小林光著の「エコなお家が横につながる」を読む

 元環境省事務次官で、東京大学客員教授といういかにも堅物風の経歴の人が、自身の体験と私生活を露出しての出版「エコなお家が横につながる」(「エネルギー使いの主人公になる」シリーズ1、2021年6月5日、海象社)を熟読する。

 内容は、21年間も自宅(東京都世田谷区)羽根木エコハウスの実践で経験したことや、再エネ電力の活用に尽力されている現場を取材、再エネ電力を多く使うよう訴える、海象社ブックレットのシリーズ第1号である。

 主旨は、エネルギー政策には下克上が必要とあって、この分野は革命最中にあり、私達の日常にもこれから大いなる変化が起こることを予告している。

 第1章「エコハウスを建てた」では、羽根木の自宅で21年間、建て替え前に2100kg/年CO2排出量が、建て替え時1400kg/年と35%減(OMソーラー(株)による内訳のシミュレーション:高断熱による暖房削減31.9%、太陽光発電27.5%、太陽熱床暖房による暖房削減24.3%、太陽熱給湯11.2%、高断熱による冷房削減1%、インバーター蛍光灯0.1%、節水0.1%、その他0.9%)。それから毎年減らして、今日500kg/年と75%も削減した。

 第2章「今住んでいる家でできること」では、電力自由化で、東京電力のみならず東京ガス他、種々の会社が電力を売り始めたが、少しでもkWh当たりCO2発生量の少ない電力を買い取るためにはどうしたらよいか。冷蔵庫やエアコン、テレビ、照明器具など、最近、革命的に効率を上げていることから買い換えが必要。窓やガラス戸の断熱は有効で、そのリフォームは特に効果的であるが、そのためにどうしたらよいか。その他にも、蓄電や直流ワールド他、専門家顔負けの知識である。

 第3章「お家をエコにすると良いこと」では、LEDにすると5年で償却、羽根木のエコハウスは省エネで快適に生活できた上に、35年で償却できた等。

 第4章「共助でエコな生活をするには」では、人口15万人のアメリカの街は、市が再生可能エネルギー起源の増大を図り、ダイナミック・プライシングでピーク需要を減らすなど温暖化対策に取り組んでいる。また、ハワイでは、電力会社が2045年までにゼロエミッションを達成するためと同時に、低所得者対策も実行するプロジェクトを展開。

 日本の島々でも、宮古島や来間島でハワイ電力以上のスマートグリッドの実現に成功していること。現地での調査で、日本でもやればできることを立証している。

 私が注目したのは、福島原発事故後に福島県が再生可能エネルギー開発に取り組んでいる実情である。2040年に県内の需要総量以上に県内生産の再生エネルギー量を達成する由。これはハワイに比べても5年も早い実装で、そのための努力は並みでないことが詳しく記されている。

 他にも地産地消の実例として、福島県の葛尾村(原発事故前の人口1400人、現在は400人)では、太陽光発電と電気自動車、自営線を使って既に実装している他、東日本大震災の被災地では、災害対策を兼ねた地産地消型ゼロエミッション電力供給として、岩手県の久慈市や野田村、葛巻町、宮城県の南三陸町がある。福島県のLNGガスでCGSを使った新地町や水素を製造したことで有名な浪江町については知っていたが、これ程、多種多様な試みがあるとは知らず、DHC協会として、改めてこの地方を調査しなければと思った。

 ドイツの地産地消としてのシュタットベルケについても、私達専門家以上の鋭い見方で詳しく説明されているのも驚きであった。

 第5章では「東京や大阪でできること」として、2021年の東京オリパラ、2025年の大阪・関西万博を機に、水素活用の現況についての報告としてもさすがである。

 さらに興味深いのは、自宅の世田谷区で地産地消をするには自営線がない限り、非常時の役に立たないため、マイクログリッドの必要性について提言されている。電柱・電線の地中化と同時に、巨大都市での分散電源によるマイクログリッド化は、北海道で体験したブラックアウトを防ぐためにも必要なBCD対策である。電力・ガスの自由化で電力会社は発電と送配電が別会社となった。ガス会社もガスの導管会社とガスの販売会社は別会社となり、ガス管や電力線はすべて託送方式になることから、その利用法を巡って料金や災害時の問題等、沢山の問題が起こってくる筈で、この点についても、この小冊子で様々な問題点が指摘されている。

 第6章「生活者目線で物申そう」というまとめの背景には、20世紀の日本はエネルギーの殆どが海外からの輸入とあって、通産省がすべてを仕切っていた。しかし石油や石炭、天然ガスなどの化石エネルギーの大量消費によって、地球温暖化対策が21世紀の大きな課題となり、環境省の出番になった。その大ボスとして小林先生は身を以て対策に当たってこられたことが、本ブックレットの随所に見られたが、最後に、この問題は経産省や環境省の力のみでは達成できず、私達自身の意志や行動にあることを記されている。

 これを拝読して、小林先生の師である高橋潤二郎先生と福澤諭吉先生の教えであることに気づいた。2011年6月、東大の伊藤滋先生と慶応大の高橋潤二郎先生と早大の私が共編した「東日本大震災からの日本再生」の「刊行に寄せて」で、高橋先生は『東日本大震災の復興再生の主体はあくまで地元住民・地元自治体であって、国や大学等の専門家は、その支援は出来ても主体になり得ないことである。「住民更新」を考慮にいれた新たな住民力の開発が要望される』と記されていること。また福澤諭吉の「一身独立して一国独立す」の名言に思い当たった。エネルギーと環境問題は、まさに明治維新ならぬ令和維新にあると考えさせられた。

 

東日本大震災(津波)から10周年(B)

 2021年6月10日(木)、東京を早朝出発。東北新幹線(はやぶさ5号)内で渋田玲君と合流して、午前9時、仙台駅東口のトヨタレンタカー店でアクアに乗る。12日の10時迄にJR八戸駅前のレンタカー店に返却する乗り捨て方式で、三陸自動車道で「石巻南浜津波復興祈念公園」に直行する。

 石巻港I.C.から石巻工業港(外港)を通過すると、日本製紙の煙突やバイオマスチップの巨大な山が現れ驚く。これまで旧北上河口の内港や漁港の被害のみに心を奪われていたが、工場地帯でも大きな被害があったことに気づく。

