7月1日、鹿島建設の平岡雅哉建築設計副本部長から、例年のお中元に本著が贈られてきた。スペインのバルセロナ市は人口162万人、アントニ・ガウディのサグラダファミリアあっての国際観光都市で、それ以上に人口35万人の工業都市ビルバオが年間100万人以上の観光客で賑わっていると聞く。その要因は、フランク・ゲーリーが1997年に設計したビルバオ・グッゲンハイム美術館にある。ネルビオン川に浮かぶ船のようなチタニウムの皮膜で覆われた不思議な建物である。アメリカで最も有名な建築家フィリップ・ジョンソン(1906-2005)をして「我々の時代の最も偉大な建築」と言わしめた作品である。
1959年にフランク・ロイド・ライトがN.Y.で設計したらせん状のグッゲンハイム美術館から半世紀、デジタル革命の申し子の如くに、高価なチタニウムの皮膜を惜しげなく駆使した巨大な造形美に圧倒される建物である。この設計で世界的建築家と認められたフランク・ゲーリーは、2003年にはロサンゼルスのダウンタウン沿いに建つウォルト・ディズニー・コンサートホールもよく似た姿で設計し、2014年にはパリのブローニュの森にルイ・ヴィトン美術館も設計した。一度は彼の作品を見たいと思う以上に、設計者の実像を知りたいと考えていただけに、本書の贈呈はありがたかった。
それにしても、500頁もの大著で、しかも小さな活字に参って、最初は拾い読みのつもりが、二日で完読しての実感は、本当によく書けている。その筈で、ニューヨークタイムス紙の記者で、ピュリツァー賞受賞の建築評論家ポール・ゴールドバーガーによる初の評伝書であった。
カナダのトロントのユダヤ移民の息子として、1929年2月に生まれたフランク・ゲーリーが、やがて世界的ヒーローになるアメリカンドリーム体験記である。私自身が学んだ先輩たちと同時代の1960年代のロサンゼルスで活躍した。ビクター・グルーエンに勤務していた大沼君を1965年に訪ねたときに体験した、その時代の建築界の様子や、数々の国際コンペに暗躍する同世代の建築家とクライアントとの関係など、赤裸々な筆の運びにのめり込んだ二日間であった。久し振りに、自伝を超える評伝の素晴らしさと建築設計の面白さを体感させた著書を贈って下さった平岡氏に敬礼!
ビルバオ・グッゲンハイム美術館の設計で一躍世界的に著名になったフランク・ゲーリーを更に有名人にしたのは、ピュリツァー賞を得た程のポール・ゴールドバーガーの巧みな評伝である。しかも、フランクの生存中にアメリカで出版され、日本でも鹿島出版会から坂本和子さんによって訳され、久保田昭子君も支援したという本書を久しく私の読むところとなった。
このような素晴らしく細密な建築家評伝に相当するのは、日本では丹下健三の評伝を書いた藤森照信氏くらいではなかろうか。残念なことに、フランクのライバルであった磯崎新については、2023年、磯崎アトリエに勤務していた今永和利・佐藤健司・藤本貴子さんらが若い頃の磯崎を知るため取材にみえたが、これからのようだ。
この取材がきっかけで、藤本さんが勤務する法政大学建築学科の創立者である大江広の若い頃を知る人が少ないので、陣内秀信・小堀哲夫・種田元晴・石井翔大さんらを同行するからとの依頼あり。
1970年代、日本建築学会をベースに、芸大の山本学治(1923-1977)と日大の近江榮(1929-2005)、東大の鈴木成文(1927-2010)等が建築家像を巡って、教える者と学ぶ者について10年以上も激論を繰り広げていた、その中心に大江広(1913-1989)が居たことを知る人は、全く居なくなっていた。大江は、建築設計のあり方を巡ってのDiscipline論争をからだで覚えさせ、からだで確かめ、触って確かめる徒弟制度の必要性や、「建築」は“Architect”、「建物」は“Building”と訳すが、その相違についての論争等々。建築学会が有楽町から三田へ移転する前の学会の会議室は、登亭のうな丼を食べながらの激論の場であった。当時がなつかしく思い出される。
改めて、フランクと同時代にあって、日本建築を世界建築のレベルまで高めてくれたのは、黒川紀章(1934-2007)、磯崎新(1931-2022)、槙文彦(1928-2024)、菊竹清訓(1928-2011)、穂積信夫(1927-2024)、池原義郎(1928-2017)等であるも、その評伝が日本語版のみならず、英語版もまだ見受けられないのは残念である。朝日新聞の記者で、松葉清の如き存在が居なくなったことを考えれば、藤本さん等の若い建築評論家に期待するのみで、当時を知る私たちの余生は、彼等、日本を代表する建築家たちの記憶と資料の整理をしなければと考えた次第である。