Blog#108 川村晃生他校注「金葉和歌集」(岩波文庫)と2024年のNHK大河ドラマ

金葉和歌集
(岩波文庫 2023.11.15)

 2024年の正月、日本景観学会でお世話になっていた慶応大学の川村晃生名誉教授から贈られた岩波文庫に添えて「私が日本文学の研究から景観論に入って、自然環境などの研究に移っていった時、その礎となったのはこのような日本の古典文学から得た教養だと思っています。そうした点から言えば、こういう作品を数多く生み出し、世を継いで伝えてきてくれた先人達に深い学恩を感じてもいると言え、感謝しています。(略)」とあった。

 2024年の正月からNHK大河ドラマ「光る君へ」が始まるにつけ、娘が宝島社の「紫式部とその時代」の解説書を見せてくれた。何となく平安時代の常識を学んでおこうと思っていた時、この「金葉和歌集」の贈本であった。

 久し振りの岩波文庫、しかも特別に細かい2段組の字で400頁以上、簡単に一読できる本ではない。同様に、源氏物語はバーチャルな世界であって、作者・紫式部の生きた歴史上のリアルな世界と分けて、今年度のTVを観なければならないと考えたので、先ずは歴史上のリアルな金葉和歌集の時代背景を学ぶことにした。

 平安時代とは「ウグイスナクヨ」の西暦794年、50代の桓武天皇の平安遷都から1185年、81代の安徳天皇が壇ノ浦で崩御した年まで。紫式部が66代の一条天皇の中宮である彰子に仕えた時代の背景について考察する。

 奈良時代、759年頃、大伴家持らによって日本最古の和歌集・全20巻4500首の「万葉集」が編集された。それから150年後の平安時代、菅原道真が太宰府に左遷された頃から藤原一族の摂関政治が始まった。

 905年に紀貫之らによる第一勅撰和歌集として「古今和歌集」、第二勅撰は62代村上天皇の951年「後撰和歌集」、第三勅撰は998年、66代一条天皇時代、藤原公任による「拾遺和歌集」、1086年、72代の白河天皇が藤原摂関依存から天皇親政の復権記念として第四勅撰を藤原通俊らにより「後拾遺和歌集」を編集。然るに73代の堀河、74代の鳥羽、75代の崇徳天皇時代に白河天皇は院政を行い、院宣で源俊頼に下命、第五勅撰「金葉和歌集」を1126年編集する。

 2024年のお正月から毎週日曜、TVでお目にかかる平安朝中期の一番平和な時代の物語を楽しむに当たって、この時代のリアルな社会も知りたくなった。

 1004年の和泉式部日記や1021年には藤原道長の「御堂関白日記」が書かれ、66代一条天皇が藤原公任に下命した第三勅撰「拾遺和歌集」と72代白河天皇が1066年に藤原通俊に下命した第四勅撰の「後拾遺和歌集」が編集された間に起こったリアル世界の物語が、紫式部が生きた時代であること。そんなリアルな平和があってこそ生まれたのが「源氏物語」であり「光る君へ」であった。渡辺淳一の「失楽園」の小説や映画がブームとなった時代を想い出したのは軽率か。

 ある意味、藤原一族の摂関政治から白河天皇が親政を始めた記念に編集された第四勅撰の「後拾遺和歌集」、それすら飽きずに、新たな勅撰和歌集として万葉集の葉に輝く蜜をつけ「仏は涅槃に入らむと欲するの時、世間に金葉の花雨ふると云々」から「金葉和歌集」と命名、編集した。その2年後の1129年に下命者の白河天皇の崩御、編者の源俊頼も逝去した。  今年のくらい正月休みにこんな下調べをする楽しい時間をもてたのは、川村先生からの贈本によることを記して感謝する次第。

 ちなみに、金葉和歌集から鎌倉時代に藤原定家が編纂した「小倉百人一首」に入った歌が五首あり、その中の一首
  大江山いくのの道のとほければふみもまだみず天の橋立(小式部内侍)

