内田祥哉先生「逝去」と田辺新一君の「COVID-19報告」に接して

 2021年5月3日、建築界で唯一の学士院会員であった内田祥哉先生が96才で老衰のため逝去されたとの朝日新聞報道に、人生百年時代はまだ遠い先に思えた。内田先生は東大建築学科の教授として多くの直弟子を育てられたのみならず、他大学の学者にとっても崇敬すべき指導者であった。

 日本建築学会会長時代には、私自身、副会長として馬前を駈けたことや、日本学術会議の後任として、伊藤滋先生や私を推薦してくださったこと等、全く専門が異なるに拘わらず、何時、何処でお会いしても常に適切な助言をくださったことや、常々先生の御尊顔を拝すると何故か励まされるのだった。

 私が80才を過ぎて隠居の相談をしたところ、2019年の内田先生の年賀状には「まだまだ現役であるべき」との返事。2020年は何事もなく、今年は寒中見舞いで「段々と社会から遠ざかっています 祥」との便りであった。

 同じ丑年生まれで、私より12年先輩として、コロナ禍であっても、まだまだ頼りになる先駆者と考えていただけに、この一筆に限りない淋しさを感じていた。長年の御厚情を謝し、御冥福を心からお祈り申し上げる次第です。

 こんなBlogを書いているとき、空気調和・衛生工学会誌2021年5月号が贈られてきた。

 「新型コロナウィルス感染症の現状とその対策(1)」特集の冒頭に、田辺新一君の報告があった。私自身、この一年半、COVID-19パンデミックは、都市環境分野のみならず、日常生活にも多大な影響を受けているだけに大きな関心事で、多くの文献や資料を読んでいた。

 然るに、田辺君の報告は実に簡にして要を得ており、日本の各界や海外状況をこれ程少ない頁で上手にまとめ上げるには、余程の腕力がなければ書けないと実感する。常々いろいろな学会誌の読みにくさは老化のためのみとは思えない。この田辺リポートは、熟読の上、充分に理解し、役立つ。

 田辺君はこの6月から日本建築学会の会長に就任する上、日本学術会議の建築界を代表する二人の内の一人の会員でもあることを考えれば、このような報告は慣れていることかと、改めて納得した次第。

 内田先生の如き素晴らしい先駆者の逝去に接し、悲しんでいた時に、田辺君の如き良き後輩の活躍が期待できると知って、この長い連休を終えホッとしている。

 田辺リポートのまとめ『感染症が終息した後もその前の世界に戻ることはないと考えられる。この間の経済的な落ち込みは我が国だけでなく世界的に大きく、経済復興に関しても道筋をつけていく必要がある』を最後に引用して。

2021年のゴールデンウィーク(娘との散歩で得た知見)

 東京都民は第3次緊急事態宣言下のゴールデンウィークならぬ10日間ものステイホームをどう過ごしたものかと考えていると、ハイキング姿で娘が散歩に行くというので、取り敢えずお供させてもらうことにした。

 5月2日の日曜日の午前10時頃、都立家政の自宅を出発。娘のスケジュールは、昨日は阿佐ヶ谷、明日は桜台、明後日は石神井川に沿って豊島園の予定とかで、自宅から半径10km程の周辺散歩を予定している様子。

 何はともあれ、同行して驚いたのはスマホの威力である。自宅の練馬区から杉並区の高円寺までは中野区の密集住宅街を抜けて、細い道を上手に間違いなく、その上、面白そうな商店街や公園、曲がりくねった妙正寺川等に沿いつつも、新旧軒を連ねた住宅地や多様な商店、空き地の草花等、スマホのアプリであっという間に解説してくれる。小一時間の散歩は、私にとっては、はとバスの観光案内付きの小旅行の如き時間。長い間一緒に生活しているが、娘とのこんな散歩は初めての体験で、コロナ禍の新常態か。

 家を出る前に見たamazonからの手紙は、10年前に出版した「この都市のまほろば 消えるもの、残すもの、そして創ることvol.1」電子書籍版の売れ筋ランキング第11位おめでとう!」の内容であった。全国800余都市を10年かけてvol.7まで出版したシリーズ本で、走馬観花の旅行記であったが、本日の如きたった半径10km圏の散歩でも充分に楽しい時間。まさに下馬観花の時代である。

 練馬・中野・杉並の各区で一変する住居地域や商店街の景色、同じ商店街でも高円寺の北と南、西と東の区画では全く異なるコミュニティや商店があって、それぞれに楽しく、生き生きしている。結局、娘につられていろいろなものをテイクアウトして、これも娘が持参した大きなエコバッグにたくさんの戦利品ならぬ食品や本等を購入した。高円寺からは重いエコバッグを持って、いつもの帰宅タクシーで環七・新青梅街道で自宅へ。

 3、4、5日の3日間は結局、当日何気なく購入した「手塚治虫の山」(ヤマケイ文庫)、長沢洋著「奥多摩・奥秩父」(山と渓谷社)、斎藤幸平著「人新世の『資本論』」(集英社新書)を熟読して過ごすことになった。

 「2021新書第1位 人類が地球を破壊しつくす時代」20万部突破の新書「有限の地球は行き着くところまできた。」SDGsもグリーンウォッシュで自滅、グリーンニューデールもすでに手遅れで、地球社会はすでに自然本来の回復力(レジリエンス)である臨界点(プラネタリー・バウンダリー)を超えてしまったこと等々を論証した上で、脱成長を目指し、信頼と相互扶助によってコモンを実現する。3.5%の同調者がいれば新天地が創れると説く。五十嵐先生の現代総有論や宇沢弘文先生の「社会的共通資本」を上手に管理することで、アフターコロナ時代の新しい天地創造の方法論がみえてきた。私より50才も若い斎藤氏が、マルクスが資本論で書き残したコミュニズム説や、10才は若く見える五十嵐先生が入会権や財産区に関心を示しての現代総有論も「温故知新」であること。

