酢之御柱)を見て下山。丸山式のそば打ちで昼食。香川県に転勤した井上氏からクール宅急便で生酒1本(悦凱陣の燕石)が追加で届く。12:30玉川の王宮温泉「望岳の湯」で一風呂。木落しの公園を見学してスーパーオギノで夕食の買い物。

 昼寝後の夕食は山田シェフによるフランス料理。井上氏の銘酒とフランス料理はなかなかのもの。御柱祭りの7年目毎と申寅年との表現の違いについて。明日は前宮と上社本宮で新設の御柱を見てから、岡谷で名物うなぎ昼食後に解散予定。

 8月5日(金)7:00朝食。快晴とあって山荘の内外清掃後、9:00出発。諏訪神社前宮へ直行。5月に新築した前宮の御柱4本共を見て、上社本宮では2本の御柱を視察。諏訪湖の噴水と天竜川への水門を見て、名物の岡谷市天竜町の濱丑川魚店でうな重と肝焼き、肝吸いでの昼食。森山・山田君と西と東に分かれて15時帰宅。(写真①御小屋OKOYA、②切り株は2021年の跡(Blog#38)、③2022年築の前宮の御柱、④伐り出し前の建屋酢蔵神社の御柱、⑤井上氏から贈られた御酒)

①御小屋視察(2022年8月)
②御小屋の切り株(2021年)
③諏訪神社前宮の御柱(2022年5月)
④御小屋(諏訪大社備林)の伐り出し予定の御柱
⑤香川県高松に転勤された井上高秋氏からクール宅急便で届いた銘酒2本

Blog#63 久保田昭子氏の手伝った「復興・陸前高田~ゼロからのまちづくり」(鹿島出版会)を読んで

 東日本大震災から10年を機に、陸前高田市役所の阿部勝・永山悟氏と東工大の中井検裕教授、流通科学大の長坂泰之准教授が編著で「復興・陸前高田~ゼロからのまちづくり」を出版。これを一読して、よくぞこれ程までに分かり易く、しかも詳細なデータを実名で、災害大国・日本の復興計画に参考となる出版をされたと感動した。特に「あとがき」の最後に『企画から出版に至るまでお世話になった鹿島出版会の久保田昭子氏の粘り強い努力なしには実現しなかった。編者四名を代表して深く御礼申し上げる(中井検裕)』とあったことから、久保田君の能力を熟知する者として、今一度、本書を熟読しながら、このBlogを書くことにした。

 Blog15(2021年2月)の五十嵐敬喜先生他著「震災復興10年の総点検―「創造的復興」に向けて」(岩波ブックレット)の書評で、32兆円もの国費を投資した日本再生の取り組みと、これに学ぶ東京の災害事前復興計画が見えてこないこと。しかし、使われた国費の価値を評価し、教訓を得る大切さを教えられた。

 そのこともあり、Blog28の「東日本大震災(津波)から10周年」で、2021年6月10日から3日間、渋田玲君と現地視察した。目的は復興地の世界遺産登録であり、その価値を見つけたのは、内藤廣氏の公園設計の案内パンフレットで、この案内に従って現地を視察することにした。その結果、この地を次世代世界遺産として登録することによって、日本のみならず世界中で、自然災害の恐怖に立ち向かった当地の人々の記憶が永遠に語り継がれる施設になると考えた。東北大震災での津波対策に、日本が国家予算の50%に相当する復興費を投下したのみならず、自然災害に対する体験を忘れないためのレガシーとするための研究はこれからが大切であると。

 この時の視察では、街中が高台に移転した大船渡線の北側に300haもの土地を8m盛り土造成するために1200万㎥(500万㎥はベルトコンベア)を使っての新市街地を建設した状況や、シンボルロードを走って、BRTの陸前高田駅の様子や広場に面した気仙大工の技や地場の素材を最大限活かして設計した「まちの縁側」、新設された商店や公共建築の何棟かを視察した。この町には他の町とは違った主体者の存在があるように感じたので、内藤氏に、少なくとも彼の設計した祈念公園を中心に世界遺産登録に向けた運動をすべきと伝えた。そんな状況下にあっての今度の出版である。