 石巻南浜復興祈念公園は今年3月末に開園したものの、周辺は今も整備中で、南端の雲雀野駐車場から徒歩で「みやぎ東日本大震災津波伝承館」へ。UFOの如きで、円形屋根の高さは6.9m。この地を襲った津波が到達したときの高さという12分のビデオに改めて緊張。一丁目の丘(築山)の標高10mから、40haの公園全体像と共に、4000人の死亡者(津波に加えて火災の延焼で500人も亡くなられたことを、このビデオではじめて知る)。

 何度か登った日和山の眺めは感無量。予定した時間を越えて善海田池や堤防を視察。想い出多い内海橋(新設)を渡って石ノ森漫画館と旧石巻ハリストス正教会教会堂へ。東西内海橋は撤去されたようでアプローチに迷ってしまった。すっかり解体・再築された市指定文化財として機能している旧ハリストス正教会の建物案内者と話し合う。中瀬公園周辺はすっかり変わったことについて、ボランティアガイドらしき案内者から贈られた令和3年3月改定の「いしのまき案内地図」やこの木造のハリストス教会が奇跡的に流されずに残ったこと、解体・再築された話を聞くにつけ、10年前同様、この公園のシンボルとしての石ノ森漫画館とこの小さな木造教会が、この地の大きなランドマークになり続けていることを実感する。「この都市のまほろばvol.7」をこの女性に返礼として贈る。

 石巻駅から石巻マンガロードとして賑わった通りや石巻港線沿いの鮨店や料理店等が、津波の心配なき土地に移転したことを知り、10年前の美味かった料理店をスマホで調べると、新しい三陸自動車道のI.C.近くに見つける。昼食は割烹「浜長」のミニ海鮮丼、やはり美味かった。

 津波伝承館でのビデオや写真、展示品の数々から、津波の脅威と生命の大切さを教えられ、当地訪問毎に痛みが強くなることに気づく。今度の視察目的は、国営の3つの祈念公園と気仙沼市東日本大震災遺構等を10年後の世界遺産に登録するため、現況を調べることを再確認した上で、R45と併走し復興道路として十分に機能している三陸沿岸道路E45で気仙沼へ。

 気仙沼の被害状況が一望できる場所に、市民を中心に建設されたという「陣山」の気仙沼市復興祈念公園は確かに良い立地で、狭いところであったが眺望は抜群であった。復興著しい港湾や新築された気仙沼湾横断橋(かなえおおはし)と大島への新橋も気仙沼市の新しい観光施設になっていた。その一方で、火攻め水攻めの地獄絵を展開した鹿折地区の災害復興住宅群は、何故か生気なく淋しく思えた。「陣山」直下で何度か訪ねた五十鈴神社の神明崎浮見堂前に、サッポロホールディングスの支援によって三代目となる恵比寿様の銅像が再建されていたのは嬉しかった。

 NHKの朝ドラ「おかえりモネ」の舞台になっている大島へ新しい気仙沼大島大橋(鶴亀大橋)ができていたので直行する。ロケ地はどの辺か分からぬまま、田中浜や浦の浜を見て、浦島トンネルと乙姫トンネルを結ぶ気仙沼大島大橋を再び通って、気仙沼湾横断橋へ。NHKスペシャル「あの日から8年 黒い津波」で、気仙沼湾のヘドロが津波の黒い水となって市民の命を奪ったという番組を見ていたので、状況を連想せんとしたが、ピンとこない程に美しい湾景である。

 この日に泊まった気仙沼プラザホテルからの夕日や露天風呂からの漁港の景観は余りに美しく、10年前、このホテルが体験した戦場の如き慌ただしさに比べて、この日は唯々静かで、美しかったのは、コロナ禍の週日であったからか。気仙沼漁港に並ぶ漁船が全て真新しく勢揃いした景観は、禍い転じて福となったように思われた。しかし内情は、地元民の生活苦が予想以上とあって、それどころではないことを、夜、マッサージ師に教えられた。

 翌6月11日(金)、コロナ禍とあって大広間の朝食は2~3組、昨夜の夕膳や朝食に並ぶ地産地消の食卓の豪華さに驚きながらも、少しでも地元復興に寄与すべくと、男山の地酒をしたたか飲んだ上、深夜のNHK BSテレビ「天安門事件30年」の再放送を最後まで見てしまって、寝不足。

 E45で陸前高田市へ。見覚えのある気仙大橋を9時前に渡って、新設の国営追悼記念施設「高田松原津波復興祈念公園」入口へ。車のナビが開館は9時と告げたので、街中が高台に移転した大船渡線の北側、300haもの土地を8m盛り土造成した新市街地へ、シンボルロードを走る。

 BRTの陸前高田駅の広場に面した気仙大工の技や地場の素材を最大限活かして設計したという隈研吾氏の「まちの縁側」に入る。『気仙大工の家には必ず南側に縁側があるという意味で、ゼロからつくったかさ上げ地のまちの南側端部、家でいえば「縁側」という意味からの巨大な木造公共施設である。当地を訪ねるすべての人に優しい拠点となる観光や福祉、子育て支援、市民の交流、相談の場として、2020年1月末にオープンした複合コミュニティ施設である。

 隈さんや内藤さんをよく知っていると話したら、ボランティアガイドの説明が一段と熱を帯び、この地のまちづくりや公園の素晴らしさを話してくれた。

 彼等の説明資料『内藤氏の公園設計の主旨は、伝承施設と新しい道の駅を含む建物は全長160mで、復興の軸の上にゲートのように配置されており、正面の壁には追悼の意を表すために、亡くなられた方たちの数である18,434個の穴(2018年3月11日時点)が開けられています。海に向かう祈りの軸の線上には、手前に「鏡のような水盤」、緩やかに降りていったところに「式典広場」と「献花の場」、さらに防潮堤の上に「海を望む場」が設けられています。』

 良く出来たパンフレットで、この案内に従って現地を視察することにした。この地を次世代世界遺産として登録することによって、日本のみならず、世界中で自然の恐怖に立ち向かった当地の人々の記憶が永遠に語り継がれる施設になると考えた。東北大震災での津波対策に日本が国家予算の50%に相当する復興費を投下したのみならず、自然災害に対する体験を忘れないためのレガシーとするための研究はこれからが大切である。内藤廣氏は東大土木工学科の教授を務めたことが、この施設計画の素材選定やスケール感覚、堤防や河川の水辺計画に役立っているように思えた。世界遺産登録申請はこの施設を中心にすべきか。

