塩谷隆英著「下河辺淳小伝 21世紀の人と国土」を読んで

2021年3月19日、(一財)日本開発構想研究所の阿部和彦氏から本書*1)が贈られてきた瞬間、久し振り阿部さんの鋭い嗅覚を感じた。冒頭の推薦者の中村桂子さん同様、決して短くない本書を一気に読んだ。

21世紀の人と国土 下河辺淳小伝

 下河辺さんについては、全くといってもよい程に付き合うことのなかった雲の上の官僚である。唯、二度程強烈に残っている印象を思い出した。

一度目は、私が1979年から1980年にかけ7ヶ月、中国科学院の交換教授として北京と杭州を中心に、中国全土の3市18省1自治区32都市で26回の講義と9回の講演、32回の座談会と23回の宴会を通して交流していたとき*2,3)、下河辺さんの日本での信頼と私の下河辺評を聞かれて、非常に困惑したことである。この間、下河辺氏に関する資料を日本から送ってもらうように依頼したが、新聞や雑誌のコピーばかりであった。1962年の全国総合開発計画以降、1969年の新全総(これが田中角栄の列島改造論のベース)、1977年の三全総(定住圏構想で、私が気に入っていた)等の立役者で、1977年には国土庁の事務次官として、官僚国家・日本の代表者であると答えていた気がする。下河辺さんとは一度も会ったことがない上に、著書も読んだこともないのに、勝手に「日本で最も信頼できる人」等と評していたように思う。

 二度目は、中国から帰国後、1980年から1989年までの10年間、日本建築学会や早大等を通して、なんと80回を超える日中建築交流会を行う間、1985年頃に今一度、当時NIRAの理事長をされていた下河辺さんに新宿の理事長室に呼ばれて、日中研究者の研究費や研究テーマについて話し合う機会があった。当時の記憶は定かではないが、安心して相談できる人と実感、中国での私の勝手な下河辺評は間違っていなかったことに安心した。

 2008年、阿部氏が日本開発構想研究所に「下河辺淳アーカイヴス」を開設した。一見の価値ありで、是非見てくれとのお誘いを受けた。大学の教師のもつ雑本の多さに比べて、如何にも極秘文書と思われる文献・書類の資料集に、なぜ公文書館ではなく民間シンクタンクで預からねばならぬのかと疑問に思った。日本経団連を中心に、国策シンクタンクとしてのNIRAが設立された1970年代に比べて、日本の知識に関する関心のなさに疑問を持ったこと、大学定年後の私は、銀座にオフィスを開いたが、家賃を考えて蔵書は八ヶ岳の山荘に移した。

 2011年11月、建築家の松原弘典君が突然訪ねてきて、1980年代にはあれ程日中交流に熱心だったのに、今はどうしてやっていないのかについてインタビューを受けた。その記事が*4)にあり、この際読み直して、本書の意図に通じていた。

 1989年の天安門事件以降の中国は変わった。日本のバブル崩壊と共に日中の国勢は逆転した。本書の10章で中国の経済学者である凌星光(福井県立大名誉教授)が、「NIRAの理事長として、1981年から1984年、下河辺団長を中心に日本の専門家集団が5回に渡り中国各地を訪問しての中国全土の国土開発について、7点にまとめての報告書を絶賛している。」以下、本書より引用する。

 『日中経済知識交流会の日本側主要メンバーの大来佐武郎、向坂正男、下河辺淳、宮崎勇夫、小林實氏等は、大平正芳首相や稲山嘉實氏等の支援の下、中国の改革・開放政策が成功するために誠意をもって協力した。中国トップクラスは虚心坦懐に日本や欧米先進国に学んだ。中国インテリ層はむさぼるように知識の吸収に励んだ。1980年代以降、小林實氏が「日本は駄目、中国は凄い」と語ったことがある。彼は絶好調の日本が抱える矛盾を見ており、栄える中国の21世紀を見通していた。

 長い日中関係史を見るとき、歴史的に日本は中国に学んできたが、明治維新後は中国の有識者が日本に学ぼうとした。ところが、中国に実益をもたらすには至らなかった。1980年代における日中経済知識交流会に代表される「日本に学ぶ」交流は、中国に大きな実益をもたらした。これは今までの歴史になかったことであり、これからも多分ないであろう。正に空前絶後の日中関係史大事であったと位置づけられよう。

 残念なことに、日中関係は複雑な国際関係に翻弄され、この一大事が正当に評価されず、埋没されようとしている。この一文が、それをすくう契機になってくれることを期待する、と同時に、若い研究者が35年前のこの視察報告書を現地に赴いて検証し、より詳細に客観的評価をしてくれることを願って止まない。』

 1962年の全総、1969年の新全総、1977年の三全総、1987年の四全総、1998年の五全総の全てを指導した下河辺氏は、1987年までの実績から中国を導いたが、五全総ではそのベクトルは全く違ったことは、残念ながら中国には伝えられなかった。

 私自身の体験でも、1970年代の日本のベクトルを伝えたが、1990年代からの中国は、それがそのまま原動力になって、今日に至っている。私が初めて1977年に訪中したときは、文化大革命で破壊された貧しい中国であったが、自然の生態系は素晴らしく、学ぶことが多く、素晴らしい学者にも巡り会った。しかし、今の中国や友人達のことを考えると、実に心配である。

 1980年代末に「日本は駄目、中国は凄い」との小林實氏の考えに私も共鳴した。その頃から40年、今は「日本も駄目、中国も駄目」だ。コロナ禍にあって「禍転じて福と為す」方向にパラダイム転換する時との配慮から、塩谷隆英氏が下河辺淳小伝を著してくださったことに心より敬意を表すると共に、この書を献本くださった阿部和彦氏にも心より感謝申し上げます。

 2021年3月20日、アラスカでは米中が「人権」と「軍拡」を巡って大論争。日本もフリーライダーであり続けることはできない。

*1)塩谷隆英著「下河辺淳小伝 21世紀の人と国土」(2021年3月 商事法務)

*2)尾島俊雄著「現代中国の建築事情」(1980年8月 彰国社)

*3)尾島俊雄著・中国側編集翻訳委員会「日本的建築界」(1980年10月 中国建築工業出版社)

*4)松原弘典著「未像の大国 日本の建築メディアにおける中国認識」(2012年5月 鹿島出版会)

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