 本書を熟読して、空前絶後のゼロからのまちづくりを成功させた秘訣は、分かり易く見える化して公開したことである。本書を事前に入手しての視察であれば、もっと詳しく現地の実態を知ることができたと思われる。その主体者の努力を知らないままに、突然の視察であったが、この陸前高田市の復興は国費2000億円という巨額投資をした成果は十分であった。

 本書の端々に出てくるBRTの羽藤英二、建築家の内藤廣、隈研吾、野城智也、伊東豊雄、戸羽太市長やURの方々、そして主体者である商店街の人々の参画した成果は素晴らしいに尽きる。浸水域人口に対する犠牲者率は10.6%人と最大、市職員400人中111人、地元商工会員699事業者の604者が被災という犠牲を出しながら、5月には「けせん朝市」や8月には地元の「けんか七夕まつり」開催等、市民・商工会・国・県・復興の動向など、主体者の成果毎に10年間の足取りをまとめた年表などに脱帽した。この出版は、陸前高田市の復興事業の全てが世界遺産登録のためのオーセンティシティに寄与するように思えた。

 蛇足だが、高田松原は1940年に国の名勝に、1964年には陸中海岸国立公園に指定された白砂青松が2kmにわたる約7万本の松林で、350年に渡り防砂林・防風林として守り育ててきた。それが3.11の大津波で1本だけ(「奇跡の一本松」として著名)残して流失。県が4万本の松林に復旧、地元NPO法人「高田松原を守る会」は4万本のうち1万本の植栽作業を申請、2021年5月に完了。

 高田松原津波復興祈念公園は市民3万人の署名による要望で、2017年3月着工。2019年9月、主要3施設である「国営追悼・祈念施設」「東日本大震災津波伝承館」「道の駅高田松原」がオープンした。公園面積は175ha、オープンから2年で110万人の来場者という。

 新しい高田松原市は、空前絶後の盛り土をした新市街地と祈念公園他の施設をもって、新しい日本の名勝としてのみならず、世界の人々にこの復興の成果を現地で体験させたいレガシーと考えた。それにしても、今またウクライナの惨状で100兆円の復興財源の必要性を考えれば、人間のレガシーは人命の犠牲の下にしか生まれないのであろうか。

Blog#62 2022年度現代総有研シンポジューム「土地は誰のものか」に参加して

 2022年7月26日(日)2:00~4:00pm、五十嵐敬喜先生と元農水省事務次官の奥原正明氏の対談、司会は弁護士の日置雅晴氏をwebで聞くことができた。共鳴する内容が多い上に、もっと早くこのような日本の状況を知っておればと残念に思えたこと等を記して、私の理解に間違いがなかったか、現代総有研の方々に聞いた上で、このBlogを公開することにした。

 まず、奥原氏の農水官僚40年の体験談は実に明快で、最後の5年間に大仕事をされた2013年の農地バンク法の制定についてである。

 戦後の農地解放は多数の零細な自作農という生産性の低い農業構造を作り出し、しかも、農地を所有したことで、農地の流動化も進まなくなったため、農業の競争力は向上しなかった。昨今、人口減少に伴う都市での空地・空き家の増大、農地の耕作放棄問題は喫緊の課題である。農地の責務と活用に当たっての政策に、地方自治体等の公共機関をベースにした第三セクターで農地バンクをつくり、零細農地や耕作放棄地を預かり、それを有効活用する企業を含めた農業者に貸し付ける制度である。「農地の有効利用を」は名案であるが、この仕組みの活用を加速するには強制力のある措置を考えることも必要とのこと。

 江戸時代の大岡裁きの(「三方一両損(三方二両得)」の解が出来たのは、大岡が一両損をすることができたので)、農地バンクの有効利用には第三セクターに一両損をさせることが出来ない今日に問題があるのではないか。

