Blog#51 冠松次郎・槙有恒・深田久弥にかかわる想い出

 2022年2月23日は天皇誕生日の休日とあって、コロナ禍であったが、息子に西武デパートで古書市最終日だからと誘われて出かけた。大学定年後は、月一回必ず、丸善や紀伊國屋書店で1~2時間、面白い本をあさっていたが、最近、何故か面倒になってきていたのに、古書市と聞いて急に興味が湧いたのだ。

 約束の40分間で買い求めた10冊の中で、特に気に入って、その晩に完読したのが冠松次郎の「わが山・わが渓」(昭和17年、墨水書房)と再版「峰と渓」(2002年、河出書房新書)である。

 1949年、12歳の時に初めて体験した3泊4日の立山登山がやみつきになって、中学・高校時代には家の奥庭で遊ぶ気楽な気持ちで、立山・白馬・黒部等、近郊の山や渓のみならず、富士山から中央アルプスまで山仲間と遠征する間に、山小屋やテントの中でガイドや友人達から聞いた山々の伝説で最も忘れられない人の名は冠松次郎(1883-1970)であった。

 何故なら、剱沢から黒部へ下山する度に何度も挑戦しようとして出来ず、冠松次郎だけが、私の生まれた昭和12年に見たという黒部の「幻の大滝」伝説である。当時、冠松次郎は地元のガイド(ボッカ、剱の初登頂行者の類)の一人ぐらいに考えていたため、有名なアルピニストで著書もある人とは考えてもいなかった。この時代から既に70年、最近になってテレビでドローンで空中撮影した「幻の大滝」と、更に近くまでカメラマンや登山家が大変な渓谷を登って近づく場面等が放送されて、やっと本当に「幻の大滝」が存在したことや、幻ではなく実在する秘境の名瀑であったことを知ったが、まさかこの古書市で冠松次郎の古書を2冊も手に出来たのは軌跡に思えた。

 この著書の一節、昭和12年6月記「大勢の力で幻の大滝に近づくも九死に一生を得ての撤退。」

 昭和12年7月記「滝を語る」で「剱岳三千余米突に源を発する剱沢中央部の瀑布・剱の大瀑である。その滝の全貌は今日、未だ吾人の前に展開されていない。」

 昭和13年6月記「剱の大滝の上まで深雪の上をのみ行く今は二時間で楽に着くことが出来た。大雪渓はそこで大きく切れている。そして剱の大滝の頭が雪の底から溢れるように奔出している。私等は数丈の雪崖にステップを切ってそのすぐ上まで降りて見た。脚下は井戸側のように丸く削られた花崗岩の大岩壁だ。その底の方から水煙が雲のように濛々と立ち勝って、剱沢全流の水は棒立ちになって崩落している。下を覗くとまるで底なし井戸だ。私等は瀑布を囲む数百米突の断崖をカメラに収めると来た道をまた上流に引き返した。」

 黒部の秘境・剱沢の「幻の大滝」を一度は見たいと考えていた10代の夢が、80代になってドローンの映像を見て、幻の行者の如き山男・冠松次郎が著名なアルピニストで、その著作で上記の如く、生々しく「幻の大滝」に近づき、一見するために何度も何度も、しかも一人でなく、時には大勢の力を借りて挑戦していたことを今になって知った。 

 この興奮から、このBlogを書きながらもう一冊、建築家槇文彦の叔父・槙有恒(1894-1988)の古書「山行」(昭和23年7月、岡書店)を一読して驚く。なんとこの本に「板倉勝宣君の死(大正12年1月)」の章があった。

 富山高校時代の友達には立山山麓から通学している学生が多く、その一人に雄山神社の宮司の息子(遠北邦彦君)がいて、彼を中心に多くの山小屋に仲間がいたことが幸いして、全国・四季の山々を楽しめた。

 早稲田の建築学科に入ると時間がなく、東京からの山歩きは大変で、土日や春夏の休みくらいになったが、学部・大学院時代の9年間は立山・黒部開山・中興の祖である佐伯宗義代議士別宅での寄宿生活もあって、アルバイトを兼ねての立山山麓を散策する機会が多かった。

 印象に残っているのは、小学校から中学校時代にはまだ称名滝を登って弥陀ヶ原から天狗平・室堂ルートか立山温泉経由、松尾峠かザラ峠ルートで一ノ越ルートが主で、何度もこの道を歩く度に、著名な登山家である槙有恒一行が何故こんなところで遭難したのかを知りたいと思っていた。

 特に大学院2年の5月連休時、立山登頂後に一ノ越で骨折。一本足スキーで天狗平から松尾峠を目指して滑降しつつ、弥陀ヶ原を見ながら、何度も疲れて果てて天を仰いで休みながら、槙有恒の遭難時伝説を想い出して頑張り、下山したこともあり、天候次第でこの辺が一番危険で、一番美しく快適な所と認識していた。しかしこの本のこの章を読むまで、実際の遭難状況を知らぬままに居たことである。

 この生々しい体験記を読みながら、若い頃に何度もこの遭難記に類似した体験をしたことを想い出し、改めて私が山に行く度、下山するまで母がどれほど心配していたかよくわかった。仏壇の母に感謝し、今更、山歩きの危険さを知るのであった。

 ついでにもう一冊、深田久弥著「山頂の想い」(昭和46年7月、新潮社)のあとがきに、妻・深田志げ子は「この本は図らずも自選の最後の山の紀行文集となった」とあり、最初に久弥は「日本百名山その後」として「百の名山は私個人の選択であって、客観的妥当性があるわけでないが、しかし一つの目安にはなると見えて、百のうち自分は幾つ登ったか目次にしるしをつけて、その数のふえて行くのを楽しみにしている読者が多いようである。」また「この本は案外評判がよく、1964年の初版以来、毎年増刷を重ね、今年12刷に及んだ。」