 しかし具体的に変異ウィルスが地球上で猛威を振るって、今日もまだ暗雲が東京を包囲する。失われた日本の30年は長期停滞であると厳しい斎藤幸平氏は「脱成長にはコモン(水・電力・住居・医療・教育・森林・牧地・土地等)の水平的な共同管理(コミュニズム)の基盤が大切で、三位一体(資本主義の超克、民主主義の刷新、社会の脱炭素化)が不可欠という。NET(Negative Emissions Technologies)や原発、CCS技術は劣悪な解決策で、転嫁の技術に過ぎない。持続的成長(Sustainable Development)は不可能である」と断言する資料を提供して、経済のScale DownとSlow Downのみが目下の脱成長策との説に脱帽する。この要旨が、「手塚治虫の山」で「生きる」ことの尊さを描いた数編のマンガに共通しているのは驚きで、私自身は、結局、何も考えずに、今少し山渓の本を頼りに周辺の山歩きをすることにした。

 5月5日は娘が豊島園散歩と知ったので同行させてもらう。OBの早川潤君が豊島園跡地がハリーポッター館と都立公園にされるに当たって、石神井川に沿って親水空間を再生することで、ヒートアイランド対策のみならず、自らが住むコミュニティ活動を支援して欲しいとの依頼を思い出したからである。

 娘のスマホの威力を借りて再開発中の豊島園周辺の散歩であった。「この都市のまほろば」シリーズで豊島園周辺を取材した時と全く違った周辺視察で、早川君の意図している石神井川の水際を親水空間とする都市公園の計画(春日神社からの参道を利用した石神井川の活用は素晴らしい憩いの空間が生まれる)は、百聞は一見に如かずで、久し振り8千歩以上を歩くことができた。

三浦秀一著「研究者が本気で建てたゼロエネルギー住宅」(2021年1月、農山漁村文化協会出版)を一読して

 ZEH(ゼロエネルギーハウス)に関する著書や翻訳書は、この20余年間に三桁数える程に出版されているが、どれも本気で読む気がしなかった。しかし、三浦秀一君が自分の家を実験台に、本気で建てたという本は本物かと思い、先輩の須藤諭君に、初めての単著出版の筈、何故私の手元に届けられないのかと催促した。その結果、4月17日からの福島原発事故10周年の視察に同行することになり、飯舘村の「風と土の家」で入手する。

研究者が本気で建てたゼロエネルギー住宅 断熱、太陽光・太陽熱、薪・ペレット、蓄電  /農山漁村文化協会/三浦秀一

 視察状況はBlog22で記したが、三浦君の著書を早速一読して気づいたことは、表紙から「実に簡にして要を得ている」「断熱・太陽光・太陽熱・薪・ペレット・蓄電」6点こそがZEHを達成するには不可欠な全ての鍵である。

 しかし、山形に住む三浦宅であれば、薪やペレットは容易に入手できるであろうが、東京での薪の入手やその保管と灰出しは容易でない上、何かと近所様や行政指導もある。この際、私の自宅も出来ないかと考え、先ずは薪の入手を考えると、競争で、しかも60円/kg以上と高価である。自邸の樹木を薪にするのも何かと面倒な様子で、家内が消防署に問い合わせてくれた限りでも、薪ボイラの販売店とよく相談し、安全性に留意するように言われ、さらには庭の落葉や枯れ木を野焼きをするのは近所迷惑な上、絶対ダメだという。大都市では、再生可能な薪などのバイオマス燃料はやはり無理だが、これからの二地域居住時代の田舎生活には三浦宅の実証は絶対に役立つ。別途、Blog13(2021.2.1の小林光先生の二地域居住のゼロエミッション手法も参照)。

福島原発事故から10周年の現地視察

 2021年4月17日(土)早朝5時40分、丸山二郎氏の軽自動車に同乗して自宅出発。関越練馬ICから東京外環・三郷JCTで常磐自動車道に入る。友部SAで休憩。2016年5月の視察時には常磐道が使えず四倉から国道6号を北上したが、今回はあっという間に広野ICを通り過ぎる。右手に福島第二原発の煙突が見えてきたので、手元の空間γ線量計を見ると0.1~0.3µ㏜/h。常磐・富岡ICで県道35号に入ると、まだ9時35分。予定より1時間も早く、待ち合わせた大川原の大熊町仮庁舎(2016年5月、公的施設の発注支援でUR工事)到着。OBで東北芸工大教授の三浦秀一君と待ち合わせる。

 OBで鹿島建設の今泉恭一君の紹介で、大熊町大川原統括事務所の西村正夫・木暮健・村木孝各所長から、環境省の中間貯蔵処理施設での受入分別処理・貯蔵工事について説明を聞く。

 除染廃棄物は焼却処理などでの減容化を行う一方、除去土壌はフレコンパック(1㎥/袋)に封入された状態で仮置場に保管。これを最終処分するまでの一定期間(30年間)安全かつ集中的に管理・保管する。仮置場から約1,400万㎥(2019年7月の集計)の輸送開始で、2022年までに終了予定。