 何故なら、私自身、2015年初春、M社の依頼で「アーバンアグリカルチャー株式会社」の設立を依頼されて、2016年5月、オランダの植物工場を視察。大規模化あっての経営であることから、千葉県佐倉市のK農家とともに、2017年に第1期0.2haのK氏の農地で試作、第2期は2019年度2haで、K氏の一族の農地で、第3期は2020年に企業10社の出資で20ha~30haと大規模化する計画であった。しかし、第3期の段階から農地の手当が、K氏の人徳では進まず、地元農業組合との度重なる打ち合わせと契約条件の折り合いの面倒さから、このプロジェクトは失敗した。この時にもし信頼出来る千葉県の第三セクター(農地バンク)が手助けしてくれていたら、と奥原氏の話を聞いて残念に思えた。

 五十嵐先生のタワーマンションの区分所有者に対する心配については、既に先生の出版された「土地は誰のものか」(岩波新書)の書評を書いたが、本日の話題にもあったので一言。

 土地と建物の違いは「建物は必ず劣化し無価値になる」、然るに建築基準法では、国が最低限の安全を保証する確認受理をする。これは明らかに国が戦災復興のため建設省と建築基準法を設立して、災害等の免罪符を出すことで建設業者を育成した。勿論、その後、基準法8条で管理責任をどんどん厳しくしている。しかし、究極的に災害や劣化による建築の安全について、国が「人的災害」と思われるものまで「天災」として保証している(既存不適格建物)。その確認審査機関は既に90%以上が民間になっていることから、この制度を廃止して、民間の損害保険会社が建物の安全保障を代替することである。建物の安全について人間の健康保険のように損害保険への加入を義務化すれば、危険な空き家は保険料が高くなるから自然淘汰される。然るに今は逆で、空き家にしておいた方が土地の税金が安いという問題がある。この点等について、是非、現代総有研の皆さまでご検討されることをお願いする次第です。

 このシンポジュームは良い勉強になりましたので、是非とも継続を期待しています。

Blog#61 池田武邦さんの回顧展で「在りし日」を偲ぶ

 2022年7月19日(火)、新宿京王プラザホテルで、去る5月15日、98歳で永眠された池田武邦氏の「お別れの会」があった。4階の花の間で受付後、5階の回顧展入口で池田武邦(1924~2022)の年譜と回顧展チラシを受け取る。その冒頭に『自然を畏れ敬う 池田武邦は2001年より長崎県大村湾の琵琶の首鼻に茅葺の「邦久庵」を建て 夫人とともに約10年間居住していました』を読む。

 ハウステンボスは何度も利用して、是非、聞いておきたいことがあって、2005年12月24日、クリスマスイブの日、この別荘に「この都市のまほろばvol.2」(長崎)の取材で、中央公論新社の関知良編集者とお訪ねしたことを思い出した。

 2000年から設計責任をとってハウステンボス(株)の代表取締役会長に就任され、2003年には会社更生の申請で、都市環境学を専門とする私には、この点が大関心事であった。

 (7月21日(木)の朝日新聞と日経新聞の夕刊にHISが「ハウステンボス」を香港の投資会社などに数百億円で売却する方向であること、2022年4月の中間決算で265億円の赤字で、HISが保有する66.7%、他の九州電力や西部ガス、JR九州等の地元株主5社も手放すが、営業は続ける見込みとある。1992年に開業したが、2003年に会社更生法申請、野村Hの投資会社の支援で2010年にHISと九州の地元5社が買収して今日に至っていた記事)