 私自身、この本の初版以来3~4冊は購入し、60座以上に〇印を付している。特に大学院生から一人で山を歩くことが多くなって、いつかこの百名山の簡にして要を得た山案内記は、5万分1地図同様、必携の書になっていた。最近では200名山から300~500名山と誰が編集しているかわからなくなっていたが、そのこともすでに深田久弥(1903-1971)は見越して居たことを教えられた。

 10冊購入の内4冊は山の本であったが、他にも面白い古書が手元にあって、これからは古書の旅に出るのも健康の秘訣と想った次第である。

村上陽一郎著「エリートと教養―ポストコロナの日本考―」(2022年2月10日 中央公論新社)を読んで

 1988年から3年程、東京大学先端科学技術研究センターの客員教授として、伊藤滋先生を中心に、竹内啓・平田賢・村上陽一郎先生と月一回の「東京湾ドレネージ共同研究」(浦賀水道にダムを造ると10万haの海が簡単に干拓できるが、その影響を考える)がきっかけで、2002年に村上陽一郎先生の対談集「安全学の現在」(2003年、青土社)にゲスト出演、「東京の大深度地下ライフラインは生命の安全、生活の安心、人生の豊かさのため建設すべき」と話した。また、2015年4月には「福島原発事故の安全について」お話を伺う機会もあり、村上先生は同じ時代に生きる人生の導師としている。その先生から贈られた中公新書「エリートと教養」なる著書は、久し振り圧倒され、刺激されたので、以下Blogに報告する。

 本書の実体験と実名による毅然とした教養論は、本当のエリートだからこそ書ける、余りに当たり前の教養論であり、それを淡々と書けるのは本当の教養ある人だからこそで、日頃、エリートや教養ある社会と余りに縁のない建設業界にある私には、全て模範や規範とすべき内容であった。

 2022年2月18日19:00~20:30、Zoomを利用したオンラインイベント、Wireless Wire News編集部主催の「新教養主義宣言」で、竹内茂氏が「村上陽一郎氏による私塾として、本書刊行記念特別講義」を開催。これに参加して、久し振り村上陽一郎先生のお元気な様子に一安心。

 私の理解した本書の主旨を忘れないためと、間違いを指摘されることを期待して、以下に略記する。

第一章 政治と教養

人間はサルや猫より劣るのは余計なことをするからである。それをさせないために教養が大切(プーチンのウクライナ攻略等がその実例か)

第二章 コロナ禍と教養

 ペストやコレラ等のパンデミックは、抗生物質の発明で退治できたが、コロナは生物ではないため免疫による他ないことや、不明瞭な社会にあっては、Best解がないこと。コロナ禍にはUnique Solutionはなく、優柔不断は勇気ある行動。

第三章 エリートと教養

 日本学術会議などで「Science for ScienceからScience for Societyへ」として、文理融合と教養の必要性を問うも、今日の大学や社会はStart up起業への投資等、専らお金儲けの時代へ傾く。

第四章 日本語と教養

 お笑い芸人の話す笑えない日本語に迎合するTV番組は「貧すれば鈍す」の象徴。出版・著作等は文化であって、産業ではないこと。

第五章 音楽と教養

 クラシック音楽は質の高い教養、日本の伝統音楽としての田楽や神楽等、日本の多種多様な音楽は十分なる教養と考えてよい。

第六章 生命と教養

 自死や安楽死の考え方については、優柔不断である。弘法大師の説に「生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死んで 死の終わりに冥し」。

おわりに

 「宗教と教養」については、是非、次なる出版を期待。宗教と科学、技術と経済、科学と技術他、 mentalとSpiritual論、Dataはエビデンスで(客観)、Factは仁義で(主観)。

稲門建築会の新年座談会「ゼネコン TWO TOP に迫る!」を聞いて

 2022年1月28日6:15~7:30pm、オンラインで稲門建築会の新年座談会「ゼネコン TWO TOP に迫る!」を聞いた。

 TWO TOPとは、2016年4月、清水建設の社長に就任した井上和幸氏(早稲田学院から早大建築・大学院で田村恭研OB)と、2021年6月に鹿島建設社長に就任した天野裕正氏(開成高校から早大建築学科、安東勝男研OB)で、この二人に迫るのは、稲門建築会会長で、日建設計会長の亀井忠夫氏(早大建築卒)。「迫る!」というから余程激しい討論会になるのかと期待していたところ、早稲田の新年会とは思えぬ、上品で紳士的、しかもこれからのG.C.や日本のあり方を楽しく教え導いてくれる座談会であった。

 この三人が早大で学んだのは1970年代で、早大理工学部が西早稲田から新大久保の新校舎に移った頃である。安東勝男教授が設計し、松井源吾教授が構造、田村恭教授が施工を管理して、日本最初の18階建の超高層ビルである51号館に建築学科教室があった時代である。

 1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博の国威高揚、理工系学部の定員倍増から、1970年代はオイルショックや公害等、高度経済成長期への激変期で、麻雀や山歩きぐらいが学生の娯楽だった。建築学科の卒業生は、設計のみならず、施工や環境方面、大学院進学、更には金融機関等、多方面に就職した時代であった。

 しかし、先生方の就職指導は的確であったことを連想させる彼等の進路選択で、就職後の建設現場での過酷な毎日、日進月歩の設計や施工技術の発展にも真正面から真面目に立ち向かった成果としての今日の社長就任であったこと。無理なく自然体で、堂々たる人生を歩んだことを教えてくれた。司会の亀井氏の進行は実に分かりやすく、スーパー建設会社の実態を教えられ、清々しい話し合いで、あっという間に7:20pmになり、まとめとして建設業界のBefore Afterの段になる。