 この工事は8工区に分けられ、その1工区を2021年1月から2023年1月迄の24ヶ月、環境省からの発注工事を鹿島建設(0.6)、東急建設(0.2)、飛島建設(0.2)JVが受注した。福島県内の仮置場から5~150km、1500袋/日(約33万袋)の除染土壌を輸送・受入分別処理する施設であった。

 当方の質問は、仮置場でのフレコンパックの劣化や焼却処分の現場状況、仮置場・仮々置場・一時保管場・積み込み場・汚染土壌の濃度、可燃・不燃・減容化・焼却施設や焼却灰の保管・輸送方法の他、できれば東電・経産省・環境省・国交省・農林省・総務省・復興庁・地方自治体等々の発注者や管理者の現場での理解のされた方、景観や公害対策、立ち入り禁止状況、中間貯蔵施設の詳細等々について学ぶことであった。

 質疑の中で、現場での苦労を知るとともに、整然とした仕事状況に敬意を表した後、11時30分、福島第一原発の処理水タンクの状況を視察せんとしたが、Googleや新聞、TV等々で毎日のように報告されているので、周辺空間線量も相変わらず高いこともあり、2016年も通った国道6号を北上して「道の駅なみえ」に直行する。

 F1処理水タンクの状況は、新聞報道によれば、初期170トン/日から現在は140トン/日、汚染はトリチウムのみなので「汚染水」から「処理水」とすることになった由。

 2020年頃には 1,061基(137万トン貯水可、約1,300トン/基)、2021年3月時時点では 90%が満杯(タンク増設の余地なし)。空きタンクが10%として106基。1,300トン/基/140トン/日=9日/基として、106基×9日≒900日分(2年余で超満タン)。従って、2021年4月17日の現地視察時、2年後から放出開始との菅総理宣言は理解できる。この新聞報道に中国・韓国・ロシアは大使を呼びつけ、日本の状況を厳しく追及しているが、櫻井よしこの反論やIEAの報道から日本の総理発言を支持する立場からも、請戸漁港の実態状況を視察の上、浪江の海鮮食堂で白魚などを試食することにした。

    国      施  設年間放出量(㏃)
  イギリスセラフィールド再処理施設約1,624兆(2015)
  フランスラ・アーグ再処理施設約1京3778兆(2015)
  中国大亜湾原発約42兆(2002)
  韓国月城原発約136兆(2016)
  カナダダーリントン原発約495兆(2015)
*海洋放出は、処理水を大幅に希釈した上で実施。放出するトリチウムの年間総量は、事故前の福島第1原発の放出管理量(年間22兆ベクレル)を下回る水準になるように行う、としている。タンクに保管している水のトリチウム濃度は、約15万~約250万㏃/ℓ。放出期間は30~40年としている廃炉期間内で相当程度の時間が掛かると想定。国際原子力機関(IAEA)グロッシー事務局長は日本の放出量は合法としている。

 請戸漁港や魚市場は土曜日とあって休み。市場や港の整備に比べて、周辺は津波ですっかり荒野になっており、淋しさがこみ上げる。幸い、浪江の海鮮和食処「くろさか」は昼時とあって満員盛況。1600円の特別海鮮丼の白魚・いくら・ウニ・まぐろ等の美味いこと。すっかり気分をよくして「道の駅なみえ」でNHKで放送していた相馬焼のぐい呑みと浪江の米から造った「磐城壽」の生酒と白魚等を田尾家の土産として購入する。

 昼食後は、浪江町「福島水素エネルギー研究フィールド」FH2R(2020年3月竣工)を視察。設置パネル68,420枚、20MWの太陽光発電で10MWの水素製造装置、1,200N㎥/hの水素を製造する建屋(S造、2F、延べ985㎡)。900トンH2/年(東芝エネルギーシステムズ(株)は2017年東芝から分社。

 午後2時、相馬LNG基地(JAPEX 石油資源開発株式会社)を視察する。2018年3月、相馬郡新地町駒ヶ嶺字今神の相馬港4号埠頭に建設された巨大な施設で、LNG地上式タンク23万㎘×2基(2020年)に加えて、LPGタンク1,000トン×2基、気化装置75t/h×2基。福島ガス発電(株)(FGP)の福島天然ガス発電所は2020年には59万kW×2基=118万kW(発電端効率は約61%)。

 相馬共同石炭火力発電に隣接して、東北のエネルギー拠点機能の役割を持ち、新地町のバイオマス発電や熱供給の新施設と共に東日本復興の象徴的施設である。国道115号(中村街道)のバイパストンネル化も完成しており、佐須の「風と土の家」へは予定より1時間も早く到着する。

 田尾夫人の案内で仮設住宅等の廃材で建設されたという横ログ材による「風と土の家」と地元業者が別途縦ログ材を使ったという田尾家の建築物語を聞く。この夜は田尾家で御馳走になる。土産に持参した相馬焼のぐい呑みで、今年初めて浪江米で造った「磐城壽」の生酒に請戸漁港でとれた白魚の刺身とイカの一夜干しに加えて奥様の山菜や地場の牛肉等の手料理を楽しみながら、飯舘村再生の話を聞く。

 震災前6,500人の飯舘村人口が、2021年3月時点で村内居住者1,481人(住民台帳では5,206人)で、殆どが70才以上とか。2025年までに居住者を3,000人に回復するためには、当初30億円/年だった村予算が、震災後は200億円/年となったが、2025年には15億円/年(予測)と減額になるようでは、これからの生活は大変になること。新村長は2016年の訪問時、係長として案内して下さった杉岡誠氏とか。浄土真宗の僧侶で、2020年無競争で当選、44才でなかなかに人気があるとか。長泥地区の土壌で栽培した花(規制委員会の田中俊一氏も参加)について議論。「NPOふくしま再生の会」では地元の山菜を独自に計測して食べているとか。