 私の訪問時、池田さんは82歳で、隠居の身といいながらの回答は「ハウステンボスの設計主旨はあくまで“環境”と“やすらぎ”をキーワードにした日本再生のプロジェクトであり、ヘドロで埋め立てられた工場団地の土壌を再生させるために取り組んだ事業であること。池田さんの計算では、創造型環境会計では1750億円の黒字であると教えられ、詳細な内訳についても説明された。しかし、環境会計の普及には私は5年は必要と申し上げて、今一度、上京すべきとお願いした。この時も本物のオランダの街以上に美しいハウステンボスの価値を教えられた。確かに「会社は倒産しても、このプロジェクトは必ずや後世の歴史家からは21世紀の日本のレガシーと評される」説に感動・共鳴したが、この考え方の普及にはリーダーが必要と、私の提言は間違っていなかったこと思い出し、在りし日の池田武邦氏を偲んだ。

 このお別れの会の第一会場「在りし日の池田武邦Ⅰ 近代を開拓する」から「Ⅱ 近代を超克する」でも小一時間、多くの映像から偉大なる先駆者の一生涯を学ぶことが出来た。池田氏の一周遅れで社会体験をしてきた私にとっては、このお別れの場は懐かしく、改めて身近かに池田さんの声を聞けて嬉しかった。

 会場は「邦久庵」の周辺に広がる環境をイメージし、日本の在来の草花で設え、自然を愛し海に帰る池田武邦を送る場を表現。献花はないが、自由な形で偲べというコンセプトに、主催者である日本設計の篠崎淳社長は池田さんの志を本当に良く理解されてのことが頼もしく、脱帽してお別れさせていただいた。

 このBlog61の原稿を書いていた翌日の7月22日(金)、朝日新聞朝刊9面に「長崎県と佐世保市はハウステンボスの一画にカジノを含む統合型リゾート(IR)の誘致を目指しており、今年4月に県がIR整備計画を政府に申請し、ハウステンボスとIR事業者が土地の売買で合意している。佐世保市の朝長則男市長は、21日午後、会社が倒産という話でなく、資本の移動ということ」として、IRやハウステンボスの営業は続けるという。

 資本の移動や創造型環境会計での収支に関することはよく分からないままであるが、池田氏が最後に挑戦したハウステンボスの継承は地元のみならず、日本の、そして世界中の課題であり、SDGs達成の試金石のように思えて、改めて池田さんにもっと学んでおくべきだったと反省する。

Blog#60 第25回TOYAMA FAN CLUBに出席して

 2022年7月15日、ホテルルポール麹町で開催された第25回の会員交流会は、この2年間のコロナ禍にあって中止されていた。加えて、主催者の(公財)富山県ひとづくり財団の主である知事が、石井隆一氏から新田八朗氏に代わり、この間に私も「世話役」から「顧問」になって初めての会とあって、当日まで出欠を決めかねていた。

 しかし考えるまでもなく、この交流会は毎年1回、中沖知事時代から知事と親しく会話し、富山県の近況を得る唯一の情報交流の場であり、特に箱物行政で建築界に人気のあった中沖時代には著名な建築家達が出席して、真夏の一大情報交流の場であった。続く石井知事の時代は、世話役の一員として、交流会の直前に一時間、知事との直接懇談できる場であるとともに、詳細な資料を下に、その年の富山県行政について知事から直接説明があった。その上で会員交流会では、橘慶一郎衆議院議員や富山県庁の有力な局長との懇談も出来る、実に有意義なFAN CLUBであった。

 大学の現役時代には岐阜県や和歌山県、福岡県等、職務上の交流のあった県は、FAN CLUBに属して年1回の交流会にも出席することもあった。しかし退職後は富山県のみの出席になっていたことに今頃気づいた次第。

 今回の交流会も「世話人」としてではなく、新設された「顧問」という立場で、交流会のみの出欠であったことから、当日の体調次第で出席しようと考えていた。

 当日は朝から土砂降りの雨で、特別の用もない以上、欠席の連絡をしてもらうため改めて開催通知を見ると、「出席予定に新田知事他とあって、その他に新型コロナウィルス感染拡大防止のため、参加人数を制限し、着席スタイルで、万一都合の悪い場合は早めに連絡を」とあった。これを見て、新田知事には新任されてまだ表敬訪問もしていないことから、意を決して出掛けることにした。

