Blog#54 吉阪隆正展「ひげから地球へ、パノラみる」に寄せて

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 吉阪先生の子息・正邦さんから東京都現代美術館で開催の吉阪隆正展の入場券とパンフレットが送られてきた。3月19日~6月19日(3ヶ月)もの長期間展示については、稲門建築会からも知らされていたので、当然行く予定にしていた。

 4月2日(土)、地下鉄門前仲町からタクシーで午前10時に入館すると、既にたくさんの入場者が熱心に模型やパネルに見入っているのに驚く。大空間の壁一面に描かれている年譜や図面、巨大な模型や等身大の写真、自邸の壁画等に加えて、たくさんのスケッチや画集は見事である。逝去されて40年以上、生誕100年を超えて、これだけの展示資料と入場者の多さは、吉阪神社を創始しようと、当時OBたちが叫んでいたことを想い出す。

 1978年、ハーバードの招聘教授やアフガニスタン等の訪問で超多忙な先生を早大総長に推薦していた私たちにとって、驚いたのは、学生が集まらなくて困っていた専門学校長を引き受けられたことである。その専門学校の卒業生たちの一人が、会場で突然話しかけてきた。早朝からの参観者の多くは、実はその当時の専門学校の卒業生と知らされて了解した。
 それにしても、壁一杯の詳細な年譜を見ているうちに、その時代の自分が想い出され、改めて多大な恩恵を受けていたことを知らされた。

・1950年代
 早大山岳部のベースキャンプが毎年立山の剱沢に開設されていて、中学・高校時代から山歩きをしていた私にとっては憧れの地であった。この山仲間の中心にあった吉阪先生等がブラジルのビエンナーレ(建築展)で1等になったというニュースが富山の新聞でも一面記事になり、私の進学第一志望は早大建築学科になった。 

・1960年代
 早大建築学科では、卒計は黒部の観光ホテルで、大学院の井上研では吉阪研の江津市庁舎のエアコン設計を担当したことから、吉阪先生のクラスメートで、台湾の建築学会長であった林慶豊先生を紹介され、日本山岳会からは新高山登山入山許可推薦状をもらった。
 1966年8月、軽井沢で婚約者の伶子を吉阪夫妻と丹下健三夫妻に紹介し、その10月には富山の代議士・佐伯宗義氏仲人による結婚式での吉阪スピーチもあって、佐伯氏の立山黒部貫光開発(大観峰やニューフサジ(現雷鳥沢ヒュッテ)設計)を支援された。
 1968年、難波理工学部長から『告示録』の吉阪理工学部長への禅譲時、新任講師としての学生対策から辞表を出すも慰留された。

・1970年代
 日中建築技術交流会長時の1976年、吉阪先生の代理で中国訪問を体験して、1979年から半年間、中国科学院の交換教授として、杭州の浙江大学に滞在。その間、吉阪先生が重慶を訪問されたとき、『「蜀犬日に吠ゆ」の重慶に来て驚いたのは、日本の著名な教授が重慶での集中講義予定で忙しいので、十分な案内が出来ないと言われている』とのハガキで、その宛先は「杭州市 日本の尾島教授殿」だけで配達されたことを今も忘れない。

・1980年代
 1980年聖路加病院にお見舞いに行くと、突然、早苗会と木葉会とのテニス対抗戦の部長交代を依頼され、併せて各種のチャンピオン交代との申し渡し文書である。そのようなこともあって、日中建築交流会や理工学部長、日本建築学会長などを引き受けることになった。

・1990年代
 1997年の学会長時代、突然、早朝にHabitatの主催者であった清家清先生から「吉阪先生が夢枕に立って、住宅の工業製品化は建築家にとってよくないから止めるようにと叱られたが、どうしよう」と相談される(死せる孔明・・・の伝説を信じた)。
建築学会の図書室を開放してBook Cafeにし、そのマスターに正邦氏が就任したのを喜んでいたが、反対され閉鎖になったのが今も淋しい。吉阪隆正集vol.17の解説2『未完の吉阪「美学」』と題して、寄稿する栄に浴した。

 こんなことを会場で想い出しながらメモをとっていると、美術館の管理者から落書き防止のため、自分のペンは使わないでくれとの注意あり。吉阪ならずとも、私自身、今もって何処でもスケッチならぬメモをとる習慣を恥じて退館する。

 帰途、売店で何冊かの吉阪著書を購入した一冊。
『好きなことはやらずにいられない 吉阪隆正との対話(ことばが姿へ)』を、このBlogを書きながら拝読する。
吉阪先生の『告示録』に倣って、昭和50年(1975)に雄山閣から出版した私の著書『らいふめもりい(人生の黙示録)』の推薦文と、ニュートンの編集者で東大の竹内均先生の推薦文を以下に。私にNHKブックス「熱くなる大都市」を書かせたのは、竹内先生の子息・竹内幸彦氏である。

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