 翌日の視察予定地としては、深谷「風の子広場」、飯舘「いいたて希望の里学園」(4校統合)の他、飯舘電力(株)やNTTのソーラーパネル、菅野宗夫さん宅と隣接の牛舎を改装した「NPOふくしま再生の会」事務所と研究拠点に加えて、小宮の大久保金一さんのマキバノハナゾノ(いまは水仙が最盛)を視察することになった。

 「風と土の家」はなかなか便利で、自給自足できるように間取りや部屋が配置され、増築も進んでいる隣に「学び舎irori」が建設されていた。

 夜間の雨を心配したが、翌朝は幸い晴れたので、午前8時、田尾氏の案内で昨夜の予定地を走る。予定になかった東北大学の惑星圏飯舘観測所へ。仙台から遠隔運転されている巨大な電波望遠鏡に驚くと共に、天文台の光学望遠鏡はハワイに移設されたとかで、この天文台は村人に毎年星の観測会が開催されていたという。天文台の敷地も田尾さんが鍵を預かっている由。この建屋屋上から周辺が一望できる。国道399は、いわき市では磐城街道と呼ばれ、いわきから川内村、葛尾村を通り、浪江からの114号と交差し、飯舘村の長泥から飯樋の中央を通り、伊達市の月舘、さらに福島市から山形へ抜ける道である。この道こそ放射線に追われた人々が逃げた道である。天文台の屋上から遠望する限りでも、福島第一原発の水素爆発で放射能を帯びたプルームが風に乗って浪江方面から飯舘村へ国道114号の谷間から津島・長泥地区を直撃した。F1から半径5・10・20kmと同心円的に避難した住民たちに比べて、SPEEDIの情報があれば、50kmでも汚染されることから避難させるべき飯舘村住民への避難勧告が遅れたところだ。田尾氏が力説する399号の長泥から葛尾村へ抜ける「ロマンチック街道」と呼ばれる「阿武隈山なみの道」だけは、出来る限り早く除染して開通させたいとの願いは、この場所に立ってはじめて理解できた。当日も吉野桜は満開で、本当に美しかった。特別立入許可証を持つ者だけが見ることが出来るこの「花の道」を除染することで、当地を明るくしたいとの田尾氏の願いが分かった。

2021.4.18(日) 国道399号 長泥立入禁止

 その一方、現状は過酷である。国道399号と県道62号の交差地区周辺の特定復興拠点事業の現場は、今も高濃度の汚染土壌の処理・処分に追われての仕掛けの大きさに驚かされる。今も一般の人々の目に見えない施設も、帰宅してGoogleマップを見ると、現地ではよく見えなかったフレコンパックの山や、ソーラーパネルの海の如き広がり、点在する処理・処分施設の巨大な施設群を見ることが出来る。

 その後、飯樋小学校や陣屋跡、飯舘村役場、道の駅から大久保さんの「マキバノハナゾノ」へ。今度は水仙畑の素晴らしさに感動し、拙著を贈呈。田尾さんの愛娘・矢野淳さんの新会社MARBLiNGの事業に共鳴し、協力者に三浦君を推薦。午後1時、現地解散後、那須の鹿湯で一泊して帰宅する。

塩谷隆英著「下河辺淳小伝 21世紀の人と国土」を読んで

2021年3月19日、(一財)日本開発構想研究所の阿部和彦氏から本書*1)が贈られてきた瞬間、久し振り阿部さんの鋭い嗅覚を感じた。冒頭の推薦者の中村桂子さん同様、決して短くない本書を一気に読んだ。

21世紀の人と国土 下河辺淳小伝

 下河辺さんについては、全くといってもよい程に付き合うことのなかった雲の上の官僚である。唯、二度程強烈に残っている印象を思い出した。

一度目は、私が1979年から1980年にかけ7ヶ月、中国科学院の交換教授として北京と杭州を中心に、中国全土の3市18省1自治区32都市で26回の講義と9回の講演、32回の座談会と23回の宴会を通して交流していたとき*2,3)、下河辺さんの日本での信頼と私の下河辺評を聞かれて、非常に困惑したことである。この間、下河辺氏に関する資料を日本から送ってもらうように依頼したが、新聞や雑誌のコピーばかりであった。1962年の全国総合開発計画以降、1969年の新全総(これが田中角栄の列島改造論のベース)、1977年の三全総(定住圏構想で、私が気に入っていた)等の立役者で、1977年には国土庁の事務次官として、官僚国家・日本の代表者であると答えていた気がする。下河辺さんとは一度も会ったことがない上に、著書も読んだこともないのに、勝手に「日本で最も信頼できる人」等と評していたように思う。

 二度目は、中国から帰国後、1980年から1989年までの10年間、日本建築学会や早大等を通して、なんと80回を超える日中建築交流会を行う間、1985年頃に今一度、当時NIRAの理事長をされていた下河辺さんに新宿の理事長室に呼ばれて、日中研究者の研究費や研究テーマについて話し合う機会があった。当時の記憶は定かではないが、安心して相談できる人と実感、中国での私の勝手な下河辺評は間違っていなかったことに安心した。