 幸い、橘慶一郎代議士も予定外の出席で、このお二人と親しく交流することが出来た上、着席での松花堂弁当には富山の名産品づくし、かまぼこ、ほたるいか沖漬け、ばい貝、白海老、昆布締め、富山産牛、ます寿司、ぶり大根、氷見うどん等に地酒の各種に、久し振りの富山づくしの料理に嬉しくなった。

 八十路を越えて、第一線の方々と情報交流できる幸せを実感して、代表世話人の桑山征洋氏にお礼を述べる。常連の福川伸次氏が欠席されており、その席に新居千秋氏が着席されたので話が弾む。橘議員や山田俊男参議院議員の挨拶はさすがであり、新知事の新田氏も又、頼もしいリーダーとして演説に何故か一安心したのは、やはり顧問の立場になったのかと。

 それにしても、常連であった仙田満、栗生明、中川武、藤江和子、渡部与四郎、吉田忠裕、高橋志保彦、伊東順二、神野直彦、蓑原敬、一柳良雄氏等の姿が見えず、高橋正征、大嶋戍、マリ・クリスチーヌ等、数人のみと淋しく、やはり今回が出番の最後かと考えながら帰途につく。

 20年程前に環境省の仕事で御一緒した北大理学部出身で、開拓民三世という大嶋戍氏が私小説を書いたのでと贈られた「未明の丘」(文芸社出版、2020年)を一読して、FAN CLUBには富山県と何らかの関係(因縁)のある人々の参加者が多いことにも気づく。全国各地のFAN CLUBはふるさと大使の指名やアンテナショップの支援等、地方創生の大事な役割と共に、教育とひとづくり財団の大切さを知り、貧者の一灯、ふるさと納税のみならず、賛助会員として、又顧問として、元気な間はFAN CLUBに出席することにした。

Blog#59 第20回NPO-AIUE総会に出席して考えたこと

 2022年6月24日(金)15:00~16:00、東京都練馬区のNPO-AIUE本部で第20回総会を開催する。会員197人、委任状29人、web出席者:北海道・東北3人(須藤、渡辺、小柳)、関東1人(前川)、関西3人(森山・藤本・山田)、九州4人(依田・福田・高・バート)、対面出席8人(吉田・中嶋・高口・市川・佐土原・渋田・小林・尾島)で盛況。小林事務局長の進行で、吉田理事長は手際よく司会。決議案、支部報告後に横浜での第19回国際シンポは、佐土原・村上・高口の実行委員会で順調に進むとの報告。論文の応募状況について高君より報告。中国・韓国他、海外の状況以上に日本国内での支援と同時に、コロナ禍での出国や帰国後が心配。

 最後に、私から4点お願いする。

①2018年、理事長を吉田君に交代したが、NPO-AIUEや国際会議の継続を考え、会長職を創設。経営基盤を確実にするため、DHC協会等、私の関係する各種法人との連携を強化する。

②2020年度に拠点を銀座から練馬に移したこともあって、NPOの研究資金が不足。最小限、年間300万円程確保するためには、事業部と担当を設けたい。

 イ.BΣS事業(増田(幸)・渋田) ロ.JCM事業(吉田・前川) ハ.DHC事業(佐土原・村上) ニ.安全研継承(高口・秋山) ホ.PRH再生(原・中島) ヘ.国際投資(市川・州一) ト.出版・図書等(久保田・岡)を考えている。

③NPO-AIUEとは別に、初心通り、九州に一般社団法人(仮)国際都市環境学会を設立。依田・福田・高・バートを中心に、2023年度には設立。

④2024年10月頃に、尾島の出版(「都市環境学へ」と「尾島研究室の軌跡」の各続編)を予定。2冊の配布と記念会に10~20人の実行委員会(代表:中嶋君)を予定したい。これ迄の尾島研出版物は100種、約3000~5000冊の在庫あり。その処分はNPOに期待している。