Blog#107 令和6年能登半島地震の被災状況から広域避難のあり方を考える

 2024年元旦、16時10分、地震速報!石川県志賀町で震度7(M7.6、150kmの逆断層型地殻変動、4m隆起、1.2m水平地盤変動、深さ10km)「津波、高台へ逃げる!」との女性アナウンサーの絶叫がTV画面から流れ続ける。

 東京は震度3。しかし日本海一帯の広域に拡散する震度6強~5強は異常に巨大である。志賀原発や柏崎原発の安全が気になる。インターネットの情報では、16:30自衛隊の自主派遣で千歳の第2航空団による航空偵察後、石川県の馳浩知事から陸自第10師団に災害派遣要請。同時に空自輪島分屯基地へは1000人の住民避難。しかし、こうした自衛隊の災害出動についてのテレビ報道は全くなく、テレビ各局が同じ絶叫報道にうんざりして、ラジオをつけたまま眠る。

 2日早朝、見覚えのある板塀が続く輪島市の朝市通り、焼け跡の映像が痛々しい。280m四方、200軒以上の民家が全焼した。輪島市の死者15人との報道。金沢市内でも倒壊した住宅の惨状は想像以上。富山や新潟でも液状化により随処で道路が陥没、国道や県道まで寸断。時間経過と共に災害状況が明らかになってくる。

 岸田文雄首相は、人命第一に、自衛隊は2000人から5000人に増員、道路が寸断された地域にはヘリやホバークラフト等、随処で支援活動。建物倒壊による圧死者や行方不明者に救助隊、漁港では地震と津波被害で漁船の転覆。海岸周辺の海の家や住居屋根の崩壊である。
3日からは雨予報とあって、被災した自宅での避難は難しくなってくる。

 1月11日(木)、地震発生から10日目、被災状況が明確になるにつれて「激甚災害」の認定公表。死者213人(関連死8人、安否不明52人)、孤立集落2市1町の22地区3,124人。13市町に開設された398ヶ所の一次避難場所には2万6,000人、断水5万9,000戸、停電1万5,000戸、2次避難所へは182人が移動。金沢市内の体育館を1.5次避難所として101人が身を寄せている。自衛隊は6,200人に増員。車中泊やビニールハウスに避難する人、寒さ対策からの避難場所での関連死が予想され、運動不足、水分補給、トイレ我慢からのエコノミークラス症候群に警報。

 11日夜、BSフジのプライムニュースで馳浩知事がライブで岸田文雄総理を中心とする政府や連携自治体並びに自衛隊や警察・消防等の支援活動が悲惨な被災地で驚く程に機能し、発揮されている。映像でも伝えてくれていたので、本当に安心した。

 「能登はやさしや土までも」との馳知事の心境説明で、関連死を覚悟しても一次避難場所から離れられない能登の人たちのことを考えると、広域避難のあり方として1.5次避難地でのデータベース作成の手間等、DX時代にあって日頃から考えなければならぬことを改めて認識した。

 志賀原発立地から5km圏に志賀町(人口2万4,000人)、10km圏には七尾市(人口6万2,000人)が入る。30km圏には輪島市(3万3,000人)、穴水町(1万500人)、中能登町(1万9,700人)、羽咋市(2万4,000人)、かほく市(3万5,000人)、宝達志水町(1万5,500人)、富山県氷見市(5万4,000人)の合計5市4町がUPZ地域で人口27万7,700人。

2013年10月 視察ルート

「能登の里山里海」地区は2011年6月に世界重要農業遺産システム(GIAHS)に認定されている(図1 2013年10月、私の視察ルートを示す)。

 「日本は世界のまほろば2」(中央公論新社 2015.5)の120p。政府の原子力総合防災訓練で安倍晋三首相が官邸から直接指揮するとの記事が北國新聞10月4日あり。2014年11月2日、震度6強の地震発生し、原発が自動停止、外部に放射性物質が拡散したと想定して、5km圏内住民が即時避難。30km圏内住民が屋内に退避の訓練を実施し、住民が3,700人参加との朝日新聞記事あり。その実態を公表して欲しいと思って問い合わせると、実際には悪天候で道路の寸断等の予想で、十分な訓練が出来なかったとのこと。