 両氏は、物づくりの建築現場は「金と物」のマネジメントが全てで、そのためには話し合いとチームプレイが大切という。早稲田大学の建築教育のデシプリンそのものと実感。

 まとめとしての二人の提言は「建築界の長時間労働、高齢化、少ない休日は問題であるも、世界中が激変するこの時代、建築は間違いなく不変で安定した職場であり、『三方良しのESG(環境・社会・企業統治)』の先陣を切っている上、DX時代にあって、BIMや女性の活躍する場を先取りしての革新的職場であり、新しい時代を創り出す中心にあるのは建築界と確信する」と言う。TWOならぬTHREE TOPの意気投合した提言に、明るい建築界の未来を直接聞けたことは、私のみならず、会場やwebで参加した400余人にとって、実に素晴らしい新年の座談会であった。

 最後にコロナ禍の困難な状況下、稲門建築会事務局の皆様に感謝する次第である。

コロナ禍の帰省で「故郷の味」

 2021年12月9日(木)、新幹線の上野駅12:30出発で富山駅途中下車。お土産は上野駅で購入する恒例の品と違って、新しいカステラとキャラメル煎餅にする。

 富山駅14:52着。金沢駅に比べて相変わらず実に殺風景である。南富山行きの市電(LRT)に直行して西町下車、210円。隈研吾設計のガラス美術館「TOYAMA キラリ」はなかなかの景観で安心する。太田口通りへのアプローチはよくなったが、15階建てのマンションが自宅の向かい側に建設され、町の変化が激しい。ギャラリー太田口の(Ⅰ)も(Ⅱ)も、改築構想が定まらない。

 16:00~17:00、西町北総曲輪再開発の近況について、理事長代行の石井隆信氏と相談。主テナント予定の病院がコロナ禍で入居不可能な事態になって、その代替のキーテナントを探すことで、来春こそ本組合立ち上げに合意する。

 高岡から妹夫婦が来てくれて、夜食は高岡の川魚料理「北栄亭」へ。好物のどじょうの唐揚げと柳川鍋、鱈白子の酢漬け、里いもの煮ころがし、三笑楽の熱燗、昆布のおにぎりに白菜の漬け物は郷里の食べ慣れた家庭の味で、すっかり満足して、新高岡駅から新幹線で金沢駅前のANAホテル泊。

 翌10日(金)は一日中、某社の役員会とビジネスコンクール。夜は金城楼で夕食。今が旬の「ぶりしゃぶ」や「蟹」の加賀料理で実に美味しい。加賀鳶の大吟醸酒にすっかり良い気持ちで、ゆとりある人は「ひがし茶屋」へ。夕食からの接待は茶屋の芸者や仲居さんが主で、それぞれに金沢大学文学部の史学科や哲学科の卒業生というインテリだ。ひがし茶屋には20年前にもお茶大卒の芸妓さんが居たが、金沢の茶屋で勤めることは、当時から出世と金持ちへの近道とか。

 しかし、コロナ禍の2年間はインバウンドの旅行客も激減して、政府からの給付金に助けられていた由。コロナ・パンデミックはこの分野に最もインパクトを与えた様子。しかしこの間に考えることや学ぶことも多かったとか。ひがし茶屋の「八の福」の女将、福太郎さんや佳丸、小梅さんの話題は、これまでの酒席では考えられないほど真面目な話が多く、10人程の役員達も三味線や太鼓に手を出す人は居ない。これもコロナ禍の生々しい現況で、23:00にホテルへ。このホテルで何度もお世話になっているマッサージのおばさんに、筋肉はまだ70才の若さと褒められて、熟睡する。

 11日(土)も北陸では珍しく青空とあって、9:00am、金沢駅で土産の銘菓店を覗きながら、年末のお菓子は何処も過飽和と考え、自分用の酒のつまみとしてハタハタ、フグ、金目、のどぐろ等々の干物を購入。富山駅途中下車でコインロッカーへ。

 この日は魚津の金太郎温泉か小川温泉に泊まって、宮崎海岸の寒鱈の味噌汁を食す予定であったが、地元の名士・浜多氏が手配するも超満員で、キャンセルも期待されぬ状況下、長い町の歴史でこんなことはコロナ禍の惨事か珍事という。尤も、お店にとっては嬉しい悲鳴であろうか。仔細は、県内の食事クーポン券の給付であった。この2年間ものコロナの嵐の合間とあってか、「緊急事態ならぬ異常事態発生」という浜多氏からの電話。

 幸い、わざわざ神戸から来てくれた吉國君と、伊東山荘の売却値相当の改修費でギャラリー太田口(Ⅰ)の Book Café 改築設計について現場で相談した後、太田口通りや総曲輪通りを散策して、魚津に寄らず帰京する。

 それにしても新高岡駅や富山駅等の駅内のみならず、周辺にはなんと多くの江戸前すし屋が増したことか。それらの店々は余りに画一的なチェーン店の様子に、本当に地元の”きときと”の魚や旬の料理を出しているのだろうかと心配になる。その上、政府や自治体のバラマキ給付のクーポン券での食事や温泉での憩いは幸せなのか。コロナ・パンデミックの心の傷を癒やす本当の「故郷の味」は来春に延期することにした。