 以上4点をお願いして、自由討論に入る。

 Web11人と対面8人での自由討論は画像を活用したことにより、実にドラマチックに展開した。九州の福田・依田・高・バート君の決意や東北の渡邉新学長はなかなかに立派で頼もしく見えたのも、渋田君の演出の成果であった。また高口君のNPOと一般社団法人の名称を変える提案は、「アジア」と「国際」を冠する二つの都市環境学会で了解する。

以上で総会終了。

 Web参加者には申し訳なかったが、16:30~18:00は懇親会。練馬での久しぶり多勢の宴席になった。Blog58で調達した富山の銘酒「黒部峡」の吟醸と大吟醸酒を飲み比べる。お弁当は米八のおこわ弁当、デザートは吉田君の持参した市川ちもと「手児奈の里」で、銀座オフィスとは違ったアットホームな雰囲気で、これからのNPOや一般社団法人としての日本・アジア・世界の都市環境論に花が咲く。

 2000年、北九州で理工総研を設立し、選択定年後の活動基盤としてアジア都市環境学会を創立。2003年のNPO化から20年。国際会議は横浜大会で19回で、次の韓国大会が20周年である。

 九州を拠点とする都市環境学会はアジアから世界へと本格的なAIUE:Association of International Urban Environment(一社)A.I.U.E.として発展するときが来たのだ。温泉でのDrink & Togetherを目的に、早稲田の一研究室卒業生達の懇親会的場を脱皮して、国際的に都市環境学の発展に寄与する時が来たと実感したのは、2021年に北九州市立大学訪問時であった。彼らが間もなく定年退職したときには、その実績を普及させる場が必要になる。大学から学会へと職場を移しての30年間があること。アジアのみならず、世界中が都市環境学の必要性を求めているとき、福田・高・バート君を中心に、依田・堀・三浦君等が協力すれば、新しい職場が創造できる。

 まずは最小限(会員年会費1万円、賛助法人会費1口3万円/年)の一般社団法人国際都市環境学会がその職場であり、そのためにこその設立である。それをNPO-AIUEが全面支援することで、その第1回(通算第21回目)を2024年の西安シンポにして欲しいと願う次第である。

 これを機会に、NPO-AIUEのホームページに新組織と改正定款(案)を記載する予定であり、また私の日記的Blogを公表しているので、御意見を戴ければ幸いである。また本日のBlogでの実名表記と敬称を略した失礼は高齢に免じてお許しを。

(コメントを受けて一部修正しました)

Blog#58 笹山敬輔著「ドリフターズとその時代」(2022.6.20 文春新書)を読んで

 

 2022年6月21日(火)「此の度、息子が新書を出しましたので」と贈られた本を一読して、かねてから非凡な文才を認め、いつか日本の演劇研究者として著名になる縁者の一人と思っていただけに、研究書ならぬドリフターズの新書出版に驚いた。しかし読む程に面白い。また、Blog56でも書いたが、6月11日(土)に妻子と東村山の北山公園に散歩しての帰途、私は東京で唯一の国宝木造建築である正福寺が御開帳とあるから立ち寄ろうと提案したが、それ以上に興味あるのは東村山駅東口の志村けんの銅像を見ることだと言われて唖然!立派な銅像、しかも和服で正装したテレビで見慣れた志村けんのおどけた「バカ殿」の姿と違った立像に加えて、台座には「多くの笑いと感動をありがとう」とあった。

 昨今、急激な時代の変化を感じていただけに、敬輔著の第6章「志村けん「喜劇王」への道」の一文『演劇研究の観点から言えば、志村の改革案は小林一三と同じである』と。私の家内の宝塚ファンには長い年月脱帽で、いつか宝塚と小林一三を勉強せざるを得なくなっていたから、小林一三と並ぶ程に志村けんは「家族連れを中心に広く大衆に娯楽を提供するという理念の共通性」に社会的貢献をしたとして、東村山市の小林一三ならぬ名誉市民になったのには、成る程と感じ入ってしまった。