 2008年、阿部氏が日本開発構想研究所に「下河辺淳アーカイヴス」を開設した。一見の価値ありで、是非見てくれとのお誘いを受けた。大学の教師のもつ雑本の多さに比べて、如何にも極秘文書と思われる文献・書類の資料集に、なぜ公文書館ではなく民間シンクタンクで預からねばならぬのかと疑問に思った。日本経団連を中心に、国策シンクタンクとしてのNIRAが設立された1970年代に比べて、日本の知識に関する関心のなさに疑問を持ったこと、大学定年後の私は、銀座にオフィスを開いたが、家賃を考えて蔵書は八ヶ岳の山荘に移した。

 2011年11月、建築家の松原弘典君が突然訪ねてきて、1980年代にはあれ程日中交流に熱心だったのに、今はどうしてやっていないのかについてインタビューを受けた。その記事が*4)にあり、この際読み直して、本書の意図に通じていた。

 1989年の天安門事件以降の中国は変わった。日本のバブル崩壊と共に日中の国勢は逆転した。本書の10章で中国の経済学者である凌星光(福井県立大名誉教授)が、「NIRAの理事長として、1981年から1984年、下河辺団長を中心に日本の専門家集団が5回に渡り中国各地を訪問しての中国全土の国土開発について、7点にまとめての報告書を絶賛している。」以下、本書より引用する。

 『日中経済知識交流会の日本側主要メンバーの大来佐武郎、向坂正男、下河辺淳、宮崎勇夫、小林實氏等は、大平正芳首相や稲山嘉實氏等の支援の下、中国の改革・開放政策が成功するために誠意をもって協力した。中国トップクラスは虚心坦懐に日本や欧米先進国に学んだ。中国インテリ層はむさぼるように知識の吸収に励んだ。1980年代以降、小林實氏が「日本は駄目、中国は凄い」と語ったことがある。彼は絶好調の日本が抱える矛盾を見ており、栄える中国の21世紀を見通していた。

 長い日中関係史を見るとき、歴史的に日本は中国に学んできたが、明治維新後は中国の有識者が日本に学ぼうとした。ところが、中国に実益をもたらすには至らなかった。1980年代における日中経済知識交流会に代表される「日本に学ぶ」交流は、中国に大きな実益をもたらした。これは今までの歴史になかったことであり、これからも多分ないであろう。正に空前絶後の日中関係史大事であったと位置づけられよう。

 残念なことに、日中関係は複雑な国際関係に翻弄され、この一大事が正当に評価されず、埋没されようとしている。この一文が、それをすくう契機になってくれることを期待する、と同時に、若い研究者が35年前のこの視察報告書を現地に赴いて検証し、より詳細に客観的評価をしてくれることを願って止まない。』

 1962年の全総、1969年の新全総、1977年の三全総、1987年の四全総、1998年の五全総の全てを指導した下河辺氏は、1987年までの実績から中国を導いたが、五全総ではそのベクトルは全く違ったことは、残念ながら中国には伝えられなかった。

 私自身の体験でも、1970年代の日本のベクトルを伝えたが、1990年代からの中国は、それがそのまま原動力になって、今日に至っている。私が初めて1977年に訪中したときは、文化大革命で破壊された貧しい中国であったが、自然の生態系は素晴らしく、学ぶことが多く、素晴らしい学者にも巡り会った。しかし、今の中国や友人達のことを考えると、実に心配である。

 1980年代末に「日本は駄目、中国は凄い」との小林實氏の考えに私も共鳴した。その頃から40年、今は「日本も駄目、中国も駄目」だ。コロナ禍にあって「禍転じて福と為す」方向にパラダイム転換する時との配慮から、塩谷隆英氏が下河辺淳小伝を著してくださったことに心より敬意を表すると共に、この書を献本くださった阿部和彦氏にも心より感謝申し上げます。

 2021年3月20日、アラスカでは米中が「人権」と「軍拡」を巡って大論争。日本もフリーライダーであり続けることはできない。

*1)塩谷隆英著「下河辺淳小伝 21世紀の人と国土」(2021年3月 商事法務)

*2)尾島俊雄著「現代中国の建築事情」(1980年8月 彰国社)

*3)尾島俊雄著・中国側編集翻訳委員会「日本的建築界」(1980年10月 中国建築工業出版社)

*4)松原弘典著「未像の大国 日本の建築メディアにおける中国認識」(2012年5月 鹿島出版会)

小松幸夫教授の早大最終講義「建築ストック社会の到来とその先に見えるもの」を聴いて

 2020年3月14日に予定していた最終講義がコロナ禍にあって一年間延期したが、本年も対面式で実施出来ず、結局はZoomウェビナーでの講義となった。司会は板谷敏正君で、紹介は高口洋人君。「学生たちに、建築界は新築時代から既築建物の質を高める時代に入っている。然るに、その正確な統計資料さえ日本には存在しなかった。小松先生は、東大・新潟大・横浜国立大・早大と、1968年から2021年の今日に至る半世紀余、一貫して、日本の建築ストック状況を明らかにしてきた」との紹介後に、小松教授の登場(早大西早稲田キャンパス 55 号館 N 棟 1 階大会議室)。

 「1949年12月、文京区関口台で生まれ、西宮の小学校から高校までは関西。1968年の東大入学時は紛争時代。内田祥哉研究室での卒論・修論・博士論文は「建物の耐用性に関する研究」を一貫して行った後、新潟大・横浜国立大を経て、1998年4月、早大の神山幸弘教授の後任として22年間、本日が早大での最終講義になった。」これからも本日のテーマを追求し続けられると聞いて安心する。