 この地で予定以上の時間をとってしまったので、大船渡駅や盛駅の周辺は立ち寄りだけにして、また唐丹の柴先生や神田先生の別荘もE45から遠望して、「釜石市民ホールTETTO」と千葉学氏の釜石市復興住宅を一見し、「幸楼」へ。予定の11時30分、若女将に「この都市のまほろばvol.7」を贈呈して、10年前に市長や校長等との復興戦略を話し合った修羅場を想い出しながらの昼食。本田敏秋遠野市長や野田武則釜石市長も健在とあって、今日の復興と今後の市勢について話し合う機会を「幸楼」で今一度話し合うことが出来ればと考え、早々に鵜住居駅へ。

 鵜住居駅周辺の区画整理や駅から見える復興スタジアムや市民公会堂、小中学校の使われ方を考えると、新日鉄のような巨大産業拠点の必要性が今更不可欠に思えてくる。宝来館や大槌町文化センターも今一度見たかったが、八戸までの道程を考え、宮古の田老堤防に直行する。田老観光ホテルの津波遺構や周辺の整備状況は、野田村で内藤廣氏が防潮堤を三線堤で構成するようにアドバイスした津波対策に比べて分かりにくい。

 NHK朝ドラの「あまちゃん」ロケで有名になった久慈市では、三陸鉄道の北リアス線の始発駅とJR久慈駅に立ち寄る。すっかり当時の活気は消えて淋しき駅前と町並みになっていたので、八戸へ直行する。E45復興道路は一段と整備されて、BRTの路線の如き道を50km。30分もかからないで青森県の階上I.C.に到着する。海岸沿いのウミネコラインに入らんとしたところ、交通規制で大きく迂回させられる。2020東京オリパラの聖火ランナーが走っていたためだった。種差海岸やウミネコの繁殖地として知られる蕪嶋神社は7年前のまほろば取材時見れなかっただけにゆっくりと散策、本八戸のドーミーイン本八戸へ。この夜は「蔵」という居酒屋風の料理店でせんべい汁と八戸酒造の「八仙」で昨夜の睡眠不足を癒やす。

「北海道・北東北の縄文遺跡」の世界遺産登録を祝して

 2018年11月27日、上田篤先生の体調から東京での研究会開催が困難となり、5年続いた縄文社会研究会は「京都部会」と「東京部会」に分け、別々に開催することになった。全体の会長は、名誉会長として上田篤先生が、顧問は尾島、東京部会の会長は松浦氏、副会長は雛元氏、事務局長に山岸氏と決めた。

 2019年4月7日、東京部会の第1回目は、法人化することで会員を増加させ、会計処理を容易にすることを決める。また雛元氏は、縄文文化を文明とすれば、日本文明は5世紀を起源とするハンチントン説を1万年以上も拡張することができ、日本文明は世界一長期の文明として、第8の付属的世界文明ではなくなるとの提言。この提言は、上田篤先生も長年考えていたところと思われる。その証拠に、上田先生は既に日本建築の木造様式は2万年も継承されてきたことを、雑誌「環」の特集「ウッドファースト!建築に木を使い、日本の山を生かす」(2016年5月10日、藤原書店)の編集をされたことに加えて、京都部会では「建築から見た日本~その歴史と未来~」(2020年10月30日、鹿島出版会)の編集に、京都部会のメンバーを中心に全力を投入されていた。

 その結果として、1万年以上続いた縄文百姓の住居や祭柱の建築技術、縄文以来のライフスタイルや価値観、特に民家は弥生や平安、戦国、さらには現代に至るまで不変と説く。少なくとも、この考え方は上田説と考えられるのみならず、日本の代表的建築界のオピニオンリーダーの合意として、分担部分執筆させたことである。その辺の状況について、田中充子氏は「あとがき」で立証している。

 この京都部会の努力に比べて、東京部会は、コロナ禍とあって、2020年8月、雛元、山岸、尾島等が八ヶ岳山麓で合宿したぐらいである。唯、尖石縄文考古館、井戸尻考古館、中ッ原・阿久・平出遺跡の他、黒耀石の星糞峠、諏訪大社の上社前宮・本宮、神長官守矢資料館等、精力的に調査した結果から、縄文の世界遺産には当地こそ世界遺産登録すべき所で、そのための研究を各自の方法で進めることになった。

 2020年10月、上田篤+縄文社会研究会編の出版を機に、東京部会として、登録に詳しい五十嵐敬喜法政大名教授にこの件を相談する。「北海道・北東北の縄文の遺跡群」が2006年から先行しているので、「少なくとも、その邪魔をしてはならない」との五十嵐先生の説得があった。

 2021年5月にはユネスコの勧告で、これが世界遺産登録確実になった。主な遺跡は①BC1万3000年前の大平山元遺跡は簡素な居住地、②BC5000年前の田小屋野貝塚、三内丸山遺跡は集落の施設が大規模であること、③BC2000年前の大湯環状列石の祭祀場。

 それにしても、1万年以上の時間に加えて空間の分散した縄文遺跡を世界遺産に登録し、保全し続けるためには、地元4道県の関係者の苦労が充分に理解される。それだけに、どのように努力したかについて新聞各紙が多様に伝えてくれるのを詳読しながら、改めて五十嵐先生の忠告に感謝する。

「熱くなる大都市」から「地球温暖化」対策を考える

 日本建築学会「建築雑誌」(2021年5月号)の特集17(暑くなる日本-蒸暑アジアからの挑戦)の論考1に、飯塚悟名古屋大学教授の「日本はどこまで暑くなるのか、そのとき建築や都市はどうあるべきか」、論考2にシンガポール国立大学の「Jiat-Hwee Chang氏とJason C. S. Ng氏の「エアコン近代から低炭素社会へ」という論文があり、この二編に注目した。

 後者の「シンガポールはいかに気候変動の危機に対応しているか」については、一昨日、OGでPwCの田頭亜里さんから「シンガポールの巨大な新都市における地域冷房事業に関して、日本で初めて地域冷暖房を導入した経験をもつ先生の意見を聞きたい」との連絡があった。

 横浜のMM21の地域冷房から学んだというマリーナベイ計画は、目下、大阪・夢洲のEXPO’25とIR計画でも、その事業のあり方を中心にゼロエミッション対策を検討中であった。今や、地球環境への寄与なしの単なる事業収支では、日本からのコンサル業務としてはならないと話したばかりであった。