 「いかりや」と「けん」の師匠と弟子の互いの立場。不仲と蜜月の物語。本書にあるドリフターズの愛憎入り交じっての語りの表現は、見事と言う他ない。喜劇と悲劇は紙一重という以上に、この世界の価値を改めて教えられた。昭和のエノケンやロッパ、藤山寛美同様、世界のチャップリンを例に出すまでもなく、喜劇やお笑いの世界がもつ価値について、アニメや漫画が日本文化を世界文化にまで展開せんとする時代にあって、日本のお笑いが世界に通じる時代を開くのは、敬輔君の如き存在あってのものかと。

 それにしても、敬輔君は富山の配置薬の雄「ケロリン本舗」笹山本家の4代目にして、初めて生まれた男の子で、生まれながらの後継者と期待されていただけに、大学進学に当たってお笑いの道に進みたいと周辺を困らせたことを思い出す。Blog57で、私の母が育った富山県泊町を訪ねた夜、浜多氏と話し合っているとき、現在進行中の西町北総曲輪再開発のキーテナントとして、最初は富山県薬業会館の誘致を考えていたが、その薬業界の中心、内外薬品が広貫堂や大協薬品と合併して富山めぐみ製薬になったことも、この時初めて知った。 

 1925年、父の姉のみどり伯母が笹山順蔵氏と結婚。アスピリンを配合した鎮痛剤「ケロリン」を開発、製造販売して財を成したが急逝された。ケロリン本舗を継いだ長女の慶子さんが戦後10年以上も個人商店であったことから、富山県の長者番付のトップであった。その婿に、金沢の前田藩菩提寺(宝円寺)の住職次男の中野忠松氏が決まった。その年に忠松氏をリーダーに、小学生の私や三女の洋子さん等と初めて立山登山をしたのが1950年8月。その時から忠松さんは私の兄貴分として、建築学科の大学院生の時には金沢の茶屋で芸者さんとの遊び方を教わったこと。

市ヶ谷のケロリンビル
  (現存せず)

 富山のケロリン本舗で包装の機械化に当たっての工場設計を託され、続いて1966年には東京の市ヶ谷でケロリン本舗の東京支店ビル(住居と店舗・オフィス)の設計を依頼され(施工:松井建設)、このビルの2階を借りて、私が1970年の大阪万博会場設計をするに当たって、日本環境技研(株)を設立。このビルにはなんと著名な建築家(伊藤・黒川・石井・月尾他)も間借りしていた。

 1971年には富山の笹山忠松自邸の設計(施工:竹中工務店)をさせてもらったこと。1975年には2人で伊東の山荘(日本で初めてフィンランドから購入した山荘を(株)ジェスで建設)。1975年には忠松氏の長女・満里さんと和紀君の仲人をしたが、残念なことに、1981年には50代の若さで逝去された。

 その後、1990年代に満里さんの長男・敬輔君が大学進学を前にお笑い芸人になりたいと引きこもって、みどり伯母様や父の和紀氏を心配させたこと。しかし私が直接面接したときには、全く心配なしと伝えたこと。周辺の人たちの方が富山でお笑い芸人を目指すというのは突飛に思えたようだ。その後、筑波大学の博士論文とにもなった近代演劇に関する研究書「演技術の日本近代」を見て、お笑いの道ならぬ演劇の道を開く「申し子」であったことに気づいた。その彼が今また、家業の薬業と文学との二足草鞋で周辺を驚かせているのは、実に嬉しいことだ。

Blog#57 念願の越中宮崎海岸の「たら汁」と「地酒」に酔う

 2022年6月13日(月)、富山市西町北総曲輪再開発準備組合に出席して後、富山市の藤井裕久市長と三浦良平副市長に表敬訪問。

 14日は金沢でM社の株主総会に出席して、帰途、新幹線の富山駅で今はJRと別会社になった「あいの風とやま鉄道」でSUICAの利用できる魚津駅へ。出迎えの浜多弘之氏と子息の弘匡君の車で泊町(現在は朝日町)へ。