(注) ひがし茶屋街は、1820年に加賀藩主の許可で金沢の中心部に点在していた百軒程のお茶屋を集めて、格子戸と大戸、二階の造りが高い街並みのある公認遊里とした。芸妓も百人余と大いに賑わい、この藩政時代からの伝統を受け継いで、現在、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、電柱・電線も地中に埋設した石畳は美しい。1960年代に加賀藩の菩提寺の一つである宝円寺住職の中野松禅氏の次男・忠松氏と従姉が結婚したことから設計を頼まれ、よくひがし茶屋で遊んで芸者遊びの面白さを知る。その忠松氏と伊東温泉で遊んだときに購入した伊豆高原の土地に1975年建設した山荘を、今年売却することになった。その資金で今度ギャラリー太田口の改装費を充てることになったのも因果である。

 

第18回アジア都市環境学会(北九州市立大学拠点)に出席

 2020年に中国の青島理工大学で予定していた第17回の国際会議がコロナ禍とあってweb開催となったため、2021年度も青島開催になった。しかし、これも第5波のコロナ禍とあって、2021年の第18回アジア都市環境学会は、国と国との交流はできないが、同一国内であれば比較的自由に動けることから、中国は長春と青島、韓国は大邱、日本は北九州で対面での異例の国際会議になった。

 12月4日午前10時30分に、私は北九大ひびきのキャンパスで参加。80人程の聴講者と主催者の先生方20余名は4ケ所の拠点を結んで、大変な通信装置を駆使しての合同講演会になった。開会挨拶は初代の尾島、2代目の尹軍、3代目の洪元和会長がそれぞれの国から挨拶し、基調講演はD.バート氏で「Beyond the 3posts, Post-Modern, Post-Industry, Post-Corona」のテーマで30分間、多様な画像を示しての熱演で、それぞれの拠点に集まった聴講者や自宅でオンライン参加している総勢300~500余人にとっては、不幸中の幸いの一般公開講演になった。これも大会運営委員、特に高偉俊教授と研究室の大学院生達の支援によるもので、北九州市の役員もこの国際会議には大変満足している様子を実感する。

 昼食の金鍋の弁当はなかなかの質。午後の論文発表会は多拠点でwebを利用し、司会者と解説者、発表者は、4拠点会場からの質疑に対しても、英語を駆使しての国際会議は大成功と思われる。最後にwebで、第19回は横浜国立大で開催するに当たってのプレゼンは佐土原聡副学長。久し振りに4時間も大教室での論文発表会を、しかも英語での聴講に疲れも並みではない。

 手元に配布された”18th International Conference of Asia Institute of Urban EnvironmentのJournal of A.I.U.E”( Special Issue:AIUE2021@Hybrid Conference in Qingdao(China),Daegu(Korea),Kitakyushu(Japan) Dec.4th-5th)はNET536頁の論文集で、100余人の発表者からなる。

 懇親会は学生たちとは別に車で移動、小倉でも著名な料亭・観山荘別館へ。なかなかに立派な料亭で、D.バート、福田、高教授等、OBの接待を受けたのは、東京から出席した高口洋人、吉田公夫、私の3人。地元福岡の酒は繁枡で、座敷・庭の一如景色もなかなかにして、久し振りOB達との懇談は教師冥利に尽きる。北九大に留学している東南アジアからの留学生は博士過程が多い。その論文受理には福田、高、バートの3人の審査委員チームが最適で、建築のみならず、早大理工大学院の学生も対象にするという。各自50余人を担当する学生の内訳は、博士20、修士15、学生10、他という一般の私立大とは反対の逆ピラミッドで、これが大きな戦力である。博士の教育ができない東南アジアの途上国を支援できるのは、これからの20年程で、今が大切な時代との結論。

 かくして2日目の長い一日が終わって、リーガロイヤル小倉での休息は快適。マッサージのおばさんは10年前に北九大の清掃員であったことから、創立期からの10余年間、北九大の先生や学生たちの裏話を心地良く聞かせてもらった。

第1日目は「ふく一」での白子三昧コース、ふく料理に最適の佐賀の大吟醸酒・鍋島に続いての二日目もまた素晴らしい接待に感謝のみ。

 3日目は快晴であったが、学生たちは朝から一日論文発表とあって、私と吉田君は福田・バート氏の案内で福岡市へ。北九州市から1時間程で福岡市内の見覚えのある渡辺通りに到着。途中、磯崎新設計のJR博多駅前の西日本シティ銀行本店が撤去されたことや航空規制が改正され、天神の建物高さを上げることができ、天神ビッグバン再開発が行われていること、地下街の災害時利用を考えて尾島研OB達が実態調査をしたその後や、古谷研OBの平瀨有人君等の作品が注目されていること、アクロス福岡に代表されるグリーン建築の成功実態、再開発による環境問題として、特にエネルギーインフラについて心配している由。これが三日目にわざわざ2人で都心案内した理由と思われたので、早速、(一社)都市環境エネルギー協会で「天神都心BCD特別委員会」を東京で発足させた時の中心スタッフになる了解を得る。都市再開発緊急整備地区としてのみならず、安全確保地エリアに含まれていると思われる大名小学校跡地活用とザ・リッツ・カールトン福岡等の高層複合ビルの再開発現場を視察。黒川紀章設計の福岡銀行本店は、幸い撤去の話題になっていないことにホッとして、この建物内オープンスペースでコーヒータイム。その後、重松氏や日本設計の再開発ビルを見学。アクロス福岡のステップガーデンの20年間の変遷画像や旧福岡公会堂貴賓館、平瀨君の作品に満足して、昼食は河岸のステーキ。話題が尽きずゆっくりしてしまって、急いで地下街を視察後、空港へ。

 翌6日の午後、(一社)都市環境エネルギー協会で、早速、福岡市の状況をネットで確認。中嶋理事や井原部長と来年度の特別委員会について検討を深めることにした。同時に、アジア都市環境学会の第1回国際会議が2001年7月、北九州市で開催されて20周年を機会に、北九州を本部とする法人化と東南アジア諸国の支部を設立、支援することにした。