 シンガポールを筆頭に、ASEAN各国の冷房普及は、個別エアコンの段階から大規模な地域冷房事業へと発展している。1972年に私が設立して、今年で50周年を迎える(一社)都市環境エネルギー協会にとっても、こうした国際的プロジェクトを支援すべく、環境省や経産省、JICA等に協力していたところであった。

 論考1の飯塚教授の論文「日本の東京・大阪・名古屋の最近100年間の平均気温上昇は3.2℃、2.6℃、2.9℃と中小都市の1.5℃上昇に比べて、地球温暖化の0.75℃上昇に対する割合は2.5~3.3倍大きいこと」、また「IPCCの報告である2081~2100年の平均気温上昇4.8℃の予測から、人口減少や省エネが予想される日本の三大都市の気温上昇はこの値以下である点に着目。大都市の都市計画を考えるに当たって、IPCCの地球規模での気候予測モデル(「温暖化ダウンスケーリング技術の建築・都市環境問題への活用に関する研究」で日本建築学会賞(論文)を受賞)を利用し、名古屋市を例に、2030年、2050年、2070年、2090年の気温上昇の状況を算出している。」

 2005年、国交省のヒートアイランド研究会で、スーパーコンピュータを用いた東京のヒートアイランド状況を算定した足永靖信(国総研室長)氏の東京ヒートマップ(CFDによる東京23区全域の熱環境解析)は、東京のヒートアイランド現象を緩和するに当たって、海からの冷風をとり入れる「風の道」研究に役立ったこと。今や脱炭素を目指し、2050年までのゼロエミッションを達成するためには、日本の大都市計画に、飯塚論文は大きな成果で、役立つことは確かである。

 1970年の大阪万国博会場で、世界最大規模の地域冷房を設計した結果、300haの会場に展開したパビリオンや駐車場が、千里の緑の丘をコンクリートと冷房排熱による熱汚染でヒートアイランド現象を起こしていることが人工衛星(ランドサット)からのリモートセンシングで見える化したことから、NHKのTV放送で大きな話題になり、NHKブックスから「熱くなる大都市」(1975年6月)を出版した。その本を高校生時代に読んだのがきっかけで、今やヒートアイランド研究の第一人者・足永靖信氏があることを考えると、OBの飯塚悟君が、IPCCの最先端情報から都市のヒートアイランド現象を予測することによって、日本の企業がASEANの都市計画にとって貴重な情報を提供することになるであろうことは嬉しい限りである。

 昨今では、気象庁のヒートアイランド情報が、毎年、大都市の夏・冬について図解報道されている。こうしたエビデンスに基づいてのまちづくりを考えると共に、大都市に住む私達の日常生活をゼロエミッションにすべく努力すると共に、現役第一線で活躍しているOB・OG達の活躍を見守ることができるのも、ウイズコロナ時のなぐさめであろうか。

内田祥哉先生「逝去」と田辺新一君の「COVID-19報告」に接して

 2021年5月3日、建築界で唯一の学士院会員であった内田祥哉先生が96才で老衰のため逝去されたとの朝日新聞報道に、人生百年時代はまだ遠い先に思えた。内田先生は東大建築学科の教授として多くの直弟子を育てられたのみならず、他大学の学者にとっても崇敬すべき指導者であった。

 日本建築学会会長時代には、私自身、副会長として馬前を駈けたことや、日本学術会議の後任として、伊藤滋先生や私を推薦してくださったこと等、全く専門が異なるに拘わらず、何時、何処でお会いしても常に適切な助言をくださったことや、常々先生の御尊顔を拝すると何故か励まされるのだった。

 私が80才を過ぎて隠居の相談をしたところ、2019年の内田先生の年賀状には「まだまだ現役であるべき」との返事。2020年は何事もなく、今年は寒中見舞いで「段々と社会から遠ざかっています 祥」との便りであった。

 同じ丑年生まれで、私より12年先輩として、コロナ禍であっても、まだまだ頼りになる先駆者と考えていただけに、この一筆に限りない淋しさを感じていた。長年の御厚情を謝し、御冥福を心からお祈り申し上げる次第です。

 こんなBlogを書いているとき、空気調和・衛生工学会誌2021年5月号が贈られてきた。

 「新型コロナウィルス感染症の現状とその対策(1)」特集の冒頭に、田辺新一君の報告があった。私自身、この一年半、COVID-19パンデミックは、都市環境分野のみならず、日常生活にも多大な影響を受けているだけに大きな関心事で、多くの文献や資料を読んでいた。

 然るに、田辺君の報告は実に簡にして要を得ており、日本の各界や海外状況をこれ程少ない頁で上手にまとめ上げるには、余程の腕力がなければ書けないと実感する。常々いろいろな学会誌の読みにくさは老化のためのみとは思えない。この田辺リポートは、熟読の上、充分に理解し、役立つ。

 田辺君はこの6月から日本建築学会の会長に就任する上、日本学術会議の建築界を代表する二人の内の一人の会員でもあることを考えれば、このような報告は慣れていることかと、改めて納得した次第。

 内田先生の如き素晴らしい先駆者の逝去に接し、悲しんでいた時に、田辺君の如き良き後輩の活躍が期待できると知って、この長い連休を終えホッとしている。

 田辺リポートのまとめ『感染症が終息した後もその前の世界に戻ることはないと考えられる。この間の経済的な落ち込みは我が国だけでなく世界的に大きく、経済復興に関しても道筋をつけていく必要がある』を最後に引用して。

2021年のゴールデンウィーク(娘との散歩で得た知見)

 東京都民は第3次緊急事態宣言下のゴールデンウィークならぬ10日間ものステイホームをどう過ごしたものかと考えていると、ハイキング姿で娘が散歩に行くというので、取り敢えずお供させてもらうことにした。

 5月2日の日曜日の午前10時頃、都立家政の自宅を出発。娘のスケジュールは、昨日は阿佐ヶ谷、明日は桜台、明後日は石神井川に沿って豊島園の予定とかで、自宅から半径10km程の周辺散歩を予定している様子。

 何はともあれ、同行して驚いたのはスマホの威力である。自宅の練馬区から杉並区の高円寺までは中野区の密集住宅街を抜けて、細い道を上手に間違いなく、その上、面白そうな商店街や公園、曲がりくねった妙正寺川等に沿いつつも、新旧軒を連ねた住宅地や多様な商店、空き地の草花等、スマホのアプリであっという間に解説してくれる。小一時間の散歩は、私にとっては、はとバスの観光案内付きの小旅行の如き時間。長い間一緒に生活しているが、娘とのこんな散歩は初めての体験で、コロナ禍の新常態か。