 泊町は私の母が結婚するまで過ごした町(さみさと小学校周辺)とあって、一度来たかった町である。記憶にあるのは、この町の近くの宮崎海岸(東西4km、幅80m、日本の渚百選)で、寒中のたら汁を食べたこと、その味が未だに忘れられない程おいしかったこと。また、この町の山奥の小川温泉(開湯400年、子宝の湯)に泊まりたかったのは、母の新婚旅行地であったこと。しかし残念ながら、当日は休み(不定期)とあって、入善町の黒部川明日(あけび)温泉元湯という20年程前に開湯した温泉に泊まる。

 浜多氏と親しかった朝日町の魚津龍一前町長の案内で、朝日町の料亭月見家で、特に名物たら汁を御馳走になる。この料亭はなんと築100年以上の遊郭の旧居を利用したというだけに、家の造作は実に立派で、天井や床柱を見るだけで、その見事なことに加えて、女将と料理の素晴らしさに感動した。その上、魚津氏は4~5年前まで朝日町の名物町長であっただけに、持ち込まれた地酒「黒部峡」の素晴らしかったこと。すっかり至福の一夜で、3人で夜更けまで昔話に興じた。

 15日は近くの金太郎温泉と鉱脈を一つにすると思われる明日(あけび)温泉元湯の源泉を視察する。地下688mから毎分410ℓ、45.5℃の温泉が湧出する。小川温泉の毎分470ℓと同じ程度で、金太郎温泉の地下700mから毎分1500ℓ、泉温70℃に比べると相当少ないが、泉質の良さは定評があり、「天然の化粧水」と呼ばれる美肌効果の高い源泉掛け流しである。

 幸い天候も持ち直し、念願の宮崎海岸と母が育った泊町を再び案内してもらう。勿論昔の面影はなく、町はあくまで静かで人影は全くない淋しい町であった。あいの風とやま鉄道の泊駅の次は越中宮崎海岸駅(ヒスイ海岸駅)。駅前はすぐにヒスイ海岸で、テトラポットもなく、昔ながらの美しい松林の砂防林が続く。「たら汁街道」とも呼ばれて、何軒かの食堂もある。駅前のヒスイ海岸観光交流拠点施設ヒスイテラスにはヒスイの鑑定をしてくれる専門家も居て、なかなかに垢抜けたサービス、その説明を聞く限り、この景観を演出したのは明らかに魚津前町長のようだ。

ヒスイ鑑定士とテラス前で、2022年6月14日、越中宮崎海岸ヒスイテラス屋上より

 親不知子不知の西の入口、越中と越後の境関所跡に銘酒ありとして、1626年、加賀藩関所の与力を勤め、傍らに酒造りを始めた創業400年の林酒造へ。林洋一代表の下で息子が杜氏をして、8年連続金沢国税局酒類鑑評会優等賞受賞。昔ながらの寒造りの「黒部峡」「関桜」「若大将」の銘柄は、立山連峰よりの雪解け水と黒部渓谷をイメージしたという。昨夜の料亭で魚津氏が持ち込んだ美酒である。

 

 昔は寒中に漁から帰ってくる漁師のための「たら汁」であったが、今は「宮崎海岸のたら汁街道」に立ち並ぶ店や民宿、ドライブインで一年中味わうことができる。

 蛇足だが、2006年に銀座尾島研究室を開設したとき、研究室のおもてなし用として成功した魚津の銘酒、本江酒造の代表銘柄「北洋の袋吊り」が、2018年頃、杜氏が代わったこともあって、この郷里の銘酒に代替する酒を求めていた。今度の浜多・魚津両氏の案内で、今は亡き母との想い出の地を訪ね、念願の「たら汁」と地酒「黒部峡」に酔うことができた成果は大きい。

 新幹線「黒部宇奈月温泉駅」からわずか2時間13分、一眠りする間に上野着であった。こんな簡単に念願成就できる時代まで生きていたことに感謝すべきか。