 建築の耐久性・耐用性・寿命・償却等々の用語解説と共に、木造分野での杉山英男、十代田三郎、関野克、鋼材では山田水城、コンクリートの松下清、岸谷孝一他、また先達としての真鍋恒博、宇野英隆、高口恭行、飯塚五郎蔵氏等々、私にとっても懐かしい方々の名前が出て、その先生方の研究成果をも見事に語られるのを聴くのは至福の時間。日本の建物が英・米に比べて余りにもサイクル年数や滅失建物平均寿命の少ない原因等についても明確に解説。特に、総務省や学会、財務省令の耐用年数(償却年数と称すべし)の求め方や、その問題点の指摘(寿命は決まるもので、耐用年数は決めるもの等)は当を得ている。

 2008年に私が早大を退職して、(一財)建築保全センターの理事長(2008-2018)に就任していたとき、「公共建築のマネジメント」がこれからの重要テーマとして、財団内に地方自治体と共同研究会をつくった。小松先生はそのリーダーとして最適とあって、何度かお会いしたが、その研究会の成果や研究者達の活躍については、この講義を聴いて初めて、その成果が大きかったことを知った。

 また、先生を早大に迎えたときの歓迎会では、東大・新潟大・横国大等の国立大学に比べて、私学の早大は学生が多い上に、変わった奴がいるから大変。しかし、確か先生は未婚であったことから、定年が長い上に給与も高いから、きっと結婚も出来る筈とご挨拶したような思い出にも浸った一刻でした。

 末筆ながら、その先に見えるものについて、先生の弟子達が先生の指導を得て、少しばかり展望していましたが、まだ十分には見えていないので、是非共、もう20年頑張って明らかにして下さい。日本は、人命のみならず、建築でも世界一の長寿命を達成するために。

 

*「建築ストック社会の到来とその先に見えるもの」の動画(https://youtu.be/Qx40uW2aj_k
*資料のリンク(ダウンロード期限:2021/4/30)https://1drv.ms/u/s!AshriBnIwSCLgYhI0nJdl18VoZ0p3A?e=PczexV

長谷見雄二君の早大最終講義「木造防火都市の夢」を聴いて

 3月13日(土)、都内には「竜巻・大雨・強風・洪水注意報」が発令されていたが、コロナ禍とあって、早大理工57号館での最終講義を在宅(Zoom)で視聴する。

 講義の内容は、長谷見著「木造防災都市・鉄・コンクリートの限界を乗り越える」(2019.9 早大出版部)を参照すると分かり易い。多分、この書に盛り込めなかったであろう実物火災実験の歴史的秘話と共に、産業革命以降の近代建築や巨大都市の発展過程にあっての「火災研究」がもつ影響力の大きさを話すことが当日の主旨と思われ、参考になった。

 長谷見君自身が語る二毛作人生(公務員としての建築研究所時代の1975-97、早大教授としての教育者時代1997-2021)で体験した実物火災実験を通して得た知識が、大災害に至る初期対策や前兆を見分ける「術」に対する教訓は、この講義でよく理解できた。

 私の知る長谷見君は「災害弱者に対する人並み以上の関心の高さ」や「学位論文のフラッシュオーバーの理論解析等を通しての数学力」から、予測される大災害に対して、これからも信頼できる防災対策を提言できる第一人者として、三毛作の人生を成就して欲しい。

——- 忘れないうちに、私と長谷見君の親交記録 ——-

 長谷見君と露崎暁君と二人で書いた卒論「住宅団地のシステム管理研究」を指導して、二人に共通した弱者を思う心根を発見。露崎君は若死にしたが、生命保険金を尾島研に寄附し、それがNPO-AIUEの基金の一部になっている。長谷見君の修論「大型冷却塔の技術評価」では、東京湾岸の海水冷却型火力発電所を空冷にすると、羽田空港は成立しないことを教えた。その成果で渡米費を得て、NTTに職を得た松島君とMITやGEの大型コンピュータセンターの調査を行った。その間に公務員試験に受かって建研へ。

 1982年に提出した学位論文「区画火災の数学モデルとフラッシュオーバーの物理的機構」は、数学科の審査員をして、彼を早大に誘致するよう勧告。1997年に石山修武建築学科主任と建研から身請けする。その際、所長から建研の火災研究を支援する約束をさせられた結果で、今日に至っていた。

 最終講義の参考書は、伊藤滋先生が早大に寄附した東京安全研の所長としての成果である。

3月5日 横浜国立大学主催「トランジション・シティ 都市をめぐる知の交差」シンポジュームを聞いて

  このシンポジュームに参加して、「横浜国立大学に都市科学部が発足して4年、その完成年度に合わせて『都市科学事典』を出版したこと」や「佐土原君が初代の都市科学部長を務めた後、この事典をベースに、大学院で都市イノベーションを実践する研究院長の要職にある」ことを知った。

 これから都市イノベーション学府に学ぶ修士や博士課程の学生たちにとって、このシンポジュームのもつ役割は大きく、パネリストの責任は大きかった。学部では、Urban Science Encyclopedia(都市科学百科事典)を学び、次に大学院では、不確実性なTransition Cityにあって、Urban Innovation(都市を革新する)を実践するための研究を行うという。

 この分野では最先端のパネリスト(早大の伊藤守、東大の福永真弓・吉見俊哉、横国の吉原直樹・佐土原聡教授等)を中心に、十分に演習されていたことを知り、その段取りprocess(進行過程)の良さに驚かされた。

 Zoomウェビナーによるオンライン参加者の私にとって、自宅で、実に気楽にこの横浜国立大学主催の大変な講演を聴講できるということは、世界最大の東京首都圏はすでにspace(物理的空間)からDX(Digital Transformation)時代に入っていることを教えられた。