 家を出る前に見たamazonからの手紙は、10年前に出版した「この都市のまほろば 消えるもの、残すもの、そして創ることvol.1」電子書籍版の売れ筋ランキング第11位おめでとう!」の内容であった。全国800余都市を10年かけてvol.7まで出版したシリーズ本で、走馬観花の旅行記であったが、本日の如きたった半径10km圏の散歩でも充分に楽しい時間。まさに下馬観花の時代である。

 練馬・中野・杉並の各区で一変する住居地域や商店街の景色、同じ商店街でも高円寺の北と南、西と東の区画では全く異なるコミュニティや商店があって、それぞれに楽しく、生き生きしている。結局、娘につられていろいろなものをテイクアウトして、これも娘が持参した大きなエコバッグにたくさんの戦利品ならぬ食品や本等を購入した。高円寺からは重いエコバッグを持って、いつもの帰宅タクシーで環七・新青梅街道で自宅へ。

 3、4、5日の3日間は結局、当日何気なく購入した「手塚治虫の山」(ヤマケイ文庫)、長沢洋著「奥多摩・奥秩父」(山と渓谷社)、斎藤幸平著「人新世の『資本論』」(集英社新書)を熟読して過ごすことになった。

 「2021新書第1位 人類が地球を破壊しつくす時代」20万部突破の新書「有限の地球は行き着くところまできた。」SDGsもグリーンウォッシュで自滅、グリーンニューデールもすでに手遅れで、地球社会はすでに自然本来の回復力(レジリエンス)である臨界点(プラネタリー・バウンダリー)を超えてしまったこと等々を論証した上で、脱成長を目指し、信頼と相互扶助によってコモンを実現する。3.5%の同調者がいれば新天地が創れると説く。五十嵐先生の現代総有論や宇沢弘文先生の「社会的共通資本」を上手に管理することで、アフターコロナ時代の新しい天地創造の方法論がみえてきた。私より50才も若い斎藤氏が、マルクスが資本論で書き残したコミュニズム説や、10才は若く見える五十嵐先生が入会権や財産区に関心を示しての現代総有論も「温故知新」であること。

 しかし具体的に変異ウィルスが地球上で猛威を振るって、今日もまだ暗雲が東京を包囲する。失われた日本の30年は長期停滞であると厳しい斎藤幸平氏は「脱成長にはコモン(水・電力・住居・医療・教育・森林・牧地・土地等)の水平的な共同管理(コミュニズム)の基盤が大切で、三位一体(資本主義の超克、民主主義の刷新、社会の脱炭素化)が不可欠という。NET(Negative Emissions Technologies)や原発、CCS技術は劣悪な解決策で、転嫁の技術に過ぎない。持続的成長(Sustainable Development)は不可能である」と断言する資料を提供して、経済のScale DownとSlow Downのみが目下の脱成長策との説に脱帽する。この要旨が、「手塚治虫の山」で「生きる」ことの尊さを描いた数編のマンガに共通しているのは驚きで、私自身は、結局、何も考えずに、今少し山渓の本を頼りに周辺の山歩きをすることにした。

 5月5日は娘が豊島園散歩と知ったので同行させてもらう。OBの早川潤君が豊島園跡地がハリーポッター館と都立公園にされるに当たって、石神井川に沿って親水空間を再生することで、ヒートアイランド対策のみならず、自らが住むコミュニティ活動を支援して欲しいとの依頼を思い出したからである。

 娘のスマホの威力を借りて再開発中の豊島園周辺の散歩であった。「この都市のまほろば」シリーズで豊島園周辺を取材した時と全く違った周辺視察で、早川君の意図している石神井川の水際を親水空間とする都市公園の計画(春日神社からの参道を利用した石神井川の活用は素晴らしい憩いの空間が生まれる)は、百聞は一見に如かずで、久し振り8千歩以上を歩くことができた。

三浦秀一著「研究者が本気で建てたゼロエネルギー住宅」(2021年1月、農山漁村文化協会出版)を一読して

 ZEH(ゼロエネルギーハウス)に関する著書や翻訳書は、この20余年間に三桁数える程に出版されているが、どれも本気で読む気がしなかった。しかし、三浦秀一君が自分の家を実験台に、本気で建てたという本は本物かと思い、先輩の須藤諭君に、初めての単著出版の筈、何故私の手元に届けられないのかと催促した。その結果、4月17日からの福島原発事故10周年の視察に同行することになり、飯舘村の「風と土の家」で入手する。

研究者が本気で建てたゼロエネルギー住宅 断熱、太陽光・太陽熱、薪・ペレット、蓄電  /農山漁村文化協会/三浦秀一

 視察状況はBlog22で記したが、三浦君の著書を早速一読して気づいたことは、表紙から「実に簡にして要を得ている」「断熱・太陽光・太陽熱・薪・ペレット・蓄電」6点こそがZEHを達成するには不可欠な全ての鍵である。

 しかし、山形に住む三浦宅であれば、薪やペレットは容易に入手できるであろうが、東京での薪の入手やその保管と灰出しは容易でない上、何かと近所様や行政指導もある。この際、私の自宅も出来ないかと考え、先ずは薪の入手を考えると、競争で、しかも60円/kg以上と高価である。自邸の樹木を薪にするのも何かと面倒な様子で、家内が消防署に問い合わせてくれた限りでも、薪ボイラの販売店とよく相談し、安全性に留意するように言われ、さらには庭の落葉や枯れ木を野焼きをするのは近所迷惑な上、絶対ダメだという。大都市では、再生可能な薪などのバイオマス燃料はやはり無理だが、これからの二地域居住時代の田舎生活には三浦宅の実証は絶対に役立つ。別途、Blog13(2021.2.1の小林光先生の二地域居住のゼロエミッション手法も参照)。

福島原発事故から10周年の現地視察

 2021年4月17日(土)早朝5時40分、丸山二郎氏の軽自動車に同乗して自宅出発。関越練馬ICから東京外環・三郷JCTで常磐自動車道に入る。友部SAで休憩。2016年5月の視察時には常磐道が使えず四倉から国道6号を北上したが、今回はあっという間に広野ICを通り過ぎる。右手に福島第二原発の煙突が見えてきたので、手元の空間γ線量計を見ると0.1~0.3µ㏜/h。常磐・富岡ICで県道35号に入ると、まだ9時35分。予定より1時間も早く、待ち合わせた大川原の大熊町仮庁舎(2016年5月、公的施設の発注支援でUR工事)到着。OBで東北芸工大教授の三浦秀一君と待ち合わせる。