江戸東京博物館の特別展「縄文2021―東京に生きた縄文人」を見て

 2021年11月24日(水)、飯田橋での研究会に出席した快晴の午後、突然、江戸東京博物館で、特別展「縄文2021―東京に生きた縄文人―」と共に企画展「ひきつがれる都市の記憶―江戸東京3万年史」が開催されているとの情報に驚く。先週の縄文社会研究会・東京部会で北海道・北東北の縄文遺跡世界遺産登録に続いて「甲信越の縄文遺跡(現・日本遺産)」を世界遺産に登録する活動を開始したばかりで、その時も北関東の縄文遺跡をどうするか、気になっていたからである。

 何はともあれ、12月5日までの開催とあって、午後4時を過ぎていたが、JR両国駅から殺風景な線路沿いを歩いて、何度も訪れたことのある階段を上って、洪水対策とはいえ全く人気のない面倒な3階の空中階でチケットを購入。

 先ずはエスカレーターで1階の「縄文2021―東京に生きた縄文人―」展へ。参観者の割には立派な展示物にホッとして一通り視察する。多摩ニュータウンの開発時に問題になっていた縄文遺跡を中心とする埋蔵文化財を多数収蔵してきた東京都埋蔵文化センターと江戸東京博物館と国立歴史民族博物館の協働というだけに充実している。

 帰宅して、「東京に生きた縄文人」(2021.10.9 TOTO出版)で、館長の藤本照信氏と山田昌久氏(東京都立大名誉教授)との対談「縄文人の智恵」を読んでのインパクトは絶大であった。

 江戸東京たてもの園の特別展「縄文竪穴式住居復元プロジェクト」(2021年2月3日~8月1日)の報告にある1930年;八幡一郎指導の戌立(いんだて)遺跡復元家屋写真、1949年;堀口捨巳の尖石の与助尾根遺跡復元、1951年;藤島亥治郎の平出(ひらいで)遺跡復元、1951年;関野克の登呂遺跡復元写真、岩手県の芝棟写真、他に関する藤森解説は実に明解であった。

 関東地方縄文海進と貝塚分布図を見ると、縄文人の生活にとって海との関係は強く、丸木舟や大森貝塚の展示と共に、伊豆諸島の縄文時代遺跡など、全く新しい知見を得た。土器を使った食文化に海産物が入ってこそ和食文化の「かたち」で、縄文人の暮らしにこそ、その源があることもこの縄文2021・特別展で教えられた。

 少々不自然に思えた5階の常設展示室内の企画展「ひきつがれる都市の記憶―江戸・東京3万年史―」も、この特別展を参観しての後であったが故か、無理なく観覧することになった。

 第一章の旧石器から古墳時代までの暮らしとして、縮尺1/10の縄文時代中期の住居、1階の丸木舟展示、縄文後期、品川・大田区での大森貝塚出土の土器(複製)、弥生時代の文京区本郷の壺形土器(複製)、古墳時代の大田区の埴輪。第二章の奈良時代から鎌倉時代の武蔵国では、国分寺市の武蔵国分寺跡出土の瓦、平安時代では八王子市の白山神社経塚出土資料。第三章の江戸の成り立ちでは太田道灌「山吹の里」(江戸名所図会)、八王子城址出土資料等。第四章の江戸時代以降の400年間、この吹き抜けた大展示スペースに収められている江戸東京博物館収蔵62万点からの出展である。

 「江戸東京3万年史」というタイトルを見て大法螺企画にと思えたが、「都市の記憶として」引き継いでいると解釈すれば分からぬでもない。日本文明はAD500年以降の1500年との解釈を、これを機会に3万年としても良いのか、都市は少なくとも文明の産物とすれば、である。それとも日本文化3万年・文明1500年と称すべきか。

 縄文社会研究会・東京部会としては、このような企画展や特別展で大々的に東京や関東地方縄文海進と貝塚分布図、衣食住の生活面で、現在の東京人との密接な繋がりが展示された以上、甲信越に絞った研究会は、貝塚に見る漁業や多摩の落とし穴による狩猟など、身近な関東や東京島嶼の縄文遺跡を調査し、文明の手段をもった縄文人の生活様式をもっと研究する必要性を痛感する。

日本景観学会 2021年度秋季シンポジューム研究発表会

2021年11月20日(土)13:00~17:00、オンラインZOOM方式で

 13:00 開会 

 13:10 開会挨拶:中矢雄二副会長

 13:20-14:40 基調講演

  講演1:土岐 寛:電柱問題を改めて考える−経済大国・文化小国から脱皮の展望−

  講演2:向殿政男:「鉄道のある風景」と景観概念について

 14:40-14:50 休憩

 14:50-16:10 研究発表

  発表1:成田イクコ:景観計画における色彩規制をとりまく環境

  発表2:山路永司:農村地域における太陽光パネルの景観

  発表3:西原 聡:柿田川湧水にみる富士山がくれた水辺景観

  発表4:齋藤正己:離島の景観−観光が果たした役割とは?

