Blog#77 66年前からの「同級生・星野芳久君」と京橋「伊勢廣本店」で再会して

 

ちくま文庫

 2022年11月、NHKラジオで、今和次郎著『ジャンパーを着て四十年』がちくま文庫で復刻されたことが話題になった。私が早大建築学科に入学した最初の専門必須の授業が今教授の建築意匠で、確かにジャンパー姿の好々爺風であった。今先生直筆の教材は、左頁に先生のイオニア・コリント・ドーリア様式の柱頭装飾図が描かれ、これを右頁に模写するだけ。これが大学の授業かと驚いたが、同じく清水多嘉示講師のヌードクロッキーもまた星野君の描く態度で話題になった。しかし大学を卒業して後、世界中を旅する時のスケッチ(下図の如き)は、写真とは違って、その町の印象を強く残すことに役立った。

 当時の先生方は、全て自分が体験していることを、そのまま実況中継のように講義される。単なる座学ではなく、全てが実演指導であったことを今頃になって想い出すのは、身心で取得させる早稲田式実習授業にあったようだ。

 同様に、この時の同級生との縁が、66年もの間、身体の何処かに染みついていたことが、2022年11月30日、星野君の生家であった京橋の伊勢廣本店が大改築した記念にと昼食を御馳走になった時に甦った。

 招待者の星野君が、この日、招いたのは何故か、早稲田の建築学科に入学したばかりの時に偶然巡り合って、一生の友人になった沼津の大沼巌君であり、6歳も年長の上野忠君、生まれながらのデザイナー然とした阿部勤君で、建築学科を無事に卒業できたのも、この同級生の支えあってのこととか。加えて、山仲間として今日に至るまで全く変わることなく一緒に山歩きをしてきた小林伸也・小林昌一君、そして私の6人だったらしい。その星野君が半年前、この日の招待を決めた後、ベターハーフであった奥様が逝去され、その悲しみと淋しさから立ち直ったことを知らせるために、昔からの仲間との再会を期したという。しかし66年という年月はすっかり仲間達の心身に影響を与えたようで、結局は山仲間であった4人だけの再会となった。

 当日の話題は余りにとりとめもない想い出ばかりであったが、伊勢廣本店の焼鳥は格別で、その上、星野君が持参した資料の中に特筆すべきことがあった。関東学院大学での2006年11月、最終講義の回想録の中に『1945年3月10日の「東京大空襲」で「焼け出された人は可哀想。何とかして家を建ててあげたい」という思いから「建築」の道を歩む』とあった。私自身が『1945年8月1日の「富山大空襲」で「焼け野原になった学校や実家」を建てるため「建築」を志した』のと全く同じであったことを知ったこと。

 1965年、私の井上先生夫妻との米国旅行日記のコピーがあり、フルブライト留学生としてペンシルベニア大学に留学していた当時の星野君「日本では想像を絶する程、勉強している、良い意味でのエリート達よ。頑張ってくれと祈る。赤ちゃんを抱えながら星野夫妻の作ってくれたおにぎりに胸がつまった」と。

 また、栄光学園山岳部OB会編の「ともに登らんあの嶺に」に、3期生の星野君が10期生の高校生6人のリーダーとして、1960年7月末の夏合宿で剱岳(長治郎谷)での雪上訓練中に滑落した鹿児島大の事故現場に立ち合って、人工呼吸まで試みたとあった。この年の7月中旬は星野君と二人、永平寺で座禅を組んでいた筈で、その後、星野君と福井で別れた後、私は富山の自宅でこの剱岳の遭難事故を新聞で知ったことをよく憶えており、まさかこの時の立役者が星野リーダーであったとは今まで知らなかった。しかも大日岳の山小屋の美談まで残していることは知らなかった。何故なら、この頃、私も一人で大日岳に登っていた筈で、改めて、星野君は偉大なる人格者で、学究の徒であることを再認識した次第である。

 この招待の一年前に、星野君から贈られた想い出多い伊勢廣本店の案内を記して、私達山仲間のみならず友人達との集まる場所にしたい。

 『「銀座尾島研究室」にご愛顧いただいた「伊勢廣銀座八丁目店」は昨年9月に閉店しましたが、時を同じくして「京橋本店」を移転新規開店しました。「移転」といっても道路の向かい側に移動したに過ぎないのですが、ある「因縁話」があるので、一筆お届けする次第です。

 忘れもしない大学三年生夏休みのこと。北海道の大雪山系を黒岳(1984m)、旭岳(2290m)と縦走し、更にニペソツ山(2013m)をも越えて、熊の気配ムンムンの裏大雪を踏破して糠平に下山しました。人里離れた僻地でダム建設が進行中、熊に負けない数の建設労務者で賑わっていました。
 我々は、一軒しかないバーで祝杯を挙げました。バーはそれなりに賑わっていましたが、「えっ!学生さん裏大雪やって来たの!?」…バーの女の子は皆われわれの所に集まってしまったのでした。人夫達は腹を立てたのか、足音も荒く、外へ出て行ってしまいました。

 軽く祝杯を上げて宿へ帰ろうとしたところ、バーの外には人夫達がゾロリと。
 -お前たち、学生か?「うん、そうです」。-東京からか?「うん」。-んじや、斉藤さんを知ってるか?「斉藤さんと言われても…」。-東京から来て、知らねえわけはねえだろう?「それは何人か知ってるけど…」。-どんな斉藤さんだ。「ウチの前の斉藤さんは靴屋さんだけど」。
 …その途端に殴り飛ばされ、小生は全治一月半の重傷を負ったのでした。小生はからかったつもりもなかったけど、彼らはとにかく腹いせにぶん殴りたかったのでしょう。

 小生の話は嘘ではなく、伊勢廣の通り向かいには「斉藤靴店」があったのです。そして今般、ちょうど一年前のことですが、伊勢廣京橋本店は再開発計画に協力して、向かいの土地「斉藤靴店跡地」へ移転したのです。
 しかし、時あたかもコロナ禍の真っ最中、諸兄へお知らせする潮時を計っていたところ、今になってしまったわけで、遅くなりましたが、ここに改めてご案内させて頂く次第です。

 伊勢廣は、大正十年、小生の両親が結婚を機に開業し、今年で丁度百年目にあたります。
多くの職人を育ててきましたが、個性と味を守るために暖簾分けはせず、現在は三代目の雅信・進哉兄弟が店を守っています。幸いにして本店(〒104-0031東京都中央区京橋1-4-9)にご来店の節は雅信宛てにお電話下されば幸甚です。本店の電話番号は03-3281-5864。これについては、局番に3が付加される以前のことですが、上野忠君が「二杯で(281)」「ご飯蒸し(5864)」と教えてくれました。

 また、焼鳥屋はそれぞれ「鳥」のロゴを持っていますが、伊勢廣のは昭和18年に母・なをがデザインしたもので、商標登録してあります。』

伊勢廣本店 ロゴデザイン:星野なを(昭和18年)