 OBで鹿島建設の今泉恭一君の紹介で、大熊町大川原統括事務所の西村正夫・木暮健・村木孝各所長から、環境省の中間貯蔵処理施設での受入分別処理・貯蔵工事について説明を聞く。

 除染廃棄物は焼却処理などでの減容化を行う一方、除去土壌はフレコンパック(1㎥/袋)に封入された状態で仮置場に保管。これを最終処分するまでの一定期間(30年間)安全かつ集中的に管理・保管する。仮置場から約1,400万㎥(2019年7月の集計)の輸送開始で、2022年までに終了予定。

 この工事は8工区に分けられ、その1工区を2021年1月から2023年1月迄の24ヶ月、環境省からの発注工事を鹿島建設(0.6)、東急建設(0.2)、飛島建設(0.2)JVが受注した。福島県内の仮置場から5~150km、1500袋/日(約33万袋)の除染土壌を輸送・受入分別処理する施設であった。

 当方の質問は、仮置場でのフレコンパックの劣化や焼却処分の現場状況、仮置場・仮々置場・一時保管場・積み込み場・汚染土壌の濃度、可燃・不燃・減容化・焼却施設や焼却灰の保管・輸送方法の他、できれば東電・経産省・環境省・国交省・農林省・総務省・復興庁・地方自治体等々の発注者や管理者の現場での理解のされた方、景観や公害対策、立ち入り禁止状況、中間貯蔵施設の詳細等々について学ぶことであった。

 質疑の中で、現場での苦労を知るとともに、整然とした仕事状況に敬意を表した後、11時30分、福島第一原発の処理水タンクの状況を視察せんとしたが、Googleや新聞、TV等々で毎日のように報告されているので、周辺空間線量も相変わらず高いこともあり、2016年も通った国道6号を北上して「道の駅なみえ」に直行する。

 F1処理水タンクの状況は、新聞報道によれば、初期170トン/日から現在は140トン/日、汚染はトリチウムのみなので「汚染水」から「処理水」とすることになった由。

 2020年頃には 1,061基(137万トン貯水可、約1,300トン/基)、2021年3月時時点では 90%が満杯(タンク増設の余地なし)。空きタンクが10%として106基。1,300トン/基/140トン/日=9日/基として、106基×9日≒900日分(2年余で超満タン)。従って、2021年4月17日の現地視察時、2年後から放出開始との菅総理宣言は理解できる。この新聞報道に中国・韓国・ロシアは大使を呼びつけ、日本の状況を厳しく追及しているが、櫻井よしこの反論やIEAの報道から日本の総理発言を支持する立場からも、請戸漁港の実態状況を視察の上、浪江の海鮮食堂で白魚などを試食することにした。

    国      施  設年間放出量(㏃)
  イギリスセラフィールド再処理施設約1,624兆(2015)
  フランスラ・アーグ再処理施設約1京3778兆(2015)
  中国大亜湾原発約42兆(2002)
  韓国月城原発約136兆(2016)
  カナダダーリントン原発約495兆(2015)
*海洋放出は、処理水を大幅に希釈した上で実施。放出するトリチウムの年間総量は、事故前の福島第1原発の放出管理量(年間22兆ベクレル)を下回る水準になるように行う、としている。タンクに保管している水のトリチウム濃度は、約15万~約250万㏃/ℓ。放出期間は30~40年としている廃炉期間内で相当程度の時間が掛かると想定。国際原子力機関(IAEA)グロッシー事務局長は日本の放出量は合法としている。

 請戸漁港や魚市場は土曜日とあって休み。市場や港の整備に比べて、周辺は津波ですっかり荒野になっており、淋しさがこみ上げる。幸い、浪江の海鮮和食処「くろさか」は昼時とあって満員盛況。1600円の特別海鮮丼の白魚・いくら・ウニ・まぐろ等の美味いこと。すっかり気分をよくして「道の駅なみえ」でNHKで放送していた相馬焼のぐい呑みと浪江の米から造った「磐城壽」の生酒と白魚等を田尾家の土産として購入する。

 昼食後は、浪江町「福島水素エネルギー研究フィールド」FH2R(2020年3月竣工)を視察。設置パネル68,420枚、20MWの太陽光発電で10MWの水素製造装置、1,200N㎥/hの水素を製造する建屋(S造、2F、延べ985㎡)。900トンH2/年(東芝エネルギーシステムズ(株)は2017年東芝から分社。

 午後2時、相馬LNG基地(JAPEX 石油資源開発株式会社)を視察する。2018年3月、相馬郡新地町駒ヶ嶺字今神の相馬港4号埠頭に建設された巨大な施設で、LNG地上式タンク23万㎘×2基(2020年)に加えて、LPGタンク1,000トン×2基、気化装置75t/h×2基。福島ガス発電(株)(FGP)の福島天然ガス発電所は2020年には59万kW×2基=118万kW(発電端効率は約61%)。

 相馬共同石炭火力発電に隣接して、東北のエネルギー拠点機能の役割を持ち、新地町のバイオマス発電や熱供給の新施設と共に東日本復興の象徴的施設である。国道115号(中村街道)のバイパストンネル化も完成しており、佐須の「風と土の家」へは予定より1時間も早く到着する。

 田尾夫人の案内で仮設住宅等の廃材で建設されたという横ログ材による「風と土の家」と地元業者が別途縦ログ材を使ったという田尾家の建築物語を聞く。この夜は田尾家で御馳走になる。土産に持参した相馬焼のぐい呑みで、今年初めて浪江米で造った「磐城壽」の生酒に請戸漁港でとれた白魚の刺身とイカの一夜干しに加えて奥様の山菜や地場の牛肉等の手料理を楽しみながら、飯舘村再生の話を聞く。

 震災前6,500人の飯舘村人口が、2021年3月時点で村内居住者1,481人(住民台帳では5,206人)で、殆どが70才以上とか。2025年までに居住者を3,000人に回復するためには、当初30億円/年だった村予算が、震災後は200億円/年となったが、2025年には15億円/年(予測)と減額になるようでは、これからの生活は大変になること。新村長は2016年の訪問時、係長として案内して下さった杉岡誠氏とか。浄土真宗の僧侶で、2020年無競争で当選、44才でなかなかに人気があるとか。長泥地区の土壌で栽培した花(規制委員会の田中俊一氏も参加)について議論。「NPOふくしま再生の会」では地元の山菜を独自に計測して食べているとか。