 16:10-16:30 自由討議

 16:30 閉会挨拶:土岐 寛

 土岐基調講演:日本の電柱・電線の景観破壊は国辱的、地中化率は東京23区でも10%、台北の95%、シンガポールの100%と比較して、何とかしなければならない。東京都の小池知事も国土交通省も地中化を推進する条例や支援策を提案しているが、今も電柱は増加し続けている。このままでは年間4000kmの地中化では128万kmの道路を全地中化するには300年必要とする。日本景観学会として「宣言」や「声明」を出すに当たって、電線のみならず、CATVや光ケーブル等の架空施設による景観破壊防止についての方策を、土岐会長を中心に検討することになった。

 向殿基調講演:「鉄道のある風景」をテーマに、「風景」「景色」「景観」を英訳すれば、どれも”Landscape”である。しかし、日本人にとってその違いは鮮明で、スケールの大中小、人間関与の強弱で比較すると、いずれも風景>景色>景観となって、景観は最もスケールが小さく、人間の関与度合いが最も大きい、と景観概念の定義に言及。

 尾島は、藤澤前会長は「景観」を”KEIKAN”と訳して、学会誌の表紙として、また商標登録したことを話す。広辞苑で「景観」とは「自然と人間界のことが入り交じっている現実のさま」とある。共生の思想やFuzzy(あいまいさを許容する)、自然のみ、人間のみでは「景観」とは呼ばない、哲学・思想が欲しいと向殿氏。

 続く研究発表会は斎藤氏司会で、

1.成田イクコ氏:景観計画は色彩規制が中心で、地域固有の色、特性として茶・黒・白中心。中津川市や中山道の伝建地区、犬山城下等の低彩度色彩について言及。

2.山路氏:太陽光パネルの景観破壊の実情について説明。地産地消の立場や景観を破壊しない限りはGHGの観点から太陽光パネルの普及に反対しない。特に耕作放棄地でのソーラーシェアリング等は、3年毎から10年毎の申請でも良い。17~27度の傾斜地で1ha以上のソーラーパネル等は、伊豆山での土砂災害などを考えると危険である。「景観破壊のない限り」とか「森林や農地、スケールや地勢等」で定性的に「賛成」とか「反対」ではなく、確かなる定義に基づいたGHG対策としてのソーラー普及策をつくるべきと。これは山路氏の課題となった。

3.西原氏:柿田川遊水池の水辺景観については、報告通りに重要な指摘であった。具体的に、富士山周辺環境の整備は重要であるが、余りに課題が多いこと。500万㎥/日の美しい富士山湧水が毎年減っている。柿田川一級河川1200mの景観保全の大切さを再認識し、アクセスや休憩地の整備が第一歩。

4.斎藤氏:沖縄離島の宮古島・石垣島・竹富島・西表島での星野リゾート開発等、日本景観学会も苦労したが、その後、景観破壊や限界集落問題はインバウンドの増加で解決した。クルーズ船の観光客等では600万人から1000万人に増加。そのうち30%が外国人で、限界集落が激変。観光、環境、産業、地元の入島税対策等について興味深い報告。

 16:00からの自由討議は、山路氏の司会で、実に有意義な勉強会になった。健康を害して会長を引退された藤澤和先生もwebとあって自宅から出演。シンポと発表会の総括をされて、無事終了。

 閉会の挨拶で土岐会長自身が大きな宿題を持ったと話された。日本景観学会の立ち位置が明確になるに及んで、学会の責任が益々重要になってきたことから、事務局4人の方々の役割も再認識されて、終了。

豊洲市場を歩いて後、第2回の縄文社会研究会・東京部会出席

 2021年11月18日(木)早朝、慈恵医大のCT検査を桑野和善医師の診断で受ける。2016年、槇文彦さんを中心に、代々木国立競技場を世界遺産にする運動が始まって、その顧問役を頼まれた。1964年10月の東京オリンピック時、巨大ノズルから外気を噴出することで、騒音対策と競技場内の温湿度分布を測定するため、天井裏の屋根断熱のため吹き付けたアスベストと送風機室前後の石綿吸音材を貼ったチャンバー内に何日も滞在した。その時にアスベストを相当吸ったのではと考え、主治医の田中医師に相談した結果、2016年9月、AIC八重洲クリニックで検査したところ、①アスベスト肺およびアスベスト関連胸膜疾患の疑いあり、②動脈硬化性変化、との画像診断(渡辺慎医師)。その結果、毎年11月に東京慈恵医大の桑野医師のCT検査による診断を受けることになって6年目である。

 何カ所かのアスベスト破片の位置や周辺に変化がないとの診断もあり、もうこれで良いのではと尋ねると、「何時変化するか分からぬから、続けるように」とのこと。裁判で国家負担が決まったが、当方は異常がないため、せめて来年からは午後の検査を予約。午前9時30分、天気が良いのでタクシーで新橋の「ゆりかもめ駅」へ直行する。

 久し振りの「ゆりかもめ」は満員である。目的地の市場前駅はなんと終点豊洲までの16駅中の14駅目で、30分近くの乗車。駅には特別な案内パンフレットもなく、市場公開中とあって、均質で巨大な市場建物群の空中回廊を「魚」の道案内矢印に沿って歩く。コロナ禍とあって、何カ所にも分散した飲食店街や見学デッキ、屋上緑化の庭園にも人影は少なく、淋しい。11時半、「弁富すし」で灘の正宗に特上にぎりを一人前、職人との話も面白くないまま、食後1時間程歩いて、青果市場へ。松茸など安いので買いたいと思えど、持ち帰りが面倒。築地市場時代の鮨屋や露店の青果店に比べて何故か淋しく、活気がない。珈琲店で一休みして、再び市場前駅のゆりかもめに乗車する。

 豊洲市場へは地下鉄の直結と千客万来空間が不可欠である。有明スポーツセンターや東京ビッグサイト駅での乗降者も少しばかり。幸い、最後部座席での展望は面白い風景が楽しめる。

 気になっていた東京国際クルーズターミナル駅や台場駅で途中下車するも、見学すべき施設も全て閉鎖中とあって、再びレインボーブリッジを渡って竹芝駅下車。ホテルインターコンチネル東京ベイの庭や竹芝小型船乗り場も人影少なく、美しい東京都の視察船「東京みなと丸」が2~3人の乗客を乗せて出航する風景も、コロナ禍の惨状を示すようだ。しかし先週訪ねた神戸港同様、日の出や竹芝埠頭からの風景は素晴らしい。