 既に私のBlogで都市科学事典の素晴らしき挑戦については賛辞を記した。このシンポジュームは、年度内には横国大のホームページやYouTubeで公開予定とのこと。きっと歴史に残る成果を生むと思います。私の研究室に学んだ卒業生たちにも、是非「都市科学事典」と共に、このシンポジュームを視聴し、アフターコロナ時代にあって、これからの私たちの周辺の都市環境を豊かなものにして欲しいと願って。

 敢えて、4人のパネリストの発言で、印象に残ったことを記せば、

・伊藤守教授:紙ベースの事典は既にレガシー、今の学生たちは歴史像をもっていないが、偶然性や不確実性に敏感で、複眼的感受性をもつ。

・福永真弓准教授:オーガニックプロセス。封じ込めての循環生態系としてのサクラマス。自分も変われるし他者も変わるコミュニティ論。

・吉見俊哉教授:1964年の東京オリンピックの成功体験からの断絶。スローダウン、しなやかに末永く、15分の生活圏、グローバリズムはパンデミックと不可分。文理は複眼で、融合は無理。

・吉原直樹教授:過去から学習できない都市と向き合う。隔離からみんなが繋がる都市。レガシーの喪失。

都市科学事典の編集代表者 佐土原聡君の偉業

 2017年4月、横浜国立大学が50年ぶりの新学部「都市科学部」を開設したのを契機に、横浜の出版社・春風社が2021年2月28日、「都市科学事典」(Urban Science Encyclopedia)を出版した。その編集代表を務めたのが、初代都市科学部長の佐土原聡君である。

 佐土原君が4~5年前に、世界人口の2/3が集住する都市問題の課題解決という社会的要請に応えるため、横浜国立大学で多分野の知的資産の蓄積と最新の学術的成果である専門知を文系・理系にかかわらず多分野から集め、それらを連携し、経験知とも融合して実践的に活かす統合知を創り出すための都市科学部を創出する。そのためにも、事典を編集する。ついては、私が50年前に早大で初めて創出した都市環境学について、2頁程で原稿を書いてくれないかとの依頼であった。2頁で都市環境について書くのも大変であったが、それ以上に、最初に都市科学部を創ること自体、大学内での仕事はどれ程困難であり、さらにそのための情報収集も合わせた事典を編集するという途方もない夢を淡々と語る佐土原君の才能と包容力の大きさに驚き、かつ賛同しつつも、成功の可能性は限りなくゼロと予測していた。

 しかし、2017年4月には本当に日本で最初の新学部が横浜国立大学に誕生し、彼が初代の学部長に就任した。また、ネット時代にあって、紙ベースの事典が生まれる筈がないと考えていたのに、コロナ禍にあっても着実に出版作業が進行していて、世界中が緊急事態宣言下に置かれている2021年2月に公刊された。

 2021年3月5日には横浜国立大学編「都市科学事典」出版記念オンライン・シンポジューム「TRANSITION CITY 都市をめぐる知の交差」が15:30~18:00に開催されたのである。このシンポに私もZOOMで参加させてもらったが、この一週間前に佐土原君から事典の贈呈を受けた。1000頁を超える立派な箱入りの事典である。まずは3月2日付の佐土原君のさりげない挨拶文「執筆の感謝と都市科学分野の確立は緒に就いたばかりですが、刷り上がって参りましたので、謹んで贈呈します。」何の気負いも感じられない文面を見ながら、編集代表者としての「はじめに」を読み、10余名の編集委員と380余人の執筆者名(この中に私の研究室のOBが10余人)を眺めながら、手当たり次第に頁を捲って読み始めたら、これが面白くなって止められなくなった。都市科学をかくも面白く、1000頁を超える大著に編集されていたことに対して、ボッカチオの「デカメロン」もかくやありしと思った。1348年のペスト大流行時、フィレンツェ市内の寺院で10人が10日間、一人1日1回語り合った「デカメロン」は、時代が生んだ不朽の名作であるが、まさにコロナ禍にあっての「都市科学事典」も斯くの如くに思われたので、その読後感をハガキに記して、佐土原君への祝辞とした。

 私の研究室OBで教師をしている諸兄には、是非、公費・私費問わず、この事典を入手し、一読をお勧めする次第である。

「建築」と「土木」の語源について

 縄文社会研究会の雛元氏から松浦先生に土木の語源を問うメールがあった。

 土木と同じ建築の語源についても諸説あり、いつかこれを明確にしておくことが必要と考えていた。2021年の私の見解は、“Civil Engineering”を初めて日本語に訳した人は誰かわからないが「土木工学」と訳し、“Architecture”を日本語に訳した人も誰かわからないが「建築」と訳した。唯、その訳語が正しかったかどうかわからないが、明治の初期にこの訳語を普及させた人は、建築については、間違いなく東大の初代建築史教授であった伊東忠太であり、土木についてもよくわからないが、土木学会の式典で、紀元前2世紀頃に記された『淮南子』に基づき命名されたと北大総長の丹保憲仁教授が話され、普及したようである。又、早大建築学科を卒業して、東大土木工学科の教授になった内藤廣君も「土木」と「建築」の語源に関心をもって調べているようだ。

 東大の建築学科は、初期は造家学科と称し、日本建築学会も創設期は造家学会であった。土木学会は工学会からではなかったか。

 言葉は時代の生活・文化と共に変わり、何故そうなったかについてはよく分からないのが普通で、今日使っている中国語の建築や土木の用語も、日本語の翻訳を活用したものと考えられる。