 翌日の視察予定地としては、深谷「風の子広場」、飯舘「いいたて希望の里学園」(4校統合)の他、飯舘電力(株)やNTTのソーラーパネル、菅野宗夫さん宅と隣接の牛舎を改装した「NPOふくしま再生の会」事務所と研究拠点に加えて、小宮の大久保金一さんのマキバノハナゾノ(いまは水仙が最盛)を視察することになった。

 「風と土の家」はなかなか便利で、自給自足できるように間取りや部屋が配置され、増築も進んでいる隣に「学び舎irori」が建設されていた。

 夜間の雨を心配したが、翌朝は幸い晴れたので、午前8時、田尾氏の案内で昨夜の予定地を走る。予定になかった東北大学の惑星圏飯舘観測所へ。仙台から遠隔運転されている巨大な電波望遠鏡に驚くと共に、天文台の光学望遠鏡はハワイに移設されたとかで、この天文台は村人に毎年星の観測会が開催されていたという。天文台の敷地も田尾さんが鍵を預かっている由。この建屋屋上から周辺が一望できる。国道399は、いわき市では磐城街道と呼ばれ、いわきから川内村、葛尾村を通り、浪江からの114号と交差し、飯舘村の長泥から飯樋の中央を通り、伊達市の月舘、さらに福島市から山形へ抜ける道である。この道こそ放射線に追われた人々が逃げた道である。天文台の屋上から遠望する限りでも、福島第一原発の水素爆発で放射能を帯びたプルームが風に乗って浪江方面から飯舘村へ国道114号の谷間から津島・長泥地区を直撃した。F1から半径5・10・20kmと同心円的に避難した住民たちに比べて、SPEEDIの情報があれば、50kmでも汚染されることから避難させるべき飯舘村住民への避難勧告が遅れたところだ。田尾氏が力説する399号の長泥から葛尾村へ抜ける「ロマンチック街道」と呼ばれる「阿武隈山なみの道」だけは、出来る限り早く除染して開通させたいとの願いは、この場所に立ってはじめて理解できた。当日も吉野桜は満開で、本当に美しかった。特別立入許可証を持つ者だけが見ることが出来るこの「花の道」を除染することで、当地を明るくしたいとの田尾氏の願いが分かった。

2021.4.18(日) 国道399号 長泥立入禁止

 その一方、現状は過酷である。国道399号と県道62号の交差地区周辺の特定復興拠点事業の現場は、今も高濃度の汚染土壌の処理・処分に追われての仕掛けの大きさに驚かされる。今も一般の人々の目に見えない施設も、帰宅してGoogleマップを見ると、現地ではよく見えなかったフレコンパックの山や、ソーラーパネルの海の如き広がり、点在する処理・処分施設の巨大な施設群を見ることが出来る。

 その後、飯樋小学校や陣屋跡、飯舘村役場、道の駅から大久保さんの「マキバノハナゾノ」へ。今度は水仙畑の素晴らしさに感動し、拙著を贈呈。田尾さんの愛娘・矢野淳さんの新会社MARBLiNGの事業に共鳴し、協力者に三浦君を推薦。午後1時、現地解散後、那須の鹿湯で一泊して帰宅する。

塩谷隆英著「下河辺淳小伝 21世紀の人と国土」を読んで

2021年3月19日、(一財)日本開発構想研究所の阿部和彦氏から本書*1)が贈られてきた瞬間、久し振り阿部さんの鋭い嗅覚を感じた。冒頭の推薦者の中村桂子さん同様、決して短くない本書を一気に読んだ。

21世紀の人と国土 下河辺淳小伝

 下河辺さんについては、全くといってもよい程に付き合うことのなかった雲の上の官僚である。唯、二度程強烈に残っている印象を思い出した。

一度目は、私が1979年から1980年にかけ7ヶ月、中国科学院の交換教授として北京と杭州を中心に、中国全土の3市18省1自治区32都市で26回の講義と9回の講演、32回の座談会と23回の宴会を通して交流していたとき*2,3)、下河辺さんの日本での信頼と私の下河辺評を聞かれて、非常に困惑したことである。この間、下河辺氏に関する資料を日本から送ってもらうように依頼したが、新聞や雑誌のコピーばかりであった。1962年の全国総合開発計画以降、1969年の新全総(これが田中角栄の列島改造論のベース)、1977年の三全総(定住圏構想で、私が気に入っていた)等の立役者で、1977年には国土庁の事務次官として、官僚国家・日本の代表者であると答えていた気がする。下河辺さんとは一度も会ったことがない上に、著書も読んだこともないのに、勝手に「日本で最も信頼できる人」等と評していたように思う。

 二度目は、中国から帰国後、1980年から1989年までの10年間、日本建築学会や早大等を通して、なんと80回を超える日中建築交流会を行う間、1985年頃に今一度、当時NIRAの理事長をされていた下河辺さんに新宿の理事長室に呼ばれて、日中研究者の研究費や研究テーマについて話し合う機会があった。当時の記憶は定かではないが、安心して相談できる人と実感、中国での私の勝手な下河辺評は間違っていなかったことに安心した。

 2008年、阿部氏が日本開発構想研究所に「下河辺淳アーカイヴス」を開設した。一見の価値ありで、是非見てくれとのお誘いを受けた。大学の教師のもつ雑本の多さに比べて、如何にも極秘文書と思われる文献・書類の資料集に、なぜ公文書館ではなく民間シンクタンクで預からねばならぬのかと疑問に思った。日本経団連を中心に、国策シンクタンクとしてのNIRAが設立された1970年代に比べて、日本の知識に関する関心のなさに疑問を持ったこと、大学定年後の私は、銀座にオフィスを開いたが、家賃を考えて蔵書は八ヶ岳の山荘に移した。

 2011年11月、建築家の松原弘典君が突然訪ねてきて、1980年代にはあれ程日中交流に熱心だったのに、今はどうしてやっていないのかについてインタビューを受けた。その記事が*4)にあり、この際読み直して、本書の意図に通じていた。

 1989年の天安門事件以降の中国は変わった。日本のバブル崩壊と共に日中の国勢は逆転した。本書の10章で中国の経済学者である凌星光(福井県立大名誉教授)が、「NIRAの理事長として、1981年から1984年、下河辺団長を中心に日本の専門家集団が5回に渡り中国各地を訪問しての中国全土の国土開発について、7点にまとめての報告書を絶賛している。」以下、本書より引用する。