 縄文社会研究会(東京部会)が3時から新橋の国際善隣会館4階で開かれるに当たっての5時間程お有効に使って、日頃なかなか視察できないでいた豊洲市場散歩のみならず、久し振り東京港の風景は、東京オリパラ後だけに、インバウンドのみならず、都民の憩いの場としても素晴らしい場所になっている。帰宅して、東京ガスに勤務している娘にこのことを話すと、なんとその場所は昼食の憩いの場で、日常空間と聞いて驚いた次第。

 縄文社会研究会の京都部会は、上田篤先生や田中充子先生が中心だけあって活動的であるが、東京部会は松浦先生との連絡がとれなかったとかで、第1回目の島薗進先生を招いた銀座尾島研での研究会後、2020年の八ヶ岳合宿以来の第2回目。山岸修、雛元昌弘、佐藤建吉、下平紀代子、石飛仁、芦田万氏の7名出席。大部分は雛元報告と長野、山梨の縄文遺跡を世界遺産登録する価値について話し合う。特に出雲と諏訪の関係は日本の闇で、これを明らかにする努力よりも、争いのなかった縄文文化を日本文明としてAD5世紀以降の歴史と継承させることについての討論は有意義であった。文明と文化についての違いについてもメンバーの意見は分かれていたが、傾聴に値する2時間で、世界遺産登録への勉強会は会員の輪を広げるためにも価値あり。YouTubeで公開していくことについても事務局に一任することで閉会する。

関寛之君の「神戸みなと温泉・蓮」の挑戦はEXPO’25のレガシーとなる

 2020年東京オリパラが終わって、愈々次は大阪・関西EXPO’25である。2021年11月11日、(一社)都市環境エネルギー協会の「脱炭素化とBCDを考える」シンポジュームを神戸国際会議場で開催することにしたのは、東京オリパラで残せなかったレガシーを、EXPO’25「いのち輝く未来社会のデザイン」に託したいと考えたからである。国土強靱化とカーボンニュートラルの実証実験として、神戸ポートアイランドの水素活用CGSとマイクログリッドをEXPO’25会場で実証し、同時に、この成果を神戸三宮駅周辺と神戸みなとエリアで実装する試みを、このシンポジュームで確認したかったためである。

 そんな夢を描いたのは、関寛之君の活動に刺激されたからに他ならない。2019年11月、神戸芸工大の公開シンポジュームで「この先達に導かれて」と題した公開講座の後、関君が社長を務めるラ・スイート神戸ハーバーランドでOB会を開催し、このホテルで一泊。その接待とホテル施設の素晴らしさから、次は家族で「神戸みなと温泉 蓮」に宿泊することを約束、楽しみにしていた。しかしコロナ禍にあって、2021年11月、委員会とシンポのついでにであったが、中嶋浩三君と一緒に漸く宿泊することができた。

 「神戸みなと温泉 蓮」は神戸港の地下1150mから湧き出た源泉を使用した天然温泉で、厚生労働省認定の「温泉利用型健康増進施設」は全国に23ケ所しかなく、京阪神エリアでは「蓮」のみとか。この天然温泉はメタボリックシンドロームや高血圧の改善になるためか、経済産業省ヘルスツーリズム認証も取得。更に驚いたのはBIGLOBEの温泉ホテル・旅館番付で、2021年度も西の横綱にランクされていた。西日本の旅館ホテル部門で常に1位を誇っていた「加賀屋ホテル」が関脇の3位、大関が別府の「杉乃井ホテル」とあったからである。おもてなしでも、短期間でこれだけの訓練と施設をつくった関君は、建築家としてのみならず、ホテルマン、更には経営者として天才としか思えない偉業である。

 深夜、10階の露天風呂で、みなと神戸の夜景と夜空の月を眺めながら、とんでもない巨大なジャグジーに唯一人、大阪・関西EXPO’25の残すレガシーを連想。リラクゼーションマッサージの腕もなかなかで、高血圧の私には有り難い限りで、熟睡する。

 早朝、1階から3階まで源泉かけ流し湯に導かれて健康増進エリアの大浴場や、坂本龍馬、勝海舟ゆかりの「海軍操練所」跡地の庭園回廊と一体化した露天風呂や多様な浴室群は「いのちを輝かせる」に十分の施設である。

 この朝風呂を堪能した後、ホテル周辺を散歩しての実感。今度のシンポ開催に当たって、神戸市都市計画局の職員たちが東京に挨拶にみえたとき、関寛之君が神戸港周辺の景観整備に協力していることに感謝していたが、これこそが関君の思う壺で、市の協力を得ての「庭屋一如」の景観形成を神戸みなと温泉が借景にしているのだ。陸・海・空の神戸・関西の観光案内や、韓国で有名な、歩きながら、遊びながらトレッキングできる「オルレキル」の先駆をした宿泊案内は実に良く出来ている。長期滞在向きのホテルとしてのみならず、インバウンドの人々にとっては、世界第一位のおもてなしホテルとなる日も近く、これこそがEXPO‘25のレガシーとなるであろう。朝食のバイキングも、コロナ禍とあって十分な配慮の下、安心して関西の名物を食べることができた。おみやげにもらった丹波篠山産黒豆甘煮は大好物。ラスイート直営のル・パン神戸北野も1868年の老舗を継承して、食感は最高。関君の相棒である総支配人・檜山和司氏のホスピタリティあってのものか。