 いずれにしろ、明治維新、日本が欧米文化の輸入に熱心であった時代の訳語で、いつかこの言葉が定着し、更には日本独自の建築や土木の文化が生まれていると考えてよかろう。ちなみに、江戸時代の建築に相当する言葉は「作事」であり、土木は「普請」と称していたようだ。

 以上、私の勝手なBlogに記したいと考えたが、念のため、用語に詳しい松浦茂樹先生と高橋信之先生に教えてほしいとメールした。数日して数十頁の調査資料が送られてきた。余りに多様な説明があったので略記して、両先生の了解を得られれば、私自身のBlogに引用させて頂くことにした。なお、手元にあった伊東忠太の書物を読んで、言葉の定義は時代と共に変わっていくことを実感すると共に、私の専門とする「都市環境」という言葉も、この30年間でずいぶん変わってきた。

 ①伊東忠太著「日本建築の美」(昭和19年6月、築地書店)

 ②伊東忠太著「木片集」(昭和3年5月、萬里閣書房)

 ③岸田日出刀著「建築学者 伊東忠太」(昭和20年6月、乾元社)

 ④読売新聞社編「建築巨人 伊東忠太」(平成5年7月、読売新聞社)

 日頃何気なく使っている用語が定着するためには、大変な歴史やその用語に対する思い入れのある人々の多いこともインターネットや両先生からの資料を読んで痛感した次第である。

「土木」の用語由来

・1869年(明治2年)、民部官土木司が設置され、職制にはじめて「土木」が登場し、明治10年内務省土木局が設置され長く続いた。

・一方、明治元年、会計官が設立されるが、その直前の4月15日の記事に「開墾土木、工事」の用語が記載され、設立後の8月22日の記事に、天竜川堤防修築工事を浜松藩に委任するに当たって、「土木ノ事務タル本官ノ専任に属ス」と土木の用語がある。

・明治2年8月11日、大蔵省から営繕司の事務が民部省土木司に転属。土木事務・公共建築事務のすべてを担当する。

・明治4年7月14日の廃藩置県で民部省廃止につき、土木司は工部省土木寮が所轄するも、土木寮は大蔵省・内務省に移り、明治7年内務省土木寮の営繕事務が工部省に移される。内務省土木寮所轄の建築局が工部省製作料の所管になる。明治10年、寮は局となり、内務省土木寮は土木局となり、1931年(昭和6年)まで55年間続く。

・明治6年刊行の「英和字彙」に”Civil Engineering”が登場し、「土木方」と記されている。

・明治元年刊行の「軍事小典」に「土公兵」なる用語は、Military Engineerを訳したもの。

(以上、松浦氏調査資料より)

「土木」用語の由来

・土木関係者は、2002年5月の土木学会の式典で、丹保憲仁前会長の記念講演で『土木の語源は、紀元前2世紀頃の中国古典「淮南子」に(聖人乃作 為之築土構木 以為室屋上棟下宇 ・・・)』この築土構木からとの説。しかし大正5年頃の土木学会誌で土木ノ改名論に関する激論あるも、築土構木の出典は伝聞としている。しかし、「土木」の二字の歴史は、「淮南子」より3世紀以上前に、中国の「国語」等に2回も登場し、日本でも鎌倉時代の「源平盛衰記」に東大寺建立を叙述したところで「土木(ともく)ノ造録」がある。

「建築」の用語由来

・堀達之助(1823~1894)等編「英和對譯袖珍辞書」(文久2年(1862年)、洋書取調所、出版地:江戸)

   Architect              建築術ノ学者

   Architecture         建築学

 明治4年11月「袖珍英和節用集 全」に同じ訳

・明治2年(1869)薩摩辞書、上海にて印刷刊行

・明治6年(1873)「東京新製活版所蔵版和譯英辞書」

   Architect              建築学者   

   Architecture     建築術

・明治6年(1873)「工学寮・学課並諸規則」

・専門科ヲ分チテ土木・機械・造家・電信・化学・冶金・鉱山ノ七科トシ六ヶ年ヲ以テ卒業ノ期トス。

・明治18年(1885)工部大学校 学課並諸規則

   学課:Build、Construct等に建築

   Architecture              造家

・明治19年(1886)造家学会発足、発行雑誌名「建築雑誌」

   正員は建築学を専修したる者

・明治27年(1894)伊東忠太「我造家学会の改名を望む」(明治30年3月発行の建築雑誌)

・明治30年(1897)造家学会を建築学会に改名

・明治31年(1898)帝国大学工科大学造家学科を建築学科と改名

(以上、高橋氏調査資料より)

尾島の蛇足ですが、

 20世紀後半に輝いた丹下健三や菊竹清訓に代表される日本の建築家や、世界に誇る長大橋や海底トンネルを建設した土木技術者の名声や成果を礎に、建築と土木を合わせた建設産業が花形であった。しかしその時代こそ、日本の失われた30年間であったようで、結果として、日本は世界のDX(Digital Transformation)に乗り遅れた。

 果たして、理工学部の建築学科や土木工学科は、建築学部や社会工学科へと発展・解消する方向に名称を変え始めた。建設業界も”Construction”から”Production”へと、アナログからデジタル技術へ転換、”Architecture”や”Civil”の用語も、BIMやCIM時代にあって、その意味するところが、最近よく使っている人々の声から、建築や土木の専門家ではなく、情報分野に属している人々のようである。

 建設産業界に際立つ高齢化や人手不足、生産効率の低下は、建築や土木の技術や文化に執着した私の世代が世界の潮流に乗り遅れているためであろう。コロナ禍のステーホームでは反省ばかりである。