2022年6月21日(火)「此の度、息子が新書を出しましたので」と贈られた本を一読して、かねてから非凡な文才を認め、いつか日本の演劇研究者として著名になる縁者の一人と思っていただけに、研究書ならぬドリフターズの新書出版に驚いた。しかし読む程に面白い。また、Blog56でも書いたが、6月11日(土)に妻子と東村山の北山公園に散歩しての帰途、私は東京で唯一の国宝木造建築である正福寺が御開帳とあるから立ち寄ろうと提案したが、それ以上に興味あるのは東村山駅東口の志村けんの銅像を見ることだと言われて唖然!立派な銅像、しかも和服で正装したテレビで見慣れた志村けんのおどけた「バカ殿」の姿と違った立像に加えて、台座には「多くの笑いと感動をありがとう」とあった。
昨今、急激な時代の変化を感じていただけに、敬輔著の第6章「志村けん「喜劇王」への道」の一文『演劇研究の観点から言えば、志村の改革案は小林一三と同じである』と。私の家内の宝塚ファンには長い年月脱帽で、いつか宝塚と小林一三を勉強せざるを得なくなっていたから、小林一三と並ぶ程に志村けんは「家族連れを中心に広く大衆に娯楽を提供するという理念の共通性」に社会的貢献をしたとして、東村山市の小林一三ならぬ名誉市民になったのには、成る程と感じ入ってしまった。
「いかりや」と「けん」の師匠と弟子の互いの立場。不仲と蜜月の物語。本書にあるドリフターズの愛憎入り交じっての語りの表現は、見事と言う他ない。喜劇と悲劇は紙一重という以上に、この世界の価値を改めて教えられた。昭和のエノケンやロッパ、藤山寛美同様、世界のチャップリンを例に出すまでもなく、喜劇やお笑いの世界がもつ価値について、アニメや漫画が日本文化を世界文化にまで展開せんとする時代にあって、日本のお笑いが世界に通じる時代を開くのは、敬輔君の如き存在あってのものかと。
それにしても、敬輔君は富山の配置薬の雄「ケロリン本舗」笹山本家の4代目にして、初めて生まれた男の子で、生まれながらの後継者と期待されていただけに、大学進学に当たってお笑いの道に進みたいと周辺を困らせたことを思い出す。Blog57で、私の母が育った富山県泊町を訪ねた夜、浜多氏と話し合っているとき、現在進行中の西町北総曲輪再開発のキーテナントとして、最初は富山県薬業会館の誘致を考えていたが、その薬業界の中心、内外薬品が広貫堂や大協薬品と合併して富山めぐみ製薬になったことも、この時初めて知った。
1925年、父の姉のみどり伯母が笹山順蔵氏と結婚。アスピリンを配合した鎮痛剤「ケロリン」を開発、製造販売して財を成したが急逝された。ケロリン本舗を継いだ長女の慶子さんが戦後10年以上も個人商店であったことから、富山県の長者番付のトップであった。その婿に、金沢の前田藩菩提寺(宝円寺)の住職次男の中野忠松氏が決まった。その年に忠松氏をリーダーに、小学生の私や三女の洋子さん等と初めて立山登山をしたのが1950年8月。その時から忠松さんは私の兄貴分として、建築学科の大学院生の時には金沢の茶屋で芸者さんとの遊び方を教わったこと。
富山のケロリン本舗で包装の機械化に当たっての工場設計を託され、続いて1966年には東京の市ヶ谷でケロリン本舗の東京支店ビル(住居と店舗・オフィス)の設計を依頼され(施工:松井建設)、このビルの2階を借りて、私が1970年の大阪万博会場設計をするに当たって、日本環境技研(株)を設立。このビルにはなんと著名な建築家(伊藤・黒川・石井・月尾他)も間借りしていた。
1971年には富山の笹山忠松自邸の設計(施工:竹中工務店)をさせてもらったこと。1975年には2人で伊東の山荘(日本で初めてフィンランドから購入した山荘を(株)ジェスで建設)。1975年には忠松氏の長女・満里さんと和紀君の仲人をしたが、残念なことに、1981年には50代の若さで逝去された。
その後、1990年代に満里さんの長男・敬輔君が大学進学を前にお笑い芸人になりたいと引きこもって、みどり伯母様や父の和紀氏を心配させたこと。しかし私が直接面接したときには、全く心配なしと伝えたこと。周辺の人たちの方が富山でお笑い芸人を目指すというのは突飛に思えたようだ。その後、筑波大学の博士論文とにもなった近代演劇に関する研究書「演技術の日本近代」を見て、お笑いの道ならぬ演劇の道を開く「申し子」であったことに気づいた。その彼が今また、家業の薬業と文学との二足草鞋で周辺を驚かせているのは、実に嬉しいことだ。