 OB・OG諸君の「いのち輝く未来のために」「神戸みなと温泉 蓮」の体験を推薦する次第。但し来年の正月に約束していた家族と共にと予約してみたが、既に満室であった。

神戸国際会議場での「脱炭素化とBCDを考える」シンポジウムに出席して

 2021年11月11日(木)、第28回(一社)都市環境エネルギー協会の恒例シンポジュームを神戸市で開催することにしたのは、2025年の大阪・関西万博の前哨戦にしたからである。

 2020年2月、(一社)日本熱供給事業協会が、千里中央地区と大阪万博会場で、日本初の地域冷暖房開設50周年の式典を大阪帝国ホテルで盛大に挙行された。その翌日、千里の阪急ホテルで、大阪ガス主催「千里中央地区地域冷暖房開始50周年」の講演会が開催され、講演させて頂いた。それから間もなくコロナ禍に入って一年以上、東京や大阪の緊急事態宣言下が続いて、無観客の第2回東京オリパラも終了した。

 コロナパンデミックによる世界の死亡者は500万人以上、感染者2億5千万人以上という大災事に加えて、COP26で益々鮮明になってきた地球温暖化による気候変動対策で、日本も2050年カーボンニュートラル宣言をせざるを得なくなった。また首都直下や東南海地震発生確率の上昇から、国土強靱化法の制定下、冷静なるシンポジュームは、何故か大阪や東京ではなく、神戸でこそ可能と考えた。

 然るに、愈々、神戸の国際会議場を予約して、2020年の東京での実績を考えると、なかなかシンポジュームのテーマが定まらなかった。しかし、大阪・関西万博EXPO’25の会場計画での委員会や神戸三宮駅周辺のBCD特別委員会等の進行状況がいつか顕在化して、すでに喫緊の事態になっていたことがわかってきた。その結果、委員会で指導的立場にある方々に講師をお願いしてのシンポジュームと共に、神戸市で進んでいるポートアイランドの水素プラント等の案内状を配布すると、あっという間に定員120人を超える申込みがあり、その半分以上が東京からの申込者であるという。

 シンポ当日の東京は快晴であったが、新神戸駅で中嶋浩三氏と待ち合わせ、タクシーでポートアイランドの国際会議場に到着したときは、相当に雨が降った後のようで雲が重く、来場者が心配になった。講演者は予定通りの時間に控え室に来て下さったので一安心。会場はソーシャルディスタンスとあって、250人の定員席に120余人。既に満員の盛況下、特別の打合せもなく、竹中工務店の中村慎副理事長のご挨拶に続き、大阪大学の下田吉之教授の「カーボンニュートラル都市への課題」、国土交通省の渡辺浩司都市局技術審議官の「脱炭素化とBCDに向けたまちづくりに関する国土交通省の取り組みについて」、神戸市の鈴木勝士都市局長の「神戸のまちづくりにおける取り組み」、最後は大阪ガスの田坂隆之副社長の「DaigasグループのカーボンニュートラルビジョンとBCDへの取り組み」で、予定を10分程超過して、20分休憩。この休憩の間、大阪ガスに毎度、無理にお願いした格好の栗饅頭を食べ元気回復。

 毎回楽しみにしているパネルディスカッション70分のコーディネーター役で、下田教授には、リーダー育成と大学院生たちのカーボンニュートラルの危機感、私生活でも覚悟やEXPO’25等への学生たちの関心の無さについて、渡辺審議官には、国土強靱化は国交省の専轄であるが、エネルギー基本計画の実行には、その人材が地方で致命的に不足していることに対する対応について、神戸市の鈴木局長には、三宮駅周辺再開発では市がマイクログリッドの主体者となるべく、民間や国が期待していることに対する可能性について、最後の田坂副社長には、2050年の50%削減にはガス中圧管を活用したCGSの思い切った投資と大阪臨海熱供給会社の夢洲スマートシティ構想への参画について伺うことになった。

 当然ながら、壇上で明確に即答できる内容ではないものの、皆さんは相当の覚悟で回答して下さったことは、視聴者の反応で十分に理解できた。閉会の挨拶で、関西電力の松本和拓理事はこの間のまとめをして、無事時間通り終了する。

 大阪ガスの田坂副社長主催の反省会会場は、神戸市でも由緒ある中華料理の「牡丹園」で、下田・田坂・今井・尾島のテーブルでは、特に下田先生とはEXPO’25会場構想について、田坂副社長とは「神戸市三宮駅周辺BCD特別委員会」でのマイクログリッド実現問題について、シンポジュームの討論で処理できなかった案件について話し合う充実した一日を終了。予定していたより遅く、神戸みなと温泉「蓮」に宿泊する。

 「蓮」は、最近の温泉旅館格付けでは西日本で一番好評とかで、神戸港の地下1150mから湧き出た源泉を使用した天然温泉として、厚労省認定全国23ケ所の一つ、京阪神では唯一の「温泉利用型健康増進施設」というだけあって、実に素晴らしいホテルである。10階の屋上で神戸ポートの夜景を見ながら気持ち良い浴槽に浸かって、すっかり元気を取り戻す。

 11月12日(金)は午前10時から神戸市都市局計画部の会議室で「神戸市三宮駅周辺BCD特別委員会」を開催。委員長として、前日のシンポジュームの成功と共に、神戸みなと温泉「蓮」の地熱利用とウエルネスのテーマ追求は、大阪・関西EXPO’25のテーマと同一で、先駆けていることに注目したい。また、2025年万博のレガシーとして、三宮から神戸みなと一帯の再生、国土強靱化とカーボンニュートラルのモデルとして、世界中からこの地に人々が見学に来るようなまちづくりを進めたいと挨拶する。

 帰京時の昼食に、新神戸駅に隣接するANAホテルの「たん熊」の京料理も格別であった。