 『日中経済知識交流会の日本側主要メンバーの大来佐武郎、向坂正男、下河辺淳、宮崎勇夫、小林實氏等は、大平正芳首相や稲山嘉實氏等の支援の下、中国の改革・開放政策が成功するために誠意をもって協力した。中国トップクラスは虚心坦懐に日本や欧米先進国に学んだ。中国インテリ層はむさぼるように知識の吸収に励んだ。1980年代以降、小林實氏が「日本は駄目、中国は凄い」と語ったことがある。彼は絶好調の日本が抱える矛盾を見ており、栄える中国の21世紀を見通していた。

 長い日中関係史を見るとき、歴史的に日本は中国に学んできたが、明治維新後は中国の有識者が日本に学ぼうとした。ところが、中国に実益をもたらすには至らなかった。1980年代における日中経済知識交流会に代表される「日本に学ぶ」交流は、中国に大きな実益をもたらした。これは今までの歴史になかったことであり、これからも多分ないであろう。正に空前絶後の日中関係史大事であったと位置づけられよう。

 残念なことに、日中関係は複雑な国際関係に翻弄され、この一大事が正当に評価されず、埋没されようとしている。この一文が、それをすくう契機になってくれることを期待する、と同時に、若い研究者が35年前のこの視察報告書を現地に赴いて検証し、より詳細に客観的評価をしてくれることを願って止まない。』

 1962年の全総、1969年の新全総、1977年の三全総、1987年の四全総、1998年の五全総の全てを指導した下河辺氏は、1987年までの実績から中国を導いたが、五全総ではそのベクトルは全く違ったことは、残念ながら中国には伝えられなかった。

 私自身の体験でも、1970年代の日本のベクトルを伝えたが、1990年代からの中国は、それがそのまま原動力になって、今日に至っている。私が初めて1977年に訪中したときは、文化大革命で破壊された貧しい中国であったが、自然の生態系は素晴らしく、学ぶことが多く、素晴らしい学者にも巡り会った。しかし、今の中国や友人達のことを考えると、実に心配である。

 1980年代末に「日本は駄目、中国は凄い」との小林實氏の考えに私も共鳴した。その頃から40年、今は「日本も駄目、中国も駄目」だ。コロナ禍にあって「禍転じて福と為す」方向にパラダイム転換する時との配慮から、塩谷隆英氏が下河辺淳小伝を著してくださったことに心より敬意を表すると共に、この書を献本くださった阿部和彦氏にも心より感謝申し上げます。

 2021年3月20日、アラスカでは米中が「人権」と「軍拡」を巡って大論争。日本もフリーライダーであり続けることはできない。

*1)塩谷隆英著「下河辺淳小伝 21世紀の人と国土」(2021年3月 商事法務)

*2)尾島俊雄著「現代中国の建築事情」(1980年8月 彰国社)

*3)尾島俊雄著・中国側編集翻訳委員会「日本的建築界」(1980年10月 中国建築工業出版社)

*4)松原弘典著「未像の大国 日本の建築メディアにおける中国認識」(2012年5月 鹿島出版会)

小松幸夫教授の早大最終講義「建築ストック社会の到来とその先に見えるもの」を聴いて

 2020年3月14日に予定していた最終講義がコロナ禍にあって一年間延期したが、本年も対面式で実施出来ず、結局はZoomウェビナーでの講義となった。司会は板谷敏正君で、紹介は高口洋人君。「学生たちに、建築界は新築時代から既築建物の質を高める時代に入っている。然るに、その正確な統計資料さえ日本には存在しなかった。小松先生は、東大・新潟大・横浜国立大・早大と、1968年から2021年の今日に至る半世紀余、一貫して、日本の建築ストック状況を明らかにしてきた」との紹介後に、小松教授の登場(早大西早稲田キャンパス 55 号館 N 棟 1 階大会議室)。

 「1949年12月、文京区関口台で生まれ、西宮の小学校から高校までは関西。1968年の東大入学時は紛争時代。内田祥哉研究室での卒論・修論・博士論文は「建物の耐用性に関する研究」を一貫して行った後、新潟大・横浜国立大を経て、1998年4月、早大の神山幸弘教授の後任として22年間、本日が早大での最終講義になった。」これからも本日のテーマを追求し続けられると聞いて安心する。

 建築の耐久性・耐用性・寿命・償却等々の用語解説と共に、木造分野での杉山英男、十代田三郎、関野克、鋼材では山田水城、コンクリートの松下清、岸谷孝一他、また先達としての真鍋恒博、宇野英隆、高口恭行、飯塚五郎蔵氏等々、私にとっても懐かしい方々の名前が出て、その先生方の研究成果をも見事に語られるのを聴くのは至福の時間。日本の建物が英・米に比べて余りにもサイクル年数や滅失建物平均寿命の少ない原因等についても明確に解説。特に、総務省や学会、財務省令の耐用年数(償却年数と称すべし)の求め方や、その問題点の指摘(寿命は決まるもので、耐用年数は決めるもの等)は当を得ている。

 2008年に私が早大を退職して、(一財)建築保全センターの理事長(2008-2018)に就任していたとき、「公共建築のマネジメント」がこれからの重要テーマとして、財団内に地方自治体と共同研究会をつくった。小松先生はそのリーダーとして最適とあって、何度かお会いしたが、その研究会の成果や研究者達の活躍については、この講義を聴いて初めて、その成果が大きかったことを知った。

 また、先生を早大に迎えたときの歓迎会では、東大・新潟大・横国大等の国立大学に比べて、私学の早大は学生が多い上に、変わった奴がいるから大変。しかし、確か先生は未婚であったことから、定年が長い上に給与も高いから、きっと結婚も出来る筈とご挨拶したような思い出にも浸った一刻でした。

 末筆ながら、その先に見えるものについて、先生の弟子達が先生の指導を得て、少しばかり展望していましたが、まだ十分には見えていないので、是非共、もう20年頑張って明らかにして下さい。日本は、人命のみならず、建築でも世界一の長寿命を達成するために。

 

*「建築ストック社会の到来とその先に見えるもの」の動画(https://youtu.be/Qx40uW2aj_k
*資料のリンク(ダウンロード期限:2021/4/30)https://1drv.ms/u/s!AshriBnIwSCLgYhI0nJdl18VoZ0p3A?e=PczexV