2024年1月11日(木)の朝日新聞は「志賀原発リスク露呈。再稼働審査中の2号機(135万kW)については、今回の地震で断層が連動している可能性から要審査。1号機(54万kW)については、建屋近くの道路の段差から活断層の可能性が心配される等。」
 仮に再稼働が許可されても、住民の広域避難対策は不可欠なことは明らかである。とすれば、今回の地震で2次避難を予定している1万人以上の体験をベースに、志賀原発の過酷事故時に備えて、5km圏2万4,000人、30km圏27万人の広域避難対策のデータベースづくりをしておくべきであろう。

 参考までに、日本全国には2次避難に適したセカンドハウスは41万戸、ホテル51万戸、旅館は71万戸で合計196万戸あり、1戸当たり3人としても588万人分のデータ作成が可能で、DX時代にあって検討すべき課題である

Blog#106 年末・年始のピザ窯試作で波乱の辰年スタート

 2023年の年末、渋田玲君に依頼して八ヶ岳山荘で成功したピザ窯と同じ仕様で、殺風景な空地になっていた裏庭にピザ窯をつくることにした。暇になった年末年始、BBQなどで友人達との賑わいを再現しようと考えたが、家族の協力を得られないまま、反対を押し切ってつくらせたピザ窯だけに、その効用を知らせる必要があった。

 12月27日(水)、NPO-AIUE主催の2024年10月の国際会議やDHC協会主催の東京シンポジュームの打ち合わせをした後、このピザ窯を初試用することにして、全てを渋田君に一任した。  窯の火入れや冷凍ピザの解凍から調理まで任せてしまったが、東京の庭で薪を燃やして、煙を出さず、臭いも出さないで窯の温度を300℃まで上昇させるのは実は大変なことであることを十分認識していなかった。ダイオキシン対策から、自宅の庭から出る枯れ葉や剪定した庭木を燃やすことが出来ないため、秋には毎日のようにゴミ出しの一仕事をさせられていた。江戸時代、第五代将軍・徳川綱吉が「犬公方」と呼ばれ、生類憐れみの令によって、どれ程に庶民は迷惑したか、同じことが東京の焚き火禁止令だと日頃話していた自分をすっかり忘れていた。
 当日は近所に迷惑をかけず、ピザ窯を利用する全てを渋田君に任せていたのが功を奏して、写真のようにBBQを楽しむことが出来た。

 この成功に味を占めて、年始に姉の家族が来るというので、今度は自分でピザ窯の火入れやBBQの準備をする。31日、日本橋高島屋SC店の成城石井でピッツァマルゲリータやミニミッツァなどの冷蔵品を購入。モンベルの折りたたみ式焚き火台や着火剤、木炭、非常時用に備蓄されていたガスコンロなどを持ち出し、万全の準備をした。その上で、事前練習として正月元旦に妻や娘に手伝ってもらってピザ窯の加熱を試みるも、煙や煤が出た上、試作のピザ窯は100℃ぐらいで焼き始めたが失敗で、生焼けの上、煤がついてジャリジャリ。臭いや煙を止めるのも大変になって近所迷惑になりかねない。

 幸か不幸か、2日は小雨だったので中止。2022年9月の珠洲地震復興支援に購入していた石川県能登町松沼酒造の「大江山百万石乃白」の純米大吟醸とピッツァの冷蔵品を年賀のお土産にすることにしていたら、なんと元旦の16時から令和6年能登半島大地震の速報である。その上、2日はJALと海保機の衝突・炎上とあって、姉の家族との年賀は、私達の故郷で、被災地になった金沢・高岡・富山に住む親戚縁者たちへの支援策に加えて、東京での広域避難の考え方などの話題尽きず、波乱の辰年が始まった。